>隠居老人さんのエッセイを読むとなぜか、「う○せぇ○」が脳内で再生されます

OLDTELLER

これは、ボケ防止に小説を書き始めた隠居老人ととある作者さんとの交流の記録。 ですので、個人名を伏せるのとあわせて著作権フリー作品となっています。 作者は、本作に関して一切の著作権を主張しません。

『』は歌詞として表現されている部分やその解釈。 ※は、解釈のキーワード。 「」は注目点。  そういう意味を持つ記号として使用しています。





>隠居老人さんのエッセイを読むとなぜか、「う○せぇ○」が脳内で再生されます

>何となく、言葉にできない

>何かもやもやとするのが一緒


 


 最近、日本を離れている事が多いので知らなかったけれど、多くの話題を集めたらしい作品のことでしょうか?


 そうだと考えて話を進めます。


 先ず、私はこの作品は「情緒」を表現するのではなく、理性的なメッセージを持つ歌だと考えました。



 こういう歌と映像で表現されるメッセージ性を持つ作品は、鑑賞する人ごとに違うメッセージの解釈がありますよね。


※ 表現(心の状態やその状態への過程、または性格や志向や意味等々、それら自分の心の在り様を、目に見える形や聞こえる音などの感覚を通して表すこと)



 『判断力批判』などでも述べられてるように人間は完全な客観を持てないから。


 つまり、「観照」する人の主観によって、その意味が違ったりします。 


※ 観照(対象を、主観を交えずに冷静にみつめること)

※ 主観(自分中心視点での考えや自分ひとりの感じ方)



 クイズではないので、観照に完全な客観的な正解はありません。


 作品に作者の深層心理までが反映されるという心理学の説もありますし、そう語っている芸術家もいて、作者の表面上の思考が全てでもないので、それはどうしようもないことでしょう。


 それを前提に、このメールの意味を考えるのには件の作品についての解釈の擦り合わせが必要に思えたので、私なりの「作品観照」をしてみます。


 普通なら流すような話題ですが、「作者としての○○さん」からのメッセージなので、それも一興かと。




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(該当部分は再度観てもらったほうがよいかと)

映像説明1



 まず、冒涜的なロック特有の破壊的な曲調で歌われる冒頭の叩きつけるようなフレーズ。


 赤黒い生贄を捧げる悪魔崇拝の魔法陣のようなものが描かれた床の上に立つ足元が鮮明に映し出される画像で前奏に入ります。


 一瞬で画面は移り変わり、荒い画風と青く暗い色調の画像では顔が見えない女性らしい人影が鉄格子を背景に逆光で立ちます。


 歌詞は『正しさ』と『愚かさ』という理性的な判断を歌いますが、曲調は感情を叩きつけるようなもの。


 映像で女性と見えた人影の顔の部分がアップで映されますが、それはシルエットと「シミュラクラ現象」の説明に使われるような赤い○と亀裂で表現されます。


※ シミュラクラ現象(逆三角形の3点を目や口と認識する類の心理。単なる画像認識の心理作用のようだが人間という動物に備わった外敵を察知する防衛本能に起因した心理といわれる)



 まるで、クトゥルフ神話の「貌のない邪神」のような絵。


 そして一字ずつ不規則に並べられる『見 せ つ け て や る』という文字。


 思い知らせてやるというような歌い方。


 そして「壊れたような文字の『曲名』」と共に荒れた表情の黒いセーラー服もどきの少女として「誰か」が描かれる。


 次いで楽曲と画像の作者たちが示される。




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1の観照



 冒頭のフレーズと映像から、この作品が複数の作者による社会的メッセージ性を持つ作品だと示されます。


 

 話によるとこの歌のvocalが当時女子高生だそうなので、この黒いセーラー服もどきの少女として描かれたのは、複数の違う歌い方で「理性と感情を伝える者」なのでしょう。


 つまり、歌い方を変えることで不特定多数の中の個人である「誰か」や「誰か」の「主観」として表現されているのだろうと思います。



 メッセージのテーマは、「否定的な意味での『正しさ』」と『愚かさ』だと冒頭で明言されているのがタイトル表示前のこの部分なのでしょう。



※ 否定(そうでないと打ち消すこと。在り方や価値などを認めないこと)


  誰の正しさと誰の愚かさなのか?


 公共の作品である以上、「誰か」の「主観」として表現されてはいても、それは「誰か」たちの自分たちの『正しさ』と『愚かさ』を示すメッセージ。

 

 それを『見 せ つ け て や る』という、「誰か」の感情は、理性的にしなければならない判断を、激情が歪めている。


 そういう表現に思えます。


 そして『正しさ』と『愚かさ』について「否定する表現=『曲名』」が表示されますが、それはひび割れて崩れ、最後には裏返っています。


 そこに意味があるように感じる画像だけれど、その意味は、次のフレーズから始まった映像作品の形をとったメッセージとして示されます。



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(該当部分は再度観てもらったほうがよいかと)

映像説明2



 ロリポップキャンディを咥えた黒いセーラー服もどきの「誰か」の画像はかつての『優等生』なのでしょう。


 次のフレーズでは否定的な意味でその『優等生』についてが語られます。


 周囲に流されるままに生き『気づいたら大人になっていた』ような「主体性」の無い人間。


※ 主体性(他のものによって導かれるのでなく、自己の純粋な立場において行うさま)


 大人になるまで友人達と『遊び回るようなこともなく』、学校という枠の中で『優等生』として他者を『傷つけることなど考えられない』ような、社会に従順でいながら『何か満たされない』という理由のわからない不満をため込み続ける人間。


 それが『「誰か」のせい』なのだろうかと考え、そんな「現状を否定する」自分に『困惑』し。


 それを解決する『あてもなく』、『anydayいつでも』ただ『混乱』するだけの主体性の無い人間。


 歌と映像は、鉄格子の中に半分顔を隠した「誰か達」と共にいるそんな優等生を表現する。




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2の観照



 今まで教えられてきた『優等生』としての理想の在り方と矛盾する『正しさ』である裏の『社会人には当然のルール』に『困惑し混乱』する「誰か」。


※ 理想(行為・性質・状態などに関して、考え得る最高の状態。未だ現実には存在しないが、実現可能なものとして行為の目標とされる基準)


※ 行為(目的または動機があり、思慮・選択・決心を経た意志による善悪の判断の対象となる動作。人間のあらゆる動作。おこない。しわざ)



 そんな「誰か」は、閉塞した社会で生きる「愚民政策の犠牲者」の姿を表現しているように思えます。


※ 愚民政策(為政者が国民を愚民と呼ばれる政治的無知状態に陥れ批判力を奪おうとする政策。民主主義の根幹である国民の政治参加を阻害する反民主的な権威主義の政策)


 つまり『愚かさ』が示されているのでしょう。


 否定すべき『愚かさ』とは、誰の愚かさなのか?


