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あれから間もなく、天気は荒れ、海もまた荒れた。神戸では、西の空から天候が変じることが多い。ところがこの日、天気は、海のある南側から荒れ始めた。湿気った重たい空気が、海から山肌を舐めるように駆け上がってくる。黒雲が海の上に垂れ込めて、視界を塞いでいる。
陽は、黒雲は、大阪湾か淡路島の向こうからきているのかと考えたが、海を見れば見るほど違うということに気がついて、考えるのを放棄した。
先ほどから、子守歌とは違う、奇妙な旋律のしかし美しい歌声が聞こえている。そんなはずもないのに、歌声はどうも海の上のあの黒雲から聞こえてくるように思えてならなかった。
司祭館の応接室から教会の聖堂に移動すると、歌声は聞こえなくなったが、天候はますます荒れていった。
「我が子を隠された、と思ってやがるのさ」
教会にもどって来た久我が荒天を指して言った。それは狙い通りだったが、一方で別な祟りを誘発する可能性をも示唆していた。
「車は?」
と、瀨之尾が尋ねる。
「お前の実家の車借りてきた」
瀨之尾神父は正気かと問いたださんばかりに顔を歪めたが、子どもたちの手前、舌打ちするだけに留めた。あんなに顔を歪めても、それでも整っていて美しいのだなと陽は二人の遣り取りをぼんやりと眺めていた。
海から歌声が聞こえるようになって以来、なんだか頭が働かないのだ。これは、他の二人も同じだった。京介も市花もぼんやりとしている。
特に京介は酷かった。木箱をじっと眺めて押し黙っている。
「それから、釣り船屋でボート借りたから。今から移動」
久我が唐突に言い出すので、瀨之尾は盛大に溜息をついた。
「お前は、ちゃんと予定を立てて動いているのか」
「そりゃあ、予定を立ててるから今から移動するんだろ。あいつ、一直線にこっち来てるぜ。工場地帯の防潮堤に現れでもしたらどうする。頼んできた釣船屋は垂水の方にある。今からアウトレットモールにでも行って時間潰してりゃ、奴さんも方向転換位してくれるだろ」
苦虫を噛み潰したような表情で、瀨之尾は久我の発案に同意した。
久我の勝ち誇った顔を見て、大人げない大人とはこのような人を言うのだと陽は思った。
「さあ、諸君。神父さんが、アウトレットモールでアイスクリーム奢ってくれるってさ」
久我は、高校生三人を追い立てるようにして、濃紺の六人乗りのファミリーカーへと移動させた。自分は慣れた仕草で運転席に乗りこむ。
「瀨之尾神父が運転するんじゃないんですか」
助手席に座った瀨之尾に、陽は尋ねた。瀨之尾の実家の車だと久我が言っていたからだ。
「ああ、ダメダメ。こいつ、運転荒くてとても人を乗せられたもんじゃないよ」
久我が勝手に返事をする。
「……ペーパードライバーなんです」と、瀨之尾は訂正した。
「さて、出発しようか」
久我は、バックミラーで車内の様子を一瞥すると、車を発進させた。
本人の性格とは裏腹に、久我の運転は丁寧で落ち着いていた。
車は、刻一刻と時間が経つにつれ、垂水に――海に近づいていく。
遠く聞こえていた人魚の歌声が少しずつ大きく、近く聞こえてくるようになった。
頭痛と吐き気が込み上げているのは、陽だけではなかった。
京介も市花も青い顔をして俯いている。
「ちぃと耳ざわりだな」
と、久我が言う。
「それなら対抗して何か歌ってください」
瀨之尾がとんでもないことを言い出した。
歌が重なり合って余計に気持ちが悪くなるだろうと陽は思ったのだ。
「それでは一番、久我湊。佐渡おけさ、歌います」
挙げ句に、久我は聖歌でもなく、民謡を歌い始めた。
笑ってしまいそうなくらいに上手いが、人魚と佐渡おけさの二重奏に、陽たちは最初、酷い頭痛を感じた。激しい目眩がする。
しかしその目眩を抜けると、不思議なことに、人魚の歌は小さくなっていて、車内は久我の佐渡おけさと合いの手を入れる瀨之尾の声とで満たされていた。
間もなく車はアウトレットモールの駐車場に到着した。
アウトレットモールは、海に面していた。辺りは曇って、海からは湿気った風が轟々と流れ込んでくる。
「ひんやりしてきたので、私はホットコーヒーで」
神父はそう言って久我に財布を渡し、久我は当然のような顔をして
「君たちはどうする?」
と陽たち三人を引き連れてジェラートショップに入った。
三人は、瀨之尾神父の奢りということに遠慮して、シングルのジェラートをひとつずつ頼んだが、久我には遠慮というものはないらしく、ダブルどころかトリプルを頼んでいる。
「今の子は食が細いねえ」
久我は平然と言い、
「お前が食べ過ぎなんだ」
と、瀨之尾神父は低い声で唸った。
柵の向こうに深い緑色の波が荒れているのが見える。
陽たちは黙々とジェラートを食べた。ジェラートは、夏の暑さであっという間に溶けていく。溶けてしたたり落ちるのを追って必死で食べたはずなのに、なんだかとても時間がかかった。涼しい顔でトリプルを食べ終えた久我を除いて。そして、陽たちが、ジェラートを半分も食べきらないうちに、黒雲から雨粒が降り始めた。
雨の匂いが立ち籠める。
陽たちは、屋根のある所に避難して、ジェラートの続きを食べたが、ついに人魚が自分たちのところへと到達しようとしているその緊張感に、味を感じている余裕はなかった。
久我と瀨之尾は、陽たちが食べ終わるのを見届けると
「さて、いくか」
と歩み出した。
雨の中、アウトレットモールを徒歩で出て、国道から一本入った細い道を進んでいく。
垂水漁港の方だ、と京介は思った。祖父と釣り船に乗ったことがある。
京介が思ったとおり、一行は垂水漁港に到着した。
港では、壮年の男性がボートを繋いで、京介達を待っていた。
「おっちゃん、急でわるいな」
と、久我は気安い様子で挨拶をし、瀨之尾は、改まった様子で頭を下げた。
京介達も慌てて頭を下げた。
「かまへんかまへん。神父様のお願いや言うから」
男性は釣り船屋の主人らしかった。
「ほんまやったら、こんな天気の時は、貸し出さへんのやで。ええか、よう気をつけて。絶対返しに来てや。無事な顔見せにな」
「ありがとう、おっちゃん。さあ、京介くんはボートに、残りの二人はこの釣り船屋のおっちゃんのところで留守番を」
陽と市花は黙って頷いた。
久我と瀨之尾は、先にボートへと乗り、人魚の木箱を持った京介を手伝い手を引いた。
「京介」
陽は京介の背中に声を掛けた。
「頑張れよ」
ありきたりだとは思ったけれど、待っているしかできない自分に言えるのはこのくらいしかないように思えた。
「おう、頑張ってくるわ」
京介は振り向いて少し笑った。
ボートは、艫綱を解いて、黒雲立ちこめる海へと漕ぎ出していった。
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