戸女

只野誠

戸女

 今日は帰りが少し遅くなった。

 早く家に帰りたくて自転車を漕ぐ。

 人通りは少ない帰り道だが自転車に乗っていれば、深夜でもそれほど恐れることもない。

 この辺りの地名に、新興住宅でもないのに"台"と入っているためか土地の高低差が激しい。

 そのため急な坂がやたらと多い。

 特に古くからある場所は、道の整備も追いついておらず、細く急な坂が特に多い。

 この先の寂れた団地を突っ切る道もそうだ。

 かなり切り立った崖になっていて、その道の坂は細く、長くとても急だ。

 私では自転車に乗ったまま登りきることはできない程急な坂。

 ただこの団地を迂回して通るとかなりの遠回りとなる。

 今日は、ただでさえ遅かったので、団地を突っ切ってでも早く帰りたかった気持ちがこの帰り道を選択させた。

 団地を登る急な坂の途中まで自転車に乗って上がり、やはり途中で自転車から降りて、自転車を押して坂を上る。

 数分の後にやっと坂を登り終わる。

 坂を振り返ると暗いのも相成って坂の終わりを確認することもできない。

 改めて正面を向く。

 坂を登り終えた場所、そこはもう古い団地の敷地内だ。


 もう住んでいる者もまばらなほどに古い団地。

 近々建て直しではないものの改築はする、と言う話を聞いて既に数年も経つが改築が行われた様子もない。

 街灯も古くまばらでその明かりも弱く乏しい。

 団地自体の部屋から漏れ出す光も疎らであてにもならない。

 子供たちの間で幽霊団地なんて呼ばれているのも納得できる寂れ具合。

 もちろん建物自体も古く哀愁を感じられるほど。

 そんな場所がここ。

 虫の鳴き声すらないシンと静まり返った深夜の時間と空間。まるで世間と時代から忘れ去られたような空間。

 私はそんな静寂を楽しみたかったのかもしれない。それこそ魔が差したのかもしれない。

 坂を登り終わった後も、なんとなく自転車には乗らず自転車を押して歩いていた。

 蒸し暑いながらにも、この静寂を、人気のない夜を、ほんの少しの非日常を楽しみたかったのかもしれない。


 あとで思うと、そう思ってしまったことが招いた結果だったのかもしれない。


 ふと視線を先に、おかしな人影を見る。

 はじめは畳でも運んでいるのかと思った。

 もう深夜だが、ないわけではない。

 重そうに畳をフラフラとさせながら、こちらに向かって歩いてくる。

 今は団地と団地の間の道で、車も通る道のため、道幅は広さはかなりある。

 これならぶつかることもないだろうと、私は自転車をそのまま押して歩く。

 近づくと、その人物が着物を着ている事と恐らく女性、そして、畳ではなく戸を持っているのだとわかる。

 また木製の履物でも履いているのか、カランコロンと妙な足音をさせている事に今更ながら気が付いた。

 あれだけ静寂だったのにも関わらず、その足音に気が付けたのは本当に今しがただった。

 辺りはかなり響きそうな音なのにも関わらず。

 後から思うと、それもそれも十分におかしな話だった。

 けど、当時に私がそれ以上に気になったのは、なんで戸を、しかもこんな時間に運んでいるのか、という事だった。

 戸。しかも、引き戸だ。

 古いお屋敷の裏口にありそうな、少し豪華な引き戸。それを着物の女性が運んでいる。

 その時は、そう思えた、それが疑問だった。

 それだけでも十分に奇妙な話だが、私はその異常性に気が付いてしまう。

 その女性は首の上までその引き戸を持ち上げている。

 ただ戸を運ぶだけで良いのなら、そこまで高く上げる必要はないはずなのに。

 しかも、その持っている戸で顔だけが完全に隠れるように、顔以外はすべて見えるように、そんな風に引き戸を持ち上げて運んでいる。

 見方によっては顔が戸であるかのようにすら思えてくる、そのような持ち方をしている。


