逃亡者
安江俊明
第1話
逃亡者
安江俊明
ニューヨーク各地で桜と共にアメリカハナミズキが可憐な花をつけ、春の到来を印象付けている。花は季節を忘れずに咲く。一年に一度美しく咲く花をつけるために、植物は一年間秘かに周到な準備をする。季節を忘れずに咲く花の生命力の発露に人はうっかり気づくことなく、日頃の雑事にかまけて慌ただしく日々を過ごしてしまう。気づいた時に花弁は散ってしまっている。そしてまた秘かに次の周到な準備が始まる。人が見ていようが見まいが、自然の生態のまま、その営みは繰り返される。
マンハッタンのアベニュー沿いにあるビルの前には大きめのプランターに可憐な花が今を盛りと咲いている。民間情報機関・赤間オフィスの社長・赤間幸雄は久しぶりに人事を忘れて舗道を歩いていた。歳の頃なら四十台不惑の後半といったところで、白髪の混じり始めた頭髪を七三に分け、少々つり上がった眉に、切れ長の目、通った鼻筋、意志の強そうなキリッとした唇を面長な顔に載せている。
コロナ騒ぎもワクチン接種の普及でインフルエンザ並みの扱いになった。飲食店も昔の賑わいを取り戻している。舗道を歩く人々の顔も、新しい春を迎えたせいか明るい。赤間はコーヒーショップに入り、キャフェオーレを頼み、席についた途端に携帯が鳴った。オフィスのデスク・黒部からだった。
「楊の隠れ家らしいマンションが見つかりました。FBIと共にココ・スーらが向かっています」
「で、場所は何処だ?」
「ドブスフェリーです」
ドブスフェリーはマンハッタンの北西にある高級住宅地だ。
「OK。直ぐに戻る!」
赤間はオーダーしたキャフェオーレを一口口につけただけで支払いを済ませ、慌ただしく店を出た。
楊は楊浩宇(ヤン・ハオユー)で、マンハッタン・チャイナタウンを支配する中国マフィアのドンである。香港ルートの密航ビジネスを初めとする裏社会と表社会のビジネスで得た総収益を裏口座を設けて超大型の脱税をした容疑でマンハッタン中を親子で逃げ回っている。
香港警察捜査官から赤間オフィスのエージェントになったココ・スーは、ドブスフェリーにあるマンション406号室のベルを鳴らし、応答がないので激しくドアを叩いた。
楊の妻・チュンヤンは何事かとピープホールから覗くと、何処かで見たことのある女性と制服警官の姿があった。ヤバイ! チュンヤンは急いで居間で寛いでいる楊に事の次第を告げた。
「あの女よ! あんたを追い回している元香港警察の女捜査官!」
楊は隣室に隠れ住む中国マフィア・候劉会の幹部・文強嘉の部屋に逃げ込むことにし、チュンヤンに急いで準備するように迫った。いざという時にこれだけはというものだけを詰めてあるバッグを持ち出し、そこへ普段は棚に飾っている父親・常強の位牌を加えた。
「どうしたの? 何処かに出掛けるの?」
ハオミンが親の慌てぶりに驚いている。
「さあ、早く!」
一家は、楊が破ったテラスの横壁から文のいる407号室のテラスに移り、サッシ戸を叩いた。音に気付いた文が驚いて開け、事情を知った。
「とにかく中にお入りください! 様子を見て来ます!」
楊らは部屋に入り、待機した。文が廊下から楊の部屋の玄関扉辺りを覗くと、ココ・スーらが管理人にドア・キーを開けてもらい、踏み込む瞬間だった。
文は楊らに逃げるように言い、楊らは廊下を走り、非常口の階段を伝って走り降りた。
