定期観測 2

夏生 夕

第1話

「あっっっつい…」

「って言うとより暑くなるぞ。」

「風が無い…」

「そうだな。」

「湿気がやばい…」

「分かったっつの、うるせぇな。」


こいつが自身で、筆が乗っている、と思える時なぞあるのだろうか?

『仕事が立て込んで様子を見に行けていないの。』と世話役を押し付けられ久しぶりに来てみれば、電気も点けず部屋の隅に頭をもたげていた。行き詰まったときの彼の癖だ。

聞いた話だと最近では、アパートの住人にたいぶ助けられ生活が幾分マシになったという。確かに以前までは足の踏み場も無かった部屋は何がどこにあるのかくらいは分かる程度に整頓されていた。

こいつの周りにはお人好しが多い。そうさせる何かがこの男にはあるのだろう。

しかしどれだけ目や手をかけられても、いわゆる負のスパイラルってのから抜けられない時は抜けられない。こればかりは誰も助けられない。それは俺もよく知っている。

こういう時はとにかく空気を入れ換え変えること。

埒が明きそうになく、こんな時間でもいつものように外世界へ引っ張り出した。行き詰まったときの儀式のようなこの散歩も最近になってようやく定着したが、少し前までのこいつは文字通り引き籠り通しだった。


「お前ね、夜も作業するつもりなんだったらせめて電気は点けろよ。暗闇に浮かぶ白い光に照らされる黒くて陰気な人影から呻き声だけが聞こえている。そんなん怖いだろ、怖ぇよ怖かったわ。

あと暗所でパソコンは使っちゃいけません。目に悪いでしょうが。」


「オカン…

陰気は余計です。」


「あぁん?もう一人のオカンに言いつけるぞ。」


隣で力無く呟いたその口は、むっつりと一文字に閉じられている。

オカンこと彼の担当編集者にこいつの部屋の鍵を託された今朝の会話を思い出した。彼女の眉間のしわを、綺麗な富士額を思い出した。

そうだった。彼には伝えなくてはいけないことがある。その為にもこのクソ暑いのに外へ連れ出したのだから。

しなくていいはずの緊張からか、背中がじんわりと汗ばんだ。


「それにしても暑いな…」


「なんだか今日、ソワソワしていませんか。」


「えっ。」


隣を歩いていたはずの後輩はいつの間にか足を止め、こちらをじっと見つめていた。少し不安げな頬を伝う汗がコンビニのネオンに照らされて光る。いま俺の顔はどんな風に照らされているだろう。想像すると、情けなさと気恥ずかしさでまた顔が上気した。


「…はーぁ、喉渇いたわ。まぁお前も好きなん選べ、先輩が買ってあげよう。」


同意を得る前にコンビニへ入った。店員の気だるい出迎えと異常な冷気に肩の力が少し抜けたようだ。この際、もっともっと力を抜くことにしよう。

レジから最も離れた棚へと突き進み、有難く恵比寿様が微笑むビールを握り取った。後輩は壁側の棚から葡萄のプリントされた紙パックを手に取った。あらかわいい。あら微妙に高いのね。よほど産地にこだわった品と見た。



再び外に出ると蒸し暑さの中に少し風が感じられたが、本当はずっとこの調子だったのかもしれない。こいつに見抜かれるほどにはやはり、余計な力が入っていたのだろう。


しかし俺には強い味方ができた。な、恵比寿様。


手元のにんまりとした笑顔にあやかるよう見つめながら缶の口金に指を引っかけた。尾の長い破裂音が静まり返った住宅街に響き、中身を喉に流し込めば残る小さい躊躇も消え去った。うん、よしいけるぞ言うぞよし。


「あのさ、」


「で、何か話が」


あるのでは…という彼の語尾は細く消えた。被さって何を言ったか聞けていないが、お互い同じ話を振ったらしい。よしいけるぞ言うぞよし。


「うん、そー。お知らせってかお願い?

