靴と月蝕

風何(ふうか)

短編小説「靴と月蝕」

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 その日はきっと、みんな月を見ていたのだと思う。 

 たった半年前のことなのに、その瞬間どうしてぼくがそこにいたのかは思い出せない。けれどもそれはなんの変哲もない、涼風がよく吹く夏の夜のことで、気付いたときには、あの空き地にひとりで立っていたのだ。通学路を少し逸れた場所にある寂れた空き地で、学校帰りにぼくはよくひとりでそこに行っていた。そしてそこで何の意味もなく、頭上に広がる大きな空を眺めたものだった。 

 けれども、そのときのぼくは、途端に離脱していた魂が体内に戻されたように、ぼくがぼく自身であることすら分からなくなっていた。一対の水晶体、ぼくの眼球でさえも水晶体と呼ぶことに驚いてしまうけれども、その行き先を、その置き場所を、むりやり探し出すみたいに、自分のすぐ真上の空を見上げてみたのだった。すると、普段と変わらないその大きな空には、普段とはどこか違った雰囲気を醸し出している不気味でまるい月が、ぽつんとひとつ、浮かんでいたのだった。その月は、暗がりのなかで陰影を濃く浮かべながら紅く光っていた。そしてそれは普段の月に比べて異様に大きく見えて、もしもその月が地球めがけて衝突してきたのなら、ぼくたちは簡単に粉微塵になってしまいそうだと思った。あるいは、その大きさでぼくたちのことをあっという間に呑み込んでしまうかもしれないとも思った。その月は、見ているだけでぼくのことをたちまち不安な気持ちにさせた。いてもたってもいられないような、けれども具体的になにをすればいいのかも分からない、ただその場にいることを言葉なしに否定されているかのような、そんなわけの分からない気持ちだけ、流れながら増えてゆく暗雲のように、ぼくのことを支配し続けたのだった。 

 そしてしばらくそんな気分のまま、頭上に浮かんでいる月をただぼんやり眺めていると、すぐ近くから、誰かの話し声がにわかに聞こえてくることに気が付いた。そしてそれは、まるで言葉だけ綺麗に切り取られたかのように、はっきりとぼくの耳に届いてきた。その声はぼくの耳朶を震わすようにこだまし、そしてその声に呼応するように、ぼくの脳までもが、掻き鳴らされたかのように震えている気がした。 

 ぼくは、そんな誰でもない誰かの声をずっと聞いていると、まるで平衡感覚を失ってしまったみたいに、なにがなんだかよく分からなくなってしまった。その声がまるで現実とは一線を画した別次元からやってくるもののように思えて仕方なかったのだ。普段この場所は、休日でさえもほとんどひとけがなく、その周囲を誰かが通りがかることさえなかった。けれどもこの瞬間、辺りをぐるりと見渡してみると、大人からぼくと同じ年齢くらいの子どもまで、多くの人で賑わっている。そして誰もが、頭上で紅く光っているその月を見て、くちぐちに言葉を発し続けていたのだった。 

 そしてさらにそこでは、ぼくと同じクラスのひとたちまでもが、他の大人たちと同じように空を眺めていた。気の強い男の子たちや、笑い声のよく響く女の子たち、その他のクラスメイトたちもみんな、仲のいい人同士で楽しそうに喋っている。ぼくはその光景を見ながら、しばらく茫然と立ち尽くしていた。その光景は平衡感覚を失いつつあるぼくを更に激しく混乱させた。歩き方も表情の作り方も、そのすべてを忘れてしまったかのように、ぼくはどうすればいいのか分からなくなった。今すぐに帰ってしまえばいいのか、知らないふりをして月を見続けていればいいのか、そのどちらかを選ぶ余地さえぼくにはなかったけれども、それでもそんなことを必死に頭のなかで考えながら、でもきっとその光景は、ただ場所が違うだけで、教室で毎日見ているものとなにも変わらなかった。教室で見ているものと同じならば、どこにも逃げられないような気がした。そしてそのことを思うと、ぼくはまたいつものように胸が苦しくなるのだった。 

 目の前の光景を見つめていると、世界は、切り取ればどこにでも貼り付けられるものであるような気がした。それくらい世界というのはきっと、埋め尽くされて下地の見えないもので、その実、つぎはぎされてその全体像を成していて、そして彼らはぼくのなかで、いつだって貼り付けられる側なのだ。あるいは彼らにとってぼくも同じようなものなのかもしれない。ぼくは教室以外での彼らをまったくもって想像できないけれど、それはきっと彼らも同じなのだ。ふと、眼前に向けられた鋭いペン先を思い出し、みぞおちに投げつけられた薄汚れたスニーカーを思い出した。藍色の空気のなかで、ひたすら彼らに見つからないように息を潜めていた。広い広い空の下では、そんなぼくが余計に小さく見えるように思えた。 

 それでもその夜、彼らがぼくに直接なにかしてきたりすることはなかった。普段ならば、ぼくのことを見つけると、少なからずなにか悪口を言って高らかに笑ったり、大きな声で威圧して来たりするのは欠かさないのだけれども、今日に限って言えば、そういったそぶりを見せることは一度もなかった。ぼくのほうを振り向いてなにかを言うことさえなかった。ただそれでもきっと、そのことに大した理由はなく、単に運がよかっただけのことかもしれない。なんにせよぼくは、彼らにぼくを虐げる意思が微塵もないことが分かると、ひとまずそっと胸を撫でおろした。そうしてぼくも、彼らに倣うように夜の空に浮かぶ月をふたたび眺め始めたのだった。きっとそのときのぼくにはどうしようもなく、そうすることしかできなかったのだ。 

 そうしてじっと月だけを見て、けれども、どうしてみんなしてあの不気味で怖い月を見続けているのか、ぼくには分からない。ぼくはその月を見ているだけで、息をすることでさえも苦しくなるのだった。もしかしたらその特殊な紅い月は、この瞬間だけ、月の世界の理をぼくたちの空間に持ち込んできているのではないか。適用された月の重力がぼくの心臓をどうしようもなく押しつぶして、だからぼくはこんなにも苦しくなるんじゃないか。そんな風に思ってしまうくらいには、ぼくは冷静さを欠いていた。ひとりでに鳴り続ける心臓はまるでぼくのものではないみたいで、それがうるさくて仕方がなかった。 

