第3話 綿津見の呼び声

 夏休みの初日は、雲が多く、鈍色の空をした蒸し暑い日になった。

 風がない。ぱったりと止んでいる。朝早いせいか、あまりの暑さのせいか、蝉さえ鳴いていない。

 羽山陽は、神戸市営地下鉄「和田岬駅」から地上に続く階段を登り切ってからというもの、ただただ下をむいて、友人――蓮見京介の後を付いて歩いていた。喋る気も起こらない。それは京介も同じだったようで、お喋りな彼が珍しく、いつもは白い顔を真っ赤にして、黙り込んでいた。そのくらい殺人的な暑さだ。

 「日比野のように断っておけばよかったかな」と陽はもう一人の友人の顔を思い浮かべる。普段は離れずに連れ立っている悪友三人組の一人、日比野市花は夏期講習があると言って誘っても来なかった。

 事の始まりはつい一週間前のことである。

「なあ、バイトせん?」

 夏休み前最後の授業が終わり、ふらりと席を立った京介は唐突に陽の机にやってきを勧誘を始めた。

「バイトは校則違反だろ」

「そんなちゃんとしたやつちゃうねん。俺のじいちゃん家の倉庫片付けるのに人手が欲しいねんて。さっきじいちゃんからスマホに連絡来てさ。友達も呼んでこいて。どうする?」

 日当は一人一万円出るという。

「日比野はどうする?」

 陽の隣の席でちゃっかり話を聞いていた様子の市花に、京介は話を振ったが、市花は冷淡に言った。

「私、夏期講習あるからパス。それにこの暑いのに倉庫整理とか絶対イヤ」

「……俺は、うちのじいちゃんが許可くれたら行く」

 そうはいったものの親代わりの祖父母は、陽の言うことに余程のことでもなければ反対はしないだろう。

 一万円の日当は魅力的だ。陽は京介の申し出を受けるつもりでいた。

 無事、祖父母の許可も下りて、陽はこうしてバイト先への往路を京介と歩んでいた。

 朝だというのに熱っぽいアスファルトの上をだらだらと歩く。駅の周辺は住宅街だが、段々と病院や工場が増えてくる。造船所や船員が泊まる宿舎なども並んでいる。

 陽は汗をふきふき、物珍しさに辺りを眺め回す。

「ここから海って近いの?」

「海?そりゃ和田岬いうくらいやからすぐやで」

 京介は幼い頃から通い慣れているせいか、特段興味関心は抱かないらしく、淡々と歩を進めている。

「海風は感じないね」

「この辺は何だかんだ背の高い建物が多いからな」

 そこからしばらく海へ向かって進むと、工場地帯を抜け、下町の路地へと入っていく。民家の他にも、食堂がいくつも建ち並んでいる。

 そういった家々の向こうに突然ポカリと開けた土地が現れる。そこが、陽たちが目指しているバイト先だった。

「本当にここ?」

と、陽は京介に聞いた。

「ここやで。あれ?言うてへんかったっけ?おとんの実家、神社やねん」

 陽は唖然として、「岬弁天社」と額の掛かった朱色の鳥居を見上げた。

 神社は二つの社殿と社務所兼住居からなる小さな規模の神社だった。

「おかんの家がキリスト教徒で、結婚する時におとんがキリスト教に改宗してん。跡取りちゃうからええとかいうて」

 京介は社務所の引き戸をがらがらと大きな音を立てて開き、普段よりも大きな声で祖父を呼んだ。

「じいちゃーん!来たで!」

 すると奥の住居部分から「おーう」というハスキーな声がして、短パンにTシャツ姿の小柄な老人が姿を現した。

「京介、よう来たな。お友だちも」

 京介の祖父は、孫に「なんちゅう子や?」と耳打ちした。

「あ、あの羽山陽です、よろしくお願いします」

「陽くんか。暑いとこすまんね、頼んますわ」

「じいちゃん、道中くそ暑かったわ。曇っててこれとか、ありえへんわ。麦茶貰うていい?」

 そういうと京介は、住居部分に上がり込んでいった。

「返事くらい待たんかい」

と、京介の祖父は溜息をついた。

「そうそう、わたしは京介の祖父の蓮見亨太郎きょうたろうです。あいつちゃんと説明してるかどうかわからんけど、今日、明日、明後日でうちの倉庫整理を手伝って貰おうと思うてます」

