息子の異変をいち早く察したのは、両親だった。京介の母は、アルバイトの初日に、祖父宅からもどって来た息子を見るなり、心配そうに尋ねた。

「どないしたん、顔色悪いで」

「そうかなぁ」

「なんか青白いわ」

 半休を取って早く帰ってきていた父も、顔を出して「熱ないか」と、体温計を差し出した。

 母親は、大方、祖父の家の倉庫整理をしていて熱中症にでもなったのだろうと言い、京介自身もそんなものかと思って、水分をよく摂って自室で休むことにした。

 自分自身でもどこかぼおっとしている自覚がある。昼間、倉庫であの奇妙な木箱を見つけてからだ。ちょうどあの頃から具合が悪かったのかもしれない。だから、自分はあんな作り物を本物のミイラだと思ってしまったに違いない、と京介は思った。

 クーラーの効いた自室は快適だった。京介の部屋は和室なので、かすかに藺草の匂いがする。藺草の匂いを思いっきり吸いむと、入れ替わりに、体中の緊張が体の外に抜け出ていくような気がした。少しだけ体調が楽になったような気はしても、今は、たくさんの漫画本にも、趣味のエレキギターにも、手は伸びそうもない。

 今日だけ特別だと父親が引いてくれた布団の上にひっくり返って、京介は伸びをした。横になりながら、京介は両手ですくい上げた例のミイラのことを思い返していた。

 見た目よりもずっと軽く、ひたすらに乾いていて、恐ろしくて、けれど、無性に気の毒だった。

(あれがもし本物なら。できるなら、海へ帰してやりたい)

と、京介は思う。

 目を瞑ると波の音が聞こえるような気がした。

(人魚か)

 京介は、昔、絵本で見た人魚の姿を思い描く。最期は泡になって消える美しいお姫様だ。

(ほんまは別嬪さんなんかな)

