後編

「夕日は嫌い?」


 黙ったまま頷く僕の頭を、瞬が撫でた。


「俺は好きだよ。あの日のバスの景色を思い出させてくれるから。トーワは覚えてないでしょ。俺らはずっと前に友達になってたこと」

「えっ?」


 勢いよく顔を上げた僕に、瞬は微笑んだ。


 聞き間違いなんかじゃない。「統和とうわ」をトーワと呼ぶのは、僕の家族としーちゃんしかいない。


 ショートボブの女の子みたいなしーちゃんと、瞬の穏やかな瞳が重なった。卒園したころにはしーちゃんの本名を忘れてしまっていたけど、瞬が初めてできた友達だったんだ。


「しーちゃんなの? 雰囲気が全然違うから分からなかった。ずっと会いたいって思っていたのに、早く気づけよ。馬鹿」

「ほんとそうだよね。小学校の卒業アルバムで気づくとか最低だもん」

「違うよ。馬鹿って言ったのは、しーちゃんじゃなくて僕の方だよ」

「トーワは忘れててもしょうがないって。幼稚園のときはお姉ちゃんのお下がりを着させられてたから、制服と髪型でだいぶイメージが変わってたと思うし。俺は気づかないといけなかったんだ。トーワの担任が訳の分からない指導をしても、名字が同じことを気にするべきだったのに」


 トウワという読み方は変です。先生はノリカズと呼びますから、みんなも正しい名前で呼んであげてください。


 入学した翌日から、僕は渡里ノリカズになった。本当の名前が復活するまで、四年の歳月を要した。担任の異動と謝罪を聞いたとき、削られた心には恐怖しか残っていなかった。


 怪談では自分の名前を明かしたために、影が自分に成り代わった。名前が戻ってきた今、怪物達は僕の口からトウワと呼ぶことを待っていた。だから、小学校で定着してしまった名前をあだ名として許してきたのだ。


「卒業アルバムで気づいたんなら、どうして中学校に上がったときに教えてくれなかったの? 僕が冴えないモサ男になってたから?」

「髪だいぶ伸びたよね。でも、髪で隠れた目がすごい綺麗だから、冴えないなんて思ったことなかったよ」

「綺麗? どこが⁉」


 頬がカッと熱くなる。自分のことを悪く言っても、瞬はすぐに褒めてくれる。だからこそ接点のなかった期間の長さをいぶかしんでしまう。


「しーちゃんだって言ったら、俺のことを優先するよね。あのときも『吐いたの誰だ』って大騒ぎになって、トーワがかばってくれた。だから、トーワに俺以外の友達ができるまで待とうと思ったんだ」

「優しい……!」


 僕は両手を握りしめた。仲がよかっただけの古い友達のことを、気にかけてくれたことが嬉しかった。


「優しくないよ。かっこいい男になるまで、俺はトーワに会おうとしなかったんだ。幻滅されるのが怖くて、ずっと距離を置いてきた」

「幻滅なんてしない。一番の友達なのは変わらないよ」

「トーワが変えなくても、俺はもう無理だ。俺はトーワの友達になれない。友達以上でいたいんだ」


 頭の弾ける音がした。分不相応な願いを抱いてきたことが、ようやく報われるかもしれない。瞬の真意を確かめるために、僕は声を絞り出す。


「友達じゃなくて、親友になってくれるの? ずっと早川くんと仲よくなりたいって思っていたんだ。夢じゃないよね?」

「…………あぁ。現実だ」


 額に手を当てた瞬は、ひどい顔色だった。


「やっぱり具合悪かった? 今からでも保健室に行く?」

「保健室に行かなくても、俺の不調は治るよ」

「ほんと? 僕にできることがあるなら、何でも言って!」

「何でも……?」


 瞬の目に輝きが戻る。僕はほっとしながら同じ言葉を繰り返す。


「じゃあ、俺の質問に答えて。昔の俺と、今の俺、トーワはどっちが好き?」


 それは究極の選択だ。顔の輪郭も目もまんまるだった、愛らしいショタ。スパダリに成長していく過程を味わえる学生。商業だろうが同人だろうが、好みはときと場合による。だが、瞬なら話は別だ。


「僕の知ってるしーちゃんと、憧れの早川くんは同じじゃない。だから、どっちが好きか答えられないけど、もっと知りたいとは思う……」

「それは恋愛的な意味で?」


 最高品質のヘッドフォンを介さなくても、極上のイケボが耳朶に響く。ひそかに育んでいた思いは、闇に葬り去るべきだったと後悔した。


「答えて、統和」

「笑わずに聞いてくれる? しゅ、ん、くん」


 影は気にならなくなっていた。

 代わりに悩まされるようになったのは、うなじの痕跡だった。

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瞬く間に恋をした 羽間慧 @hazamakei

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