中編

 瞬は立ち上がった。


「みんな終わったよね。教卓の前に出して帰ろ」

「待って。あと五分だけここにいたい。補習なら部活に遅れても怒られないから」

「サボりがバレたらやばくね?」

「担任が顧問なのにいいのか?」


 僕も心の中で、早く帰りなよと言った。本当は教室に誰かいてほしい。時計の針はまもなく五時を指し、あの怪談が脳内で自動再生されてしまう。だけど、みんなに含まれない僕も教室に残る方が耐えられない。鼻をすする音で瞬の気を引きたくなかった。


 残りたいと言い出した男子に、瞬は訊いた。


「残って何をするの? 勉強?」

「まじめか。俺らのクラスは掃除の後ですぐ鍵かかるだろ? だから青春っぽいことやりたいなーって」

「たとえば?」

「踊ってみた動画を撮るんだよ。今流行ってるダンスなら、再生回数ガンガン稼げるし。瞬もやろうよ」

「えー? やらないよ。ダンスなんて」


 瞬の眉は下がっていた。いかにもダンスが得意そうな人の困惑した顔は、永遠に見ていられる。僕は問題を考えているふりをしながらご尊顔を見上げていた。


「いいじゃん。ちょっとだけ。バズりたいの」

「そういや瞬はめっちゃ有名人じゃなかった? ほかの中学だったけど、瞬のダンスの動画が回って来たんだ。運動会でも文化祭でもないのに、教室で踊ったやつ。スマホに残してるからすぐ再生できるぞ」


「さすが瞬。フツーの奴とは違うわ」

「大げさだよ。黒歴史だから動画消しといてくれよ」


 そんな動画は見たことがない。身を乗り出したくなるから、よそで上映会をしてくれないかな。

 興奮する僕と同じように、周りが見せろ見せろと寄ってたかっていた。


「とりあえず教室から出ない? ここじゃ迷惑になるよ。解いている人がいるし」


 僕と目が合う。いや、僕に視線を合わせてくれた。


 今日はいい日だ。名前を覚えてもらえないことなんて、どうってことない。


 高鳴った僕の胸は、より弾むことになった。

「そうだぞ。まだ渡里わたりが残ってるじゃないか。クラスメイトなら協力してやれ」


 あの今野先生が名前を呼んでくれた。しかも名字を呼び捨てで。子音の余韻が体中を駆け巡る。

「マジか。ごめんな渡里」

「き、気にしないで。また明日」


 僕はぎこちない笑みを浮かべる。悪気がないのは分かっていた。耳を塞ぎたくなる声の大きさは嫌いだけど、くだらないことで笑い合えるのは幸せな光景だと思える。僕が大事にしたい日常を壊さずにいてくれさえすればいい。


 クラスメイトがいなくなったことを見届けて、今野先生が僕の前の席に座る。


「渡里は予測不能の事態に陥ると、動揺が声に出るんだな。どうしようもなくなったときは泣いてもいいと思うぞ。大人になったら泣けるタイミングが見つからなくなる」

「急に泣いたらドン引きされますよ。それに、泣いているときに優しくされたら惚れちゃいそうなので、人前で泣きたくないです」


 受けの泣き顔は危険な代物だ。あまたの文献によると、涙以外の液体も大量に出る傾向が高い。包み込む優しさに身を委ねたくなるからだろう。


「そうそう。判断力が機能していないときはコロッといっちゃうんだよ。それで前のかれ……恋人と付き合うことになったんだよな」



 計算間違いしてるぞと、今野先生は該当箇所を突いた。焦りと後悔を飲み込んだ表情に、僕はすみませんと言った。「彼女と別れた」と生徒に嘘をついてきた苦しさを、僕なんかが盗み見ていいはずがない。