 ただ、それでも、ぼくも一緒になってその月を見続けていれば、彼らの思っていること、感じていること、そのすべてを理解することが出来るような気がしていたのだ。その月の繰り出す魔力によって、ぼくでも彼らと溶け合うように共鳴することができるように思えたのだった。 

 想像のなかで、彼らの笑う表情が浮かぶ。ぼくは彼らと分かり合いたいのだろうか。じっと考えていたけれども、結局いつまで経っても分からなかった。嫌いなのか好きなのかさえも分からない。ただ分かってほしいだけだなんて、そんなことは考えたくない。根拠なんて当たり前のようになにもないけれど、もしも、ぼくも彼らと同じように感じられて、そしてその月に同じように魅入られたのならば、きっと、ぼくがぼくである以上にぼくではなくなって、雲間に映る靄のごとく、ただ重なり合うように、そしてただ溶け合うように、消えてゆくことが出来るような気がしていた。 

 けれども、相変わらずその不気味な紅い月はその場に佇んでいるだけで、いつまで経っても、ぼくにとって単なる物珍しい浮遊物に過ぎなかったのだった。そして、ふと気が付いたときには、ぼく以外の全員が空き地からことごとく姿を消していて、あの紅い月もすっかり雲間に隠れてしまっていた。その名残さえも叢雲に隠れ、もう藍色とも言い難い暗い夜の隅に消えていったのだった。そして、それからしばらしくしないうちに、地面に突き刺さるかのような激しい雨が降り始めた。 

 雨がぼくの頬や身体を濡らしてゆく。雨の降る空き地は、以前と同じようにすっかりひとけがなくなっていて、ひとびとが集まっていて見えなかった特徴すべてが、唐突に現れるみたいに、一斉にぼくの目に入ってきたのだった。それは表面上だけ見つめれば、もとのぼくのよく知っている懐かしい空き地に他ならなかった。けれども、もうそこは、どうしようもなくぼくの居場所ではなくなっていた。降りしきる雨のなか立ち尽くして、自分がさっきまでなにを願っていたのかすらうまく言葉にできない。けれども、その確かにあったはずの願いが、雲が流れるようにひとりでに叶ってしまうこと、そんなことだけ、もう消えてしまったあの月に期待していた。そのことだけ幽かに自身でも認識することが出来た。 

 雨はさらに強くなってきたけれども、誰も迎えには来なかった。三十分経って、ぼくは仕方なくひとりで家に帰った。帰り道、ずっと涼風が吹き抜けてきて肌寒かった。  

 次の日になって、やっとぼくは、前の日が皆既月食だったことに気が付いた。朝の会、みんなの前で怒られ、その話を聞いていると、理科の宿題をやってこなかったのはクラスでぼくひとりだけだったことを知った。きっと誰もあの月に魅入られていたわけではなかったのだ。 

 三時間目の理科の授業で、月は地球の重力の六分の一だと答えられなくて、みんなに笑われた。心臓の痛さなんてどうしようもなく当てにならないものだった。


                 ※


 激しい雨が降るなかで、ぼくは傘もささずに走って、たまたま近くを通りがかったバスに乗り込んだ。 

 べつにどこか特定の場所に行きたかったわけではなく、ただ声を荒げながら追いかけてくるクラスメイトから逃げることしか考えていなかったのだ。それまでぼくはひとりで電車に乗ったことはあっても、バスに乗ったことはなかった。けれどもそのことについてじっくり考えている余裕はなかった。気付けば走る勢いのままに、ついさっきやってきたバスに乗り込んでいた。乗り込んだ後も、数十メートル後ろから走って来るクラスメイトを見ながら、一秒でも早く発車してくれないかとそんなことばかり考えていた。 

 そしてそんなぼくの願いが叶ったのか、幸運なことに、バスの自動ドアは、タイミングよく彼らが停留所にたどり着いたところで閉まり始めた。それはなかば彼らを締め出すかのようで、ぼくはその瞬間、自分の中で確かに張りつめていた緊張の糸が切れるのを感じた。そうして、バスはすぐ、しかるべき目的地へと走り出した。 

 窓越しに外の景色を眺めながら、そのバスがいったいどこを目指しているのか、ぼくにはもちろん分からなかった。あっという間に景色はフィルムが移ってゆくように変化してゆき、けれども、そんな漠然とした不安よりもずっと、当たり前のように、彼らから逃げきれたことに対する安心感のほうが上回っていた。それから数秒経って、彼らの姿は、まるで亜空間にでも吸い込まれてしまったかのように、完全に消えて見えなくなった。ぼくは両ひざに手をつきながら、今この瞬間やっと呼吸することが許された奴隷のように、息を吐き出しては吸い込みを、気が狂ったみたいに繰り返していたのだった。

 静かなバスのなかでは、そんなぼくの大袈裟な呼吸音ばかりが響き渡っていた。それはまるで、周囲の環境音もろとも絡めとって、ぼくがここにいることを示し出しているみたいだった。脈という脈が梅雨の冷たい空気で凍てついてゆくみたいに、なかなか呼吸は苦しく、すぐに整ってはくれなかったけれども、そうして息を吐き出し、息を吸い込み、といったとてつもなく当たり前のことが、ぼくには不思議と快感であるようにも思えて、ただ確かに苦しいことには違いなくて、ぼくにはもうなにがなんだかよく分からず、それでもひとつ分かることは、自分がいつまでもこのバスに乗っていたいと思っていることだった。永遠にこのバスに乗り続けて、そしてどこでもないどこかに運んでくれるのをぼくはいつまでも待っていたかった。けれども小学六年生のぼくは、バスはどこでもないどこかではなく、毎日同じ区間をまるで公転するみたいに走り続けているだけなのだと知っていたし、それに、ずぶぬれになったジーパンのポケットにはたったの百四十円しか入っていないことにも気が付いていた。それは電車で隣の駅近くにある塾に行くための電車賃で、遠くに行くにもお金が必要なこと、そんなことを改めて考えると、天国に行くのでさえももしかしたらお金がかかるのかもしれないなと、そんなとてつもなく突飛な一空想でさえも、どこまでも真に迫っているように思えてしまって仕方がなかったのだった。 結局ぼくが乗っていたのは、停留所にして二つ分。最後まで、本当に百四十円で足りていたのかは分からなかった。けれどもどのみち、ぼくにはそれ以上の金額なんて支払えないのだ。握りしめていた小銭だけ置き去りにしてバスを降りてしまった後ろで、運転手がなにかを叫んでいるのが聞こえてきて、もうどこにも逃げ場なんてないような気がしていた。それでも数少ない逃げ場を見つけていたくて、ぼくは降りしきる雨のなか、一度も振り返らず走り続けたのだった。バスに乗っていたときと同じで、目的地なんてものはどこにもなかった。地球の果てなんて行けるわけがないのに、地球の果てにだって行けるような気がしていた。いや本当は、そんな風に思っていないと、いきなり走れなくなるような気がして怖かったのだ。そうして、溶け始めていた脈がふたたび凍り始めるみたいに、誰の声も聞こえなくなったころ、その先にあったのは、今まで一度も来たことがない、みすぼらしい造りをした公園だった。


