十三、コーダ
あ、起きた、声がして目が覚めた。
「大丈夫か、過呼吸だってな」
叔父さんはとなりのベッドで横になっていた。ベッド? 叔父さんの部屋ではない。蛍光灯の明かりが白い。たぶん病院だ。かたいベッドが二台、僕と叔父さんは並んで寝ていた。叔父さんはスマホの画面で何かをすいすい検索していた。
「……こっちのせりふだよ」
僕の声は掠れていた。のどがからからだった。
「ごめん」
叔父さんは恥ずかしそうに笑った。点滴をしていた。
「……叔父さん、何やってんの」
「新しい冷蔵庫、どれ買おうかなって」
叔父さんは熱中症で倒れたのだそうだ。クーラーが大嫌いで、部屋を暑いままにして寝転がって、ろくに水分もとっていなかったからで、日々の食事なんかも偏りがあって、つまり自業自得ということなのだった。あわてて駆け付けたおばあちゃんは呆れていたし、おばあちゃん曰く、電話の向こうで母さんもけっこう怒っていたらしい。
「死にそうになったのに誰も心配してくんないんだけど」
叔父さんはちょっと不満げで、でも少し笑っていた。
「まあ死ぬとしても、もうちょっと格好良いのがいいけどさ」
惜しまれつつ去りたいとぶつぶつ言う。
「バカ」
今日は病院に泊まっていくことになったそうだ。僕は過呼吸でひっくり返っただけで大したことはなかったのだが(リンダがすぐに気づいてくれたからだ、悔しいことに)、夜も遅いので叔父さんと一緒に寝かされていたらしかった。
「びっくりしたか」
「したよ」
「ごめんな」
「いいよ、もう」
「……こっち来てよ」
叔父さんが笑う。
「具合悪いんでしょ」
一応そう言ったけど、叔父さんに手招きされて僕は自分のベッドから起き上がってしまっていた。なんだかこれじゃあ「待ってました」とばかりじゃないか。自分が恥ずかしい。顔が赤くなっているだろうなと思う。
「もう平気だよ」
叔父さんはまるで悪びれずに言った。誰もやってこなさそうなのを確認して、叔父さんの布団に入った。ベッドは大げさにきしんだ。
「さすがに狭いな」
叔父さんが腰を浮かして僕の場所を作ってくれるけど、点滴で動きにくいのだろう、ぎこちなく身体を震わせた。それだってベッドをきしませる。夜中だからとても静かなのだ。小さな音だってよく響く。
「……またうまくいかなかったなあ」
叔父さんはぼそっと言った。意味するところはよくわからない。とても小さな声だった。窓の向こうで鳴いている虫の方がよほど大きい。虫たちはこのめんどくさいどうぶつが死にそうになったことを知らない。
「……叔父さんのアタマはおかしくないし、たいしてヘンタイでもない」
叔父さんの腋に鼻を食い込ませた。どこにでもいるふつうの弱虫だと、そう言いたかった。
「なんだよいきなり」
「名前だって僕みたいに韻を踏んでない」
「べつに、韻を踏んでりゃ良いってわけではないだろ……」
当たり前だ。だいたい僕だって、もうすぐ青柳ではなくなるだろう。
叔父さんはあくびした。だいぶ眠そうだ。うすっぺらな布団の中はあたたかくて、叔父さんの体温でぬくもっていた。
「叔父さんはぜんぜん特殊じゃない。不完全なヘンタイだ。めそめそしないでほしい」
「うるさいなあ、してないよ」
見上げた叔父さんはもう目をつぶっていて、まぶたはしろかった。なんだか泣きだしそうに見えた。耳もしろい。ギョーザで蛹のしろい耳。
「ぜんぜん特殊じゃない」
でも僕にとって叔父さんはひとりだ、特殊じゃない叔父さんが特別だ、そう言いたかったのだけどうまく言えなかった。かわりに手を伸ばして叔父さんの背中をぎゅっと抱きしめた。
「帰ったらエッチしたい」
ついでにそんなことしか言えなかった。叔父さんは目をつぶったまま笑った。おれは一応病人なんだけど、と。
「……ま、治ったらね」
「熱中症なんかすぐ治る」
