【短編】この度めでたく懐妊された元聖女辺境伯夫人、その真名を魔王という

卯月スズカ

第1話 元聖女辺境伯夫人の御懐妊と魔王の復活

 元聖女にして現辺境伯夫人、ユスティナが懐妊した。

 その報は国に届くや否や、国家宗教である『教会』の耳にも入る。かつては第一席聖女の後継者と目されていた少女の妊娠を聞いた教会上層部は、せせら笑った。


「──はっ、所詮は小娘か。嫁いだ程度で信仰を棄てるとは」


 その言葉が、ユスティナを知る者たちの総意だった。

 純潔を尊ぶ教会だ。聖職者にも当然ながら純潔が求められる。一生を信仰に捧げて生きる聖女ならば尚更に。


 追放されたとはいえ、真に聖女ならば身体を許しはしないだろうに。かつて高潔な乙女に弾劾された聖職者たちは、正体を露わにしたユスティナを嗤った。


 ユスティナが嫁がされた辺境伯は、彼女より三十も歳上だ。

 彼の辺境伯は前妻を亡くしてから、戒めが外れたように自ら戦場へ出て首級を上げている。武人としては老境に入るというのに衰えを見せないその姿によって、彼はもっぱら恐怖と共に好き勝手な噂を立てられていた。


 血に酔っているのだろう。

 殺人を楽しんでいるのだろう。

 悪鬼の現し身なのだろう。


 社交界、ひいては政治の舞台では悪名高いと言ってもいい。だから、ユスティナを追放した者たちは彼との縁談を強制した。

 悪鬼と悪女。この上ないお似合いだな、とユスティナに告げて。


 その言葉にも一切の感情を見せなかったユスティナの姿は彼らにとって歯痒い記憶ではあったが、今回の報によってその記憶は喜悦へと反転する。


 結局は恐怖から身体を許したのか、あるいは肉欲を知って溺れたか。真実はどうであれ、元聖女の妊娠は彼らにとって愉快な知らせだった。



 ある日の夜。ユーティライヒ辺境伯夫人ユスティナは、すべての照明を落とした真っ暗な寝室で膝を抱えていた。

 寝室にはユスティナ一人。十七歳の少女は、まだ膨らまない腹をさすりながら唇を噛んでいた。


「……ふざけないで」


 夫の姿はない。カトラス・ユーティライヒはユスティナの懐妊を喜び、盛大に祝った後に戦場へ発った。

 一人きりの寝室で、まかり間違っても廊下へ声が漏れないよう、ユスティナは声を潜めながら怒りに震える。


「……ああ、神よ」


 まだ胎動は感じられない。それでも確かにお腹の中にいる愛しい我が子を撫でながら、ユスティナは呟く。


「下劣で悪辣。神という名の簒奪の妖精。お前は、どこまで私を苦しめれば気が済むの?」


 ──昔むかし、この地には魔王ミトラがいました。

 ──魔王ミトラは人々を支配し、苦しめていました。

 ──とてもとても辛い、暗黒の時代。

 ──魔王の支配に憤った私たちの神は、苦難の果てに魔王を倒し、人々とこの大地を解放しました。


 聖女だった少女が紡ぐはずのない言葉。

 ユスティナの傍らには、何度も子供たちに読み聞かせてきた教本が転がっている。ユスティナの心は、愛情と憎悪の二つで張り裂けそうだった。


「ごめんね。こんなお母さんで、ごめんね」


 ユスティナは教会の孤児院で育った。

 親の顔は知らない。どこにでもいる、ありふれた戦災孤児だったらしい。


 教会の教えの下で育てられたユスティナは、敬虔な信者として育った。やがて成長とともに法術の適性を見込まれたことで、教会の医療院への奉仕を開始。それが、聖女ユスティナの始まり。


 純粋な信仰と若年ながら卓越した治癒術の腕前。誰から見ても理想的な聖職者だったユスティナは信者の声によって聖女の末席に数えられるようになり、瞬く間に地位を確立させていった。


