インターフォンのモニターを覗いた。

 次の訪問者は、兄だった。

 兄が身につけているのは宇宙服ではなく登山服だった。山で失踪した日のままの装備である。しかも服は雪で真っ白だ。吹雪が兄の背後で激しく渦巻いていた。

 広大な宇宙空間に雪が吹き荒れるさまはあまりに幻想的で、ぼくは眩暈をもよおした。

「しばらく会わないうちに、大きくなったなあ」

 船内に入ってきた兄は、雪を払い落しながら破顔した。

 その瞬間、ぼくの姿は高校生になった。

「兄ちゃん、今はまずいよ。お母さんがいるんだよ」

 兄は徴兵されたのに戦争に行きたくなくて山に逃げたのだ。

 両親は烈火のごとく怒り、近所からは村八分のような扱いを受けた。しだいに父は家に帰ってこなくなり、それから母はだんだん様子がおかしくなっていったのだった。

 高校二年生の秋の頃だ。

 狂ってゆく母を見るのがしんどくて、部屋に籠って受験勉強に没頭していた。

 この家にいては自分まで気が狂ってしまいかねない。円満に母から離れるためには、県外の大学に合格するしかなかった。しかも、中途半端なレベルの大学では母はぼくが家を出るのを許さないとわかっていたから、母の自尊心を満たすことができる最高学府を目指したのだった。

 母と二人きりの悪夢のような一年が過ぎ、春が来て、大学の合格通知が届くのと同じころに、兄が雪山で見つかったとの連絡が入ったのだった。

「あー、中はあったけえな」

 兄はひょこひょこと片足で飛びながら通路を進んだ。右足の裾が膝あたりで断ち切られ、はためいている。

 そうだ。兄は凍傷で片足を失ったのだ。

 山岳会の方の尽力によって山から回収された遺体を見たときの衝撃がよみがえり、ぼくは立ち尽くした。

 兄は器用に跳ねながら奥に進んでゆく。

「待ってよ、兄ちゃん」

 今ごろ戻ってきて――母はどう思うだろうか。

 きっと発狂し、髪を振り乱して怒鳴り散らすだろう。この狭い宇宙船の中で。ぼくは肺がぎゅっと縮こまるような恐怖を感じた。

(……でも、もし怒らなかったら?)

 涙を流して兄にすがり、おかえりと出迎えなんかしたら。

 鼓動が早くなった。

(――そんなことは許さない。逃げたくせに、迎え入れられるなんて許さない)

 あんたのせいで家族がどれだけひどい目に遭ったか。ぼくがどんな思いをしたのか。

 黒い憤りが込み上げ、呼吸が激しくなる。

 兄の背中をじっと見つめた。ぼくは今、高校生だ。衰えた初老の男ではない。――恨みをはらすことができるのだ。

「イラッシャイマセ」

 カタカタとキャタピラを回してエイチが出迎えた。

「珈琲ヲ、ドウゾ」

 エイチがテーブルに珈琲をふたつ置き、キッチンに戻っていった。

「あー、いい匂いだな」

 顔をほころばせ、兄は先ほど母がかけていたダイニングチェアに座った。

 兄の前に置かれたカップは実家で兄が使っていたものだった。そういえば父の食器はすぐに処分したのに、このカップだけはずっと食器棚に残されていた。

 ひっそりとこぶしを握った。

(母は――兄を憎んでいたのではないのか?)

 毎日毎日耳元で聞かされていた恨みつらみは何だったのか。ぼくは、地獄のような日々を耐え抜いてきたのに。

 居室に母の姿はなかった。キッチンにいるのだろうか。

 兄に会わせて反応を見たかった。場合によっては――母もろともめちゃくちゃにしてやる。

 その時、エイチがキッチンから大皿を運んできた。

 どんとテーブルに置かれたそれを見て、ぼくは言葉を失った。

 脚だった。凍傷になって腐り落ちた、膝から下の――兄の脚だ。

 脚は真っ黒のかたまりに見えた。黄色い液が白い皿に染み出している。

 兄は丁寧に手を合わせ、いただきますと言った。

「兄さん――何する気だよ」

「そりゃ食べるだろ。皿に盛られてるんだから」

「そんな……だって……自分の脚だろ。どうしてそんなことするんだよ」

 ぼくの声は動揺でうわずっていた。

「どうしてって……脚を食べればまた脚が生えるからに決まってるだろ」

 何言ってんだよ、と兄は呆れたようにぼくを見た。

 ――それはぼくが中学生の頃に初めて書いた小説のネタだった。ホラー小説だった。ノートに書いたそれを大人になって読み返し、あまりの恥ずかしさに即シュレッダーにかけたのだ。

 兄は脚先あたりをつかみあげると、あんぐりと口を開けた。

 あまりの光景にぼくはかたく目をつむって後ろを向いた。

 咀嚼する音。骨を砕く音。あまりのおぞましさに耳を塞ぐ。

「……エイチ、耐えられない。もうやめてくれ……」

「ワタシニハ、ドウスルコトモデキマセン」

 脳に直接、エイチの声が響いた。



「――ごちそうさまでした」

 おぞましい晩餐が終了し、ぼくはおそるおそる目を開けた。ずっと震えていたせいか、身体がひどく強張っていた。

「はー、食べた食べた。見てくれ、やっと脚を取り戻せたよ」

 兄は両足ですっくと立ちあがった。ぼくは呆然とそれを見やる。

 顔中を血や脂肪でべたべたにした兄は、清々しいまでの笑顔を向けた。

「なんて顔してんだ。俺はこれで救われたんだよ」

 あんたばっかり救われて――とはもう思えなかった。

 告げられた兄の死因は、餓死だった。骨ばかりになって発見された兄の脚は、歯形がいくつもついていたという。それは兄の歯型と一致していた。ザックの革ベルトや靴までかじり取られていた。――兄はもう、十分に罰を受けたのだ。

(こんなことまでしなければ、救われないのか)

 兄はエイチからナプキンを受け取ると、口のまわりをぬぐってテーブルの上に置いた。

「じゃあ、俺は行くから。元気でな」

 見送ることもできず、子供のように膝を抱え、声をあげて泣き続けた。

 ぼくの中のどす黒い感情は、すっかり消え去っていた。



「珈琲ハ、イカガデスカ」

 エイチが暖かい珈琲を入れなおしてくれた。

「ソロソロ次ノオ客様ガイラッシャイマス。ソノ前ニ、一服ドウゾ」

「……ありがとう」

 ぼくは学ランの袖で涙をぬぐった。

 カップに口をつけて、その苦さにびっくりする。受験勉強を機に飲み始めたばかりのころは、苦みに耐えられず砂糖とミルクをたくさん入れて飲んでいたのだ。味覚まで若返ってしまったのか。

 エイチの珈琲を味わえないことに気落ちしていると、ブザーが鳴った。

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