                   ※


 ぼくは雨に晒されながら立ち尽くし、だんだんと冷静になり始めていた。改めて周囲を見渡してみても、自分が今現在どの付近にいるのすら分からなかった。まったく知らない風景がぼくのことを取り巻いていて、ぼくは、自分がもう二度と帰ることのできないどこか遠くに来てしまったように思えた。けれどもそのことに不思議とすこしの不安も感じられなかった。それがなぜなのかと考えて、すぐに、自分が本当は、どこでもないどこかに行きたかったからなのだと思い当たった。それはきっと隣町の一つの公園に過ぎなかったのだけれども、そんなことも都合よく忘れてしまって、ただただ無軌道に、ふらつくように、移動することがどこまでも公転することとはかけ離れているのだと信じ込むように、ぼくは、何の考えもなしに公園の中に入っていくことにしたのだった。 

 その公園は見れば見るほどことごとく頽廃していた。看板が入口の近くに立っていたけれども、塗装が剥げて名前は分からなかった。場所も、樹木が生い茂った暗がりのなかにひっそりとあって、遊具は、寂れたブランコがひとつと滑り台がひとつあるだけだった。中心にはあたかも象徴的であるかのようにひとつの柱時計が立っていたけれども、それはただあべこべな時刻を示すだけの柱にすぎず、端っこには、おまけ程度にところどころ木製のベンチが並んでいた。ぼくには、根拠なんてないけれども、この近くに住んでいる人たちでさえ、この公園のことなんて知らないような気がしていた。それくらいその公園の気配は、賑やかな表通りとは対照的だった。暗がりで、降ってくる雨さえも、絵画の雨みたいに黒く色づいているような気がした。その公園は、ぼくが以前よく行っていたあの空き地みたいに、誰かがいることなんて一度もないような、そんなただ存在するだけの場所であるような気がしていた。存在を忘れ去られて、忘れ去られたことさえ誰にも気づかれないようなそんな雰囲気が、常に辺りを漂っていた。 

 けれども実際は、象徴的にも見える高い柱時計のすぐ下で、ひとりの少女が裸足のまま立ち尽くしていたのだった。 

 その少女は、雨の降る空に手を翳すように、自身のすぐ頭上を見上げていた。そんな彼女の視線は、一目見ただけだと、降りしきる雨に向かっているように見えたけれども、それからしばらく観察していると、本当は広がっている風景のどれにも向かっていないようにも見えた。一対のガラス玉のように、ただただ目の前の光景を映し出しているだけで、もっと他のなにかに対してその思索を寄せているようにも思えた。そして、ぼくには、そんな彼女の考えていることなんて当たり前のように分からなかったけれども、彼女のそういった様子を見ていると、なぜかいてもたってもいられないような気持ちになるのだった。 

 そうして、ぼくが、いったいどうすればいいのかも分からず、ただ彼女のことをじっと見続けていると、彼女はすぐにぼくが、自身のことをぼくが見ていることに気が付いたようだった。ぼくは彼女に気付かれて居心地が悪くなり、すぐにその場から立ち去ろうとしたのだけれども、そう思ったときにはすでに遅く、すぐぼくの近くにやってきてこんな風に言ったのだった。


「靴をなくしちゃったんだよ。」


彼女はぼくに向かってそう言いながら笑顔を造って、そのときやっとぼくは、彼女が同じ小学校の隣のクラスの女子であることに気が付いた。今までずっと忘れていて、けれども唐突に何かしらのトリガーによって記憶が呼び戻されたかのように、ぼくは、そのことを思い出したのだった。日々過ごしていてまったくない体験というわけではないけれども、その体験がいささか奇妙な感覚ではあることに間違いはなかった。自分がとある事象を覚えていたというその事実自体に戸惑ってしまうのだ。 

 ぼくは彼女と一度も同じクラスになったことはなかったし、ぼくの通っている小学校は同じ学年だけでも六クラスあって、全員の名前と顔をひとつも漏らさず覚えるのはなかなか難しいことだった。事実、五年間も在籍しているのに、同じ学年のほぼ半数以上の名前を、ぼくは未だに覚えていない。けれどもぼくは、彼女を一目見ただけで、すぐに、彼女にまつわるあらゆることを思い出したのだ。名前こそまったく分からなかったけれども、ぼくたちふたりしかいないこの空間において、名前なんてものは大した要素ではなかった。ただひとつ重要なのは、ぼくが彼女のことを覚えていて、彼女がぼくのことを少なからず覚えているということだけだった。ぼくの記憶する彼女はいつだって、教室の端っこにある自分の席に身を潜めるように座り、何十冊もある文庫本を読み漁っていた。


「どこでなくしたの」


ぼくがやっとのことでそんな風に訊ねると、彼女はよく分からないといった表情できゅっと首をかしげていた。そしてあたかもそれが普通のことであるかのようにこんな風に言い放ったのだった。


「空を飛んでいたらね、靴だけがどこかに飛んでいっちゃったんだよ。風がね、わたしの言うことを聞かないの。風も雲も雷も一緒になって、みんな雨を降らせて、わたしをこんな場所に置き去りにした。きっとかまって欲しくてしょうがないんだね。それでね、もとの場所に戻れないようにしちゃったの。」