ココ・スーと警官はたった今まで人が居た雰囲気を感じながら室内を捜索した。テラスの非常壁が破られているのを発見するまで直ぐだった。彼女は破られた非常壁を潜り抜けて隣室に入ったが、もぬけの殻だ。直ぐにマンション入り口にスタンバイしているFBIの捜査官に連絡を入れ、エレベータと非常口を固めるように依頼した。非常口から地上まで四階分だったから、タッチの差で楊らが通りに逃げるのが早かった。文がハオミンを負ぶり、チュンヤンが楊をガードしながら表通りに走る。とにかく現場を離れるために、通りかかったイェロー・キャブを捕まえ乗り込んだ。
「マンハッタン方面に急いでくれ!」
タクシーが動き出すや否や、文は楊の息子で候劉会最高幹部・劉泰然に電話を入れ、事情を話して早急に不動産担当幹部・唐子豪に新しい住処を決めて連絡が欲しいと告げた。一家で逃亡を続けている楊は候劉会の元領袖で、次の逃亡先の隠れ家を唐に頼っている。
「えらく慌てているね。どうしたの?」
黒人のドライバーが四人の様子をバックミラーから覗いている。
「こら、まっすぐ前を見て安全運転しろ!」
楊がドスの利いた声で怒鳴った。ドライバーは怖がって黙りこくってしまった。
十分経ったころ、唐から文に連絡があった。文は楊一家のサポートをしながら、一家の逃亡生活について回っており、寧という情婦を同行していた。
「今度はトライベッカです」
唐はマンションの詳しい住所を教え、文は行き先メモをドライバーに手渡した。
「マンションに着いたら黄色いボディの車が停車しています。楊親分を現地で案内するサポートカーです。その指示に従って下さい。部屋までお連れします」
「了解!」
文は今度も外出している間に住まいが変わった寧に連絡を取った。
「またマンションが変わったぞ。今何処だ? メモを取れ。今から今日帰る場所を言うから」
楊が隠れ住んでいるのではと捜査当局が動いたのは、ドブスフェリーのマンションの隣人からの通報だった。
楊の隣に住む405号室のドイツ人一家は、隣の406号室に住む中国人一家の旦那が突然誰か別の人間と入れ替わったのではと感じていた。ドイツ人一家には五歳の子供がおり、時折顔を合わせている隣の男の子はハオミンという名前だと知っていた。子供のオモチャを買いに大手の玩具店に出かけた際、手配書に中国マフィアのボスの子供がハオミンという名前ということは知っていた。
ひょっとしたら隣人の旦那がマフィア組織のボスかも知れない。整形で顔を変えたと新聞記事でも読んだことがある。とにかく警察に通報しようとなったのが今回の騒ぎの発端だった。
トライベッカはキャナルストリート南に広がる高級住宅街である。候劉会事務所のあるチャイナタウンに近接している。楊はサポート隊に案内され、文と三階の隣同士の部屋に落ち着いた。
チュンヤンは元々文と隣同士になるのは不愉快だった。文の情婦・寧はかつて楊の不倫相手であり、隣同士に住むのは嫌だと息子の劉にねじ込んで、同じマンションに住むにしても、唐に階を変えるなどしてもらっていた。唐はその点、今回のように突然捜査の手が及んだ場合には非常口から隣室に逃げることが可能な隣同士の部屋を宛がうことを優先していた。チュンヤンもその点妥協せざるを得なかった。
余りの突然のことで、文はマンションの駐車場に停めていたマイカーを使うことが出来なかった。臨時にタクシーを使い、新しいマンションまで楊一家を連れて行ったのが次の騒ぎを引き起こす原因となった。
楊一家の逃亡がローカル紙の号外に載り、それを読んだ黒人ドライバーが警察に届け出たのである。黒人は怪しい一家を降ろしたマンションをよく覚えていた。警察からFBIを経由して再び赤間オフィスに緊急電話が入った。ココ・スーは今度こそと同僚とそのマンションに急行した。夕陽がハドソン川の水面を赤く染める時間帯だった。
