Hヶ峰にて

LeeArgent

前編

 これは十数年前。Hヶ峰に登った時の出来事だ。


 俺は、若い頃からオカルトに興味を持っていた。

 うんと小さい頃には、化け物の類いを怖がっていたような気もする。いや、そんなことはどうだっていい。


 某県某市にある、Hヶ峰という高い山。山道はある程度整備されていて、車でもバイクでも登れる、普通の山だ。

 某県の中でも有数の夜景スポットで、某市を見下ろすとなんとも綺麗な光の連なりが広がるんだ。

 とはいえ、Hヶ峰は山だ。展望台へと向かう山道は、昼間ならいざ知らず、夜になれば真っ暗。山が持つ特有の静けさは不気味なもんだった。


 当時若かった俺は、真夜中の山道をバイクで走っていた。

 季節は夏。夜でもかなり蒸し暑い。サマージャケットを羽織った俺は、あちぃあちぃと言いながら、蛇行が多い坂道をゆっくり走っていた。


 ここは、夜景スポットであると同時に、心霊スポットでもあった。

 トイレに女の幽霊が出るだとか、頂上で幽霊の気配がするだとか、在り来りな噂。聞き飽きたような話。だが、家の近所にヤバい場所があると聞けば、行きたくなるのがオカルトオタクってやつだ。


 山頂に着いた頃、時刻は二十二時。辺りは真っ暗だった。

 こんな時間でも夜景を見に来るカップルがいるようで、駐車場には若葉マーク付きの軽自動車が停まっていた。

 Hヶ峰の山道は、蛇行が多く道幅が狭い。初心者がよく登ってきたもんだと感心した。


 俺は、駐車場にバイクを停めて鍵をかける。ウエストポーチに鍵を押し込み、展望台を見上げる。

 見上げるとはいっても、そんなに大きい展望台じゃない。円形のステージのような、簡素な作りの展望台。俺は、階段を上り展望台に立つ。

 折角だから、夜景を見ておきたいと思ったんだ。


 確かに、Hヶ峰から見下ろす某市の街並みは、すごく綺麗だった。真っ暗な夜空とは対照的に、街の明かりは眩しい。

 この眩い夜景の中、光の筋が某市の名前に見えたなら、そのカップルは両想いになると言う。そんなどうでもいいおまじないを思い出して、俺はフフッと笑った。


 虫の音しか聞こえない、静かな夏の夜。生温かい風が俺の顔を撫でて、発汗を促す。

 ウェストポーチからタバコとライターを取り出す。一本咥えて火をつける。強いメンソールが入ったこの銘柄は、夏にぴったりだった。

 しばらくタバコをふかしながら夜景を眺めていたが、ふと気付いた。


 おかしい。


 俺は展望台を見回した。

 誰もいないのだ。


 確か、駐車場には車が一台停まっていたはずだ。白い軽自動車だったから、暗い中よく目立っていた。見間違えたはずはない。若葉マークを見た時に、誰も乗っていないことも確認した。

 だから、展望台に先客がいると判断したのだ。


 Hヶ峰は、展望台があるだけの、ただの山だ。他に寄る場所なんてない。展望台にいなきゃ、どこに行ったと言うんだ?


 その時、俺の後ろで足音がした。

 なんだ、やっぱり人はいたのか。俺はそう思い振り返る。


 階段を上ってくる足音がする。それは階段を上り終え、聞こえなくなった。

 俺は失笑した。


 誰もいないのだ。


 確かに足音は聞こえたはずだ。それは階段を上ってきたはずだ。

 何で人の姿がないんだ?


 カツン……カツン……


 俺は、タバコを手から滑らせ落とした。

 足音が再び聞こえ始めた。その音は段々と近付いてくる。


「嘘だろ、おい……」


 思わず呟いた口を、俺は慌てて片手で塞いだ。


 幽霊だ。まさか本当に遭遇するとは思わなかった。


 幽霊に遭遇した時の鉄則は、とにかく無反応でいることだ。存在に気付いていると幽霊に勘づかれたら、しつこくき纏われてしまう。

 俺は、落としたタバコを踏みつけて火を消した。そして階段に向かって歩き出す。幽霊のことなんざ気付いてないと見せつけるように。

 足音の方向に向かって行くなんて恐ろしかったが、それよりも早くこの場から立ち去りたかった。どのみち足音は俺の方に向かってきているんだ。何も聞いてないフリして、さっさと立ち去ってしまおう。


「あの」


 耳元で、声が聞こえた。

 俺は思わず首を縮こませた。一瞬だが、足が強張って立ち止まってしまった。


「息子を、見かけませんでしたか……?」


 再び聞こえた声に、俺の心臓は縮み上がった。たまらず、早足で階段に向かう。


「息子を、見かけませんでしたか……?」


 声は後ろへと遠ざかる。

 俺はもう、振り返らずに階段を駆け下りた。


 ドタドタと、うるさいくらいに足音を立てたのはわざとだ。あの声を耳に入れたくなかった。

 おそらくは若い女性。だが、抑揚がない。そして、姿もない。


 直感だった。あれはやばい。


 十数メートルのスロープを駆け抜けて、駐車場に停めたバイクへと走って行く。

 俺はそこで、妙なものを見た。

 いや、見なかったと言った方が正しいか。


 白い軽自動車が、いなくなっていたんだ。

 おかしい。確かにここには車が停まっていて、バイクをその隣に停めたはずだ。だが、車は姿を消している。

 こんな静かな山の中だ。車が走り出したなら、エンジンの音が聞こえるはずだ。

 しかし、全く聞こえなかった。ということは、車は走り出してなんかいない。

 

 そんなことを一瞬考えたが、その時の俺には、結論を出す余裕がなかった。

 俺はポケットをまさぐった。いつも俺は、バイクの鍵をポケットにしまっていた。

 だが、ない。鍵がない。まさか展望台に落としたか?


 カツン……カツン……


 階段を降りる足音が聞こえてくる。

 おかしいだろ。だって、展望台から数十メートル離れてるんだ。なのに、その足音は、まるで耳元で鳴っているようだった。


 幽霊に追いつかれたらまずい。そう思って、俺は思わずトイレに駆け込んだ。駐車場のそばに、小屋みたいな小さなトイレがあったんだ。

 俺はトイレの個室を開く。そこは男女兼用の汚らしいトイレで、ハエが飛び回り、蜘蛛の巣まみれ。まぁ酷い有様だった。あんまり不気味で躊躇したんだが、それよりも幽霊が恐ろしくて仕方なくて、個室に入ってドアを閉めた。

 和式便器の中には、糞だか何だかわかんねぇ汚れが沈んでいた。俺は恐怖と不快感で顔を歪ませ、その場に屈んでため息をつく。

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