第17話 罪
伸行が暢希のことを意識したのは、何もあの事件の直後だけではない。しかし、同性であるだけでなく、暢希は彼女がいる。彼にそういう嗜好がないのは明確だった。だから一緒の空間に居られれば、そして彼が気楽に質問してくれることで満足しようと思っていた。
「だが、それは想いが募る一方だったんだ。苦しくなるだけだったんだ。だから、我慢できなくなってしまった」
ある日の夕方。丁度良く二人きりになったところで、伸行はついに秘めた想いを口にしてしまった。それに対して暢希は初めきょとんとしていたが、次に浮かべていたのは困惑の表情だった。
「悪い。忘れてくれ」
やっぱりなと、男に好きだと言われても困るだけだと解っているのになぜ言ってしまったのか。何度も失敗していてもやってしまうことだ。気持ちに嘘を吐くのは嫌で告白し、こうして好きだった相手から嫌われる。しかし言わずにはいられなかった。
暢希はまだ混乱しているようで、じっと伸行を見つめたままだった。しかし何か言わなければならないと感じたのだろう。
「その、どうして俺なんですか。先輩ほどの方ならば、もっと素敵な方がいるでしょう」
そう真顔で言ってきた。
それがどれほど傷つける言葉か。もちろん暢希が知る由もないことだ。それに、ずっと気持ちを隠してきて、さらに告白した後に振られて同情されるというのは、とても苦しい。
「いるわけないだろ。世の中、同性愛への偏見は消えない。それに俺は数学オタクだ。誰が好きになってくれる。あと、君を超える人間がいると思っているのか。才能にも容姿にも恵まれている。それだけではない、他にも多くのものを君は持っている。普通の恋愛が出来るのもそうだ。いや、君ならば普通でなくても自由だろうね。こんな風に馬鹿にも告白する奴がいるんだから」
かっとなって暢希の腕を掴み、伸行は思い切り溜まっていたものを怒鳴っていた。それに暢希が困惑と戸惑いを覚えたのは当然だろう。
「す、すみません。俺、そういう意味で」
あまりにおろおろとするので、伸行の怒りも収まっていった。
そうだ、何一つ彼のせいではない。自分の僻みが総て言葉になっただけだ。それだけに、伸行はいたたまれない気持ちになる。
「――悪い」
伸行はそれだけ言うと、部室から慌ただしく出て行った。まさかその時の場面が映像として記録されているとも知らずに。
その後、暢希はそんなごたごたがあったなんて億尾にも出さず、いつも通りに振舞っていた。それがどれだけ伸行の心を掻き乱すか、おそらく解っていても他に方法はなかったのだろう。伸行はそこで終わりにするはずだった。しかし――
「先輩。俺、先輩の秘密を知ってしまいました」
にやりと笑って雄大がそう声を掛けてきた。
あれはそう、暢希が死ぬ丁度一週間前のことだ。帰りがけ、周囲には誰もいない階段の踊り場でのことだった。
「俺の秘密」
「トボけても無駄ですよ。こっちはほら、ちゃんと証拠も持っているんです」
雄大はそう言って持っていた写真を伸行の顔の前に掲げた。それはまさしく、あの日の場面があった。
「これは」
「先輩の性癖に関しては前々から気づいていたんですけど、まさか大塚に恋しているとは知りませんでしたよ」
くつくつと笑う雄大は、おそらくこういった場面が訪れることを予想していたのだ。態度に出したつもりはなかったが、それでも知らずに暢希への態度に差があったのだ。それを雄大は見逃さなかった。
「な、何が目的だ。金なんて持ってないぞ」
しかしその要求は解らず、伸行は思いつきで問い掛けた。すると、別に金なんて要求しませんよと返される。
「じゃあ」
「大塚を困らせてやりたいんです。フラれてイライラしているんでしょ。先輩もちょっとは溜飲が下がるんじゃないですか」
日頃は人当たりがよく穏やかな性格をしている雄大にこんな一面があったとはと、伸行は驚きを隠せなかった。しかしどうにもこの要求の真意が解らない。今のところ、雄大に何のメリットもない話ばかりだ。
「どうして」
「あれ、先輩ならば手伝ってくれると思ったんですけどね。目障りでしょ。あんな才能をひけらかして要る奴なんて。それも、好きだって告白しても無反応な男なんて。あいつ絶対、俺たちのことを見下してますよ」
にやにやと笑う雄大に、伸行はどう反応すべきか困った。
「へえ。先輩にそんな秘密があったんだ」
悪いことは続くものだ。二人の会話を、階段の上から覗いていた人物がいたのだ。それが理那だった。
「藤川」
「それにしても大変ね。男二人に取り合われるなんて。あんな可愛い彼女がいるっていうのにさ。それに、あんな奴のどこがいいわけ」
理那はふんと鼻を鳴らすと、憤懣やるかたないという表情になった。それには二人もどう反応すればいいのか解らなかった。別に取り合っていたわけではない。
「あのね。あれだけ横で完璧にやられて、腹が立たないわけ。しかも性格もいいとなってはこっちは腹立つ一方なのよ。何か欠点くらいありなさいよって思うわけ」