「蓮…いえ、京介くんからも聞いています。ありがとうございます」

 そんな話をしていると、京介は麦茶の入ったグラスを持ってもどって来た。

「なんや二つか。おじいちゃんのは無いんかい」

「じいちゃん、さっきまでクーラーの効いた部屋におったやないかい」

「それはそれ、これはこれや。気ぃきかさんかい」

「あの、いただきます」

 やいのやいのと話をする二人の間に入り込めないまま、陽は麦茶を飲み干した。

「あれか、この子は、前に言うてた東京から来たいう子か」

「そうや。ごっつ賢いねんで」

「足が悪いんちゃうかったか。なあ」

と、亨太郎は、陽に相槌を求めた。

「それがな、向こうでは医者もさじを投げたらしいねんけど、こっち来てから急に良くなってな。もう杖もいらんねん」

「走ったりはできませんが普通に生活する分にはもう大丈夫です」

 それはリハビリのおかげかもしれないし、例の悪魔祓いのおかげかもしれないと、陽は思っていた。

「ほんまか、それはよかったなあ。今日も無理せんようにな」

 亨太郎は、我がことのように喜んで、目を細めた。


「さぁさ、こっちやで」

 陽は、亨太郎に促されるまま、暗い倉庫に足を踏み入れた。

 今は倉庫となっているこの建物は、本来は本堂として使われていたものらしい。

「この建物はな、昔は、お寺やったんや。大昔は、お寺と神社は一体のものやったからな。ここが本堂や。それが明治になって廃仏毀釈や神仏分離や言うさかい、本堂を潰して物置にしてしもうたんやそうな」

 張りや天井を見上げれば、確かに寺の本堂だった当時の面影を残す天井や装飾が見て取れた。詳しい人が見れば詳細にわかるのだろうけれど、陽には、ただそれっぽいものがあるということしか分からなかった。

