実話怪談

朝吹

実話怪談

 

 わたしには霊感がない。

 まったくない。

 これを書きながら、霊感と怪談って同列に語れるのか? と首をひねっているほどだ。


 あそこに何かいる……。

 何か気持ち悪くない? この室。

 そんなことを云い出す人を数限りなく見てきたが、何かいるらしき隅に眼を凝らしても何かが見えたことはない。

 漠然と、

「そういえば何となくこの室は暗くて薄気味悪いな」くらいは想うが、

「怖い怖い、すぐに出ようよ」

 震え上がる人たちのようなことは一度もなかった。

 これは怖いもの知らずであることを意味しない。怖い話はふつうに怖いし、夜の山や、霊安室、廃墟ビルの中に入れと云われても、厭だ。

 ついでだが星占いもまったく信じない。中学生の時にぼんやり観ていた天体の特集番組で、占星術について問われた海外の天文学者が、

「何百光年と離れているあのばらばらの星々がわたしたちの運命を決める?」

 ハッと鼻先で笑っているのを観て、「確かにそうだ」と腑に落ちたのだ。

 そんなことを云っていても人生は詰まらないから遊び程度には愉しむようにはしているし、信じる人のことを莫迦にしたりもしない。たまには当たってるなぁと想うこともある。占いとは、人類の歴史にずっと付属してきたものだ。

 しかし、あらゆる占いというものを無条件で盲信したり、深くのめり込むことはこの先もないだろう。


 

 今回ご紹介したいのはわたしの母だ。わたしの母は怪奇現象、心霊現象、占いの類を信じない。呪いの藁人形から空飛ぶ円盤まで、ふしぎな現象というものをまったく受け付けない。海外の天文学者なみに頭から小莫迦にしてかかる。

 某宗教の勧誘者がママ友の顔をして家に上がり込んで来たことがあるが、見ものだった。次から次へと、母は勧誘者の唱えることを論破するのだ。心が揺らぐようなことは少しもない。母は冷静にぱしぱしと云い返していた。

「おかしい、おかしい、それはおかしい」と。



 そんな母に。

 あるのだ、霊感が。



 夕食後リビングにいた。当時わたしは小学生。いつもの夜だった。突然、

「お茶はあるけど、お茶菓子がない」

 テレビを観ながら母がそう云ったのだ。意味が分からない。

 その後は「いま何か云ったっけ」とでも云いたげな、何ごともなかったかのような顔で引き続き、母はテレビを観ていた。マジで意味が分からない。

 そしてその夜が明けて早朝、家に電話がかかってきた。昨日親族が死んだそうだ。母はここでまたしても奇妙なことを云う。

「昨日の夜そこの角まで、その人が家に向かって歩いてきていた。だからお茶菓子がないからどうしようと想った」と。


 あれほどまでに怪奇現象の類を莫迦にして、呪詛や幽霊やその類のものを「絶対に」と嗤って決めつけている母ではないか。何を云い出すのだ。宗教の勧誘者も逃げ帰るまで追い込んで高らかに論破して追い払う母よ、それは立派な心霊現象ではないのか?

 そんな母の人となりを端的に語るエピソードがある。

 幼少期のことで、今でも少しあれはどうかと想っているが、他愛のない絵本を幼いわたしが熱心に読んでいた。動物が二足歩行で喋っていたりするようなものだ。そこへ通りかかった母は、絵本を覗き込み、「こんなことあるわけないけどね!」と大笑いしたのだ。

 一点の曇りもない笑い方だった。

 空想世界に一ミリたりとも親近感を抱いていないからこそあのように笑える。そんな笑い方だった。

 もう一つ。年配の方にはご存じの、【川口浩探検隊】という伝説的なテレビ番組が昔あった。危険を冒して原住民のいる密林の奥地に分け入っていく川口探検隊の模様がお茶の間に流れるのだ。

