程なくして、三邦は、教師を辞職して、学校から去って行った。

 陽たちは、以前と変わらない学生生活を送っている。

「終わってみると悪い夢でも見てたみたいや」

 京介は、唐突に言った。

 それでも何の話かわかるくらい陽たちの頭の中をあの悪魔祓いが占めていた。

 次は移動教室で、生物室へ行く。新しい担任はベテランの男性教諭だ。

 ほとんどの生徒がもう移動し、教室に残っているのは陽たち三人だけだ。

 かつてトモダチ人形が置かれた三つの机には、今はあの忌まわしい人形の残滓など欠片も見当たらない。

「トモダチ人形の噂、聞かなくなったね」

 市花がぽつりと言った。

 噂が下火になるのと同時に、人形に呪われたと腫れ物に触るようだった陽たちの扱いも元に戻った。

「明日、久我先生の講義あるやん」

 京介に言われて、陽は、教室の後ろの予定表を眺めた。

「お礼まだ言うてないね」

「久我先生に言って、瀨之尾神父に言ってないってなったら、多分喧嘩すると思う」

 週に一度の礼拝の時には瀨之尾が、月に一回の神学の講義の時には久我が学校へやって来る。これまでは特に、二人とトモダチ人形騒動の話をすることはなかった。

「ほな、順番にお礼言うて回るか」

「明日は久我先生、来週に瀨之尾神父?」

「いや、早い方が良い。久我先生にお礼を言ったって知られる前に。土曜日が空いてるなら土曜日の午前中に教会まで行こう」

 陽は、急かされるように早口で言った。

「俺は、土曜日でもええで」

「私も大丈夫」

「それなら朝9時に」

 ほっとしたように陽は言った。

「これは間に挟まれて苦労しとるで」

 京介は、陽に聞こえないように、市花にそっと耳打ちした。


 翌日、この日は、夏休み前最後の神学の講座だった。

 外には、夏特有の抜けるような青空が広がっている。

 その空を眩しく見上げると、陽は、講義を終えて講堂を出る久我の背中を追いかけた。

「久我先生!」

 今日の久我は、先日のライダースジャケット姿が嘘のように、清楚なスーツを着こなしていて、薄化粧も上手くいっている。

 ふり返った久我を見て、陽だけでなく、京介も、市花も、あの悪魔祓いの時とは別人のようだと心に思う。

「やあ、君たち」

 久我がニタリと笑う。その表情に清楚さも講師らしさも何もかもが飛んでいく。悪魔染みた悪魔研究家と呼ぶのがぴったりだと陽は思った。

「どうかした?」

 久我に促されて、陽たち三人は互いに目配せし合った。

「あの、この前は助けてくださってありがとうございました」

 陽が頭を下げ、残る二人もそれに倣った。

「えっと、その……トモダチ人形作らなくて本当によかったです。止めに来てくださって、ありがとうございました」

 市花が言った。

「それはよかった。けれど、羽山くんが相談してくれなかったらどうなっていたかわからない。ああいったものを不用意に面白がるのは控えるようにね」

 久我は、釘を刺すかのように三人をじろりと眺めた。

「そういえば、先生。今回は久我先生が私を止めてくれましたけど、私、子どもの頃に姉がトモダチ人形をやろうとしたのを止めたことがあるらしいんです」

「……子どもはそういうものに敏感だからね。年を取れば鈍るし、鈍ったからと言って、そういったものから解放されるわけではない。悪意を持った存在や魂に近づきすぎれば取り込まれる。よく気をつけて」

 ざわざわと木立がそよぎ、続いて初夏の風が、どうと吹き抜けた。


 次の土曜日は、打って変わって雨だった。

 しとしと、と緑を鮮やかに浮かび上がらせながら降り続ける長雨だった。

 教会の中庭にいくつも咲いた青い紫陽花は、さながら美しい手鞠が並ぶようだった。

 午前九時直前に三々五々と集まった陽たち三人は、申し合わせたわけでもないのに全員制服を着ていて、三人は顔を合わせるなり噴き出した。

「なんで制服なん、みんな」

「だって神父さんにお礼言うなら、ちゃんとせなあかん気がするやん」

「俺も、そんな感じ」

 久我にお礼を言うのに比べて、皆、緊張しているようだった。

「あかん緊張する」

 ネクタイをわずかに緩めて、京介が、苦しげに舌を出す。

「ここの神父さんは基本的に優しいから大丈夫、たぶん」

「たぶんかぁ……」

 市花は、ビニール傘越しに、曇天を仰いだ。

 三人が、教会の扉をくぐるのを躊躇って庭で話し込んでいると、聖堂に明かりが灯り、中から誰かが扉を開けた。

「おはようございます。明かりをつけるのを忘れていました。もう中へ入って大丈夫ですよ」

 優しい声がして、陽たちは、はっと教会の扉の方へ向き直った。

「瀨之尾神父……」

 神父は爽やかに微笑んだ。

 雨の庭に春の陽の光が差し込んだかのようだった。

「みなさん、礼拝ですか」

「いえ、あっ、そ、それもあるんですけど」

 京介は、不意打ちに遭ってしどろもどろだ。

「今日は、神父様にこの前のお礼を言いに来ました!」

 市花が半ば叫ぶようにして言った。

「お礼を言われるようなことなどしていません。私の使命を果たしたまでのことですから」

 神父の美しい笑みは、心の底から彼がそう思っていることの証明だった。

 しかし例外はある。

「それに、久我とて私と同様ですから、あれにも礼は要りませんよ」

 雨の庭の空気は一瞬にして凍り付いた。

「ど、どうしてそれを……?」

 陽が尋ねると、神父は、片方の眉を一度、きゅうと吊り上げてから、にっこりと笑った。

「久我から自慢の電話がありました」

 久我は、きっとわざと瀨之尾に電話したのだろう。礼は要らずとも、何事であっても久我に負けることを良しとできない瀨之尾の性格をわかった上で。

 やっぱり悪魔みたいな悪魔研究家だ、と陽は思った。

 京介は、礼だけ済ませたらとっとと帰る心づもりできたのに、瀨之尾のこの様子では、礼拝から逃げられそうもないなと腹を決めた。市花は絶句して、十字を切り、助けを求めるかのように、父と子と精霊に祈りを捧げた。

 土曜日の礼拝は、美しい歌とともに始まった。

 賛美歌がまるで雨のように、人の罪と愚かさを洗い流していく。

 陽たちは、十字架に頭を垂れ、学校のチャーチでの恐ろしい出来事と退職していった三邦を思いながら、祈りを捧げた。

 朝の聖堂でみる瀨之尾神父の姿は、暗い悪魔祓いのチャーチで見た時と違い、穏やかで優美だ。

 その穏やかな彼が、あの残酷で恐ろしい悪魔と対峙する使命を背負っている。

 彼に神の加護がありますように、と陽は密かに祈るのだった。

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