ココ・スーは前回までの反省として必ずマンションの非常口を押さえることを肝に銘じていた。トライベッカのマンションに着いた後、早速非常口を固めさせた。マンションは十六階建てで各階に十室ある。捜査陣はマンションから出入りする居住者らを玄関口でチェックする一方で、各階毎に捜査員が戸別訪問して、炙り出しにかかっている。寧は文から告げられたマンションにようやく到着した途端、物々しい玄関口の検問に気付いて、少し離れたところで文に連絡を取った。
「あんた、今度のマンションに着いたけど、警官だらけよ! 一体どうなっているの?」
聞いた文は驚いた。一体全体どうなっているんだ! さっき越して来たばっかりなのに。
「お前は何処か近くで待っていてくれ。出来るだけ早く連絡するから」
慌ただしく電話を切り、楊一家に状況を知らせた。荷を解いたばかりの一家は再び移動するのを覚悟して待機した。文は劉に電話を入れて、唐にまた次の隠れ家の準備をするように依頼した。劉もあきれ果てた。一体どうなっているんだ? 驚きの連鎖が唐にまで届き、早速次のマンションの手配に入った。
楊の入った三階の戸別訪問が進み、楊の308号室と文の309号室に迫っていた。
「恐らくこの分では非常口からの脱出は無理でしょう。勿論エレベータホールからも。恐らく連中は出入りの人間をチェックしています」文が言う。
「だとしたら、どうする?」
「思案中です」
308号室で楊一家と文は声を潜めていた。何か思いついたのか、文は劉に電話を入れた。
「このマンションの近くで騒ぎを起してください。時間はまた連絡します。出来るだけ場がひっくり返るようなやつを……」
「それで逃げられるのか?」
「こればかりはやってみないとわかりません。一か八かです。それと、これも連絡してからですが、漢に近くでシボレーアストロをスタンバイさせてください」
漢は楊一家の専用ドライバーである。
その時、308号室のドアフォンが鳴り響いた。誰も出ないので激しくノックする音が続いた。反応が無いので、捜査員がマンションの管理人に鍵を開けさせ、捜査員が部屋に入って来た。重要容疑者がマンション内に潜伏しているという理由で、戸別訪問で反応がない部屋はマスター・キーで開けて内部を調べることになっていた。
家具だけが備えつけられたがらんとした部屋の中が隈なく調べられたが誰もいない。楊らは天井裏に潜んでいた。捜査員は引き揚げて行った。ハオミンがくしゃみをした。チュンヤンは思わず息子の口を押えた。そのまま楊らは天井裏で暫しの時を過ごした。
夜の帳が降りる頃には各階の戸別訪問も一巡し、終了した。楊一家の行方は分からず仕舞いだ。交代の部隊が到着し、捜査陣が入れ替わった。まだ居住者などの確認が取れていない部屋が幾つか残っている。その中に308号と隣の309号が含まれている。ココ・スーは部屋の所有者を調べた。二部屋とも候劉会系の不動産屋の所有だ。恐らくこの二つで間違いない。再度捜索に赴こうとした時だった。マンションの玄関近くで大きな爆発音が響いた。見ると車が炎上している。周りにいた捜査陣が色めき立った。消防車が呼ばれ、辺りは騒然となった。楊一家はこの瞬間に顔をマスクなどで隠して部屋から脱出しようとした。何事かと部屋から飛び出した居住者が同じ階に何人かいた。文はそのうちの若い白人女性に近づき銃口を脇腹に突き付け、耳元で囁いた。
「おとなしくしていれば何もしない。少しだけ付き合ってくれ」
文は女性を人質に取って楊一家とエレベータに乗り込んだ。文は漢を呼び出し、シボレーアストロの停車場所を尋ねた。
「今降りてゆくから、玄関前でスタンバイだ!」