ぼくはそれを聞いて、彼女が本当に空を飛ぶことが出来るのか、どこが彼女の言うもとの場所なのか、当たり前のようにそのすべてが分からなかったけれども、ただただ黙って彼女の話を聞いていた。それ以上になにかを訊いてみたり、細かく知ろうとしたりもしなかった。それは、彼女が言うことに興味がなかったというわけではなく、ただただ彼女がそんな風に言うのならきっとそのすべてが本当なのだと、根拠のない確信がぼくを満たしていたからだった。


「それならぼくも探すの手伝うよ」


そう言ってぼくは彼女の隣を歩いて、一緒に失くしてしまった靴を探し始めたのだった。


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 結局その日中探していたけれども、彼女の靴が見つかることはなかった。公園の外に出て、彼女が直前までいたという深い緑で覆われた森の中を、ぼくたちはかなり長いこと探していたのだけれども、それでも彼女の靴がどこかから出てくる気配はなかった。いや本当は靴が見つかるかどうかなんて、どこまでもどうでもいいことだったのかもしれない。ぼくは何度か彼女にどんな特徴の靴だったのかとか、いつ頃靴を落としたのかだとか、そんなことを流れる空気を塗り固めるみたいに訊いてみたのだけれども、彼女はついに最後までそれを教えてはくれなかったし、よくよく考えてみたら、ぼくも特に深く追求したいわけではなかった。そうして質問をやめてからのぼくは、どこでもないどこかを目指して突き進んでゆく彼女に、ただ付き従うように歩いていただけだった。そのあいだのぼくたちには、当たり前のように生産的な会話なんてなかったし、なにかを口にしてもすぐ、その末尾だけ切り取られてしまったように、その声もろともどこかへと消えていってしまうのだった。それはまるで数分前に降りやんだにわか雨のようで、ぼくたちは無理やりその言葉の接ぎ穂を探っていくみたいにずっと喋り続けていたのだった。 

 けれどもそんな距離感が、息苦しくて居心地が悪かったかというとそういうわけではなく、むしろぼくは、歯車が綺麗に噛み合ったかのような心地よさを彼女の隣で感じていたのだった。今まで、ほとんど関わり合いがなかったということがまるで嘘だと思えるくらい、ぼくたちはお互いに馴染んでいるように思えた。そして、ふたりとも、心の底でなにか喋ることを深く求めていないのは、その空気感からもお互い理解していたのだけれども、気が付けばふたりとも数々の言葉を無為に口にしていたのだった。


「わたしはね、その気になれば天気を自由自在に操れるんだよ。みんなわたしの友達で、わたしの頼みならなんでも言うことを聞いてくれる。あなたは、これがどういうことだか分かる?」


彼女が訊いてきたので、ぼくはしばらくのあいだそのことについて考えてみたけれども、当然のように分からないままだった。ただぼくにはできないことが彼女にはできる、それだけのことしかぼくにははっきりと言えなかった。 

 ぼくが答えを一向に出さないので、彼女は数秒経ったところでしびれを切らしたように、ふたたび口を開いた。


「天気っていうのはね、多くのひとたちの気分を左右するの。それはつまりね、みんなの浮いたり沈んだりする感情、そういうものも思いのままに操れるってことだよ。」


彼女はそんな風に少し誇らしげに言った。けれども、すぐにため息を吐くようにこう続けたのだった。


「そう、雨も雷も嵐もぜんぶぜんぶわたしの思いのままで、みんなの感情もぜんぶぜんぶ思いのまま。なのに、今日はどうしてか分からないけども、雨も雷も嵐も、みんなみんな怒っちゃって、わたしだけね、こんなところに飛ばされちゃった。」


彼女が少しだけ自嘲的にそう言うのを聞いて、ぼくはぱっと思いついたことを訊ねる。


「雨とか雷とか嵐はさ、どうしてそんなに怒ったの?」


彼女は答える。


「それはたぶんね、わたしが、あまりにも自由気ままにやり過ぎたからだと思う。本当の理由はそのとき聞けなかったから分からないけどね。でも、理由を訊いても怒ってなにも答えてはくれないし、だから具体的にどうすればいいのかも分からない。もしかしたら、何日も連続で雨にして、みんなを疲れさせちゃったのかもしれない。」


そんな風に言う彼女は、自分がユピテルの遠い遠い子孫だという風に言っていた。天気を司り、自由自在に雨や嵐を発生させる、その才能が現世で彼女にだけ偶然引き継がれたということだった。そうしてそんな風に彼女と長いこと話していると、ぼくもいつの間にか過去に偉大な天文学者だった家系の遠い親戚ということになっていた。


「ぼくの先祖はね、遠い遠い昔望遠鏡を開発したんだ。とにかく遠くの景色を見たかったから。それで遠く遠くにある月とかを見てた。ぼくもね、その気持ちがすごく分かるんだ。どうしてぼくたちが遠くを見たいのか、でも分かるんだけれども、それをうまく言葉にはできないんだ。」


そう言うと、彼女は訊ねる。


「それは、ここより更に遠くに、自分の欲しいなにかがあるかもしれないから?」


ぼくは少しだけそのことについて考えて、けれどもすぐに首を振った。


「いや、違うかもしれない。むしろ遠く遠くのどこか、いやどこかでもないその場所に、なんにもなければいい、と思う。」


そして考えたことを一から紡ぎあげるようにそんな風に言うと、彼女も少し空を見上げながらそのことについて考えていて、それからぼくの意見に少し共感したみたいに小さく肯いた。


「分かる、かもしれない。」


彼女がそんな風に言うのを聞いて、ぼくは彼女を見つめた。それは少し不思議な感覚で、そうしてその感覚に浸っているあいだ、ふと自分の意見が誰かに肯定されるということが、今までの人生においてほとんどなかったということに気が付いた。 

