瞬く間に恋をした
羽間慧
前編
眼鏡をかけている人は、真面目そうなイメージを持たれやすい。委員長や優等生、寡黙なキャラに与えられる属性となっている気がする。だけど、僕は頭脳も要領もよくない。テスト前の一夜漬けなんてできなかった。だから完全下校までの間、自習室で勉強していた。誰もいないリビングで勉強するのは落ち着かないのだ。夕方の影が自分を食らう怪談を思い出して、震えが止まらなくなってしまう。おどろおどろしい挿絵のせいで、一人きりでいることが怖かった。イヤホンで紛らわそうにも、心が押し潰れる感触が拭えない。
放課後になればすぐ避難場所に逃げ込んでいたのだが、今日は教室に残らざるをえなかった。数学の中間テストで赤点を取ったため、補習プリントを埋めるまで出ることが許されなかったからだ。過去に自習室で解くと言った生徒がすっぽかして帰ったせいで、授業担当の監視は厳しかった。
「テスト返しのときに解説をしているんだ。三十分で解けるようになっていないとおかしいよなぁ。理系志望の諸君?」
ぎらぎらと光る目は、応援と言うより恐喝だ。たいていの生徒は早く帰るために必死で問題を解く。だが、僕にとっては逆効果だ。溜息すら低音イケボなのに、ドキドキが止まらなくなる。あるはずがないネクタイが引っ張られる幻想も見えてしまう。今日も今野先生かっこよすぎる。すれ違いざまに肩を叩ける女子が羨ましい。同じ空気を吸える幸福だけじゃなくて、体温も分かち合えるんだから。
「いまちゃん、部活のメニュー教えて」
バスケ部の練習着がドアから顔を出し、今野先生を呼んだ。
「はぁ? 昼休みに部長に伝えたぞ。大事な成績加点チャンスなんだから、後輩の邪魔しないでやってくれ」
「部長が早退したの。副部長もいないし、ちょっとだけ部活に顔出してくれない?」
「しょうがねぇなぁ」
髪の毛を乱暴にかきむしる姿さえも、色っぽいと思えてしまう。今野先生にとっては、怒りを堪えるための行為のはずなのに。
「補習組。俺は一旦抜けるが、終わった人は教室に置いて帰れ。てきとーに出して帰ったら、担任に報告して放課後掃除でも何でもやってもらう。ちゃんとやれよ」
教室の空気が再び凍りついた。
今野先生の足音が聞こえなくなると、死神が去ったかのように息を吐く生徒が続出した。押さえつけられていた雑念も解かれる。
「早くスマホ触りたい。メンテもう終わってるよな」
「分かる。ウエディングガチャ楽しみにしてたんだ」
「公式が出した来月のカレンダー、水着ガチャが載ってなかった? 天井まで引いたら、またバイト代全部消えるんじゃね?」
「フラグになりそうなことを言うな! 無償石を貯めてるし、夏休みにバイトのシフト増やすからいいんだよ」
「ずるいぞバイト勢。こちとら恒常ガチャに追加されるまで、首をなが~くして待ってるんだ。金で解決すんな」
私語の多い教室は嫌いだ。だらだらと机に張りつくクラスメイト達は、特に声が大きくて嫌になる。何より、美少女育成ゲームの話題についていけない。
今野先生が早く帰ってきてほしい。シャツを腕まくりするだけで、目の保養になる。女子の胸やくびれに執心する変態と、一括りに分類されたくなかった。
どうせ変態と言われるのならば、僕は爽やかな美少年の汗になりたいと叫ぶ。
「なぁ、こいつら、ひでーんだけど」
こいつらの中に僕も含まれていないだろうか。邪な考えがうっかり口に出ていたら、からかいのネタになる。早くプリントを終わらせて逃げなきゃ。
「俺スマホ持ってないのに、仲間外れにするんだぞ。俺を癒してくれるのは瞬だけだ」
「確かにゲームは詳しくないけど、聞いてるの楽しいから俺は好きだよ」
会話の主が早川瞬に変わる。日に焼けた髪は茶色がかっていた。テニス部だった中学時代の名残だ。色素が薄いことを知らない人から頭髪検査されれば、黒に染めろと言われてしまう。生徒指導の先生から厳しく注意されても、瞬は笑顔で頭を下げていた。
『生活が乱れていないか心配してくださってありがとうございます。この髪は染色ではなく、部活で華々しい成績を修めた勲章です。面接のときもそのようにお話ししました。あのとき、先生が大きく頷いてくれたからこそ、自信を持って面接に挑めたのですが』
ほかの人が同じことを話しても、嫌味にしか聞こえないはずだ。瞬のこんがりと焼けたえくぼに愛嬌のある声は、チョコレートのように甘い。嫉妬が入る隙間はなかった。
俺は好きだよ、か。
録音が許されていたら、自分の名前を付け足したボイスを再生させたい。もちろん、最高品質のヘッドフォンで。苦節十年目でようやくなれたクラスメイトに、失望されたくなかった。
瞬の隣が脱力した声を上げる。
「だー! やっと解けたぁー! 黙ってやるより、声出しながらする方が気分上がるくね? 今野先生は硬すぎるよな~」
勉強方法や今野先生の頭が硬いことを言いたいのだろうけど、僕の頭の中は違う妄想でいっぱいだった。
『我慢するのやめません? 先生の声、聞かせてくださいよ。素直になってくれたら、触ってあげられるのに。キスだけじゃつらくなってきてますよね』
第三ボタンまで開けられた今野先生が瞬を見上げる光景は、まやかしでも艶やかだった。自分のネクタイを外す瞬の人差し指に、僕はこくりと喉を鳴らした。
どうしてうちの高校にはネクタイがないんだよ。妄想しながら非現実だと落胆するのは虚しい。今野先生のポジションを僕に置き換えて妄想しない方が虚しくないかだって? 瞬が隣に越してこないかなとか、途中まで一緒に登下校できたら、なんて妄想は数え切れないほどしてきた。でも、僕よりガタイが大きい人や女の子に間違われてしまうような可愛い系の方が表紙映えする。瞬と同じ空気を吸えるだけで、おこがましいと思っていた。初恋は叶わないから美しくいられるのに、同じ公立高校を受験してしまったのは意思の弱さでしかない。
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