 倉庫の中には、新聞や雑誌から神社の祭礼に使われる用具、お寺だった時の名残と思われる木魚に至るまであらゆるものが雑然と床に積み置かれていた。

「ここを整理してな、棚を置こうと思うとうねん。新聞雑誌は外へ出して、その他はその辺の空いてるとこ使うて種類ごとに分けてくれるか」

「はーい」

「わかりました」

 二人は、仕事に取りかかった。板張りの床はところどころささくれていて、土足での作業が許されていた。歩くだけで床板がたわみ、ミシミシと嫌な音を立てる。

「踏み抜かんようにな。怪我するさかい」

 亨太郎が言う。

 陽と京介は、一先ず、新聞雑誌の運び出しに専念することにした。

 それから何往復したことだろう。ようやく品物の分別ができそうなほどのスペースを確保できた。

「先ずは古そうな書籍とか絵巻はこっち。お祭りとかの用品はあっち。寺の道具はここで、それ以外は向こう」と、京介が言う。

 陽は、見るものすべてが物珍しくて、「ああ」とか「ふん」とか生返事をした。

 そうして物をのけてみると、これまで隠れていた場所に崩れかけて今にも倒れそうな棚が見つかった。

「危ないさかい運びだそか」と、京介が言う。

「そうだね、えっと、きょ……蓮……」

 亨太郎がいなくなったところで、蓮見呼びに戻したものかと、陽が逡巡していると、京介がけらけらと笑いながら言った。

「京介でええで」

「うん、京介。そっち持ってくれる?」

「よっしゃ。そっち、ささくれてるから、陽、気をつけて持ってや」

 棚を運び出すと、それだけで一日仕事が終わったかのような疲労感だった。

 それでも、もう一度中へ戻って、二人は、棚の残骸が無いか、短時間でも運び出せそうなものはないか、確認した。

 もうすぐ正午だった。腹が減っていた。

「ぼちぼちおひるにしよか」と、お堂の入り口から亨太郎が呼んだ。

「はーい」と、陽と京介は異口同音に返事をしたが、今度は京介が上の空だ。

「京介?」

 変に思った陽が声を掛けると、京介は目を泳がせながら言った。

「陽、これって何やと思う?」

 京介は、真四角の大きな木箱を手にしていた。箱には、真っ赤な紐が掛かっている。

 それだけではない。呪い封じのお札のような、鬼気迫る、どこか禍々しいものが箱にベタベタと貼り付けられていて、異様だった。

「何か書いてある」

「……人魚」

 陽が読み上げた瞬間、お堂に差し込む日の光がふと強くなり、京介の足元から影が消えて無くなるのを、陽は、確かに見た。

「開けてみよ」

 京介は言った。

「今?お昼ご飯は?」

「あとや」

 京介は、冷たく、きっぱりと言った。

(急にどうしたんだろう。)

 京介は、取り憑かれたかのように、たくさんの札を剥がし、紐をほどいて、木箱を開けてしまった。

 蓋を乱暴に取り落として、中から何か取り出す。

 最初に出てきたのは、紙の束だった。由緒書きと思われた。

 次に出てきたのは、茶褐色に変色した乾燥しきった何かの塊だった。

 京介は、両手でその塊を持ち上げて、首を傾げた。

 よく見ると、それには五本の指を持つ手が二本備わっていて、体を丸めているらしかった。

「なんや、これ……」

 京介は喘ぐように言った。

 陽の喉も緊張で貼り付いていて声が出なかった。見慣れてくると、目鼻が付いているのが分かる。眼球は無く、目は落ちくぼんで、一目見る分には、猿のミイラのようにも思えた。

「髪の毛が、ついてる……」

 京介がそう口にした途端、悪寒が陽の背筋を駆け上がっていった。

豊かな頭髪は、それが猿を加工したまがい物ではないことを示していた。

 人だ――。

 それも、小さな子どものミイラ。

 陽がそう思った瞬間、京介が頭を振って金切り声を上げた。

「ちがう……、ちがう……!こいつ、人間や無い……!」

 陽は、京介が指さすミイラの下半身に目を向けた。

 そこに、二本の足はなかった。鱗に覆われた魚の姿があるだけだ。

 陽は両手で口を押さえて、悲鳴と吐き気を飲み込んだ。

 足元に置かれた木箱の中から、遠い海鳴りが聞こえてくるような気がした。


 それからどうしたのか、陽は、良く覚えていない。

 京介が、ミイラを箱に戻したのは確かだが、気づいたら、陽は青い顔で、亨太郎たちと三人並んで冷やしそうめんをすすっていて、京介は、少し顔色が悪い以外は、いつもと変わらない様子に戻っていた。

 昼からは、外に出した新聞紙を母屋に運んで、今日のバイトはそれで終了となった。

「ええ調子やな」と、亨太郎は満足そうだ。

 翌日のバイトは、何事もなく進んだ。奇妙なものは何も発見されなかったし、京介は、あの人魚のミイラについて何も言わなかった。

 陽は、気になって、人魚のミイラについてインターネットで調べてみたが、江戸時代から明治に掛けて輸出用にと作られた土産物や見世物らしいということがわかった。

 魚の皮や和紙、木材を使って作られていて、下半身を切られた可哀想な小猿はいないということに、陽は胸を撫で下ろした。

 岬弁天社でのアルバイトは、三日間で終わった。

 それから、陽は、京介とは一週間以上会わなかった。最後に顔を合わせたバイトの最終日も、京介は、普段と違って軽口にも精彩を欠いていたが、どれほど陽が心配しても「気にすんなって。平気や」以上のことは口にしなかった。


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