 それからしばらく経った頃、彼女はさらにこう訊いてきた。


「あなたの先祖はどんな人なの」


ぼくは少しだけ考えるふりをした。けれども考えるべきことなんてひとつもなかったし、もともと言えることも限られていた。


「よく思い出せないんだ」


ぼくがそう言うと、そんなぼくの答えを補足しようとするみたいに、彼女はまた口を開いた。


「ハンス・リッペルハイ。」


ぼくは肯いた。


「そんな名前だったかもしれない。」


彼女はまた口を開く。


「それかガリレオ・ガリレイ。」


ぼくはまた肯いた。肯きながら重力にそのまま従っているみたいだと思った。


「もしかしたらそんな名前だったかもしれない。でもね、よく覚えてないんだよ。ぼくは理科がそこまで得意じゃないから。」


ぼくはいい加減な口調でそんな風に言った。 そうして、ふたりでなんでもないことを話していると、ぼくたちは、いつの間にかもといた公園に戻ってきていた。めぼしいところはあらかた探したのだけれど、靴はとうとう見つからなかった。いや、本当は探しているように思えて、まったく探してなどいなかったのかもしれない。ふと辺りを見渡してみると、すでに景色は暗い暗い闇に染まっていて、気付けば日も完全に沈み切っていた。ぼくたちは暗い空になにかを求めるでもなく、ただ心の置き場を探し出すみたいに、しばらく自分たちの遥か頭上を眺めていた。けれどもそれから数秒と経たないうちにまた彼女が口を開いた。


「見つからなかったね」


彼女は今の状況をただ伝えるみたいにそう言って、それから笑顔を浮かべていた。ぼくは彼女のことを正面から見つめていたけれども、それがいったいどういった種類の笑顔だったのか、暗がりのせいではっきりとは分からなかった。いや、あるいは、それは暗がりのせいではなかったのかもしれない。ともかくぼくには、その笑顔に対して、どんな風に応えればいいのか分からなかったのだ。そして分からないけれども、ただ切実に、彼女と別れたくない思いだけ、ぼくのことを満たしていたのだった。

 それでも彼女は、ぼくのそんな思いを軽く振り切るみたいに、そのなにを考えているのか分からない表情でぼくに小さく手を振ってきた。その華奢な指先が、残像のようにぼくの視界に映りこみ、ちらついていた。その瞬間ぼくは、本来なら感じる必要のなかった名残惜しさを心の底からつよく感じて、ぼくはそんな自分の単純さが少しだけ嫌になった。 

 それでもぼくはすぐさま手を振り返した。どれだけ自分が満たされていないのかなんて、彼女にだけは知られたくないと思った。彼女にだけは、見えているすべての要素だけで対していたいと思った。すると、彼女は手を振りながら、今にも消えそうな声で呟いた。


「じゃあね、リッペル」


ぼくは一時間前からリッペルになっていた。そうしてぼくも、彼女に応えるように手を振りながら呟く。


「さよなら、ユピテル」


彼女はユピテルで、きっと数日前はもっと違う存在だったのかもしれない。でもただそれだけがすべてであるように思えた。確かに名前なんて、世界においてどこまでも些細な要素なのかもしれないけれど、彼女がぼくを認識し、ぼくが確かに彼女を認識していること、仮にでも名前を口にするとそのことを強く感じられるような気がして、認めたくなくても、ぼくはきっとそれが嬉しかったのだ。彼女がぼくのことを呼ぶのに呼応するように、ぼくもそう呼んでいた。そうして自然に出てきたユピテルという言葉は、無根拠に、それでも彼女に似合っているような気がした。 

 ぼくがそんな風に言うと、彼女がその瞬間、幽かに笑ったような気がした。そしてそれは確かにぼくに向かって笑いかけているように思えたのだった。ただ、そう思ったのも束の間、彼女はぼくにすぐさま背を向けて帰るべき場所へと帰っていった。彼女のほっそりとした後ろ姿がだんだんと小さくなっていって、霞んでゆくように消えていくみたいで、ぼくは、そんな彼女の後ろ姿を、なんの意味もなくいつまでもじっと見つめていたのだった。 

 そうして彼女の姿が完全に見えなくなってしまった後で、ぼくも彼女と同じように帰路についた。今現在いる場所が果たしてどこなのかは未だに分からなかったけれども、そんなことなどとてつもなく些細なことに思えた。できるならどこかに帰りつくより、そのまま闇のなかで彷徨い続けていたいと思っていたほどだった。行き場をなくせばすべての世界がぼくのためだけに、ぼくたちのためだけにひらけてくれるような気がしていた。 

 けれどもそんな熱に浮かされたような考えも、あるものを見つけたことで、一瞬で消え去ってしまうのだった。 

 ぼくは帰りがけ、公園の茂みからちらりと姿を覗かせているある物体に気が付いた。それでぼくは訝しく思って、その物体を手に取ってよく見てみた。するとそれは誰かが捨てたと思しきスニーカーの片方だったのだ。そして偶然なことに、ぼくはそのスニーカーに対して異様に見覚えがあった。いや、忘れるはずがない。それはぼくがクラスメイトに投げつけられた、あの靴とまったく同じものだったのだ。 

 ぼくは、その暗い空になにかを求めるように、自身の遥か頭上をじっと見上げていた。月のない夜だった。


                 ※


 今日は逃げることができなかった。学校の裏門から抜け出そうとしたところをクラスメイトに見つかり、ぼくはそのうちのひとりに足を引っかけられ、派手な姿勢で転んでしまったのだ。それによってぼくの衣服は暗く黒く汚れてしまった。そして、昨日より激しく降る雨のなかで、彼らのにやにやと笑った表情が、ぼくの視界の端で、錯乱したみたいにちらついていたのだった。一緒にアメーバが目の端を通り過ぎてゆき、点滅するように黄色の光が視界を覆い、雨のせいなのか、それとも他の要素のせいなのか、それすらも分からないうちに、意識がだんだんと遠のいてゆくのをぼくは感じていた。このまま雨の降る地面に横たわって、なにも考えずに眠ってしまいたい、そして気づかないうちになにもかもから逃げられるような場所に消えてしまいたい、とそんなことを思い始めていた。けれどもそのとき、突然みぞおちに刺すような痛みが走って、ぼくは朦朧としかけていた意識をふたたびはっきりと取り戻したのだった。 

 そうして自身のすぐ頭上を見上げてみると、クラスの学級委員が彼らとは対照的に無表情でぼくのことを見下ろしていた。彼がなにを考えているのかはぼくには分からなかった。いや彼でなくてもぼくには他人の考えていることなんて分からない。どうすれば彼らを怒らせないで済むのか、どうすれば彼らが笑っていられるのか、どうすれば彼らがぼくに構わなくなるのか、ぼくにはきっと、永遠に分からないのだ。