 二年前に行われた断罪舞踏会がなければ、今も教会で信仰を捧げていたのは間違いない。


「ええ、お前は確かに言っていたわね。『苦難を乗り越え、幸福を掴めば記憶を戻してやる』って」


 断罪舞踏会。

 王族が主催する舞踏会に教会の一員として参加していたユスティナは、その場で数多の罪を暴かれた。


 横領。姦淫。暴行。その他もろもろ。

 すべて身に覚えのない罪状だったが、罪はその場で成立した。

 身分を剥奪されたユスティナは教会の地下牢に投獄されるものの、ユーティライヒ辺境伯がこれまでの功を鑑みて引き取ると主張した──という建前で、彼に嫁がされることとなる。


 悪鬼と悪女。この上ないお似合いだな、と告げた聖職者たちの顔は今も忘れられない。

 神に仕える身でありながら、私情で他者を追い落とす者たち。当時はあまりの醜さに教会の腐敗を嘆いたが──今は、笑えてきてしまう。


 あの簒奪者にはお似合いの信者ではないか、と。


「……だめ。私まで醜くなってはいけない。あの人たちは、あいつとは関係ない」


 仇敵の姿を思い出して、噛み締める唇からは血が流れた。

 

 元聖女、辺境伯夫人ユスティナ・ユーティライヒ。かつての名を、魔王ミトラ。


■二月目


 魔王として戦っていた頃の記憶が戻ったからといって、ユスティナがミトラになったわけではない。かといって、ミトラがユスティナへ飲み込まれたわけでもない。

 完全な地続き。記憶を失い、肉体が変わっても、彼女の人格は何一つ変質していなかったのだ。


 神話に語られる魔王の復活。

 けれど世界は何も変わらず、今までと同じように神を信仰していた。

 変わったのはユスティナの心だけだった。


「……私は、どうすればいいの?」


 陽光の下、丘の上に立つ。

 かつても今も、ユスティナが行ってきたことは同じだった。

 守りたい人々を守る。そのために剣を取り、そのために治癒術を修めた。その果てが魔王で、悪女だったけれど。


 目を閉じる。思い返すのは共に侵略へ抗った仲間たち。守りたいと願った子供たち。長と慕ってくれる人々。

 そのすべては、もういない。妖精が従えた民に蹂躙され、奪われた。死に物狂いの戦いで残せたものは、魔王の悪名だけだった。


「ねえみんな。私にどうしてほしい?」


 実に困ったことに、記憶を失っていた十七年でユスティナの中には、教会を信じる人々――とりわけユーティライヒ領の民への愛が生じている。

 戦ってくれ、と願ってもらえれば戦える。けれど願ってもらえなければ戦えない。そして、願ってくれる人たちはもうどこにもいない。


 神への憎悪と民への慈愛。板挟みの感情はユスティナのうちで暴れ回る。


■三月目


「どうしたんだユスティナ。ここ最近、顔色が悪いけど」

「え?」


 夕食の席でそう問われ、思わず身体を強張らせる。燃えるような赤髪をした野性的な女騎士は、不可解そうに言葉を続けた。


「悪阻もないし、あんたのことだから身重が堪えているわけでもないだろう。何かあったのか?」

「いえ、そんなことは……」


 否定しようとした途端に鋭い目が向けられる。隠し事は出来ないか、とユスティナは諦めの吐息をこぼした。


 シャーレ・ユーティライヒ。次の辺境伯となる女性。ユスティナから見れば義娘にあたるが、歳はシャーレが二つ上。年齢の近さから、二人は姉妹のような関係を築いていた。

 武力だけではなく、洞察力や直感にも優れた彼女を煙に巻くのは容易ではない。


「憎しみと情と、二つで身動きがとれないの」

「……ふうん」

「敵になってしまった知り合いを殺すべきか、許すべきか、ずっと迷って決断ができない。そんな感じ」


 目の前のシャーレだってそうなのだ。愛しい家族で、姉のような人で、けれど仲間を蹂躙した者たちの子孫でもある。

 愛すると決めたカトラスも、彼との間にできたお腹の子も、突き詰めれば自分自身も。魔王として戦いを続けるのなら、すべてを根絶やしにする覚悟で挑まなければならない。だから動けない。