 自由と平等を否定する権威主義で、自分達の役に立つかどうかで人々を優等と劣等に分ける差別をする「誰か達」でしょうか?


※ 権威主義(権威に価値を認める主義。権威に対する自己卑下や盲目的服従や、権威で他を圧迫する態度や行動としてあらわれる)


 「権威」によって、そういう「誰か達」に愚民というレッテルを張られた「誰か」でしょうか?


※ 権威(他者を威すことで、強制し服従させる広義の暴力。人に承認と服従の義務を要求する精神的・道徳的・社会的または法的な広義の暴力)


※ レッテルを貼る(一方的に、ある評価・判断を下す。)



 そして否定すべき『正しさ』とは誰のための正しさなのか?


 理想と矛盾する『正しさ』を示すことで、権威によって語られる正義とは、「誰か達」にとっての「必要悪」でしかないだろう、『うるさい』と拒絶する「誰か」をここまでで表現しているように感じました。


※ 拒絶(防ぎこばむこと。断わって受けつけないこと)


 

 そして次のフレーズからはそんな社会について語られます。


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(該当部分は再度観てもらったほうがよいかと)

映像説明3



 『それも当然だろう』という、不満に対する気づきを示す歌とともに冒頭の不気味な顔を模した「記号的な仮面」が現れ大きくアップになった目の部分の赤い円の中。


 その仮面をつけ背後に「指のような何か」を背負った顔を見せない「誰か」が真っ黒な深淵の上の一本道の通路の上に立つ画像が映しだされます。


 その映像とともに、『流行』に流され、『資本主義の金権権威』に従い、『純情な優等生」のまま、『資本主義社会の歯車として働く』ことが『社会人には当然のルール』という抑圧的な曲調の歌が流れます。




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3の観照


 「記号的な仮面」をつけた「誰か」とは何を表現しているのか?


 そして、その誰かを操るような指は?


 「誰か」を「愚民政策の犠牲者」とするならば、「記号的な仮面」を示すのは『社会人』のペルソナ。


 そして、『流行』『経済』『入社』『社会人』という歌詞のキーワードから考えると、この部分は何を表現しているのかと考えてみます。


 これは、資本主義社会という「金権権威主義」社会内の『社会人』というレッテルと『暗黙のルール』に操られる者達の『正しさ』というものを示しているように感じます。


※ 資本主義(封建制の時代に生まれ、産業革命によって確立した生産様式。商品生産が支配的な生産形態となっている。生産手段を所有する資本家階級が、自己の労働力以外に売るものをもたない労働者階級から労働力を商品として買い、それを使用して生産した剰余価値を利潤として手に入れる権威的経済体制)


 それは否定すべき『正しさ』なのか?


 それとも肯定すべき『正しさ』なのか?


 そんな『正しさ』を否定するフレーズが次に続きます。



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(該当部分は再度観てもらったほうがよいかと)

映像説明4



 指のような何かの代わりに「邪神のような何か」を背負って仮面を外した狂気めいた素顔の「誰か」が血しぶきの中で内心をぶちまけるような画像とともに。


 そんなのが正しいわけがないというように拒絶を意味する『曲名』がたたきつけるように連呼され。


 『社会人には当然のルール』に従わない者に、「権威主義者」が付ける病んでいるというレッテルを否定し、叫ぶように『健康』だと歌います。


※ 健康(悪いところが無く心身がすこやかなこと。公衆衛生や医療制度によって護られるべき心身の在り方)



 けれど、画像に示された歌詞の健康の文字は壊れています。


 そして、血しぶきのような何かの中で、立ち向かうように立ち上がろうとする姿の画像と共に、資本主義社会に埋没して権威主義者になった『何もかも凡庸』な「誰か」には『分からない』と。


 『かもしれないね』でもそうじゃなければいいのにというように歌い。


 そして画面は切り替わり、『嗚呼』という嘆きが赤く大きな文字で映し出されます。


 そして、あちこちから照射される赤い無数の照準レーザーのような線が浮かぶ中で、顔を隠した「誰か」が崩れ折れてうずくまる画像と共に。


 何のメッセージも持たずにただ流されるだけの『メロディー』のように、『可もなく不可もない』無関心と照準をつけないレーザーサイトから放たれる弾丸のような攻撃的な応えに悲しむかのような歌が響きます。


 そして再び拒絶を示すタイトルが連呼され。


 真っ赤に染まった画面の中で顔を上げた「誰か」は泣き叫ぶように、可もなく不可もない答えしか示せない者達と『頭の出来が違う』ので孤立したとしても、『問題なく』自分は傷ついていない健康なのだ、と傷ついている自分を否定します。


※ 問題(解答を必要とする問い。研究・論議して解決すべき事柄。争論の材料となる事件。面倒な事件。人々の注目を集めていること。注目を集めて当然な事柄)



 けれど、青かった「誰か」の顔をアップで映した画面は赤く、背景すらなく真っ黒な中で映し出されています。


 そして間奏部分で、「誰か」の背後に浮かんでいた怒れる邪神のような何かが「邪神のような仮面」の形で手の上に乗っています。


 記号のような表情のない仮面ではないこの「邪神のような仮面」が赤黒く染まる画面で歌は次のフレーズへ。





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4の観照


 この連呼される『曲名』は社会に出て「優等生=主体性の無い人間」ではいられなくなった者達の叫びなのでしょう。


 建前の民主主義と本音の権威主義という二律背反した社会の矛盾から生まれる様々な問題という解決できないことに気づき、そんな社会に埋没したような「何もかも凡庸」な者達への苛立ちのようなものの表現に思えます。


※ 二律背反(互いに矛盾し対立する二つの命題が、同じ権利をもって主張されること。カントは理性だけで世界全体の根本的問題を解決しようとするときの問題点として二律背反Antinomieを示した)