「空気が読めないから、人の気持ちが分かんないから、俺たちが言葉と一緒に身体に教えてあげてるの。分かる?」


そう言って数か月前クラスメイトのひとりがぼくのことを嗤っていたのを思い出した。ぼくはそのときの彼らの気持ちをふと考えようとしたけれども、はっきりと思い起こせたのはそのときの物理的な痛さだけだった。 

 学級委員は、なんにも抵抗しないぼくのことをしばらく見つめていた。けれどもそれから、人工的に造られたかのような笑みを浮かべて、またぼくのみぞおちを無感動に蹴り飛ばした。 

 ぼくが濡れた地面にうずくまって嗚咽をこぼしていると、彼は、周囲にいる誰にも聞こえない、ぼくにだけ聞こえるような声でそっと呟いた。


「魔女は昔から、人の気持ちが分からないものだと相場が決まっている。それが本当だろうが嘘だろうが関係なんてないんだ。正直言うとさ、僕もきみの気持ちなんて、微塵も理解できないんだよ」


彼はそう言って、乾いた声で笑い出した。なにが可笑しいのかぼくには分からなかったし、きっと周囲にいるクラスメイトも彼がなんで笑っているのか分かっていなかったけれども、彼らはひとりで笑っている学級委員につられるように笑っていた。雨のせいで、それぞれに響く音が人為的に切り取られたかのようにはっきりと聞こえてきていた。ぼくはそんな音のひとつひとつだったり、彼らがぼくのことを嗤っている状況だったり、そのすべてがたまらなくなって、なかばため込んでいたものを吐き出すみたいにこう言った。


「ぼくは魔女なんかじゃない」


彼はそれを聞いて、そんなぼくの一言一句のすべてを予期していたかのように、こう言った。


「魔女じゃなくてもなれるさ。他人がきみを魔女にするし、きみがきみ自身を魔女にするんだ。それにさ、きみは、きみたちは、天文学者にだってなれるし、大地を司る神にだってなれるじゃないか。きっとこの世界で、なれないものなんてないよ。」


彼はそう言って、さらに可笑しそうに笑っていた。それを聞いてぼくは、改めて彼の顔を見上げていた。彼の今しがた言い放ったことがぼくにはいつまで経っても信じられなかった。そしてその状況をはっきり理解したいとも思わなかった。なにもかも聞かなかったことにしたいと思った。できることなら、それらのすべてを忘れ去ってしまいたいと思った。けれども、視界の端で、百メートルくらい先の停留所から、バスが走り出しているのが見えて、そして昨日も丁度この時間バスが発車していたことを思い出して、どこまでもぼくだけの世界なんて、ぼくたちだけの世界なんて存在しないのだと思い知ったような気分になった。 

 そのときぼくの頬が微かに紅潮していたのが自分でもわかったけれども、すぐに雨水に晒されて元通りになった。もうすでに恥ずかしいと思うことすらも無意味であるような気がした。それからは、ただ昨日拾った靴を彼女に渡したいということしかぼくにはもう考えられなかった。本当ならその靴が彼女のものであるということも確かではないはずなのに、ぼくは直感的にそう信じ込んでいたのだった。 

 一時間弱経って、彼らがいなくなると、ぼくは昨日も乗ったあのバスが発車するバス停に向かって、ゆっくりゆっくり歩き始めた。


                 ※


 見覚えのある停留所には拍子抜けするくらいあっさりと到着した。そしてそれはもちろん、冷静に見てみると、地球の果てなんかではなく、ただ少しばかり閑散とした普通のバス停だった。ぼく以外にも何人かが同じようにその停留所で降りていった。二百八十円を濡れたズボンのポケットから取り出して支払うと、バスの運転手はぼくのほうを見て少しばかり顔をしかめていたけれども、そこから特別なにか言ったりすることもなく、また自身の手元にあるハンドルに向き直ってしまった。そのときのぼくは、なにに対して感じているのかさえ分からない恐怖感にずっと支配されていたけれども、なかばむりやりそれを振り切るようにして、そのままバスを降りた。そしてまた息が切れるくらいに走り出して、昨日も行ったあの公園を目指し始めた。


 そうしてだいたい五分くらい経った頃、ぼくは昨日も来たあのみすぼらしい公園を見つけ出したのだった。時刻のでたらめな柱時計は、その中心に聳え立っていて、古びた滑り台とブランコも、昨日と変わらず同じ場所にあった。そして昨日そこにいた彼女も、さも当たり前のことであるかのように変わらず柱時計の下にひとり裸足で立っていて、ぼくはそんな彼女を見つけた瞬間、すぐに彼女のところに行こうと思ったのだけれども、そう思ったのも束の間、ぼくは、すぐ思い立ったようにその場で立ち止まった。そして彼女から見えないような位置に隠れて、そこから彼女のことをちらちらと覗いていた。彼女は確かに昨日と同じように雨の降りしきるなか、ひとりで立ってはいたけれども、それでもどこか昨日とは様子が違っていた。それははじめ、直感的な違和感でしかなかったけれども、そこからしばらく彼女のことを見ていると、すぐにその違和感の正体を理解した。 

 彼女は誰かに語りかけるでもなく、ひとりでになにかを呟いている。そんな弱弱しい彼女の声が、公園の中心から微かに聞こえてくる。


「ああした、てんきになあれ」


そして、それと同時に彼女は、右足に片方だけ履いていた靴を高く蹴り上げた。蹴り上げた靴は宙でくるくる回転しようとしたけれども、すぐさま降っている雨の重力で鈍い音を立てて泥濘んだ地面に落ちた。彼女はその靴をもう一度拾い上げると、ふたたび右足にその濡れた靴を履いて、宙に向かって蹴り上げた。そんな光景を、ぼくは見ていていいのかも分からないままじっと見ていた。そのときになってぼくは初めて、彼女が、靴を右足にだけ履いていたことに気が付いた。 

 そうして、何度も蹴り上げられた靴は、そのたび、空に向かって上を向いたり、下を向いたりしていた。そして彼女はまるでその結果に本当に一喜一憂するみたいに笑ったり悔しがったりしていた。けれどもそんなころころと移り変わる表情すらも、どこか軽薄で中身の伴っていないもののようにぼくには思えて、ぼくはそんな彼女をただ見ているだけで、わけもわからず息をすることさえ苦しくなるのだった。 

