「……高崎教授」

 よお、と軽く答えた高崎教授は、ぼくが彼に初めてあったときの姿だった。白衣の裾がはためいている。

 そしてぼくは、大学一年生になっていた。

「中に入れてくれ。ここはひどく寒い」

 ハッチの開閉スイッチをす。高崎教授は、あいかわらず飄々とした雰囲気を醸しながら宇宙船に入ってきた。

 居室のテーブルはひとり掛けに戻っていた。

 高崎教授はあたりまえのようにぼくの椅子に座り、鷹揚に足を組んだ。

「悪かったなあ、急にこいつを押しつけて」

 高崎教授はまったく悪びれないようすでエイチを見やった。

「お詫びと言っちゃあなんだが――ほら、おみやげだ」

 無造作に手渡された紙袋を、ぼくはうさんくさそうに見やる。

「なんです? これは」

「星新一の新刊だ。まだ読んでないだろうと思ってよ」

(新刊!? まさか――)

 ぼくは書店の紙袋を開けた。――著者名を見て震えた。

 そうだ。ここは現実ではないのだ。エイチも望めば思うままに現状を変化させることも可能と言っていたではないか。

 現実には存在するはずのない彼の新刊が読めるなら、この世界も悪くない。むしろ桃源郷で暮らすようなものではないのか?

 動悸を抑え、ページをった。――そしてぼくは、たちまち落胆した。

(これは……ぼくの書いた小説だ……)

 唯一請けていた小説の週間連載だった。思えばあたりまえのことだ。ぼくの記憶で形成されている世界なのだから、ぼくの知らないことは存在しないのだ。

 ぼくはテーブルの上に書籍を放り、両手で顔を覆った。打ちのめされた思いだった。

「……高崎教授、一つ聞かせてください。ぼくのこの状態は死んだということではないのですか?」

「違うな」

 高崎教授はきっぱりと言った。

「意識がデータ化されただけだ。お前はちゃんと存在してる。こうやって俺を認知できてるってことは生きてるってことだ」

「でもぼくはもうではなくなってしまったんですよね? 体がなくなって意識だけがあるなら、まさに幽霊でしょう。ならば死んだことになりませんか」

「体はある。ハードディスクがな」

「それは生き物の身体って言えないでしょう」

「つまり有機物の肉体に意識が乗ってなきゃ生きてるって言えねえってことか? 世の中にゃあ身体が鉱物でできてる生き物だっているんだぜ。ウロコフネタマガイって巻貝の一種は鉱物と動物の中間生命体だ。その身体は鉱物で、磁石にもきっちり反応する。死ねば錆びるしな」

「そんなの詭弁だ」

「詭弁はどっちだ。そもそも生き死にの定義なんて主観的なもんだろうが。――あのな。海外じゃあ、すでに八百二十四名の脳のデータがデジタル化されてるんだ。そいつらが死ぬために施術したと思ってんのか? 永遠にためだろ」

 それが答えだ、と高崎教授は言い捨てた。

 カタカタと規則的な音を立ててエイチがキッチンから出てきた。小ぶりのグラスと漬物の小鉢を高崎教授の前に置く。

「亀の尾ト、いぶりがっこヲ、ドウゾ」

 おお、と高崎教授は顔をほころばせた。

「亀の尾? いぶりがっこ? なんですそれは」

「高崎教授ノ、好物ナノデス」

 ぼくはグラスの中身を覗き――その強い香りに顔をしかめた。

「日本酒じゃないですか」

「地方の特産品も地酒も、この世界なら何でも手に入って際限なしに味わえる。二日酔いもねえし。これほど理想的な世界はねえだろ」

 うまそうにグラスを呷るさまを呆れて見やり――そこで、ある事実に気づいてしまった。

 ぼくは高崎教授の好物なんて知らない。

 亀の尾という日本酒の存在も、この漬け物がいぶりがっこという名前だということも知らない。

 なぜ、知らなかった情報がぼくの意識に存在するのだ。

(ぼくの記憶に――別の誰かの情報が混じってる?)

 エイチが、ぼくの前に珈琲を置きながら言った。

「ソウデス。コレハワタシノ保存データデス」

(……なんだって?)

 ――そこでぼくは大いなる勘違いをしていることに気付いた。

 エイチにあるじなんかじゃない。

(そうだ。エイチ自身が言っていたじゃないか。人工知能には決して得ることができない領域があるのだと――)

 感情。想像。人とかかわることで生まれる経験。学習過程により学ぶ付加価値。つまづき。挫折。忍耐。感謝。そして先祖から受け継ぐ遺伝子情報。

 高崎教授がエイチに与えたかったものとは、ロボットが手に入れることができない人間の領域だったのだ。

「ああ、ばれちまったか。気づかれずにうまーくおまえたちを融合できると思ったんだがな。そう。お前の思うとおり、俺はこいつに人間にしか得ることができないものを与えてやりたかったのさ」

 愕然と立ちすくむぼくを、高崎教授は斜に見やった。

「別にかまわねえだろ。お前は消えるわけじゃない。こいつとひとつになるだけだ。むしろ自分自身の経験データが増えるって考えればいいじゃねえか」

 なあ、と教授はエイチに相槌を求め、亀の尾のグラスを啜った。

(それは、はたしてぼくと言えるのか)

 あまりにも残酷で非人道的なことをされた――頭ではわかっているのに、ぼくは不思議としていた。

 彼には逆らえない。恩師だから――人間であったころはただの心理的圧力でしかなかったその呪縛は、意識のコード化によってプログラムとして書き込まれてしまったようだった。

 そもそもエイチは高崎教授に絶対服従するようにプログラムされていて、エイチと一体化してしまったぼくは、高崎教授には逆らえないのだ。

 高崎教授はエイチを見やると、その武骨な頭部をぼんぼんと叩いた。

「どうだ? これが人間だ。理解できたか?」

「――ハイ」

 ぼくは時計を見上げた。

 時刻は十一時四十二分。訪問者が三人もあったのに、から十分しか経っていない。

 一時間くらい経っていなきゃおかしい――そう思ったとたん、時計は十二時三十二分を表示した。

(こうやってシステムのバグを調整していけばいいのだな)

 ひとつ整合性が保たれたことにぼくは妙に安堵し、いつものように肥後守ひごのかみで鉛筆を削り始めた。

 今日の分の原稿を書きあげなければならない。



     ――了――

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ロボット・エイチ うろこ道 @urokomichi

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