 何か異様な物を感じる。


 まるで、その人間の頭部が、その引き戸である様な奇妙な感覚に陥る。

 一度そう思えてしまうと、もうそうとしか思えなくなる。

 そのことに気づいたそのとたん、蒸し暑くじめじめしていたのに、背筋だけにではなく全身にぞわぞわとした悪寒が走る。

 何かがおかしい。

 だが、それを言葉にすることができない。

 が、あえて言葉にするなら、やはり着物を着た女の頭部が戸になっている、と、いう訳の分からない感覚だ。

 それを理解してしまった瞬間、その場に凍り付き私は足を止めてしまう。

 動けない。

 自転車に乗っていればそのまま通り過ごすことができただろうし、そこまで、その存在を観察することもなかったのに。

 体がガタガタと震えだす。

 えも言われぬ恐怖が私にまとわりつき、体を震わせ動くことを邪魔させる。

 立ち止まった場所が、ちょうど街灯の下だったことは幸いだったのかもしれない。

 くだんの戸を持つ女は街灯の光を避けて歩いているように見えたから。

 頼りない街灯の明かりの元、荒く浅い呼吸を繰り返す。

 女が近くを通り過ぎる。やはりおかしい。

 重そうな引き戸を両手で軽く支える様に手を添えているだけで、飄々と歩いている。

 飾り下駄とでも言うのか、飾りのついた木製の履物のせいか、その女が歩くごとにカラン、コロンと結構な音をさせて近づいてくる。

 フラフラしながらも、そんな女は私に気づかず引き戸を運んでいく。カランコロンと足音をさせながら。

 もう視線は向けられはしないが、いや、向けたくもないのだが、間近で見るとやはり女の頭部が、人間の頭ではなく一枚の引き戸に置き換わっているようにやはり思える。

 震えが止まらない。

 完全にその女が通り過ぎたとき、視界から外れた途端に、私の体の震えは収まった。


 振り返りはしない。

 したくもない。

 見てはいけない。


 そんなことを唐突に理解する。

 戸を運ぶ女の存在は理解できなくとも、それだけは理解できた。もう関わってはならない存在だと。

 安堵の息を吐き出し、私も自転車を押し出し始めようとしたとき、そのカランコロンという足音が止まる。

 再び恐怖が私にまとわりつき、私の足をその場に押しとどめる。

「もし…… 見えているのかえ? もし?」

 と、背後から若い女の声、けど、少しくぐもった声が聞こえる。

 今すぐ、この場から逃げ出したいが体が震えていう事を聞いてくれない。

 呼吸が浅く荒い。

 しばらく、動けずにじっとしていると、再び、

「もし…… 見えているのかえ?」

 と、もう一度、くぐもったその声をかけられる。

 震えがより一層酷くなる。

「ああ、ああ、戻れぬ、戻れぬ。また一周しなければなりませぬ」

 そう声が聞こえると、またカランコロンと足音が聞こえだし、その音は少しづつ遠ざかって行き、唐突に消えなくなる。

 私は足音が聞こえなくなるのと同時に、自転車に飛び乗り急いでその場を後にした。


 それ以来、何かがあったわけではない。

 身内に不幸があったり、私が怪我をしたり、何か不幸なことが起きたりと、そう言ったことは起きてはいない。

 ただ、あの団地を突っ切ることだけは、いや、あの団地の付近に近寄ることも、私はしなくなった。

 少なくともあの女が歩いて行った先には、あの急な坂しかない。

 あの女は坂を降りて行ったはずだ。

 だから、私はあの付近には、もう二度と近寄らない。

 あと引き戸を見ると、どうしてもあの夜のことを思い出し、身震いするよになってしまった。

 それと木製履物が発するあの音も、もう聞きたくはない。

 それくらいだ。




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