 けれども、それからしばらく経った後の彼女の行動は唐突だった。彼女はいきなり、最後の最後にめいっぱい力を籠めるかのように、片方だけ履いていたその靴を公園の端にある茂みに蹴り入れてしまった。靴は茂みに擦れるような音をして入り込み、完璧に見えなくなった。そして昨日のように完全に裸足になってしまうと、なにもかも昨日ぼくが見た光景と同じように、彼女は、空になにかを見出すみたいに途方に暮れ始めたのだった。 ぼくはあたかも今しがた公園にやってきたかのように彼女に近づいてゆく。彼女はそんなぼくに気が付いて手を振り、ぼくのずぶぬれの服装にも言及しないまま、またこんな風に言った。


「靴をなくしちゃったんだよ」


ぼくはその言葉を聞くと、まるで昨日に戻ってしまったかのような錯覚に襲われた。彼女は、ぼくが今さっきまで隠れて見ていたことなんて、まったく気が付かないまま、同じ様に、ぼくにさまざまなことを言って聞かせていた。その瞬間、彼女はまたユピテルに戻り、ぼくもまたリッペルに戻った。意味のないやりとりは、また昨日と同じように繰り返され、それはとてつもなく苦しいものであるはずなのに、まるで息が切れたときに吸い込む冷たい空気のように、確かな清潔さを持ち合わせていて、そして同時に得体の知れない居心地のよさをぼくに感じさせた。「みんな、いたずらが好きなんだよ。」と言った彼女に、ぼくはとうとう持っていた靴のことを切り出せなかった。探していた靴が見つかったら彼女はきっと喜ぶに違いないと、さっきまで確かにそう思っていたのに、今となってはそのことすらはっきりとした確信を持てなかった。そうしてぼくは、ランドセルの奥底に入っている靴については触れないまま、そして彼女自身が茂みに蹴り入れた靴についても触れないまま、昨日と同じように、きっと一生探し出すことができない靴をふたりで探し始めたのだった。


「きっとみんなね、怒ってなんかないんだよ、本当は。ねえ、感情をもし自由自在に操れたとして、それでも自由にできないものってなんだと思う?それはねいたずらだよ。だって、好きとか嫌いとか、善いとか悪いとか、嬉しいとか悲しいとか、そういうものとはさ、まったくべつの次元にあるんだもの。」


そんな風に言う彼女の声を聞いているだけで、ぼくはいてもたってもいられない気持ちになった。そして彼女の隣にいることでの居心地のよさを感じながらも、同時に彼女に未だ渡していない靴のことがずっと頭のなかに引っかかり続けていたのだった。  そして当然のように靴は見つからないまま夜になって、ぼくたちはまた意味もなく公園に戻ってきていた。彼女とはもう別れなければいけないけれど、昨日見つけた靴を彼女に渡すべきなのか、ぼくは未だに決めかねていた。そもそもその靴がぼくの記憶に留まっただけで、本当は彼女の物でない可能性もあるのだ。ぼくはふと教室でのことを思い出した。彼らの嘲笑するような目を思い出した。なにもしなければ、もう、彼女は帰ってしまう。昨日と同じように彼女がぼくに「さよなら、リッペル」と言った。ぼくも、ただ何事もなく終わればそれはそれでいいのかもしれないと思って、そのまま手を振り返そうとした。 けれども実際ぼくは、手を振り返さなかった。


「昨日、靴を見つけたんだ」


ぼくはなかば告白するかのようにそう言うと、彼女が夜の暗がりのなかでも確かに驚いているのが分かった。ぼくはランドセルの奥底から、片方だけ見つかった靴を取り出す。くすんだ色をした右足のスニーカーだった。そして彼女はそのスニーカーをはっきりと認識した瞬間、確かに顔を歪ませていた。それはどこからどう見ても靴を探し出したかった人の表情には思えなかったし、それを見た瞬間ぼくはこのことを切り出したのを少し後悔した。けれども今さら引き返すことは出来なくて、ぼくはそれを彼女の目の前に差しだしたのだった。


「昨日、きみが帰った後で探したんだ。そしたら茂みのところから出てきた。前この靴を見たことがあって、それで思い出したんだ。」


「見たことがある?」


彼女はわけが分からないと言った表情でそう訊いた。それに対してぼくは答える。


「ぼくはあいつらに、この靴を投げつけられて、痛かった。なにも分からないのに、痛さだけははっきりと分かるんだね。それがきみの靴だろうが、誰の靴だろうがきっとおんなじように痛い。ねえどうして痛さって、誰から受けるものでも関係なく痛いんだろうね」


ぼくは自分で自分がなにを言っているのか分からなかったけれども、気が付いたらそう吐き出していた。彼女はそんなぼくのことをじっと見つめていた。それはなかば睨みつけているようでもあった。それでもぼくは、言おうとしていたことを止めることが出来なかった。


「きみもそうなんでしょ。」


彼女の目つきはさらにぼくを睨みつけるみたいになった。それでも彼女は口を開かなかった。


「ねえ、」


ぼくはまたそんな風に言いながら、さらに彼女に向かって語り掛けている。


「魂なんて宿らないのかな」


彼女は答えない。


「きっとぼくたちは魔女じゃないよね」


彼女は答えない。


「発明家でもないよね」


彼女は答えない。


「たぶん、神様でもないね」


彼女は答えない。


「ぼくたち、きっと何にもなれないね」


彼女は答えない。それでもぼくはその願望でしかない言葉を、ただこぼすように言った。


「いっそのこと、ぼくたち、本当に人の感情を自由にできたらよかったのにね」


そう言った瞬間、彼女はぼくから持っていた靴を引っ手繰って、それを目いっぱいぼくのみぞおちに投げつけた。それはほんとうに一瞬のことで、ぼくは意表を突かれたようにその場に倒れ込んだ。そして彼らに蹴られたときのように地面に蹲って、激しい嗚咽をこぼした。身体を貫かれたみたいに鋭い痛みが走って、すぐに立ち上がることができなかった。自分の呼吸の音と、耳のわきで激しく降りしきる雨の音がうるさかった。