 しかし、『何もかも凡庸』な権威主義者達は、『社会人には当然のルール』に従わない者に、まともではない精神的に病んだ者というレッテルを貼ることがあります。



 「レッテル貼り」はマスコミだったり、SNSだったりで、「本音の見えない「誰か」や「偽りの仮面をつけた「誰か」として、他者を攻撃したり排斥するための常套手段になっていますし、狭い小社会ではハラスメントとして行われてもいます。


 そしてそれを指摘する「誰か」へ 『可もなく不可もない』無関心な対応をすることが、「空気を読む」などといわれて、『社会人には当然のルール』になっている。


 そういうことに納得できないと抗うことで、疎外感に傷つき、そういう者達にならないと拒絶するために、自らも「レッテルを貼る」という本末転倒を行ってしまう。


※本末転倒 (根本的な事柄とささいな事柄とを取り違えること)


 どういう形でそれを行ったかを示すのが、SNSでの誘導や噂を流すような保身ありきの主張を示すような『頭の出来が違うから問題は上手く無しにできる』というフレーズなのだろうけれど、そうまでして訴えたい『正しさ』について本末転倒する『愚かさ』。


 

 「記号的な仮面」と「邪神のような仮面」の対比や「誰か」の表情といった絵での表現や表示される歌詞での表現。


 それら、鮮明と不鮮明、整列と乱雑、青と赤、黒と白の対比での画像表現と曲の同期の取り方。


 そういう表現から、この部分の映像はそういう事を表している気がします。



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(該当部分は再度観てもらったほうがよいかと)

映像説明5



 この部分のフレーズは『優等生』を語った部分と対になった部分です。


 画像は、もの憂げでどこか無邪気さを漂わせていた『優等生』と対比すると、本末転倒してしまい『模範人間』になった「誰か」は攻撃的な雰囲気をふりまいています。


※模範  (見ならうべき手本。判断・評価または行為などの拠るべき手本・基準)


 『殴ったりする』、直接的な暴力を振るうことはなくても遠くから他者を傷つける者たちを見倣って生きる『模範人間』。




 映像では、銃を形どった指を、『言葉の銃口に見立て、自分の『頭につきつけて』います。


 暴力とは体を傷つけるものだけではなく、心を傷つけるものも暴力なのだというかのように指が白いライフルの影に変わり。


 「記号的な仮面」をかぶった自分に似た「誰か」を『撃てば』青い血がとびちります、涙をこぼしそうな顔で自分も傷ついて、『本当に精神的に危ない状態になっているのじゃ?』と思いながらも『不平不満垂れ流し』す自分が『止められない』と嘆くような歌が流れます。


※ 嘆く(悲しく思う。切望する。満たされない思いにため息をつく。文句を言う。訴える)


 そして『サディスティックに変わっていく』と歌うところで、自分が撃った「記号的な仮面」をかぶった自分に似た「誰か」が宙を舞い、その背後に「誰か」を隠すように重なる映像へと変わり次のフレーズへと。


※ サディスティック(他者を精神的・肉体的に虐げることによって満足を得る様子)




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5の観照



 『優等生』と対比すると『模範人間』にとっての模範とは何なのでしょうか?


 これは愚民政策で権威主義社会になりかけている社会の「本音の見えない「誰か」や「偽りの仮面をつけた誰か」 にとっての規範でしょうか。


 「読むべき空気」などというあやふやな「常識」を拠るべき手本・基準とする『社会人には当然のルール』。


※ 常識(一般的知識とともに、理解力・判断力・思慮分別などを含む一般人が持ち、また、持っているべき知識)


 周りの権威主義者たちを見倣って、直接的な暴力を振るうことはなくても、『言葉の銃』で遠くから他者を傷つけるような常識。


 

 不平不満を溜めこんだ『成れの果て』がそんな裏の常識を造り、悪質な噂やネットでの書き込みという形でそれがまかり通っている。


 それは、愚民政策の犠牲者同士が傷つけあう『愚かさ』。


 この部分は権威主義者達によって故意に造られた「そういう社会の闇」を表現しているように思えました。


※ 故意(わざと企むこと。自分の行為の結果生ずることを認識して行為を行う心理状態)



 それは、傷つけあう誰も幸せにならない社会が、今の有形無形の暴力で威しあうことが前提の「金権権威型資本主義社会」なのだということも表している気がします。


 そういう、『社会人には当然のルール』に納得できない「誰か」が、有形無形の暴力で威しあうことが前提の「人々が傷つけあう誰も幸せにならない社会」の中で、そんな自分を嫌いながら「誰か」を傷つけることを厭わない『サディスティックな人間』に変わっていくというのがこの部分で表現されているのでしょう。


※ 厭う(好まないで避ける。害ありとして避ける。古語では、いたわる、かばう、大事にするなど)



 『社会人には当然の正しさ』と、その傷つけあう誰も幸せにならない社会の『愚かさ』。


 そして、その『社会人には当然の正しさ』を否定することで孤立して『サディスティックな精神状態』になり果て、本末転倒して、「傷つけあう誰も幸せにならない社会の一人となってしまう『愚かさ』。


 それらを『見せつける』のがこの部分なのでしょう。


 そうして変わってしまった「誰か」を表現するのが次の『社会人には当然の正しさ』を歌ったのと対になる次のフレーズ。


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(該当部分は再度観てもらったほうがよいかと)

映像説明6



 誰も見ていない事を示すような「誰か」の絵と『疲れた。何もかもが億劫』だという歌で映像が始まります。


※ 億劫(時間が長くかかってやりきれない意から転じて、面倒くさくて気が進まないこと)


 向かい合って並ぶ仮面をつけた顔の見えない「誰か達」の画像と共に権威的な裏ルールでしかない『暗黙の了解で成り立つ絶対的なマナー』が語られます。


 そうして画面が「画面の外の何者か」の視点であるかのように、画面とは90度に横を向いて左右で向かいあって立ち並ぶ「誰か達」の造った道の中を進み。


 画面の奥にいる「誰か達」とは違い画面に向かって立つ「誰か」へと近づいていきます。


 そして、最後にその中に自分まで仮面をつけて立つ「誰か」という映像が流れます。




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6の観照



 何故、この「誰か」は人と向き合わないようになってしまったのか?