 シャーレは豪快に肉を噛みちぎる。咀嚼しながら考えていたのか、口を開いたのは嚥下の直後だった。


「そうだな。あたしはまだ若造だからよく分からん。でも親父なら信念に従え、って言うんだろうな」

「……信念。ええ、そうね。あの人らしい」


 悪鬼カトラス。敵国はもとより国内からも恐れられ、忌まわれる辺境伯。彼の正体が、どこまでも誠実な男ということを知る者は少ない。


 国境を守る長としての任に誠実だからこそ戦う。シャーレという後継者が育った今、後顧の憂いはない。人としての感情よりも使命を優先するからこそ、身重の妻を置いて戦場に立っている。

 機械的。そう言っても差し支えはない。常人には受け入れられない正論を実行するから、彼は恐れられるのだ。


 情ではなく、理屈で戦える。だからきっと、ユスティナはカトラスに惹かれたのだろう。己が理屈ではなく情で戦い、敗北した魔王だったから。


「でも、うん。どうやって言ったらいいか」

「シャーレ?」

「ここ最近のあんたからは、得体の知れなさが薄れてる気がする」


 普通なら暴言と扱われてもおかしくない言いよう。けれどユスティナは、至極当たり前に受け入れる。

 教会にいた頃も、結婚してからも、何度も得体が知れないと言われてきた。嫌悪か好意的かの違いはあっても、聞き慣れた評価だ。


「……そうね。これまでの私は欠けていたから」


 ユスティナは、正しいと信じるもののためなら何でもやってきた。

 教会の利権を無視して治療を行うこともあったし、聖職者が不正を働いているのならあらゆる手を尽くして白日の下にさらした。

 それはすべて、ユスティナが情を何よりも優先する人間だから。穏やかな性格なのに行動は苛烈。歪な人格を作った根源が欠けていた以上、周囲からすれば気味悪く映るのは当然だろう。


 シャーレは水に手を伸ばし、喉を潤してから言った。


「ま、何があったかは知らないけど、あたしは言いたくなけりゃ聞かないし、言いたくなったらいつでも聞く。だから、あんまり溜め込むなよ」

「ええ。ありがとう、シャーレ」


■五月目


「ユスティナさま! おなかさわらせて!」

「ええ、いいわよ。でも優しくね」


 妊娠五月目ともなれば腹も膨らんでくる。教会に赴くユスティナへの子供たちの人気はとりわけ高まっていた。


 屋敷近くの教会で、子供たちに神話を聞かせるのがユスティナの日課だった。記憶を取り戻してからもその日課は変わりなく続いている。

 当初は教会から追放されたユスティナの来訪に苦い顔をしていた司祭たちも、冤罪を悟った今は歓迎と共に迎えてくれていた。


「それじゃあ、今日は魔王のお話をしましょうか」


 教会での授業はカトラスの勧めで始めたことだ。

 張本人が訴えたところで断罪された事実は変わらないし、戻りたいとも思わなかったから、冤罪を晴らすことに興味はなかった。


 それではおまえが生きづらくなるだけだろう。そう諭す声があったから、ユスティナは領地の民に受け入れられた。


「昔むかしのお話です。この地には、砂を操る魔王がいました。魔王の名前はミトラ。人々を暴力で支配する、邪悪な存在です」


 声は震わせない。笑いはこぼさない。子供たちの教師として平静を装う。


「ミトラは悪魔との契約を結んでいました。ミトラは悪魔の力を振るうことで人々を支配し、悪魔に生け贄を捧げていたのです。恐ろしいミトラに逆らう手段はなく、世界は暗黒に包まれていました」


 違う、と訴えたところで聞き届けてくれる者はいない。だから何も言わない。

 

