最終話 託されたもの
伸行が語り終えると、部室の中はしんと静まり返った。卓也はそんなことがあったのかと、目を見開いたまま固まってしまう。
「暢希君は重度のアルコール不耐症だったんです。一滴たりとも身体が受け付けない。そんな、稀な体質だったんです」
と、そこに響いたのは、弥生の凛とした声だった。全員の視線が部室の入り口に向けられる。そこには弥生の他、廉人たちの姿もあった。周知の事実になったのだと、伸行は膝から崩れ落ちた。
「弥生さん」
一方、卓也も弥生が現れたことで張り詰めていた何かが切れた。人目を憚ることなく、わんわんと泣き始める。暢希に対して申し訳ない気持ちで一杯だった。それは取り残された弥生を見たことで大きくなる。
「まったく、寺井君は泣き虫ね。いっつも私が泣く分まで泣いちゃうんだから。それだけ、大事だったんだよね」
弥生はすぐに卓也に駆け寄るとそっと抱き締めていた。その姿はまるで恋人のようで、周囲はしばらく黙って二人を見つめていた。しばらく静かな研究室の中に卓也の嗚咽だけが響く。
「すみません」
落ち着きを取り戻した卓也は、あまりに多くの人の前で泣いたことが恥ずかしくなっていた。
「いや、それでいいんだ。君たちもやったことの重大さを再認識できたね」
項垂れる伸行と雄大、それに現実から目を背けるように壁を見つめる理那に向け、その場を代表して英嗣が問い掛けた。
「解っています。あいつがあまりに綺麗に死んだ時から、ずっと、ずっと、俺たちは大きな過ちを犯したのだと意識していました」
ようやく重荷を下ろせる。それは伸行の呟きだった。あの出来事が総て自分の軽はずみな言動のせいだった。それが解っているだけに、この三年間は贖罪も出来ずにただただ苦しい時間だった。
「あとは警察に委ねましょう。それと浦川さん」
この場で聞くことは後これだけだと、廉人が伸行の前に進み出る。その手には暢希の論文があった。
「これを加工したのは、あなただということですか」
「ああ。と言っても少々弄った程度だ。大塚は天才数学者になるべき男だった。そう思ったら物理学の内容が載ったまま発表することが嫌だったんだ。まったく、どこまでも身勝手だよ。俺は彼に、美しい数学者像を押し付けていたんだろうな」
伸行はくくっと喉を震わせる。しかし、その顔は心からの後悔を示していた。それから自分のスマホを取り出すと、警察へと自ら連絡を入れたのだった。
「あら、そんなものを書いているの」
書くことに集中してしまった卓也に、そう妻が優しく声を掛けたのはもう陽が随分と傾いた頃だった。
「弥生。そんなものと言うが、人は何時亡くなるか解らないんだぞ。それはお前がよく知っているじゃないか」
反論した卓也は老眼鏡を外すと、弥生が差し出すコーヒーを受け取った。あれから四十年の月日が流れた。二人はすっかり年を取り、あの日の衝撃も、そしてその後に訪れた怒涛のような日々も、総ては昔日の記憶と化している。
あの後、卓也はすぐに弥生に付き合ってくれないかと申し込んでいた。どうにも自分一人で心の傷を抱えることが出来ず、弥生に縋ってしまったのだ。
「俺にはもう、何も出来そうにない。数学は止める。二度と見たくないんだ。そんな奴だけど、付き合ってくれるか」
「もう、嘘つきね。でも、いいわ。卓也君は泣き虫だもの。放っておいたら、それこそ暢希君に怒られそう」
弥生はそう言って笑い、卓也のプロポーズを受け入れてくれた。
「あの、えっと、泣き虫だけどさ」
「それに、卓也君。本当に数学を止めてしまっていいの? 暢希君のやり残したこと、あなたがやってくれるんじゃないの?」
卓也はものの見事に二の句が継げなかった。しかし、この優しさが素直に嬉しかった。
「そうだな。暢希に悪いよな」
「うん」
弥生も寂しく、またあの衝撃を共有できる人が欲しかった。それだけではない。暢希の代わりに卓也の研究を支えてあげよう。そう思ったのだ。