 それは誰もかもが仮面をつけて本音を語らないのなら、人と人が向き合うのは、すべてが虚構であると考えたから。


 この部分最初の映像は、そういう事を示しているように感じます。


 傷つけあわないために仮面をつけて本音を語らないことで、『暗黙の了解で成り立つ絶対的なマナー』がまかり通る。


 そんな表現が続くことで、「暗黙の了解」に与する事を嫌うようになった「誰か」は、自分達だということも示していますから、そう的外れな解釈ではないと思います。


 明示されたルールとは違う表現のこのマナーとは何を表すのか?


 ここで提示された『不文律』のマナー。


※ 不文律(暗黙の了解事項となっているきまり。非公式なローカルルール)



 つまりは、明文化された「民主主義の精神」で創られた法ではないと、あえて「暗黙の了解」のマナーだと表現されたもの。


 そして、『最低限のマナー』。


 つまりは、これに従わなければ、「礼儀知らず」というレッテルが貼られるもの。

 

※ 礼儀(社会生活の秩序を保つために人が守るべき行動様式。特に、尊敬をあらわす作法)



 加えて、例示されたマナーは上下関係に関連した自由と平等を否定したものばかりだから、反民主主義の権威主義を広めるためのものという表現だと思われます。


 こういうマナーというものが生まれたのは、古代の階級社会で、自由と平等を否定した権威主義しかない時代。


 本来は個人的な感情でしかない「尊敬」を「忠誠」という公的なものとして強制する手段として、あえて目に見える形で上下関係を『見せつける』ことで権威を示す方法で。


 つまりは、マウンティング。


 人類のみならず行われる原始的で動物的な行為で、『現代』的な「行動様式」ではありません。



 こういうマナーの目的は階級差別の格付けのためなので上下関係を動物に調教するように人間を仕付けること。


 民主主義社会では堂々と語れず様々な誤魔化しで、差別を創り出すためのものだ。


 そして、そういう「マナー」は、この部分ではカメラ視点で表現されている「わざわざ民主主義社会にそういう『マナー』を創り出した「画面の外の何者か」として表現された「存在さえ見えない誰か達」のためにある。


 この部分でそう表現してるのではないでしょうか。



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(該当部分は再度観てもらったほうがよいかと)

映像説明7



 そして、また拒絶を意味する『曲名』が連呼され、画面いっぱいに「誰か」は、カメラの向こうに向けて、『健康です』と対になった部分では、もう『限界です』と嘆きながら『口を塞げ』と攻撃的に罵倒するような歌が流れます。


 その「誰か」の表情は、どこか狂気を感じさせます。


 そうして、とうとう『絶対』という他を完全に否定す言葉を繰り返して、『今を生きる者の在り方』を示すのは『私』だ。『そうだろうが違うか』と「独善的」に叫ぶような歌になります。


※  独善(自分だけが正しいと信じて、客観性を考えずにふるまうこと。ひとりよがり。)


※ 客観(多くの他者の立場から見た場合の観方。主観の作用とは独立に存在するという意味で創られた理論。主観の反対語)


 そのときの映像で流れる歌詞は漫画の「ふきだし」のような表現で。画面にアップで映しだされた狂気的な表情の顔が『曲名』を連呼し。


※ ふきだし(漫画で、話し手の口から吹き出した形に描く台詞)


 自分が『健康』だと歌った部分と対になった部分では、ふきだしが画面に向かって叩きつけるようにアップになり、罵倒と共に『限界です』と嘆きが表現されます。


 そして、ここで画面は「誰か」の上半身を映すように引かれますが、「ふきだし」の大きさは変わらず『絶対』と一度目は左、次には右に2度繰り返します。


※ 絶対(他に並ぶものがなく、他との比較・対立を絶していること。一切他から制限・拘束されないこと)




 そして、『今を生きる者の在り方』を示すのは『私』だということを歌った部分の歌詞は画面に直接表示され、「誰か」の絵に重なりその絵を覆い隠すように大きく一文字で表示された『私』は歪んでいます。


 そして、「誰か」の画像は倒れこむように逆様になり、

『私だろうが違うか』と歌う部分の歌詞では『私』がという文字が重ねて出てきていますが、この歌詞の表示は、まるで「『私』という誰か」の心が危険な状態にあるように赤く染まり明滅しています。


 映像はここから何のメッセージも持たずにただ流されるだけの『メロディー』のように、『可もなく不可もない』無関心を歌った部分。


 そこと対になった部分に変わります。


 赤黒く染まった画面で、対になった部分で崩れ折れて伏せられていた顔には「記号的な仮面」がつけられ、その「誰か」はよろめいたように無数の赤い照準レーザーのような線の中で立つています。


 対になる部分で顔を伏せて崩れ折れる「挫折」した姿から、「記号的な仮面」をつけ立ち上がろうするような表現。


 歌は、『どこかで聞いた誰かの受け売りを語る滑稽な姿』は、『もう見飽きた』と歌います。


 それは、まるで『パロディ』だと示すように赤く明滅した文字が画面中央に表示されて、歌は次のフレーズへ。


※ パロディ(よく知られた作品を模し、滑稽化・諷刺化した作品形式)




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7の観照



 強がるように『健康です』と歌った部分と対になったこの部分では、もう『限界です』と訴える「誰か」の言葉は、個人の想いとして「ふきだし」で表現されています。


 それは「限界じゃい」と怒りをぶつけるのではない表現として『限界です』という嘆きで、続く次のフレーズとは違う表現です。


 個人の想いとして表現されているのは、『絶対』という部分もそうで、『絶対』というふうに考えることは、既に他者の考えを否定する個人の考え方であると示されています。


 『健康です』という強がりさえ言えなくなり、『限界です』と嘆き、他者を攻撃するようになった「誰か」の姿は何を表現しているのでしょうか?


 『社会人のルール』と対になった『最低限の不文律』を「拒絶」する部分にあるのでしょう。


 対になる部分で顔を伏せて崩れ折れる「挫折」した姿から、「記号的な仮面」をつけ立ち上がろうするような表現へと変わったこの部分の映像は何を意味するのか?。


 それは、理想を抱えて傷つくことに疲れてしまい、自分を誤魔化してしまうという表現のように思えます。



 『現代の代弁者』として、伝統や礼節という言葉で美化された「古代の権威主義」を広める『最低限の不文律』を拒絶しているはず。


 それなのに本末転倒して、『絶対』と『現代民主主義の基本理念』である「他者を認めること」を否定してしまう。


 それは、傷ついている自分を認めて、それでも他者を威圧する「誰か達」の『愚かさ』を訴え理解を求めるのではなく、分かり合えるという理想を捨てて利己に走る悪意に染まることだと。


 「共存の理想」を「暴力の権威」にすりかえて、個人の想いや欲望を叶えようと本末転倒してしまう行いだと。


 そういう「他者を権力で威す在り方と同じ独善」に陥ることで、理想を捨てた自分自身を誤魔化す『愚かさ』だと示しているのでしょう。


 では、そんな「誰か」が、「『どこかで聞いた誰かの受け売りを語る滑稽な姿』はまるで『パロディ』だ」といった「誰か達」は愚かではないのか?