「そんな人々の苦しみを聞いて、立ち上がったのが私たちの神でした。神は数多の試練を超えて、とうとうミトラを倒します。世界に希望がやってきたのです」


 勝者こそが正義であり、敗者は悪となる。シンプルな道理だ。当然、ユスティナもその程度のことは理解している。

 仮に、かつての戦いで勝利を収めていれば、魔王と称されていたのは今の神様だろう。ミトラは魔王ではなく、侵略に抗った英雄として扱われていたはずだ。


 でも、そうはならなかった。己が弱かったから。


 理解している。けれど敗北の憎悪は時が経つごとにとめどなく溢れて、ユスティナの心を焼き尽くす。

 純粋に神を信じる子供たち。幼気な彼らにすら、ユスティナは憎しみを向け始めていた。


■七月目


 流石にこの頃は安静を求められて、屋敷の中で過ごすことが多くなっていた。

 ユスティナは時折やってくる胎動を感じながら、うとうとと微睡む。


 ──砂を尊び、皆で協力して生きていた穏やかな時間。

 ──襲いくる侵略に対して剣を取り、やがて将軍として先頭で戦うようになった記憶。

 ──敗北し、捕えられ、妖精の前に引き出されて、首を斬られた屈辱。

 ──誰かの役に立てるのなら、と治癒術を修めた日々。

 ──教会の腐敗を目の当たりにして踏み込んだ政治闘争。

 ──その戦いでも結局は敗北し、断罪の果てに地下牢に幽閉されて。

 ──そして出会った、愛しい人。


「……う、ぅん」


 パチリと、ユスティナはまぶたを開く。

 まだ昼だったはずなのに、気が付けば夕陽が窓から差し込んでいた。もうじき空腹のシャーレが夕食の時間だと告げに来るだろう。


 愛しき赤毛の女騎士。憎き仇敵の末裔。腹と同じように、日に日に膨らんでいく心の矛盾を隠しきれなくて、最近はどうにもぎこちなくなってしまう相手。


「そのうち、何もかも見抜かれそうね」


 まさか父親の再婚相手が魔王だった、などという荒唐無稽な現実を言い当てることはないだろうが、ユスティナの心のうち程度はお見通しだろう。

 シャーレですらそうなのだ。さらに鋭いカトラスと再会したときは、どうなってしまうのか。


「ああ、そういえばカトラスがもうすぐ……」


 直に戻れる、と知らせがあったのが数日前。戦帰りの主人を迎えるために屋敷はこの頃、慌ただしくなっていた。

 ユスティナ自身は、身重なのだからあまり動くな、と屋敷の者たちに言われて何もできていないけれど。


「…………」


 夕陽はすぐに落ちて、窓の外は真っ暗になっていた。

 シャーレがやってくるまでのわずかな間、夜の暗闇を見つめる。


 覚悟を決めよう。

 ユスティナは瞳を閉じて、かつての仕草で砂に祈りを捧げた。





 カトラス・ユーティライヒ。彼は言うなれば直感の人間だ。

 直感で事実を悟り、合理で行動を判断する。機械的な判断を支えるのは、極めて人間的な感覚だった。


「ユスティナは?」

「散歩に行ってるよ。嫁に構ってもらえなくて残念だったな、親父」

「……まあ、構わん。しばらくはここにいられるからな」


 カトラスが帰還した翌日の夕方。ようやく細々とした仕事が終わり、ゆっくりと時間が取れるという頃に、ユスティナは不在だった。


 ユスティナが世間で言われるような気骨のない悪女なら、今頃は鬼を恐れて媚び諂っているだろう。もちろんそんな人間ではないことを知っているからカトラスはユスティナを愛しているのだが、それでも奇妙な違和感は拭えない。

 

