分厚い真っ黒な雲がこちらへこちらへと迫ってくる。

 ボートは激しく揺れていた。

 息苦しいほどの風に、京介は下を向いて、息を吐いた。

 膝の上には、あの人魚の木箱が載っている。

 かた、と箱の中で物が動いた気配がした。

 京介は、ぎゅっと目を瞑る

 まぶたの裏側であの小さな人魚が、くるりと体を反転させる。

 豊かな黒髪、潤んだまるい瞳、白い肌、そして小さく赤い唇。

 きゅう、と箱の中から、人魚は京介を呼んだ。

――いっしょに行こう。

 そう呼んでいるように聞こえた。

 京介は箱を開けた。

 そこには、京介がまぶたに思い描いたとおりの、愛らしく美しい人魚が入っていた。

 あのおぞましいミイラの面影など、どこにもなかった。

「俺は行かへん」

 京介は、きっぱりと言った。

「仲間のところに帰れ」

 人魚は名残惜しそうに、京介の両の手のひらの上で身悶えていたが、京介が膝をつき、海面まで人魚を下ろしてやると、人魚はまた、きゅうと鳴いて、海へとその身を浸した。

「ほならな」

 そう言って、京介が立ち上がろうとすると、未だに別れを惜しむ小さな人魚の更に下を、長い長い金の髪が横切るのが見えた。

 その髪の下から青白いが美しい顔の女が、牙を剥き出しにして京介を見上げていた。

 子を浚った人間を怒っているのだった。

「ひっ……」

 京介は、思わず声を上げ、尻餅をついた。

 そして、見計らったかのように、瀨之尾神父が祈り始めた。

「天にまします我らの父よ。願わくは御名を崇めさせ賜え。御国を来たらせ賜え。御心の天になるごとく地にもなさせ賜え。我らの日用の糧を今日も与え賜え。我らに罪を犯す者を我らが赦すがごとく、我らの罪も赦した賜え。我らを試みに遭わせず悪より救い出し賜え。国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり。アーメン」

 久我が続いて「アーメン」と唱え十字を切る。京介は慌てて真似をした。

 神父の祈りは続く。

「天のいと高きところ神に栄光あれ。地の低きところ善人に平和あれ。主を崇め、主を讃え主を拝み、主を褒めて、その大いなる栄光を感謝し奉る。神なる主、天の王、全能の父なる神よ。御一人子イエス・キリストよ。神なる主、神の子羊、父の御子よ。我らを哀れみ賜え。世の罪を除きたもう主よ、我らの願いを聞き入れ賜え」

 京介は、跪き祈った。

 神父が言葉を続ける。

「主よ、少年の魂をどうかお守りください。浅ましき魔物の手に掛からぬよう、お救いください」

 体当たりされたかのような激しい揺れがボートを襲った。

 船首で久我が蹈鞴を踏み、反動をつけて傾いたボートを押し戻す。

「くっそ」という久我の悪態と瀨之尾の祈りの声が重なる。

 京介は目を閉じてひたすら祈った。誰に対してというはっきりしたものではなかったけれど、ぼんやりとした神様というものにすがって祈った。

 祈りは繰り返され、ボートは波と激しい揺れに苦しめられたが、しばらくして、急に海が凪いだ。ボートの揺れが収まる。

「雨が止んだ――」

 京介は、空を見上げた。

 雨は止み、黒雲は千切れて、西日が差し込んでいた。

 水面が煌めいて眩しい。

 海の中には、もう何者の姿もなかった。

 「おぉい」と、聞こえた気がして、港をふり返ると、陽と市花らしき影が、京介たちに向かって手を振っていた。大丈夫だと伝える代わりに必死になって手を振り返す。

 そんな京介の隣で、久我がくすりと笑った。

 その次の瞬間、ドボンと大きな水柱が上がった。

 久我が瀨之尾を海へと蹴り落としたのだ。つい今の今まで、あの得体の知れないものがいた海に。

「ははははは、馬鹿め」

 高笑いする久我に、

「嘘やろ!」

 京介は思わず叫び声を上げた。

 助けを求めようと思っても、友達は今は岸壁で、京介はボートの上で孤立無援だ。

 仕方なく、京介は、瀨之尾神父を引き上げようと手を伸ばした。

 まだ海中にほぼ全身沈んでいる瀨之尾の司祭服の黒い袖から伸びた手が、京介の手を握る。

 全力で力を込めても濡れた服の人間は重たいのか、少しも引き上げられない。

「なんだ、無様だな」

 そういって久我が手を貸す。瀨之尾は、黙ってその手を握ると、渾身の力で彼女を海面に引きずり落とした。

 二つ目の水柱が上がる。

「迂闊でしたね」

 今度は瀨之尾の高笑いが響き、久我の怒号がこだまする。

 その後、久我と瀨之尾はそれぞれ自力でボートに上がり、ボートは沈黙に満ちたまま、人魚の去った海を後ろに、漁港へと帰るのだった。


 雨が止んだのを見て、陽は外へと掛けだした。

 すべて終わったのだと、本能的に察したからだ。

「京介!」

 市花と二人で異口同音に叫び港に走った。

 穏やかな海が、そこにもどって来ていた。

 夕日が水面に映り、茜色に空は染まっている。

 港には、ボートがゆっくりと近づいていた。

 もどって来たボートは、側面にいくつも傷がついていて、洋上で何があったのかを物語っていた。

 そして、出迎えた二人が見たのは、雨で濡れたどころではなく全身ずぶ濡れになった司祭と神学者、そして遠くを見つめたままの京介の姿だった。

「大変やったんやね」

 涙声で市花が言った。海中での戦いがあったものと思い込んだからだ。

「おう、別の意味で大変やったわ……」

と、京介は肩を落とした。

「京介も久我先生も神父様も無事で良かった」

 陽が言うと、それまでつんけんとした雰囲気を纏っていた大人二人も、肩をすくめて、矛を納めた。

 久我はボート屋の店主に礼と謝罪を言いに行き、瀨之尾は改めて京介達に祝福を授けてその身を清めた。

 戻ってきた久我が言う。

「帰るか」

 歩いてアウトレットモールまで戻らねばならない。

「待ちなさい。この状態で車に乗るつもりですか」

 瀨之尾が濡れ鼠の自分たちを指さした。

「そうなるな」

「させませんからね」

 久我と瀨之尾は言い合いながら先に歩き出した。

 その後ろを陽、京介、市花が追う。海の上で何があったのかと話しながら。

 彼らの足元には、長い影が伸びていた。

 穏やかな夜の気配が、空の一番低いところを今まさに紺色に染め変えようとしていた。




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