 間違いを犯した人間の言葉が全て間違っていると断じる狭量が間違っていると思うなら、そんなことはありません。


※ 狭量(人を受け入れる心の狭いこと)



 権威が示した在り方になにも考えずに追従する「愚民」とレッテルを貼るものが愚かならば、同じような『社会人』というレッテルを「誰か」に貼ろうとする「誰か達」。


 そんな「存在さえ見えない誰か達」が正しいことだと騙った『最低限の不文律』を鵜呑みにして、『二番煎じの言い換え』で語ることもそうだと歌は表現しているように感じます。


※ 鵜呑み(人の言うことなどを、よく検討・理解せずにそのまま採り入れること)


 マインドコントロールされたように、「存在さえ見えない誰か達」の「古代権威主義」の『最低限の不文律』を鵜呑みにして、『二番煎じの言い換え』で語る無意識の『代弁者』。


 「存在さえ見えない誰か達」の騙る『社会人には当然のルール』で動く『現代』の「金権権威主義」の『正しさ』を『絶対』だと本末転倒してしまった『現代の代弁者』。



 『現代の代弁者』が拒絶する「古代権威主義」の『代弁者』が語る『絶対』の『正しさ』。


 この部分で、相反する二つの『代弁者』の『愚かさ』を示すことで、『正しさ』を、『絶対』と考えることは『愚かさ』なのだと示しているのでしょう。

 

 それを端的に映像で示すのが次のフレーズ。


※ 端的(てっとりばやく要点をとらえているさま。即座に正しく明白な様子)


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(該当部分は再度観てもらったほうがよいかと)

映像説明8



 赤く染まっていた画面は青く染まり、アップになった「誰か」が俯きながら斜に構えて上目遣いで画面の外を睨みつけるものになります。


 そうして『うるさい』と連呼される拒絶の歌と一緒に画面に表示される『曲名』の文字は、舞い散る血のような点とともに、一字ずつバラバラになって飛び散ります。


 そして、画面は『頭の出来が違うから問題は上手く無しにできる』と歌った部分と対になった部分に切り替わります。


 『代弁者』としての「誰か」が背後に背負っていた「邪神のような仮面」が色々な形の複数の指に乗り、大きくはっきりと描かれ、そこで『丸々と肥え太った「誰か達」』の『愚かさ』に『罰』をあるいは『×』をと歌い完全否定するフレーズ。


 その映像の最後の部分で、対になった部分では地面に描かれた赤い血で描かれた魔法陣のようなものがアップで映しだされます。


 間奏では、その胸のペンダントが真っ赤に描かれた「誰か」がその魔法陣の上に生贄として倒れているように、あるいは魔法陣を背景に踊っているように表現されます。




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8の観照



 ここでは、初めて「邪神のような仮面」が大きく映し出されます。


 この仮面は何を示しているのか?


 誰かの顔にはつかずつかまれている「邪神のような仮面」が示すのは、政界、財界、官僚組織、マスコミなど全ての「金権権威主義で成り立つ既得権益」を象徴している気がします。


 『頭の出来が違うから問題は上手く無しにできる』と歌った部分と対になった部分であることから、『丸々と肥え太った「誰か達」』の『愚かさ』に『罰』をあるいは『×』とは、それらへの否定であり、攻撃を意味する。

 

 つまりは「ルサンチマン」を表現しているのでしょう。


※ ルサンチマン(弱者が強者に対する憎悪や復讐心を鬱積させていること。奴隷道徳の源泉であるとされ、一般には、怨恨・憎悪・嫉妬などの感情が反復され内攻して心に積もっている状態)


 「ルサンチマン」はニーチェの用語として知られていますが世界大戦を経験していない19世紀のヨーロッパで生まれた言葉なので「動物種としての人類の自滅本能」という考え方はその思想には含まれていません。


 それでも、人間の在り方を示しています。


 では、本末転倒して権威として語られる『現代の代弁者』のルサンチマンはどういうものなのか?


 愚民政策の犠牲者同士が傷つけあうように、「分断統治」するために「利己主義」を広める世論誘導の結果、人々が溜め込んだ『不平不満』でしょう。


※ 分断統治(愚民政策とセットで使われる古代ローマから、現代まで続く権威主義者の伝統的統治法。支配階層が世の中を統治しやすくするために、支配される側の結束を分断して争わせ、支配層への反乱を未然に防ぐ方法で「離間の計」と呼ばれる謀略戦術の一種)


※ 利己主義(自己の利害だけを行為の規準とし、社会一般の利害を念頭に置かない考え方)


 目に見えない権威を造っている者達を「偉い」と呼び非難することなく、ルサンチマンを目に見える自分より弱い立場の『誰かのせい』にして、『サディスティックに変貌した精神』で「誰か達」を傷つける「ハラスメント」「イジメ」などを正当化する利己的な自分だけの『正しさ』。


※ 偉い(すぐれている。人に尊敬されるべき在り方や立場)


※ 非難(欠点・過失などを責めとがめること)


 それは自分自身も傷つけることなのに『マジヤバいのに止められない』と思い込む『愚かさ』。


 そんな権威主義に無意識で従ってルサンチマンに至った「誰か」の語る『正しさ』と『愚かさ』。


 「金権権威主義で成り立つ既得権益」を求めて争いあう「誰か達」が民主主義社会で騙る『正しさ』とその行為の『愚かさ』。


 それらの表現がこの部分に表現されてるのでしょう。



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(該当部分は再度観てもらったほうがよいかと)

映像説明9


 拒絶を示す『曲名』を連呼する歌が流れる中、映像は赤く染まった鉄格子の外を背景として、のけぞるような「誰か」の胸を映し、歌詞がその胸の上に重なる文字として白くハッキリとした文字で記されます。