「なんかしんみりさせちまったな。つい愚痴ったけど、先生を気遣ってバイト先の先輩を紹介しなくていいぞ。今は恋愛より、お前らに数学を教える方が楽しいんだ」

「それならいいんです」


 話したくないセクシュアリティを無理に明かす必要はない。それに、一度は好きになった人と別れることだけでも、精神的に堪える。


 僕は深く言及することなく課題を提出した。今野先生にかけるべき言葉は、見つからずじまいのまま。






 昇降口に下りると、自動販売機前のベンチで瞬がうなだれていた。一緒にいたはずのクラスメイトはいない。


「早川くん。どこか痛いの?」


 膝をついて瞬を見上げると、頬が濡れていた。ハンカチを瞬の頬に当てながら訊く。


「保健室行く?」

「触らないで! 平気だから」


 手についた蚊を叩くように、瞬は僕を拒絶した。瞬の手が当たった部分より、心の方が痛くなる。


「格下のクラスメイトに触られるのは嫌だよね。余計な心配してごめん」


 瞬の涙がにじんだハンカチで、自分の顔を拭く訳にいかない。僕は適当な理由を言って帰ろうとした。


「余計な心配じゃないから。渡里が謝ることないよ」


 一度卑屈になった僕に、優しさはかえって毒だ。瞬に見せたくない鬱の顔をさらしてしまった。


「格下ってことは認めるんだ。いいよ、自分でもスクールカースト底辺だって自覚あるし」

「そこまで言ってないって。渡里、一旦ストップできる? 俺の良心がもう限界」


 隣に座ってほしいと言われ、僕は幻聴を疑った。あまりにも都合がよすぎる。


「ありがと。渡里に急ぎの用事がなかったら、俺の話を聞いてくれるかな」

「急に呼び捨て⁉」


 しかも、至近距離で微笑まれるオプション付き。あまりに幸せすぎて、走馬灯でもいいやと思った。返事を待ってくれていた瞬に、小さく頷く。


「さっきの教室で聞こえちゃったと思うけど。ダンス動画が回ったって話。本当は褒められた話じゃないんだ。オフで自主練しないといけなかったのに、教室で撮影しちゃった。そのことで顧問に怒られて、動画は消された。レギュラーは降ろされたし、スポーツ推薦候補も消された」


 腰を下ろした僕は、緊張と衝撃の事実で固まった。部活で焼けた勲章の裏に、悲劇の歴史があったなんて。


「じゃあ、どうして今でも動画が残ってるの?

「マネージャーが部活のホームページに動画を載せていたから。学校中にエアドロップで広まっていったんだよ。タブレットが学校から支給されることの弊害が、あんなところで出るなんてね。知らない後輩から、踊ってくださいって無茶ぶりを言われ続けたよ。卒業するまでの我慢って思ってたけど、まさか他校にも知られていたなんてね。削除したら七千円くれよなって言われたの、ショックだったな。デジタルタトゥーが身に染みて分かったよ」


 知らなかった。遠くで眺めていただけの僕には。

 気づけなかった。トロフィーを掲げた瞬が、人知れず戦っていたものに。


「早川くんをからかった奴らに思い知らせてやりたい。そういうの、いじめで脅迫だって」


 好奇な目が怖いことは、僕にも覚えがある。幼稚園の年少のとき、いちご狩りの帰りのバスで吐いた子がいた。僕とよく遊んだ友達だった。親の転勤で彼が引っ越して以来、会えていない。彼の代わりの友達を作るつもりはなかった。


『同じ名前の子がいるから、しーちゃんでいいよ。特別に呼ばせてあげる』


 塗り絵も折り紙もうまくてきなかった僕を、しーちゃんだけが明るく照らしてくれた。


『人間様と、お前の扱いが同じなのはまずいもん』


 我に返ると、あざわらうように西日が出ていた。足元の影から何人もの声が響く。


『消えろ、ノリカズ。さっさと遠くへ行けよ。朝からお前の顔なんて見たくない』

『自分の指に向かって話しかけるとかキモ』

『ノリカズのせいだぞ。俺らがいじめてるって怒られて、休み時間なくなったんだ』

『ノリカズくんは、眼鏡かければかっこよくなると思ってるの? ウケる。そういうの、イケメン以外ありえないから』


 思い出すな。泣けば瞬にすがりたくなる。今はまだ瞬の話を聞くターンだ。

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