 ミイラに残されていた豊かな髪を思い起こす。

 京介の空想の中で、それはしっとりと濡れ、かつて海の中を泳いでいたであろう姿を想像させた。

 落ちくぼんだ目に、瞳が入る。枯れ果てた顔に肉が付き、しっとりとして白い肌が戻ってくる。

 京介の両手の中にすっぽり収まるほどの小さな人魚は、潤んだ瞳で京介を見上げ、桜色の唇が動かして何事か囁いた。

 とても愛らしくて、愛しくて、京介は有頂天になった。

 海へ行こうと決心する。すると、

――ああ、何としてでも、この美しい人魚と海へ行かなければ。

 自分の声ではない、複数の男の声が聞こえた。

 京介は、はっとして身を起こした。

 何故あんなにも高揚した気分だったのか、自分でも分からない。今は冷や水でも浴びせられたように、ぞっとした気分で、こわごわと辺りを見渡すだけだ。

 何もない。誰もいない。いつも通りだと、安堵しかけたその時、部屋の中で、ごとりと大きな音がした。押し入れの中からだ。

 恐る恐る押し入れを開ける。

 すると、そこに、あの木箱があった。

「ひっ……」

 京介は、尻餅をついて後退った。

「何で、こんなとこに……」

 祖父の家の、あの本堂に置いてきたはずだった。

「なんで……」

 木箱は、しんと静まり返っている。

 代わりに、窓の外から、波の音が聞こえた。祖父の家は海沿いと言ってもいいが、京介の家は山側にある。距離から考えて、ここまで波の音が聞こえるはずがない。

 ぞっとしたが、それ以上の弊害はないと割り切って、京介はその日はもう無理矢理に眠ってしまうことにした。


 翌日は、陽とのアルバイトの二日目だった。

 陽とは岬弁天社で落ち合うことにして、京介は時間より早めに神社にやって来た。

「おう、京介。早いな」

 明るい声で挨拶したはずの祖父の顔は、京介の顔色を見てみるみる曇っていった。

「どうした。そんな顔して。何があった」

「じいちゃん、これ……」

 京介は、リュックサックから人魚の木箱を取り出した。

「開けたんか!」

「あ、開けた……」

「おかしなことはないやろな!」

 亨太郎は、物凄い剣幕だった。

「ある。呼んでる声が聞こえる。それから、波の音」

「絶対その声についていったら行ったらあかんぞ!」

 こっちこい、と引っ張られて、京介は神社の本殿に上がった。

 そこで御神酒を振りかけられて、陽がやって来るまでの長い時間お祓いを受けた。

 人魚の箱は、御札でぐるぐる巻きにされて、本殿の祭壇の前に納められた。

 その後は何もなく、京介は陽と二人で倉庫整理を行った。

 人魚が彼を呼ぶ声は聞こえなかった。

 安穏とした普段の生活がもどって来たと、彼は確信していた。

 ところが日が落ちて、家に帰ると様子が違っていた。

 寒々しく、悲しげな空気が辺りを包んでいて、不気味なほどに家具や家電の影が濃く床に落ちているように思えた。

「ただいま。どうかしたんか」

 母親に尋ねると、母親は気味悪そうな顔でダイニングテーブルを指さした。

「京介、あれ何か知ってる?あの木箱。中に気色の悪い人形が入ってんねん」

 肩から掛けていたリュックサックを投げ捨てて、京介はダイニングテーブルに近寄った。

 そこには、あの人魚の木箱が鎮座していた。

 小学校二年生の双子の弟たちが、母の後ろから遠巻きに箱を睨んでいる。二人は、本能的に知らせるものがあるのか、怖がって、箱には決して近づこうとはしなかった。

「嘘やろ……」

 京介の足の裏から頭のてっぺんまで痺れるような震えが駆け上がっていった。スマートフォンを取り出すと、京介は祖父の携帯電話に電話を掛けた。

「ごめん、じいちゃん。本殿見てきてくれへんか。あの箱、そこにあるかな」

 声が上擦って震えた。

「無い」

 祖父の答えは簡潔だった。

「こっ、こっちに来とう……!」

 京介は今にも叫びだしそうだった。

「御札は?破れたか?」

「破れてない」

「そのまま家で待ってろ。今から迎えに行く。ええか、お前は今から風呂で水浴びして、服を着がえい。誰も箱を触るなて言うとけよ」

 そう言って亨太郎は電話を切った。

 京介は、祖父に言われたとおり水を浴び、着替えて祖父の到着を待ったが、わずか一時間足らずの時間が、耐えがたいほどに長く感じた。


 亨太郎は、車で到着するなり、京介の両親にあらましを説明した。

 その時、京介は、父の顔から血の気が引き、母親が泣き出すのを見て、事態は自分が思ってるよりもずっと悪いらしいということを知った。

 亨太郎は、箱を抱えると京介を伴って車に乗りこんだ。

「しっかり持っとけよ」

 助手席の京介に木箱を預けると、亨太郎は車を発進させた。

 車は、六甲の山へ向かって進んでいく。明かりのない方へ、暗い方へと車は進む。ふり返れば百万ドルの夜景が広がっているというのに。

 それとは反対の方へ反対の方へと進んでいく。

 まるで自分の命運を表しているかのようで、京介は俯いて震えていた。

 真っ黒な木々が、手を伸ばすかのように揺れ、蠢いている。

 そして、箱の中からはあの優しい声と海鳴りが聞こえていた。

「神様、俺を助けてくれ」

と、京介は手を合わせて祈った。

 着いた先は、山中にある立派な神社だった。

 石造りの鳥居だけが、夜目にも白くぼおっと浮かび上がっている。

 遠く本殿にわずかな明かりが灯っているのが見えるが、それ以外は漆黒の闇である。

「ここはな、じいちゃんの知り合いの神社や。話はつけてある。怖がらんでええからついて来い」

 そう祖父に言われ、手を引かれて、京介はやっと車から降りた。

 本殿では、祖父の知り合いであるという、五十代半ばの痩せぎすな男が待っていた。ここの神主だという。本殿にとおされ、祖父と並んで正座をして、京介は二度目のお祓いを受けた。

 海鳴りの音は消えない。むしろ海から遠ざかるほどに、強く、大きくなっているように思えた。

「どうや。声は聞こえへんなったか」

 お祓いが終わると、亨太郎と神主は心配そうに京介を覗き込んだ。

 京介は、首を横に振った。

「あかなんだか……」

 亨太郎は、落胆して肩を落とした。

 目頭の涙を拭う祖父に変わって、神主があの人魚の謂われを話してくれた。

「京介くん、この箱書きにもあるとおり、これは人魚のミイラなんだ。信じられないかもしれないが、そうなんだよ。大正時代、君のおじいさんの大叔父さんにあたる人がね、このミイラに呼ばれて海で命を落としている。その時、本当は、一緒に海に流されて無くなったはずの品物なんだよ」

「なんで、うちにあんの」

 京介は怯えながら尋ねた。

「その後も三度、このミイラはどこからか現れて、君のおじいさんのお兄さん達はみんな、連れていかれてしまった」

「嘘や、みんな戦争で死んだって」

「ちがうんや、確かに戦争もあったかもしらん。でも、死ぬ前に、この人魚のミイラが現れて、取り憑かれたようになって、みんな海へ入って死んでしもうたんや」

 京介は確信した。昨日部屋で聞こえた「この美しい人魚と海へ行かなければ」という複数の男の声の正体を。あれはこの人魚に誘われて死んでいった大伯父達の声だったのだ。

「五十年以上前、亨太郎さんのところに箱が現れた時、うちの先代が封をして、結界を張って、うちの倉に納めたはずだったんです。それが、急に弁天社に現れたと聞きました。そして、確かにうちの倉からはなくなっていた。まさか君のところに現れるだなんて。私では力不足なのかもしれません」

 神主は、方法を探してみます、と力なく言った。

 京介も亨太郎も、言葉も無く俯いていた。

 為す術なく、京介は自宅に戻るしかなかった。

 帰りの車の中で、京介のスマートフォンに着信があった。

 市花からだった。

 京介は、しばしの逡巡の後、電話に出た。

 暗い車内で、液晶画面の刺すような光が一筋の光明のように思えた。

 

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