「やめて、やめてよ」


そこで初めて彼女は、泣き叫ぶように言った。当たり前のようにそんな彼女の声を聞くのは初めてだった。そしてぼくが立ち上がろうとする前に、彼女のほうがしゃがみこんで、ぼくに掴みかかった。ぼくたちはお互いずぶ濡れで、ひどく汚れた服で、そしてとてつもなくひどい顔でもみあっていた。でも、彼女がそのとき泣いていたのかどうかは、降っている雨で分からなかった。ぼくもぼく自身が泣いているのか分からなかった。涙が見えなければ泣いているのかは分からないし、それ以外の要素から人の気持ちを察することが出来るほど、ぼくは思慮深くもなかった。 

 それからというものの、彼女は、ぼくの身体をめいっぱいに叩きつけてきた。そのたびに叩かれた部分は傷口の痛さ以上にじくじくと痛むように思えた。そしてそれはなぜか、ぼくの痛みというだけではなく、彼女がたった今感じている痛みでもあるような気がしていた。


「分からない、分からないんだよ。人の気持ちなんて。」


震えながら、そして叫ぶように彼女がそう言うと、ぼくも彼女の身体に触れながら「分からない、分からないんだ」と気が狂ったみたいに言っていた。そしてふと思い出したクラスメイトの彼らのことを頭のなかから振り払いながら、ぼくは気が付けば、「ねえ、どこか、どこでもないどこかにふたりで行ってしまいたいね」と言い放っていた。 

 けれども彼女は泣きながら、「むりだよ」と言った。そして「馬鹿、馬鹿」とぼくに言いながら、さらにぼくのことを叩きつけた。


「風を操れるのに、靴が必要になるような想像力だったんだね、所詮。ああ、神じゃないからさ、どこかに行くには、もう電車にでも乗るしかないんだよ。」


彼女がそう言って、ぼくは答える。


「いや、バスだって使える。」


ぼくが言って、その瞬間、彼女は少し哀しそうに笑った。そうしてユピテルでもリッペルでもなく、ぼくたちはただの劣等的な人間になった。


                  ※


 結局ぼくたちはどこにも行くこともないまま、夜の公園のブランコにふたりで座っていた。さきほどまで降っていた雨はすっかり止んで、虫の鳴く声とブランコの軋む音だけが聞こえる。ぼくたちはお互いになにも言葉を口にしないまま、深い藍色に染まった夜空を見上げていた。


「人の気持ちが分からないなら、きっと、それ以上の想像力がなきゃいけないんだよ。それ以上の感性で、世界を見なきゃいけない。でも、わたしには、感情とかそういうものを分かりたいのかどうかさえも分からない。」


彼女はそう誰に伝えるでもなく言った。ぼくもべつにその言葉を肯定するためでなく、ただ意味もなしに頷いた。


「人の気持ちは物語みたいにはいかない。この世界にはたくさんの物語があるのに、どのひとの感情もそれ通りにはいかない。」


彼女がそう言って、ぼくは答える。


「でもみんな、物語みたいな人生を送ろうとするよ。きみみたいに誰も想像を働かせようとなんかしていない。夜の空みたいな想像力が、きみにはあると思う。」


ぼくがそう言うと、彼女は微かに笑った。そして言った。


「いや、本当のところ、わたしにはなんにもないんだよ。ただ、見えてる気でいるだけ。想像力なんてものはね、結局、その場で辞書を引かなくても、言葉を使うことができるとか、たぶんそれぐらいの意味でしかなくて、ただ知ってるってこととなにも変わらない。でもさ、それでもさ、やっぱり月は綺麗だね。」


ぼくは改めて自身の遥か頭上を見上げてみる。いつの間にか深い藍色の空からは、分厚い叢雲が消え去っていて、そこに紅く大きな月が浮かんでいた。その月は、あのとき人のたくさんいる空き地で見た月とあまりにも似通っていた。


「いや、ぼくには少し怖い」


ぼくが言うと、彼女がぼくのほうを覗き込んだ。本当は少しも怖くなんてなかった。けれどぼくはもう、その月を怖いものとして見ることしか出来なかったのだ。でも一方で、あのときぼくがどんな風にその月を怖れていたのか、それを思い出すことも今のぼくには出来なかった。 

 気が付けば誰もいなかった公園に人が何人か集まってきていた。そのうちの誰かが「皆既月食だ」と言っているのが聞こえた。写真に撮っている人たちも多くいて、けれどもぼくはそれが、月になにかを感じているから撮っているのではなく、ただその月が見られるのが珍しいから撮っているのだと知っている。あのときもそうだった。ねえ、きっと誰も月なんか見ていないよ。それはたぶんぼくも彼女もそうだ。ぼくも彼女もいつか、あの人たちと一緒になる。感じた気になって、それでいて何にも感じなくなる。ぼくはその月を見て、そんなことを思いながら、同時に、ぼくのなかにあるなにかが、少しずつ枯れてゆくのを感じていた。


「皆既月食だね。」


ぼくが呟く。彼女も肯いた。けれども彼女は特になにも言わなかった。なにかの名前を知ること、なにかに名前を付けること、それがきっと大人になるということだ。名前を知れば、感度はたちまち麻痺してゆく。そして、大人になるということは、根幹にある感性が少しずつ枯れてゆくということだ。 そんなことを思っていたとき、いきなり彼女が、わずかに不揃いな靴の片方を、さっきみたいに蹴り上げた。


「ああした、てんきになあれ」


靴は綺麗に宙を舞って、上を向いて着地した。そうして着地した靴は暗がりと泥濘みのなかで更にみすぼらしく見えた。ぼくは、ただその靴を見ているだけでも苦しくなった。


「あ、明日は晴れだね。きっと」


彼女はそう言って笑った。それはなかば自棄になっているようにも見えたけれども、はっきりとは分からなかった。ただぼくにはなにも言えなくて、だからぼくも笑っていた。 そしてぼくたちは、昨日と同じようにさよならをする。けれどぼくたちは、誰でもなかった。何者でもなく、今しがた見ていた月の色も、すっかり思い出せなくなっていた。


 次の日は、一日中激しい雨だった。梅雨が明けたのはそれから二週間経った後で、奇しくも彼女が学校に来なくなった日と同じだった。

 彼女がいなくなって、また世界のすべてがぼくのことを否定し始めた。


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靴と月蝕 風何(ふうか) @yudofufuka

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