「ぶり返しに注意しろって医者に言われたよ。若くないんだからって」
「若くないけど、年寄りでもない。ふつうにしていればいい」
「そうかよ。ふつうにするよ」
叔父さんは空いている左手で僕をぎゅっと抱き寄せた。そしておでこにキスをくれた。
「……じゃあ、帰ったら、おれのことちゃんと抱いてな」
「もちろん」
「うわ、もちろん、だって」
ナマイキ! 叔父さんはゆみこさんの真似をした。あんまり似てない。そうして僕の頬にふれた。手があたたかい、本格的に眠いのだ。ぐにゃぐにゃとつぶやいた。
「じゃあナマイキついでに、中出ししてもいいよ」
叔父さんこそ何を言い出すんだ。ほんとうに困った叔父さんだ。
「ヘンタイ」
そう言ってみたら、叔父さんはなんだかうれしそうにくすくす笑った。
「叔父さんの中に出したらどうなるの」
「どうって?」
「その、出したものはどこにいくのかなあって……」
「そりゃあ……、赤ちゃんできちゃうよ」
悪ふざけが過ぎる。叔父さんをつねったら、痛い痛いと大げさにうめいた。
「叔父さんは男でしょ」
「罪のない冗談だよ」
目をしょぼしょぼとさせて言う。
「べつにどうにもなんないだろ。多少は栄養になるんかなあ」
「……栄養」
それなら良いことのような気がした。叔父さんの栄養になるのなら。叔父さんのいのちになるのなら。
「じゃあ、中に出す」
「なんだか予告ホームランみたいだ」
叔父さんはねむってしまった。
そうして夜は過ぎていった。窓の向こうに妖精は見えなかった。
さてあたらしい冷蔵庫は、僕が東京に帰る前日になってやっと届いた。前のものよりふたまわりくらい小さくて、冷凍庫がとてもせまい。中身を戻すのを手伝った。
入りきらないアイスクリームを二人で食べて、やっぱり叔父さんはお腹が痛くなってしまった。仕方がないのでさすってあげた。まあそれについては、僕がさっき満塁ホームランを打ったせいでもあるかもしれない。しろく透けるおなかはやわらかい。
「青葉の手は熱い。夏だからかな」
何もわかっていない。叔父さんが好きだからだよと言おうとして、やめた。かわりにキスをした。バニラの味はあんまりしなくて、ひとの唾液というのはやっぱりへんな味だった。
「あ、白髪」
叔父さんの頭に白くひかるものがぴょこんと跳ねていた。
「うそ、どこ?」
このあいだゆみこさんに髪を切ってもらったけど、しぶとく残っていたらしい。
「抜いて」
「抜くと増えるんじゃないの。頭皮によくないって言うし」
「今この瞬間に白髪があるのが嫌」
おれは美しいままでいたいんだよ、叔父さんはまだそんなことを言う。魔法はしぶとい。
「叔父さんはきれいだよ」
そう言ってキスをしたら叔父さんは笑ってみせ、しかしだだをこねた。
「でも抜いて。はやく抜いて」
めんどうくさいどうぶつだ。しょうがないのでそっと指でつまむ。すべるから難しい。つん、と引っぱった。
「いたいいたい」
「がまんしてよ」
「できない。やさしくして」
「じゃあ、いちにのさんで抜こうか?」
「うん、お願い」
「いち!」
ぷちん、と抜いた。叔父さんは大げさに痛がった。
「青葉、だましたな」
「だましたよ」
にやっと笑う。本当はもういっぽん白髪があったけど言わない。そうしてキスをする。
これがさいごに宇宙のすみっこで交わしたキスだった。こんなことだって僕たちにはとくべつで、つまり交接だった。
分室に本を返す方法がわからなかったので、借りた本はおじいさんの家の新聞受けに入れておいた。犬は静かだった。もらったドーナツはすっかり忘れているうちにかびが生えてしまったので食べていない。
自由研究はセミの不完全変態についてまとめた。でもほんとうに大事なことについては書かなかった。それは僕と叔父さんの秘密だからだ。
