3
八月の最初の日曜日。
陽は、いつものように祖父母と日曜の礼拝に、教会へ行き、そこで普段は見ないはずの、市花と京介の姿を見つけた。
市花が陽に目配せする。京介は、いつもと様子が違っていた。窶れて、顔色が青黒い。声を掛けようかと思ったが、もう礼拝が始まる。陽は正面に向き直って、十字架を見上げた。
神父が登壇する。
この教会の助司祭である瀨之尾神父は、今日も神の造形物といってもいいほどに美しく、その美しい目で聖堂の中を見渡すと、ある一点に目を留め、珍しく物憂げな様子を見せた。
しかし、それを振り払うように穏やかな笑みを浮かべると、礼拝を始めた。
礼拝の後で、瀨之尾神父は、すぐに市花と京介を呼んだ。
「ごめん、じいちゃん。俺も行ってくる。先に帰ってて」
陽は慌てて三人のあとを追いかけた。
神父が向かったのは、司祭館の応接室だった。
陽が後ろからやって来ると、瀨之尾神父は微笑んで「ちょうど呼びに行かなくてはと思っていたんですよ」と言った。
応接室は、名目ばかりの応接室で、実質、物置になっている。来客の対応は、司祭室で事足りてしまうからだ。応接室には、今は使われていない物が仕舞われていて、人の出入りもほとんど無い。
応接室の中には、手前に一対の応接セットがあり、そのすぐ奥には使われていない余り物のソファが二列並んでいる。他にも丸椅子が積み上がっていたり、イースターのお飾りセットやクリスマスツリーが片付けられていたりして賑やかだ。
行事の準備でもなければ尋ねてくる人のいないこの応接室は、今回のような話をするには打って付けの場所かもしれなかった。
陽は、司祭と並んで応接セットのソファに座り、京介と市花は、その反対側に座った。
京介は、大きなリュックサックを膝に抱えて震えていた。
「海に呼ばれるんです」
と、京介は言った。
「海に呼ばれるとは?」
「どこにいても海の、波音がするんです。それから、歌声と、女の人の声で『おいで、かえってお出で』って」
「私や京介の家族には、聞こえないみたいなんです」
「それは今も聞こえているんですね」
「……聞こえてます」
京介は寒そうな顔で辺りを見渡した。
陽には、波音も歌声も、女の声も聞こえなかった。
「じいちゃんの神社で人魚のミイラを見つけてからなんです」
陽は腰を浮かせた。
「あれから?ずっと?」
「あの日からずっと。怖なってじいちゃんのお堂に戻したり、山の上の神社で預かって貰ったけど、その方が呼ぶ声は大きくなって、結局今はずっと持ち歩いてる」
「陽を怖がらしたらあかんから言うて、京介、私に相談してきてん。ふたりでいろいろやってみたけど、もうどうにもしようがなくて、教会に」
黙っててすまんかった、と京介は、陽に頭を下げた。
「それで、人魚、ですか?」
瀨之尾神父は聞き返した。
「それも、神社の中にあるお寺の中から見つかった人魚です」
と、市花が言った。
「それを教会に?」
「はい、神社の中にあるお寺の中から見つかった人魚を退治するために教会に」
「頭を抱える話ですね」
と、瀨之尾神父は溜息をついた。
「まずは神社に聞いてみましたか」
「じいちゃんに聞いてみました。知り合いにも頼みましたけどダメでした」
泣きそうな顔で京介が言う。
「お寺にも持って行ったんですね?」
「私と京介とでお寺にも持って行きましたけど、追い返されました」
今度も市花が答える。
「それで、教会なら大丈夫だと?」
「瀨之尾神父様なら大丈夫だと」
二人は声をそろえた。
「何故、久我に持って行かなかったんです?」
瀨之尾神父は、眉をひそめて尋ねた。
「悪魔研究家の守備範囲外かなと思って」
「オモチャにされそうやし」
二人が口々に言うと、「散々な言われようですね」と、瀨之尾は背後に声を掛けた。
すると背後の余り物のソファから背の高い人影がぬっと姿を現した。
「心外だなぁ。まあ、玩具にはするけど」
神学者にして悪魔研究家の久我は、礼拝の間中、この応接室のソファにひっくり返って寝ていたらしい。
陽は、瀨之尾神父は久我に話を聞かせるために、自分たちをわざわざここに連れてきたのだな、と察した。
「妖精も人魚も充分研究対象だよ。で、現物は」
久我は人魚の実物を催促した。
促されるままに、京介は、大きなリュックサックを開けて例の木箱を取り出した。すると、瀨之尾はこめかみを押さえ、久我は右耳に人差し指を突っ込んだ。