 その歌声も静かで、画面が天を仰ぐかのような「誰か」の横顔を映し、次に赤い血のような魔法陣めいた文様の上に膝まづく脚を映しているのもあって、まるで祈るかのようなフレーズになっています。


 文様の上に膝まづく脚を映すその部分で『曲名』を連呼する歌が再度響きますが、その画像に重なった歌詞は赤く染まり脈動するように点滅しています。


 そして画面は1の部分と同じような鉄格子の部屋にいる「誰か」を映しますが、白く輝いていた鉄格子の外は赤暗く、立っていた誰かは膝まづき、胸には赤い影が差しています。


 そして、歌は自分が『俗に言う天才です』と歌い、映像は『天才です』の部分では、暗い画面全体に「誰か」の目と画面をはみ出す歌詞が描かれます。


 それに合わせたように静かだった歌声は『天才です』の部分では狂気的な叫びのように大きく響きます。

 



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9の観照



 この部分の拒絶の言葉は、本当に『煩さ』を嫌うように祈るような響きがあります。


 ここでいう『俗に言う天才』とは、『凡庸』ではないということを示すのでしょう。


 才人や英傑などという東洋の才知を称える言葉と違いアブラハムの宗教の影響で唯一絶対の「天にある神」という考え方によって『天才』とは、「他文化を拒絶する神」という「絶対の権威」から与えられた「ギフト」の意味を含む表現です。


 だから、『俗に言う天才』とは、政界、財界、官僚組織、マスコミなど全ての「金権権威主義で成り立つ既得権益」を持つ者の都合で与えられる虚名の称号でしょう。


 権威に従う『私』は『エリートです』と信じる「誰か」。


 この部分はそういうルサンチマンを自覚しない「誰か」を表現しているのでしょう。



 ならば、ここで映し出された「誰か」は、そういう権威にとっての『正しさ』を妄信したり狂信する『愚かさ』を示しているように思えます。



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(該当部分は再度観てもらったほうがよいかと)

映像説明10


 4の部分冒頭の歌詞を繰り返すように自分の『健康』を口にする部分ですが、哀しさを帯びて歌われたように感じる4部分とは違う表現がされています。


 黒を赤で塗りつぶした背景に赤い線が走る画面に立つ荒れ狂うような表情の「誰か」。


 その手には4部分では持っていなかった5部分で表現された「白いライフルの影」を持っています。


 歌は映像と相俟って、『サディスティックに』、とても『健康』な『精神』とは思えない歌い方になっています。


※ 相俟って(互いに作用しあって。両方の力があわさって)



 画面はアップに変わり、「白いライフルの影」を構えて狂喜するかのような表情の「誰か」が大きく映され。


 歌は『一切合切が凡庸な』「誰か達」を否定します。


 そして『そうじゃないかもね』と歌われる部分では炎のような赤の中に黒い色の「誰か」の狂喜するかのような顔とライフルの一部だけが大きく映し出されます。


 特にこの部分の歌い方は4部分と違う表現で、投げやりでありながら挑発的で攻撃的に感じました。


 4部分の諦めと哀しみに対して、苛立ちと憤慨という表現でしょうか。


※ 憤慨(いきどおり嘆くこと。ひどく腹を立てること)

※ 憤る(思いが胸につかえる。不平をいだく。恨み怒る)


 ここで、再度画面は切り替わり『可もなく不可もない』ありさまを嘆くように歌った部分と対になった部分になります。


 けれど画面の背景は、生贄を捧げるための魔法陣のような何かの上で崩れ折れていたそれとは違います。


 3部分で「記号的な仮面」を付けた「誰か」が立つ空中に浮かぶ通路のような背景。


 あるいは、8部分でたくさんの指の上に乗った「邪神のような仮面」が大きく映し出されたときの背景。


 その背景が、この部分では血に染まったように赤く染まり、浮かぶ「邪神のような仮面」だけが青く大きく。


 そして、その前に立つ「誰か」は小さく背景に染まっています。


 3部分で『社会人には当然のルール』を告げた「記号的な仮面」を付けた「誰か」とは違い、4部分で我が身を奮い立たせ、立ち向かうように立っていた「誰か」とは違い。


 その「誰か」は子供が癇癪を起して叫んでいるかのように、まるで「邪神のような仮面」付属物であるかのように小さく表現されています。


※ 癇癪(神経過敏で怒りやすい性質。また、声を荒げて泣き叫ぶんだり壁や床に頭を打ち付けるなど、感情の爆発を伴う行動)



 画面に映し出される嘆きの歌詞もまた、自分ではない「誰か達」を嘆くのではなく、「誰か」自身に重なり『ああ、つまらない』と自信の境遇を嘆いているように表現されています。


※ 境遇(生活していく上での、その人の環境や立場。現状や巡りあわせによる身の上)



 そして、その不遇をもたらすのは、『成功の記憶』を語る者なのだというように、画面をはみ出すように赤く大きく『メモリー【memory】』という歌詞が表示されます。


※ メモリー【memory】(記憶。思い出。記念。情報を記憶しておく装置)

 



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10の観照



 冒頭の部分は、単なる4部分のリフレインと考えれば、「大事なことだから繰り返してるんだろうな」と聞き飛ばす部分でしょう。


 けれど、歌での感情表現を映像表現とセットで観ると、この歌は色々な「誰か」を、あるいは『変貌し』ていく「誰か」を対比させるための表現に思えます。


 そしてその対比で、「誰か」という主観者を通してみた「誰か達」も、また違う主観を持った、「誰か」なのだと、客観性を持って間接的に表現しているのでしょう。


 権威に従い『凡庸』でいようとする「誰か達」の同調圧力を拒絶し、けれど皆と同じ位置で自らの孤立を嘆く「誰か」と。


 自らを、『俗に言う天才』として位置づけ自分以外の「誰か達」皆を、『凡庸』と見下し嘲笑する「誰か」。


 権力を持ち「愚民」を創ろうとするような「誰か」。


 つまりは、「すべての人間を下種と考えるような‘ 下種脳 ’とでも表現されるべき者達」が権威主義によって創る「構造的暴力社会」の構築者である「誰か」。


※ 下種(心のいやしいこと。また、その者。下等な民衆)


※ 構造的暴力(権威主義社会の階級化カーストに依存したり忖度する権威主義の「体現者」によって行われる間接的・潜在的にふりかかる暴力のこと。

 社会を階級化させることで起こる差別や抑圧。

 例えば、資本主義権威による貧困という金権差別、血統権威による生まれなどによる差別や人種差別、アブラハムの宗教権威による性的指向での差別やジェンダー差別)


