6
一週間ほどして、京介は、双子の弟たちを連れて、須磨の海水浴場に来ていた。退屈しきっている弟たちを遊ばせてきて欲しいと、両親に頼まれたからだ。
両親は、喉元過ぎればなんとやらで、人魚の一件については、もう心配していないらしい。ただ一人、離れて住んでいる祖父の亨太郎だけが、京介を気に掛けていたが、あれ以降、海音も歌声も、人魚が呼ぶ声も聞こえていなかったから、京介は両親の頼みを引き受けた。
「兄ちゃん、いこう!」
一目散に海に入る弟たちを、京介は、急いで追いかける。
周りにはたくさん人がいて、大音量で音楽がかかっていて、賑やかで、京介は、これなら大丈夫と安心していた。ここは、悪魔や妖怪がつけいる隙の無い、人間の世界だと。
水飛沫が上がる。
弟たちが海に潜ったのだ。
追いかけようと、京介も水の中に頭を沈めた。
くぐもった音がする。こもったような水の流れる音。空気の泡がはじける音。
それに続いて、京介には、透き通るように美しい、女の歌声が聞こえた。
京介は、水中で目を懲らす。必死で辺りを窺うが、周りは遊泳客の姿ばかりで、おかしなものは何も見えない。
歌声は、人々の間を縫うように、遙か遠くの沖合から聞こえてくる。
その声は、もう京介を呼んではいないけれど、変わらぬ美しさで、海の中を響いていた。
はっとして、京介は、水中から顔を上げた。
辺りは、人々の喧騒に溢れ、あの人魚の歌声はどこにもなかった。
京介の胸に安堵が込み上げる。
もう一度水に潜って、耳を澄ませてみたが、人魚の歌声はどこまでも遠く、京介には関心を寄せてはいない。
祖父の心配は杞憂に終わったようだ。
もう大丈夫や──。
辺りを見渡し、弟たちの様子を確認する。
そうして弟たちの監視をしながら海の中で過ごして、三十分ほど経った頃だった。
少し離れたところに弟達が泳いでいて、何か言い合っているようだった。
すると、一人が踵を返し、こちらへと泳ぎ戻ってきた。
(トイレでも行きたいんかな)
呑気に構えていた京介に、「なあ、兄ちゃん」と、弟の
「海の中から、きれいな歌、聞こえてくるねん。でもな、
京介は、弟の日に焼けた顔をじっと見た。
嘘をついているようには見えなかった。
心臓が一瞬で凍り付いたかのようで、真夏の海の中にいるというのに寒気がした。
京介はもう一度海に潜った。
歌声は変わらずそこにあった。
しかし、さっきより近づいてきているような気がした。
京介は水面に顔を出すと、泰介に尋ね返した。
「それは、その、怖い歌か。呼ばれたりはせえへんか」
「何を
「怖ないか?」
「ううん、聞いてるとなんか、ええ気持ちや」
「……泰介。悪いけど、兄ちゃん、おなか痛なってきたわ。栄介を呼んで、もうあがろか」
そう言い訳をして、京介は、弟たちを浜に連れて戻った。
せっかくの海水浴を突然、しかも短い時間で切り上げられて、栄介が不満を漏らした。
「なあ、もう帰るん?ほんまのほんまに帰るん?」
京介は溜息をついて言った。
「俺の冷たいおなかが温もるように、海の家で焼きそばでも食べてから帰ろか」
「やったあ!」と、栄介は諸手を挙げて喜び、泰介は名残惜しそうに俯いた。
「先座ってるから、三人前頼むわ。飲み物はコーラで」
「オッケ-!」
栄介は千円札を数枚握りしめて駆けていく。
京介は、末の弟の泰介にだけ聞こえるように、声を潜めて言った。
「泰介、あの歌声は、人魚の歌声や」
「人魚?」
泰介は鸚鵡返しに繰り返した。だが、その表情に疑問はなかった。
得心した、と言うような顔をしていた。
「ああやって人を呼び寄せてな、二度と帰れんようにしてしまうんや。何人も何人も連れていかれてしもうたんやで」
いつか見た大伯父達の写真が思い浮かんだ。
「連れていかれたらどうなるん?」
泰介は海を見つめた。
「そやな、もしかしたら、頭からペロリと食べられてしまうかもしれんで」
泰介は慌てて兄の方を向くと催促した。
「早ういこ。焼きそば食べよ」
二人は海の家へと歩きだした。
泰介はもう海の方をふり返らなかった。
京介だけが、海をふり返る。
海は陽光を反射して煌めいていた。その奥底に潜むものを隠すかのように。
京介の頭を、瀬尾神父の言葉がふと過った。
――おそらく、周囲の人間の解釈に左右される性質のもののようですから。
京介は思い出した。自分は今、弟に説明するために、なんと言っただろうか。
――頭から、ペロリと――
京介は、頭を振って、その考えを打ち払った。
弟たちを今後、海には近づけさせない。
そう心に誓って、京介は海を眺めた。
遙か遠いところに逆光の中、小さな人影が見えた。
それは、小さな少女のように思えた。
そして彼女は、魚の尾を振って、確かに京介に笑いかけた。
京介は、二度と海には来ないだろう。
神戸北野坂のエクソシスト 巴屋伝助 @tomoeyadensuke
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