そしてそのまま数年付き合い、結婚した。結婚式にはあの時事件を解決に導いた廉人と玲明、それに英嗣と岸純平も参加してくれた。
その廉人だが、なんと大学に入るなり暢希の論文を正しい形で発表し、さらにそれを足掛かりに新たな研究をスタートさせていた。それは非常に難解な研究で、しかも物理学のものとあって卓也は理解できないままだった。ただ、世界中で暢希の論文が引用されるようになるのを、ずっと間近で見られたのは確かだ。
廉人は純平が退官した後、理論物理学の研究室を引き継ぎ、そこで教授を続けた。世界が大きく変わる。それもたった一本の論文によって。その凄さは実感できた。廉人は何かと玲明と議論していて、その時はいつも卓也も交えてくれたのだ。
これが暢希の憧れた世界か。活躍する廉人を見る度、ペレルマンに憧れると言った暢希の言葉を思い出した。
そのままあのミレニアム問題も解くのかと思ったが、廉人は無理だなと首を振った。まだまだ未解決の部分が多いという。実際にその言葉通りに、今もまだあの問題は未解決のままだ。暢希だったらどうしただろう。ひょっとしてあの論文の後が全く違う内容だったことは、すぐに解けないと理解してのことだったのだろうか。
「その可能性は大きいと思うな。次の論文、数学はトポロジーで、物理の方は数学との関係性を論じるものだった。それはつまり、今後もっと密接になることを予期してのものだろう。あの論文は総ての前提条件でしかなかったんだよ。学問とはどう発展するか解らない。数学者だから見える問題点もある。そういうことだったからな」
一度その疑問をぶつけた時の廉人の答えがこれだった。廉人はあの二つの論文で何かが吹っ切れたと、そう語っていた。そしてそのとおり、目覚ましい研究成果を次々と上げたのだ。だからその言葉に重みがあった。高校生探偵だった彼は今や、世界の誰もが認める物理学者なのだ。
そして玲明もまた、暢希の残したトポロジーの論文を基に新たな研究を進め、世界的な数学者になっていた。玲明はもともと数学部でもずば抜けた才能を持ち、暢希と比較されることもあったという。だからあの自殺問題の解決にも積極的だったのだ。暢希の代わりにフィールズ賞ももちろん受賞したのだが
「これ、大塚君が貰うべきものだったのにな」
と笑っていたことが強く印象に残っている。
二人はいつも、暢希の研究を大事にしてくれた。それが何よりの救いだった。それと同時に、自分では到達し得なかった場所にまで論文を高めた二人に、軽く嫉妬したものだ。結局、暢希のやりたかったことを叶えたのは卓也ではなく、あの二人だった。
それでも、弥生が英嗣のところに論文を持ち込んだことは、暢希にとっての最高の供養となったことだろう。あのまま埋もれて忘れ去れてしまうだけの論文は、二人の天才の手によって花開き、多くの人たちが知ることとなったのだから。そしてそれを、卓也も見ることが出来たのだから。
「素晴らしい研究者が身近にいることの凄さ。それをあいつにも伝えないとな。それにはちょっと面白く書いておく方がいいだろう。単純に事実の羅列じゃあ、最後まで読まずに仕舞い込まれてしまうじゃないか」
卓也は今まで書き付けていたノートを、ペンの先で突きながら言う。
あいつとはもちろん、自分たちの一人息子だ。息子は卓也や弥生の仕事をずっと見ていたせいか、同じ数学者の道に進んだ。だからこそ、この事件を知ってもらいたい。醜い嫉妬はあったものの、素晴らしい世界があることを、理解してもらいたい。
「その気持ちは解りますけど、だったらエンディングノートでなくてもいいでしょ。それって死んだ後にどうしてほしいか書くものだっていうのに、目的を見失ってるじゃないの。もう、暢希君の思い出ノートになってしまいましたね。それに暢紀が、自分の名前の由来が大塚暢希と知って喜ぶかしら。いくら夭折の天才数学者として有名とはいえ、事件の真相まで知ってしまうと、ちょっと複雑な気持ちになると思うわよ」
弥生は知らせるのもほどほどにねと苦笑する。