「やはりそれが大元でしたか」
二人には、何かの音が聞こえているらしい。
「開けるか」
事も無げに久我が言う。そして、無遠慮に箱を開け始めた。
「御札、一応貼り直したの?もう効き目無いよ」
紐を外して、木箱の蓋を開ける。
その瞬間、陽にも海鳴りが聞こえた。
久我は、京介と陽が興味を持たなかった由緒書きに目を留めた。手慣れた様子で書を開いて、内容に目を通す。
「ふうん、これはね。元々は、人魚ではなかったみたいだよ。この由緒書きにはね、うぶめと書いてある」
「うぶめ……?」
陽は思わず呟いた。
久我はにっこりと笑った。
「知りたいかい?なら教えてあげよう」
市花は天を仰ぎ、陽は十字を切った。
実害に会っている京介だけが、興味深そうに頷いた。
「姑獲鳥というのはね、単純に言うと子を浚う妖怪のことさ。本来は中国が発祥で西晋の書物『博物誌』や明の『本草綱目』に記述が見られる伝説上の怪鳥だ。日本でも各地の民話の中に話が残っているほか『和漢三才図会』にも取り上げられている。毛皮を着ると鳥に、毛皮を脱ぐと女の姿になると言われている。『本草綱目』では、出産で死んだ妊婦が化けたものとしており、日本各地の民話でもこの説を採るものが散見される。なので『百怪図巻』や『画図百鬼夜行』では、血染めの腰巻きを巻き赤子を抱いた女の姿で描かれる」
「人魚と何の関係があるん?」
と、市花が訊き、「木箱の中身が取り替えられたのかも?」と、陽が首を捻った。
「先ずは、そもそもの人魚の話をしよう」と、久我は言った。
瀨之尾は、ほら始まったと言いたげな顔で腕組みをした。
「人魚とは、知ってのとおり上半身は人、下半身は魚の姿の化け物で、主に女性の姿をしていると考えられている。美しい姿と歌声で人を惑わすと言われたり、人魚が陸に上がると凶兆だといわれたりすることもある。もちろん、物語では人間とのロマンスを描かれることもある。日本にも伝説は残っているが、人魚のルーツは、ユーラシア大陸だ。しかしその原型は、人面魚身の女怪ではない。メソポタミア神話の人面鳥身の女神イシュタールをその祖とすると言われている。つまりはね、元々は人魚は鳥の姿に人間の頭が付いている女怪だったんだよ。セイレーンと呼ばれていた」
「それってギリシャ神話の?」
京介が聞くと、久我は「よく知ってるね」と言い、話を続けた。
「ギリシャ神話のセイレーン。海に棲み、美しい歌声で人を惑わし、船を沈める。当初は、人面鳥身であったが時代が過ぎるにつれて、海に棲んでいることから魚の姿を連想されるようになっていった」
「鳥だったセイレーンからアンデルセンのお話に出てくるみたいな姿の人魚に変わっていったってこと?」
「そう。日比野さんの言うとおり。文化人類学者のクリフォード・ギアツは「文化は人間が自ら紡ぎだした網の目であり、人間はその網の目に支えられた動物である」と定義している。翻って言えば、私たちから見れば、どうあがいても世界は意味の網の目でできている。文化という網の目を外して世界を知ろうとすると途方も無く大きく、人智を超えているからね。つまりは、人々の理解――意味の網の目が変われば世界は変わってしまう。すなわち、悪魔や妖怪も、人々の解釈が変われば姿を変える。人魚の原型であった人面鳥身の妖怪は、様々な呼び名でユーラシア大陸全域に存在している。迦楼羅、迦陵頻伽、ハルピュイア、キンナラ。そしてこの妖怪は、インドと中国を経由して日本にも入ってきた。そうして日本に定着した一つが、さっきの“うぶめ”だ。ここで意味が変容する。元は中国の人面鳥身の妖怪が、日本に入ってきて定着し、やがて江戸時代になると、お産で死んだ女の姿をした妖怪としてイメージされるようになる」
「人魚とセイレーンはなんだか分かるけど、姑獲鳥と人魚は元は同じで、その時の人間の解釈や興味の在り方によって姿が変わってるの?そんなことあるん?」
市花が首を傾げる。
「見てごらん、元の姿はこの書き付けの図のとおりだったはずだ」
陽たちは、久我が広げた由緒書きを覗き込んだ。
そこに書かれたミイラの姿は、上半身こそ今のとおりだったが、下半身は鳥そのものであり、背中から生えている羽があって、今見るものとはまるで違う姿だった。
「俺が開けたから姿が変わったんか」