新幹線はあっというまにドーナツの輪の外に出た。ロケットみたいにまっすぐ走ってまっすぐ東京へ向かう。
◯
後日談になるけど、僕はちゃんとパックの役をやった。叔父さんは文化祭を観に来てはくれなかった。あの男の子の指導をすることになり忙しくしていたので。
数年後、男の子はナントカというコンクールに出たのだときいた。ゆみこさんは僕の知らない人と結婚した。リンダはカレー屋からドーナツ屋に鞍替えした、ギョーザドーナツというへんなドーナツ屋だ。僕の苗字は森本になったので韻をふまない名前になって、いまは大学の水泳部で泳いでいる。べつに強い部ではないのでサークルと変わりない。マネージャーの先輩とつきあっている。
結論からいえば叔父さんは死んでしまった。熱中症ではない。なにか心臓が故障したような事情で肺に水がたまったとかで、つまり陸の上で溺れてしまったらしかった。詳しいことはきいていないし、あまり話したくない。あの夏から六年後のことで、僕は十九歳で、八月の終わりの暑い日だった。
お葬式というのは拍子抜けするほど穏やかだった。とはいえ母さんは棺桶を閉めるときわんわん泣いた。僕はその肩を抱いてあげなくてはならなかったけど、生きていると死んでいるはグラデーションで、境目はあいまいで、死んでしまった人のことを僕らはいつまでも覚えていていいし、盆踊り会場に行けば会うことだってできる、そのことを知っていたから、僕は平気だった。
火葬場、日陰のベンチで休憩していたら、似合わないスーツを着た大きな身体の馬鹿がのんびりした調子でやってきた。
「元気かよ?」
僕の隣に座り、タバコに火をつけながら言う。僕は元気だったのでタバコをいっぽんもらった。
「……あれ、でもタバコってハタチだっけ十八歳だっけ」
「いずれにせよ僕には選挙権がある」
「じゃあいいか」
二本のしろい煙が揺れた。リンダは相変わらずの調子で世間話をした。ドーナツ屋はそこそこ儲かっているらしかったが、なにぶん九九のできない男の話なのであやしいものだ。だだっ広いアスファルトは陽炎が揺れ、セミが一匹仰向けに転がっていた。リンダが言った。
「近づくと暴れるやつだ。夏も終わるなあ」
「そうかな」
夏の盛りにだってセミは死ぬ。選びようがない。
「たぶん死んでいるよ」
けれど僕がそう言ったとたん、抗議するみたいにセミはびびびび、と羽根を震わせた。
「生きてたよ。……青葉、どうした?」
かなしいわけではなかった。でも叔父さんがもうどこにもいないこと、もう触れられないことが、つまらなくて苦しかった。十九になっても僕にはわからないことだらけで、つまり僕は生きていて、叔父さんがいなくなっても世界はぶっこわれない。もちろんそんなことはむかしから知っていた。でも僕の目玉はぶっこわれたみたいに液体をあふれさせ、ぶっこわれているからあまりしょっぱくない。つまりプールの水で、あの日溶けていったまるい塩素剤は僕の身体のなかで、僕は叔父さんのいない水の中を泳ぎ続けるらしい。しゃっくりが止まらないけど、僕は息継ぎができるから。
「百回したら死んじゃうんだぞ」
「死なないよ、馬鹿」
はじめて叔父さんとキスしたときのことを、さいごに叔父さんとキスしたときのことを、僕はいつまでだって覚えていられるだろう。でも、においや感触は薄れていくだろう。それでも僕はいつまでだって思い出すだろう。そして誰にも言わないだろう。そのことがどうしようもなくかなしくて、愛しかった。
真夏の夜はすぐに明けてしまってあまりにも晴れていたので、煙突のけむりがどこまでのぼっていくのか僕には見えなかった。セミはいつのまにかどこかへ飛んで行き、どこにもいない。
了
水ギョーザとの交接 オカワダアキナ @Okwdznr
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