 とはいえ、すぐさま探しに行くほどの逼迫性は感じなかった。カトラスは久方ぶりに再会した娘へ、かねてからの疑念を問う。


「シャーレ。前々から聞きたかったことがある」

「ん、あたしに?」

「おまえは俺の再婚に反対しなかったな。その理由を聞きたい」


 普通、父親が自分と同じ年頃の娘と再婚し、あまつさえ子を成せば拒絶反応を示すのが普通の人間だろう。

 けれどシャーレは再婚への反対どころか、ユスティナの懐妊が判明したときも心からの祝福を寄せていた。弟か妹か、どっちでも楽しみだ、と。


 問われたシャーレは「ああ」と呟いてから、答える。


「そりゃ、ユスティナが普通の人間じゃないからだよ。どうせ親父も同じ理由で手ぇ出したんだろ?」

「……あまり直接的に言わないでほしいが、まあ、その通りだ」


 得体が知れない。それがユスティナへの第一印象だった。

 あまりにも強固な人格なのに、核となるはずの何かが欠けている。本来なら成立するかも危ういバランスなのに、絶対に崩れることのない精神力。


 総じて十七歳の娘ではない。きっと、己よりも遥かに強大な存在なのだろうとカトラスは理解して、ユスティナを妻とした。


「そろそろ日が暮れるか。シャーレ、ユスティナがどこに向かったか知っているか?」

「いや、そこまでは──」


 シャーレが否定に首を振った瞬間、窓の外から眩い光と爆発音がやってきた。

 カトラスとシャーレ、戦場に生きる二人はすぐさまこれが攻撃によるものではないと理解して、視線を外に向ける。


 暗くなり始めた空には、大輪の火花が咲いていた。


「ん、花火か。なんか祝い事でもあったっけ?」

「いいや、この時期は何もないはずだが……」


 話す間にも色とりどりの花火が打ち上げられている。

 これほどの金を掛けて、いったいどこの誰が。とカトラスは考えて、やがて言語化のし難い違和感を覚えた。


 何がおかしいのかは分からない。けれど、確実に何かが尋常の物ではない。妻を思わせる花火に、カトラスはシャーレへ背を向けた。


「ユスティナを探してくる」

「ん、了解」


 カトラスは外に出るや、迷いなく花火の麓へと足を向けた。

 そこにいるのだろう、と根拠もなしに確信して。


 そして見つけたユスティナの横顔は、強張る決意に満ちていた。


「カトラス。やっぱり来てくれたのね」

「ユスティナ……?」


 カトラスの呼びかけに、ユスティナは小さく首を横に振る。

 小さな唇は、彼女の真名を紡いだ。


「ミトラ。今はミトラと呼んで」





 すべて告白しよう。ユスティナ──あるいはミトラはそう決意した。

 今は法術と呼ばれる砂の民の秘術で、夜空に大輪の花を咲かせながら、ミトラは告げる。


「砂の民のミトラ。妖精と海の民の侵略に抗った将軍。それが私」

「…………」


 さしものカトラスも唐突な告白に言葉を失っていた。ミトラは構わず、この七ヶ月間、お腹の子を育てながら秘めてきた記憶を告げていく。


「妖精に率いられた海の民は、侵略の過程でどんどんと数を増していった。私たち砂の民の秘術があったとしても、膨大な数には勝てない。すり減り、押し負けて、私は妖精の前に引き出された」


 目を閉じる。屈辱の記憶を蘇らせる。


「私の首を落とす直前、奴は言ったの。『苦難を乗り越え、幸福を掴めば記憶を戻してやる』と」


 お腹を撫でる。悪鬼と悪女、魔王の子として生を受けることになってしまった我が子を感じる。

 カトラスは静かに頷くと、動揺を見せない声音で答えた。


「俺のせいか」

「ええ、そうかもしれない」


 ミトラは小さく笑う。

 カトラスがユスティナを愛したから、ユスティナを幸せにしたから、魔王はこの世に戻ったのだ。


 ミトラは二振りの剣を作り出すと、一本を自分の手元に、残る一本をカトラスへ放った。


「辺境伯カトラス・ユーティライヒ。護国のあなたは、魔王を殺しますか?」

「……そうだな」


 カトラスは剣を取ると、一歩一歩とミトラへ近づいていく。

 ミトラは一歩たりと動かない。動くのは、彼が剣を振るってからと決めた。


 一歩、距離が埋まる。

 一歩、距離が近づいていく。

 一歩、また一歩。


 やがてお互いに剣が届く距離になって、初めてカトラスは剣を握る手を動かした。

 カトラスは剣を地面に突き刺して、膝をつき、ミトラに傅く。ミトラは一切の表情を動かすことなく、カトラスの動きを見つめていた。


「魔王ミトラ。あなたの力を、俺の護国に貸していただきたい」

「……私はあなたたちに蹂躙された側の民よ。それでもあなたたちのために戦えと言うの?」

「その通りだ。俺の力は矮小で、国を守り続けられる保証はない。だからこそ、恥もなく乞うのだ」


 ミトラは何も言わず、ただ唇を噛み締める。

 カトラスは面を上げないまま、さらに言葉を続けた。


「……俺は、おまえを愛している。おまえが聖女でも、魔王でも、おまえという人間を愛している。少しでも長く、おまえたちと共にあるために、共に戦ってほしいのだ」


 ミトラは何も言わない。唇を噛み締め、肩を振るわせて、俯いて、静かに涙をこぼしている。

 カトラスは剣を捨てて立ち上がると、ミトラの華奢な身体を抱きしめた。


 愛しい人の腕の中で、愛しい我が子の胎動を感じながら、ミトラは消え入りそうな声で一言を口にする。


 ──承りました、と。

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