あんたたち男なのに張り合う気ないの、と理那は思い切り呆れ返った。どうしてどいつもこいつも暢希を認めることしかないのか。実力差は明確だが、ちょっとくらい何か思うところがあってもいいはずだ。
「欠点ならあるだろ。あいつはアルコールに触れられない。アレルギーらしいからな」
「あら。それだって、実際にどうかは解らないでしょ。診断書を見たことがあるわけでもないし、単なる言い訳かもしれないわよ」
雄大の反論に、理那はどうだかと笑う。実際に暢希が一度もアルコール消毒が当たり前のカラオケやファミレスに現れたことがないとはいえ、それが事実と証明されているわけではない。
「言い訳とは考え難いけどな。それにアレルギーがないなら、言い訳なんてせずに顔を出すくらいするだろ」
「ほら、そうやって庇おうとする。あんた、どっちなのよ。大塚に嫌がらせをしたいんじゃないの。ずっと横で才能をひけらかされて、嫌になってるんでしょ。そのくせ、大塚の才能は認めてるんだから、質が悪いわよね」
どうなのと、理那は階段を下りると雄大に向き合う。この件の主導権を握っているのは明らかに雄大だ。伸行はどうにでもなる。
「どうするつもりだ」
「おい」
訊ねる雄大と、それを止めようとする伸行。二人はこの頃から反目していた。しかし証拠を持つ雄大の方が上だ。
「黙っていてください。この写真があれば、どうとでも加工してばら撒けますよ。そうですね、学校一の美女に言い寄っているようにするってのも、面白そうですね。先輩にとっては最悪でしょ。それでもいいんですか」
本気の脅しに、伸行は黙り込むしかなかった。こうして共犯関係は完成していた。
「大丈夫よ。本当に飲めないのら、こちらの要求を飲むしかないもの」
理那は悔しそうな暢希の顔さえ見られればいいと、計画を打ち立てた。本当に飲めないのならば、無理な要求も飲むと確信していたせいだ。
そうして一週間。暢希の行動を注視し、行動パターンを掴んだ。そして仲のいい卓也がいなくて暢希だけが残る時間を選んだ。その間に暢希が群論の研究を物理学の問題を解くために研究していることも把握した。
決行時間は午後八時と決まった。理那も雄大も、そして伸行も一度は部室の外に出た。そして暢希に全員が帰ったと油断させたところでの実行だった。
「あんたさ、物理の研究をしているんだって」
トイレに立とうとしたところを理那が声を掛けると、暢希は意外そうな顔をした。すでに帰ったと思った理那がいて驚いたのだ。しかしすぐにそうだと頷く。
「ミレニアム問題にも選ばれている、数学的証明を求めるものです。だから正確には物理の研究ではないですが」
「相変わらずね。そうやって才能をすぐに見せつけてくる」
容赦ない言葉を放つ理那。そしていつの間にか研究室に現れた伸行と雄大に、暢希はそれでようやく危険を察知したようだった。するとすぐに理那が暢希を全力で突き飛ばす。
「くっ、何を」
咄嗟に立ち上がろうとしたところを、今度は雄大が馬乗りになって押さえた。そこでようやく、暢希は自分が絶体絶命の状況にいることを理解する。
「ここまでされないと解らないんだ。だから、簡単にいろんな人の気持ちを踏み躙れるのよね」
理那のそんな非難に、違うと暢希は反論したかった。しかし、上に乗る雄大の目に、同じ非難の色があるのを見て止める。
「この一週間、お前の行動をチェックさせてもらったよ。人がいない時間に研究するのは、俺たちとの議論が無駄だと思っているからなんだろ。だったら、お前が全部やれよ。俺たちの課題なんて、悩む間もなく終わるんだろ。お前の才能で、この学校全体のレベルを上げろよ。この間の数学大会、お前以外は惨敗だったんだしな」
雄大は自分を見つめる暢希の目に怯えを見つけ、そう要求を口にしていた。
「そんな。俺はただ、考えたいことが一杯あるだけだ」
ここで頷いては駄目だと、暢希は本能的に悟っていた。だからそう声を大きくして訴える。そしてこの中ではまだ助けてくれそうな伸行へと目を向けていた。
「――」
しかし伸行は視線を逸らせるだけで何も言わなかった。この中で弱い立場にあるのは伸行の方だ。暢希の言い分に理解できるところがあるものの、口出しは出来ない。危機的状況を知らせたくても、それすら出来ないのだ。
「先輩」
「そうそう。浦川先輩とも付き合いなさいよ。別に遊びでも大丈夫みたいだし、片手間に恋人ごっこしなさい。彼女がいるっていったって、そのくらい出来るでしょ」
伸行の態度に満足した理那がそう言って嘲笑う。それはどちらにも絶望的な瞬間だった。伸行はそんなことを望んでいないのだ。それを暢希は伸行の顔から読み取っていた。
「俺はどの要求も飲めません」
その場を取り繕っても駄目なのだと、暢希はきっぱりと告げていた。それに伸行がはっと顔を上げて首を横に振る。今の言葉は理那の思うつぼだ。