※ 忖度(他人の心中を推察すること。機嫌を気にしなければならない他人の考えを推し量ること)



※ 体現(思想・理念などを行動などで具体的なかたちに現すこと)



 そして、‘ 下種脳 ’を憎むことで本末転倒して構造的暴力による「逆差別」を行うようになった「誰か」


※ 逆差別(差別されたと訴える特定の利権集団を優遇する政治権威による差別や抑圧)



 つまりは、人間は有形無形の暴力で服従させるべき愚種だと見限ったような‘愚種脳’とでも表現されるような「誰か」。


 この部分では、そういう類の「誰か」を表現しているのでしょう。


 同時に、この映像と歌の視聴者が一つの立場の「誰か」に感情移入したとしても、表現者は客観的な立場であると示すための対比を行いながら表現しているように思えます。


 それでは、この部分の示す『健康』と4部分の示す『健康』とはどう違うのか?


 自分は『健康』だ、健康じゃないのは『あなただろう』と、いうようなこの部分は、4部分の「誰か」を健康じゃないといった『あなた』が口にした『健康』。


 客観的に見れば同じだけれど、二つの部分の「誰か」の主観で観れば、4部分の「誰か」にとっては純粋に自分の『健康』で「悪いところが無く心身がすこやかなこと」の表現、この部分では「公衆衛生や医療制度によって護られるべき心身の在り方」という表現になります。


 つまり、客観的に見れば、4部分の「誰か達」がこの部分の「誰か」であり、この部分の「誰か達」が4部分の「誰か」ということを示す表現で。


 『変貌して』しまった「誰か」の語る『正しさ』がこの部分では、本末転倒してしまう『愚かさ』と、権威社会の『社会人』の尺度で誰かを不健康とする行為の『愚かさ』。


 そして、「空気を読む」という言葉で誤魔化される類の権威への忖度の『愚かさ』。


 それらの表現なのでしょう。


 ならば、『ああ、つまらない』と『意味もなく何回も繰り返すメモリー』とは、そんな権威への忖度しかせず『何の成長もない「誰か」と「誰か達」が造り出す権威社会』へ向けた『道理に合わない。得心できない。とるに足りない。ばかげている。とんでもない。価値がない』というメッセージのように思えます。


※ つまらない(道理に合わない。得心できない。とるに足りない。ばかげている。とんでもない。価値がない)


 そして、それと同時に『愚かさ』を拒絶するだけで、更には攻撃するだけで、目標とする理想への道筋を考えず示すことのない「独善」でしかない『正しさ』の『愚かさ』がこの部分までに表現されて、歌と映像はラストの『正しさ』と『愚かさ』を示す結末の表現へ。



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(該当部分は再度観てもらったほうがよいかと)

映像説明11


 地面に倒れ伏した「誰か達」が映しだされ、「拒絶」の『曲名』を連呼する歌の響きはひび割れて投げやりに感じます。


 その「誰か達」が倒れているのは、鉄格子の外が赤く染まった魔法陣のある場所。


 そして「誰か達」の中に立つ「誰か」の足元は暗く闇の中から現れたように表現されます。


 画面は「誰か」の上半身へと上がっていき、自分も『大概だ』けれどという部分で映し出されたその顔は、口元に片方だけが吊り上がった歪んだ笑みを浮かべ、自慢気でどこか自虐的で自暴自棄な表情。


※ 大概(物事の程度があまり極端でない・ありふれている。転じて、それなりにひどいさま。 かなり悪いさま)


 そうして、外からの赤い光に照らし出された赤いラインが走る鉄格子の部屋の中に立つその「誰か」の全身と足元に倒れた床一杯の「誰か達」とそれに隠れた魔法陣が映しだされ。


 『どうだっていい』という自暴自棄な歌が響く中で、「誰か」の全身に重なり、その歌詞が表示されます。


 そして、画面はひび割れたガラス越しのようにずれたものに切り替わります。


 誰もいない赤い鉄格子の部屋の中に、今まで想像だけだったのが実際の暴力に変わったことを示すかのように、白かったライフルの影が、赤いライフルの影へと変わって現れます。


 赤いライフルの影だけが魔法陣の上に浮かび、それに『問題』という文字が重なりと、短いフレーズの中で次々と画面が変わって。


 背後に魔法陣の形の赤黒い影を背負った1部分の邪神めいた記号的な仮面の「誰か」が現れ、『問題はナシ』にしたとでもいうような映像から、その姿が歪んで歌が終わり、最後の演奏に入ります。


 赤い鉄格子と魔法陣の部屋の中、独り立つ誰かの後ろ姿の映像と共に流れる曲の曲調は不安と恐怖と興奮を表現するかのようで。


 やがて、その後ろ頭にレーザーの照準を示すような赤い点が現れます。


 その瞬間、画面は暗闇を背景にした「誰か」の後ろ頭と赤い点だけになり、何かに気づいたように「誰か」は振り返り、驚きに目を見開く表情の「誰か」の額へ照準を合わせるように赤い点が動き。


 そして、画面の暗転とともに、ドンという銃声を思わせるような響きで曲は終わります。




○─────────────────────○


11の観照


 このラストが表現しているのは何でしょうか?


 「誰か」を一個人の心の変遷として考えるなら、「ゆとり教育の失敗」や「資本主義社会への不適応」などと、マスコミで語られるものでしょうか。


 子供の頃に習う民主主義の理想と、権威主義が蔓延した資本主義社会の現状の示す『正しさ』とのギャップ。


 それを埋めきれないマジメさで、『優等生な私』から『大概なアタシ』へと変わる本末転倒した人間が、孤立し、無形の暴力で争いあい、誰かを傷つけて、最後には自らも傷つけられ破滅する『愚かさ』を示しているのでしょう。


 そして、そういう心の変遷から、行われる「誰か」一個人の行動の変遷として考えるなら、どうでしょう?