あっこ座って話そうぜ。」


道路を挟んで左側の公園を指差した。日付も変わろうという時間帯には木々がこんなにも不気味に見えるのかと思うほど、囲む空気はもう一段階深く静かだ。入ってすぐに見えたベンチに腰かけた。


「あー、こんなに引っ張るような話じゃないんだ。とりあえずそれ、飲みながら聞いてくれよ。ぬるくなるぞ。」


俺は思いきって缶の中身を飲み干した。空いた缶を潰すでもなく見つめたまま言った。


「あのさ、野々宮。」


「はい。」


「お前の、担当編集のさ、あの眼鏡女史。」


「はい。」


「彼女とさ、結婚したいんだ。」


「はい。おめでとうございます。」


「今の執筆環境が変わらないように努め、

あれ?なんて?」


顔を上げて左隣を見ると彼の目はこちらを真っ直ぐ向いており、一回目と変わらない声色でもう一度言った。


「おめでとうございます。」


紙パックを両手で支え持ち、膝を揃え、深く頭を下げてきた。そして再び姿勢を正し目が合うと歯を見せて笑った。

こちらの予想していた反応と大きく異なったことに些か驚いて言葉が返せない。俺の抜け面も意に介さず、彼はぐびりと葡萄味を大きく傾けた。


「俺、付き合ってること言ったっけ。」


「え、どうだったかな。でも、はい、知ってましたね。」


「なぁんだよ~~~~~~。」


本当にしなくていい緊張だったようだ。今更ながらあんなにモジモジ照れていたことが思い返されて恥ずかしい。


「それが言いたくて、今日変だったんですか?」


「そーだよ。

柄にも無くね、ちょっと悩みもしたんだよ。せっかくお前の執筆スタイルが健全な方向に向いて安定してきたところなのに、仕事の相棒である担当編集者の環境が変わることで、何か影響が出やしないかって。もちろん彼女は仕事にそういうプライベートを持ち込まないけど、そうなんだけど、まぁでも不安が大きかったのは向こうだし。本当は同席して伝えるべきだったのになんだか急に仕事も立て込んだみたいで。」


緊張が解けたせいでベラベラ話してしまう。今朝彼女から、この話を伝えるにあたって言われた『お願いね。』には、余計な事は話すなという意味が言い含められていたはずだった。

だけど。ま、いっか。いいよな。

余計ついでにもうひとつ。


「それで、野々宮先生に式のスピーチをお願いできないでしょーか。」


これも彼女の難色の種だった。ただでさえ滞りがちなこいつの書き物に自分の都合で甘えた頼み事をしてもいいものか。しかし俺と彼女それぞれのことを長く知るこいつに認めてもらえるなら是非ともその実感が欲しいという思いもあるらしい。


「どうでしょーか。」


しばらく声の聞こえてこない左側に再度おずおずと向いてみた。


「は!?」


一体いつからそんな、べっしょべしょだったんだ。いい歳の大人が大号泣じゃないか。


「何お前、どうした、」


さっきはあんなにあっさりとした態度でいたじゃないか。

しどろもどろで掛けた声がきっかけになったかのように、軽くしゃくり上げはじめた。なんだこれ。いや待て、見覚えあるぞこれ。

確かあれは、俺の大学卒業式後にサークルで集まった飲み会だった。こんな風に成人男子がポソポソ泣くから妙にしんみりと解散する羽目になったあの追いコン。

始末の悪いことに、この下戸の泣き上戸たる後輩は全く覚えていなかったが。


「おいおいおい、まさか!」


次々こぼれる涙をこする右手には潰された葡萄マークの紙パックが握られていた。そのゴミを摘まみ取ろうと腕を引き寄せるが、まるで動かないその力加減はまさに酔っ払いのそれだ。

ようやくクシャクシャになったパックを、ええい離せと奪い目を凝らすとアルコール飲料としっかり銘打たれている。どうりで高かった訳だ。


「こんな小さい表記じゃ分からんだろうが子供が間違えたらどうするお前も気づかなかったんかまじかやっちまった紛らわしいなこんなところにまで気回らなかった!」


「せんぱい、」


「なんだ!」


すっかり鼻声になった後輩が何とも情けない顔で言った。


「お幸せに…。」


目の前のお人好しが、よかった、よかったと繰り返す様に呆気にとられた。

一度に去来した複数の感情に耐えきれず、腹の底から可笑しさが込み上げて口の端から漏れる。みるみる増幅して大きな笑い声となり公園に響く。

俺達、日頃は苦労して人間関係の機微や日常生活を切り取ってネタを生み出すくせに、なんだよこのベタな展開は。

今どきコメディでもなかなかお目にかかれないシチュエーションと、さらに道中の俺の自惚れとも言える逡巡を思い出してまた笑えてきた。現実は小説より滑稽なり。


喉に声が引っ掛かるほどの笑い声とすすり泣きの不協和音を通報される前に、早くコンビニへ水を調達しに行かなくては。

はーーーー、と息を吐き出すと少し脳裏がクリアになる。この状況を彼女に知られてしまったあかつきには目にするだろう眉間のしわを想像して苦笑した。

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定期観測 2 夏生 夕 @KNA

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