京介が言う。
「いえ、そのずっと前に。そう、西洋から人魚の概念が入ってきた頃。例えば、明治か大正時代くらいに誰か開けた人がいたはずだ」
「……じいちゃんの大叔父さんが、大正時代に商船学校の船に乗ってて海で死んでます。俺んち、水難の相があって、じいちゃんの上に三人兄がいるんやけど、戦艦やら疎開船やらでみんな海で死んでるって。このミイラは、その度に海に消えてまた戻ってくるんです」
京介は、拳を握り強く目を瞑って、恐怖に耐えていた。
「なるほど。それは、君も気に入られたな。おそらく、これは気に入ったのを連れていく」
「なんとか、ならないですか」
市花が必死の形相で頼み込んだ。
「そうですね……。では、私たちも意味を変えてみましょうか」
瀨之尾神父は言った。
「意味を変える?」
陽は、鸚鵡返しに繰り返した。
「ええ、認識を変えます。明治以前は祟った形跡がありません。観光みやげ用の姑獲鳥のミイラだと正しく認識されていたからです。おそらく、周囲の人間の解釈に左右される性質のもののようですから。私たちの理解を変えてしまいましょう」
瀨之尾神父は、いつもの穏やかなようすで、少しも顔色を変えずに話し始めた。
「小川未明の『赤い蝋燭と人魚』という童話は知っていますか。人魚の母親が、あたたかな人間の生活に憧れて幼い娘をお宮の前に捨てるんです。拾われた娘は、最初こそ人間の夫婦に大切に育てられますが、ついには欲に目の眩んだ夫婦によって香具師に売られることに。売られゆく人魚を乗せた船は嵐で海に沈み、お宮のあった町はやがて人足が絶え滅んだという話です」
「子どもの頃に読んだことがあります」
と、陽が言うと、市花も京介も頭を振って同意した。
「怖い話やと思うたけど」
「人間の視点に立つとそうです。でもこの物語では、母親の人魚はね、娘のことを常に心配して大切にしているんですよ。さあ、この哀れな人魚をみてください。幼い子どもの様でしょう」
陽は、はっとした。
「俺、最初にこれを見つけた時、子どものミイラだと思いました」
瀨之尾神父は、そうだとでも言うように陽に頷いてみせた。
「赤い蝋燭と人魚では、人魚の母親が赤い蝋燭をお宮にそなえて嵐を起こし、娘を助け出します。つまり我が元へ取り戻そうとするんです。こんな風に乾ききって閉じ込められて、人間から受けた惨い仕打ち。この人魚に母親が居たらどうするでしょうか」
「助けに来る?」
「陸に上がれると思いますか。物語ではないのですよ。できるとすれば、海から我が子を呼び続ける、そのくらいのことです。いいですか、呼ばれているのは蓮見くんではありません。海から呼ばれているのは、この人魚です」
瀨之尾神父がそう言い切った途端、陽にもはっきりと潮騒が聞こえ、人の声でも人の言葉でもないが、誰かを呼び続けている女のような声が聞こえた。
箱の中の化け物が、自分たちの認識によって変質したのだと陽は実感した。
「呼ばれているのは、俺やない……」
言い聞かせるように京介は繰り返した。
「じゃあ、聞こえる歌声も、セイレーンの歌声やなくて、この子のための子守歌かも」
市花が言った。
遙か遠い海から、美しくそして優しい歌声が響く。
「今はまだ外海にいるが、そのうち内海にやって来る。その時に、返すんだ。でなければ、今度は外海のやつが祟る」
久我は、寝崩してぼろぼろの身なりを整えながら言った。出かけるつもりらしい。
「いっそのこと聖何チャラの聖遺物とか言っとけば手間はなかったのに」
久我が悪態をつき、「馬鹿なことを」と瀨之尾がたしなめた。
それでへそを曲げた久我は、
「五人乗れる車が要るだろ。借りてくる」
と、陽たち三人に言い捨てて、瀨之尾神父には一瞥もくれずに部屋を出て行った。
「できれば夜までに返しましょう。日は落ちない方が良い」
瀨之尾神父はそう言って、司祭服を翻してソファから立ち上がった。
「俺たちは、人魚の子を母親に返しに行く」
陽は念を押すように繰り返した。
「そして、みんな無事に家に帰ります」
と、瀨之尾神父は付け加えて、京介の頭の上で十字を切り、祝福を授けた。
「主のご加護がありますように」
京介は、やっとほっとした表情になって、神父を見上げるのだった。
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