 利己的な「独善」という『正しさ』から、有形の暴力である「犯罪やテロに走る『問題』を「赤いライフルの影」として示しているのでしょう。


 また、邪神めいた記号的な仮面の「誰か」はそういう在り方を『問題はナシ』と考える狂った『正しさ』の象徴で、その行動の結果、「誰か達」と「誰か」自身の破滅が待っているのだとも。




 ここまでが、「誰か」を一個人として考えたときですが、それだけだと、その「誰か」に感情移入してしまうことで、『見 せ つ け て や る』のは、創作者個人の想いなのだと勘違いしてしまいます。


 けれど、初めに触れたように、これは三人の創作者によって創られた作品になっています。


 なので、「Piano Ver」や「Giga Remix」などという違う表現もありますし、それ以外の観点があるように思えました。


 それはこの作品が「社会へのメッセージ」を表現しているということからの、少し客観的な観点。


 そういう観点を持つには社会に対する視野を広げる必要があります。




 というわけで、次に少し視野を広げて、日本の社会の在り方として考えるならば、このラストが表現しているのは何でしょう?


 「誰か」を私達日本に住む者達の心の在り様として考えるなら、「誰か達」も、また私達。


 だから、社会での「ハラスメント」や「汚職」や「犯罪行為」の「利己的な善性とは無縁の『正しさ』」で起こされる有形無形の暴力を『問題はナシ』とする権威主義の在り様を「赤いライフルの影」が示しているのでしょう。


※ 汚職(職権や地位を濫用して、不正な行為をすること。 私利私欲のために職に関して不正をなすこと。賄賂を取るなどの他に差別人事や公平性に欠けた行いも示す。狭義では公務員の不法行為)


 政界や官界で行われている政治闘争による謀殺や故意の事故による排除。脅迫や買収による使役。私的な懲罰人事や差別人事。


 それらに倣うように、一般企業で行われる派閥抗争による同じような習慣。


※ ならう(あることのままに従って行う。準ずる。模倣する。慣らう。習慣となる。例となる。習うと同源)



 そして、大人に習って起こる「学校でのイジメ」や「スクールカースト」などの権威主義への追従。


※ 追従(人のあとにつき従うこと。転じて、こびへつらうこと。おべっかをつかうこと)


 自殺や経済効率のための事故死や過労死という具体的な破滅が必ずある行為を止められない社会の『正しさとは愚かさとは、それが何か見せつけてやる』と、この作品は語っているように思えました。


 被害者であり、同時に加害者であり、一握りの人間達が最大幸福を得るためにそれに追従する人間達に幸福を与えて共犯者にする権威システムが創り出した不幸とは何か。


※ システム(組織。系統。仕組み。複数の要素が有機的に関係しあい、全体としてまとまった機能を発揮している要素の集合構造、またはその集団)



 「自由や平等」を求める多くの人間を、「愚民政策」で『正しさとは愚かさとは、それが何か』ということを見失わせ、「人類が理性で創り出した生存戦略」を忘れさせる悪意を蔓延させる権威社会の在り方。


 そうした悪意に染まらせ、利己的にして人々を争い合わせることで成り立つ「強制や差別」を故意に造り出す「金権権威社会」。


 一般に「格差社会」と呼ばれるそういう社会と、そういう社会の『正しさ』を語る「資本主義」。


 それらを『大概』だ。ほとんど大部分という言葉が、転じて、酷い有様を意味する言葉に変わってしまったと示しているように思えます。


 そして、また「そんな事をいつまで続けるんだ? 『大概』にしろ」と訴えているかのようにも。


 つまり、貧困や飢餓や争乱という目に見える不幸を減らすために「最大多数の最小不幸」を目指す「理想」ではなく、「最大多数の最大幸福」という形のない「夢想」で誤魔化す行為の結果は破滅だと『見せつけてやる』という表現がこの部分なのでしょう。




 そうして、更に視野を広げて人類社会全体をの在り方として考えるならばどうでしょう?


 戦争、人種差別、飢餓、国家格差。

 それらを創り出す権威システムは同じように存在します。


 そして、それらを暴力で覆そうとするテロリズムや、それを利益のためにそそのかす本末転倒した「誰か」が創る権威で成り立つ利権組織も存在しています。


 敵対していながら、権威という毒虫による「蟲毒」の壺を造り出す共犯者達が造るルールのない国際社会を示すのが「魔法陣のような何か」に思えます。


※ 蟲毒(ありとあらゆる毒虫を一つの壺に入れ、やがてもっとも強い毒を持つ一匹だけが生き残り、地上最強の毒を持つようになるという迷信や、それを利用して他者を呪おうとする呪術。転じて、そういった悪意の象徴としての比喩)


 それらの権威が、それぞれの利権を守ろうとして争いあうための組織が近代国家システムだとこの部分は表現しているのでしょう。


 では、多くの国民を「最大多数の最小不幸」を目指す「理想」ではなく、「最大多数の最大幸福」という形のない「夢想」で誤魔化し、利権組織としての国家が争いあう「金権権威社会」として成り立たせてるのは何か?


 世界経済を動かす「国際資本」の実権を持つ「一握りの利己主義者達の最大幸福」と、追従する悪意に染まった人間の幸福」を守るための暴力組織でしょう。


 そういう人類が解決していかなければならない『問題』が「赤いライフルの影」として表現され。


 それらの悪意を『正しさ』とする常識を持ちながら、口では自由と平等を護るためだと語る「一握りの利己主義者達」を「顔のない邪神のような記号的仮面をつけた姿」として表現して。


 倒れ伏す半分仮面をかぶった「誰か達」を犠牲者として、この部分は表現しているように思えます。



 そして、それらの『問題』を『どうだっていい』と利己的に見過ごさせる「愚民政策」の犠牲者となっているそういう『大概』な現状から、『問題はナシ』と目をそらして、気づこうとしない家畜のような『愚かさ』と。


 それを断言しているのが「顔のない邪神のような記号的仮面をつけた姿」として示された「一握りの利己的権威主義者達」だということも、表現しているのでしょう。




◇━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◇


 



 さて、ずいぶんと長くなりましたが、〇〇さんが創作者として感じた想い。


>何となく、言葉にできない

>何かもやもやとするのが一緒


という気持ちを理解する一助になるでしょうか?



 この歌に共感するのは、権威主義の被害者や平等と自由に価値を見出すような民主主義の共存原理の理想を感性として持つ者達でしょう。


 逆に反感を覚えるのは、権威主義の恩恵である既得権益に守られて平等や自由に価値を見出せない暴力原理の利己性を感性として持つ者達でしょうか。


 〇〇さんがどちらなのか?

 あるいは、それとは違う別の感性でこの作品を視聴したのか?


 そして、創作者としてそれをどう表現していくのか?


 よければ、聞かせてください。




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