 その番組に当時の人々は夢中になった。そんな中、

「洞窟の中で白蛇を発見したっていうけど、白蛇の周囲の水が濁っていた。白い塗料を塗ったのよヘビに」

 と、母だけがしらけきっていたそうだ。

「おかしい、おかしい、それはおかしい」

 これを云う時の母の態度といえば、数学者が間違いを指摘する時のような厳格さがあった。地動説を唱える者にためらうことなく破門を云い渡す審査員のような、何の酌量も疑問も差し挟む余地なしという、きっぱりとした断罪の勢いだ。人と衝突しないように、宗教勧誘だの、いんちきなテレビ番組だのに向かって、主に彼女の異端審問は砲音を上げていたのが救いだが。

 

 

 そんな母に霊感がある。

 だいたいにおいて親族の訃報というものは早朝に連絡が回ってくるものなのだが、前述とはまた別の親戚の訃報が、やはりある日の朝に、届いた。すると母は云うのだ。

 夜の間、枕元に座っておられた。

「いつ家に来たのだろう、こちらは寝巻だし、ご挨拶するのもどうしようって想うじゃない。枕元からじっと見ていたわ。夢のわりにはハッキリ見えたのよ、おかしいわね~ははははは」

 おかしい。

 いやおかしいのは母だよと。



 霊能力者というものを皆さんは信じるだろうか。

 実は母の遠縁にいる。

 ただし存在自体がアンタッチャブルになっており、親族たちは好んで語らない。彼(男性だ)は日本各地を渡り歩いているらしい。「らしい」のだ。誰も知らない。

 もう死んでいてもおかしくない年齢だが、生死も不明だ。

 その人は単身でこの世を漂っているだけの、「ふしぎな人」だった。

 その、ふしぎな人の親が亡くなった。

 知らせたいのだが、何処にいるか分からないので連絡がつかない。もちろん「ふしぎな人」は電話や携帯など持っていない。住所不定。

 仕方なく喪主不在のまま葬儀を執り行っていると、ふらりとその人が葬式の場に現れた。誰ひとりとして連絡していないし、何処にいるか誰も知らないのに。何処かの山から下りてきたのだ。

 お前は何者だと云いたい。


 読者は想うだろう。

「ふしぎな人」なのか「霊能力者」なのかどっちなんだ。


 正確には分からない。ただしその人のやること為すことは霊能力者のそれに近い。 突然、どかどかと他人の新築の家に上がり込んで、

「こんな方角に柱を立てて時計を掛けるやつがあるかッ」

 柱と時計の位置について一喝して出て行ったりするのだそうだ。大迷惑である。

 さらに、仏壇の線香。

 何でもその人が仏壇に線香を二本立てて拝むと、その二本の線香が根元まで灰になりながらも倒れずに立っており、そして最後の何かで(ここはよく分からない)、根本まで灰になった線香が、誰も手を触れていないのに両側から互いに倒れてごっつんこした。

 その線香のさまを見て、

「その縁はよい」

 というようなことを云って、見合いを申し込まれた二つの家の間で迷っていた親戚の結婚相手が決まったことがある。今どき見合い。と想うのだが、どちらの条件もすごく良くて選びかねていた。選ばなかった方の男性はその後、事件を起こして逮捕されていた。



 わたしはこの眼で見ていない。だから「手品よ、絶対」と母のように云いたくなる。しかし、わたしにその話を伝えてくれた目撃者というのが、他でもない、塩辛いまでに怪奇現象を信じないリアリストの母なのだ。

 どこの病院でも治せなかった腰痛もちの人に、その「ふしぎな人」が手を触れると一瞬で治ったというようなこともあったそうだ。

「そうね~」

 その眼でみた以上、常のように小莫迦にこそしなかったが、それでも母は流石だった。わたしにそれを語ってくれながら、「だからって信じませんよ」という顔をして、ふふふんと、大きく出ていた。