「あら。そんな言葉で許されると思っているの。だったらこんな手の込んだことはしないのよ」
そう言って理那は、ことりと机の上に日本酒の瓶を置いた。暢希はそれに目を見張る。まさか、とすでに次の要求が解って顔を青くした。
「ね、要求を何も飲めないだと、こっちの気持ちも収まらないのよ。あんたはいるだけで私たちをイライラさせてるの。だから、飲めないというお酒、これを飲んで。そうすれば、今日言ったことは全部なしにしてあげる」
理那は酒を紙コップに注ぎながら提案していた。さて、どちらを選ぶのか。理那は単に楽しんでいただけだ。アルコールのアレルギーがあったとしても大丈夫だろうとそう高を括っていた。そんな急性の反応が出るはずないとの思いもあったのだ。
「どうする。別に要求を飲むのは簡単だろ。それに部活なんてあと二年もないんだ。お前にとって、取るに足らない時間だろ」
初めて見る怯えた暢希を前に、雄大も気が大きくなっていた。だからこのまま要求を飲むだろうと思い込んでいた。
「――」
しかし、暢希はこの得体の知れない要求が、ここで終わるとは思えなかった。一度言うことを聞けば、その後は際限がなくなるはずだ。そうなれば、自分の時間をどんどん削られることになる。
ここはもう、自らの命を懸けるしかない。結果がどうなろうと、このままでは思うような研究が出来なくなる。それだけは嫌だった。
僅かに触れるだけでもかぶれてしまうアルコールを口にすることは怖い。しかしそれ以上に、目の前にいる雄大や理那が怖かった。それにちょっと口にすれば満足するはずだと、何かあれば伸行が対処してくれるはずだと信じていた。これは一種の賭けだが、他に方法はない。
暢希がコップを掴んだのを見て、理那の顔が凶悪になる。それは雄大も同じだった。雄大は少し身体をずらしつつも、暢希の上から退くことはなかった。
「――」
「飲み干すのよ。解ってるの」
一口。初めて口にする酒にすでに身体が熱くなるのを感じていた暢希に、理那の冷たい声が聞こえた。口を離せないよう、雄大がぐっとコップを押してくる。
「っつ」
暢希はもう引くに引けなかった。飲み干している間にも唇が腫れぼったくなるのが解る。口から零れた日本酒が肌を赤くするのを感じる。それでも飲むしかなかった。
「あら、やっぱり飲めるんじゃない」
理那はつまらないと、そっぽを向いた。しかし事態は急変する。
「お、おい。大塚」
最初に異変に気付いたのは、もちろん傍にいた雄大だ。顔が真っ赤で唇は火傷したかのように真っ赤に腫れ上がっている。それだけではない。ぜえぜえと苦しそうな呼吸を繰り返し、肌にはぽつぽつと湿疹が出ていた。
「おい、救急車だ」
「その前に吐かせないと」
混乱がその場を支配した。その間にも暢希の体調は急速に悪くなっていく。意識が朦朧とし、呼吸はどんどん浅くなった。急激に変化する体調に、その場にいた全員が動けなくなる。静かな研究室に、暢希の苦しそうな呼吸音だけが響く。
「これ、死んじゃうんじゃ」
そう理那が呟いた時、全員の動きが止まった。
もしこのまま暢希が死んだら。自分たちは暢希を殺したことになる。いくらアルコールのアレルギーでこんな症状が出るとは知らなかったとはいえ、殺意があったと思われるのは間違いない。
「――」
すでに息も絶え絶えの暢希を前に、三人は救助することを忘れた。ただあるのはこのまま殺人犯になるわけにはいかない。そんな気持ちだけだった。
「氷を持ってこい」
「えっ」
「解らないのか。このままだと、アナフィラキシーショックが原因で死んだってばれるだろ。真冬にスズメバチはいないんだ。どうしてこうなったのか、すぐにバレてしまうぞ。誤魔化すしかない」
そう叫んだのは雄大だ。それに対し、異常事態に判断がつかなくなっていた三人は、そのまま掻き集めた氷を暢希の身体に押し付けていた。
「こんだけ急性の症状が出て助かるはずないんだ。これしかない」
その間、雄大はぶつぶつとそう呟き続けていた。他の二人の声を出さなくても同じ思いだった。このままでは自分たちは暢希に自殺を強要したことになる。それが助けを呼ぶことを忘れさせていた。
血圧が低下するところに氷を当てられたのだ。暢希の心臓はそのまま血流を確保できずに止まってしまった。まさしく、三人がとどめを刺したのである。
あの死体が綺麗だったのは、暢希が三人に与えた罰だったのだろうか。それともその日、たまたま寒かったことが功を奏したのか。あの日は寒波が襲来し、非常に寒い日だったと伸行は記憶している。
目立ったところに腫れのない暢希の死体。それを利用してうまく誤魔化すことに成功したが、それはずっと暢希を殺したことを世間に知られてはならないという、苦行の始まりでもあった。
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