そう、これほどの事件があったとは、結局世間には知られないままだった。それは様々な配慮だけでなく、事件の証拠がないというのもある。酒を口にしたのは暢希であり、彼らはその後、その証拠を片付けただけだ。もちろん保護責任者遺棄を追及出来たかもしれないが、当時は高校生だったから難しい。それに警察が一度は自殺と断定した事件だ。蒸し返したくないという、司法側の判断もあっただろう。
だから、伸行たちは罪に問われることはなかった。当然、世間にもイジメの末に暢希を死なせたことがバレることはなかった。夭折の天才数学者の死の謎は、謎のまま残ることになったのだ。
それでも、三人にはもう暢希の死を抱えることは耐えられないことだったのだろう。そもそも、雄大は限界を迎え、あの論文を世間に物理的意味があるとしてリークしたのだ。他者の死の秘密とは、それほど大きなものだ。
その後、三人が三人とも、数学とは無縁の仕事に就いた。自らの至らなさが招いた事故であっただけに、もう二度と数学は出来ないと思ったのだろう。特に伸行は、暢希の菩提を弔いたいからと、出家してしまったほどだ。彼らの中で、暢希への罪悪感は消えることなく、むしろ明るみになったあの日から大きくなったのは間違いない。
意外だったのがこのイジメに加担していなかった東郷益友のその後だ。彼は何を思ったのか、一年後、暢希の命日に自殺してしまった。すぐ傍にいたのにイジメを見逃していたことが堪えたのか、それとも他に理由があったのか。それは解らず終いだ。また身近で不可解な自殺が起こってしまったわけだが、こちらは遺書も見つかっていて、自殺が疑問視されることはない。ただ、遺書に
「自らの不甲斐なさには呆れてしまう」
との言葉が書かれていたと知った時、卓也は衝撃を受けた。
それは自分だと、何度思っただろう。親友だったのに、彼の苦しみに気づけなかった自分は、不甲斐ないだけでなく、親友失格ではないのか。おかげで益友の葬式でも大泣きしてしまい、また弥生に面倒を見られることになってしまった。
「そう言えば、落合さんにちゃんとお礼を言わないまま、別れてしまったわね」
事件を書き留めたノートを捲っていた弥生が、そう言ってくすりと笑う。あのお調子者の記者はというと、
「いやあ。こんなにすぐに失恋するとは。なかなか運命の出会いってのはないものですねえ。まあいいですよ。いい休日だったってことにします。お二人とも、末永くお幸せに」
と調子よく笑って去って行った。もちろんあの事件を記事にすることなく、さらに高校でのことが別の形で記事になることさえなかった。このままひっそりと真実を伏せておくことが暢希の名誉のためだと言って、あの時の九条廉人の活躍すら記事にすることはなかった。情に厚い人だったのだ。
「いい人たちに出会えたな。これも総て、暢希が引き合わせてくれたんだ」
今もリビングの片隅に、暢希の位牌が置かれている。小さな仏壇の中に納まっているだけでなく、それがあることでいつも暢希が傍にいるとの思いになれた。
「そうね。暢希君もまさかこうなるとは思わなかったでしょうね。死んだ後に、多くの人の人生が動くことになるなんて」
卓也につられるように暢希の位牌へと目を向けた弥生はそっと微笑んだ。きっとそこで暢希も微笑んでくれている。そんなことを思わせる、優しい笑顔だった。
あの日、冷たく固まってしまっていた心は、綺麗に溶けてしまった。
その代わりに、色んなもやもやを溜め込んだ。
それでも、彼の死が解らない気持ち悪さからは解放され、ようやく彼の死を悼むことが出来たのは間違いない。
もし死後の世界というものが存在するのならば、もうすぐ彼に出会えるだろうか。
あれから大変だったんだぞと、文句を言ってやれるだろうか。
私は今、そう夢想する日々を送っている。
未解決「自殺」問題~天才の死の真相~ 渋川宙 @sora-sibukawa
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