 いや、そこで大きく出るのは違うだろう。そこまで見たなら信じよう母。



 人々の暮らす集落が山や森の近くにあった頃、「ここに井戸を掘れば必ず水が出る」「行き倒れた男の霊魂が悪さをしているから供養せよ」だの不意に云い出してピタリとあてる者や、あるいは触れるだけで病を治すような能力をもった人が、ぽつりぽつりといたのだろう。

 彼らはそれなりに畏れられ、頼られ、「ふしぎな人」として通り過ぎるのを見送られたり、何となく共同体の中に組み込まれていたのだろう。

 そこまでのものではなくとも、自然の中で感覚を研ぎ澄まして生きていた頃の人間には名状しがたい勘も備わっていたはずだ。

 ところがこれほどまでに夜も電気で明るくなった現代ではその人たちの能力はまったく不要になってしまった。だって嫌だろう。新築の家に上がり込んで柱や時計の位置について怒鳴りつけてくるような変な人。

 

 わたしの身近にはもう一人、そんな「ふしぎな人」がいる。わたしの女友だちの母(故人)だ。

 ある年の暮れ、忘年会が終わってほろ酔いの友人が、駅から自転車で家に帰ろうとしていた。いつもの帰宅時間ではない。そこへ痴漢が現れた。

 寒い寒い年の瀬に頑張って公園に潜んでいたとは痴漢もご苦労なことだが、飛び出して来た痴漢に友だちは自転車ごと引き倒されて、乱暴されそうになった。すると、まだはるか先にある家の方角から、

「Kちゃん。Kちゃん」

 友人の名を呼びながら、友人の母が走って来た。

 友人の母いわく、「家の中にいたが、何となく外に行ったほうがいいような気がした」そうだ。

 この友人の母はもう亡くなっているのだが、亡くなる前にもやってくれた。『意識不明』の状態で入院していた病院から、突然、姿を消したのだ。

 見つかったのは数駅向こうの、別の大きな病院の前だ。病衣のまま倒れていて、通行人と警備の人が発見した。

 なんでそんなところに倒れていたのだ? ということになるのだが、実はその病院、友人の父親、つまり彼女の夫が、緊急入院で運び込まれた病院なのだ。

 父親が倒れた連絡がきても、意識不明で入院中の母親には当然ながら頼れず、友人ひとりで搬送された父親のために奔走していた。父親のことは告げていないのに、夫のはこびこまれた入院先へと、『意識不明』のおばさんは歩いて行った。歩いて行ったのではないかと云われている。知らない、誰も、何があったのか。

 


「九月一日、大地震が起こる」


 1923年関東大震災の直前、上野の裏あたりの電柱にこんな文言の張り紙を貼って回っていた老人がいるという。ありがちな後世の作り話なのか。

 それとも。



 「本当に視える人」はテレビに出たり、わたし霊感が強いんだよね~などと嬉しげにべらべら喋って回らない。何らかのふしぎの力を持つ人は、偽物さんのように信者を集めてもてはやされていたり、感謝や金銭を巻き上げたりしていない。言動が奇妙すぎて敬遠されているし、本人も、人の世から大きく距離を空けている。

 わたしは母のようには怪奇現象・心霊現象を否定しない。「ある」と信じている派だ。暑い夏になると蒸し返される話だが、激しい戦場となった南の島に日本兵の幽霊が出るというのも事実そうだろうと想っている。遺骨の回収に赴かれていた戦友会の方々もほとんどが他界されてしまった今、遺志を継ぐ人たちがまだその作業をしておられるが、多くの兵隊さんたちが可哀そうでならない。さらに脱線するがこの逸話、「南方」限定なのは何故なのだ。大陸でも大勢が亡くなっているだろうに。


 繰り返すが、わたしには霊感はまったくない。心霊をキャッチする体験も可哀そうなくらいにない。産道をとおって生まれてくる時の記憶があるだの、事故物件が分かるだの、「霊が視える」も一切ない。

 某作品へのレビューにも書いたが、ダムを観に行ったら下から呼ばれたような気がしたことと、山に松茸狩りに行ったら樹の上から覗かれて呼ばれたことくらいだ。



[了]


 

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