一階に降りると、数人の捜査員が一斉に文らを見た。
「おい、手を挙げて壁沿いに並べ! 言うことを聞かないと、こいつをぶち殺すぞ!」
銃身が強く女性のこめかみに押し当てられた。捜査員は尻込みをして、両手を上げて壁沿いに並んだ。ハオミンが拳銃に触ろうとして手を伸ばす。「バン! バン! バン!」と声を上げる。チュンヤンが口を押え、ハオミンは足をばたつかせる。シボレーアストロが玄関に着いていた。文は楊一家を先に車に乗せて、自分が乗り込んだ途端、女性を解放した。「行け!」文の命令で漢が車を急発進させた。玄関から警官が走り出て、後ろから発砲したが、手遅れだった。
ココ・スーはまたもチャンスを逃し、唇を咬んだ。トライベッカの捜索と並行して行われたドブスフェリーのマンションの捜索は楊らが長く住まった分だけ押収物は多かったが、さして重要なものはないことが判明した。楊を執拗に追うココ・スーにはそれなりの理由があった。彼女の曽祖父も香港警察捜査官だったが、楊がまだ香港のチンピラだった頃、楊がメンバーだった不良グループに襲われ、楊に刺殺されていた。幼い頃から曽祖父の無念を祖母や母親から聴いて育ったココ・スーはいつの日にか警察官になり、楊を逮捕するのが大きな目標になっていた。香港警察は地元のマフィアに牛耳られ、警察としての職務を停止していた。彼女は研修で訪れたニューヨークで、チャイナタウンを牛耳っていた黒社会の総帥・楊浩宇があの楊だと知るや、FBIと業務提携をしている赤間オフィスに転職し、それ以来楊を追っている。
シボレーは車両番号を入れ替え、唐からの連絡を待った。間もなく唐から文に連絡があった。
「ハドソンスクエアに行ってください」
唐はそのあと詳細に触れた。漢は連絡のあったマンションに向かった。ハドソンスクエアと聞いてチュンヤンは内心ホッとする。チャイナタウンに近いし、毎日のハオミンの教育現場になっている候劉会事務所通いも近くでいい。比較的長く隠れ住んだドブスフェリーは、環境はいいが、チャイナタウンまでは結構時間がかかる。文は寧に連絡を入れて住所を知らせた。
「今度は間違いないでしょうね?」
寧が念を押した。
新居には最近発足した逃亡生活を支えるサポート部隊が来て、暮らしのアドバイスまでするようになった。ハオミンの送り迎えもOKという。サポート部隊は劉のアイデアだった。ドライバーの漢もそのメンバーになっている。
ハドソンスクエアはウェストソーホーともいわれ、昔は芸術家やデザイナーの街として有名だったソーホーの西部にある。ソーホー自体は今では高級ブティックやレストラン街となっており、北はグリニッジ・ビレッジとノーホー、東はリトル・イタリーとチャイナタウン、ノリータ、南はトライベッカである。
最初の隠れ家の目的地だったトライベッカと最終的に決まったハドソンスクエアは近距離である。不動産部門担当幹部の唐は極短期間で引っ越し先が変わったので、近距離の隠れ家を選んだ。逃亡に付きまとう楊一家の心理的な疲労感を少しでも和らげようと思ったのだ。近距離だけに捜査陣にとり、反って灯台下暗しにもなる。
楊一家は部屋割りを決め、サポート部隊に即必要な備品の運び入れを頼んだ。チュンヤンはとりあえずの食料品の買い出しも依頼した。買い出しを待つ間、チュンヤンは楊と話した。
「今度の引っ越しは慌ただしかったけど、唐さんはわたしたちにも楽なように、チャイナタウンに近いここを選んでくれた。ハオミンの通学にも便利だしね。漢を呼ぶにも近い。一言礼を言ってあげてよ」
楊はなるほどと思う節を自分も感じていたので、唐に電話を入れた。
「色々恩に着るよ。これからもよろしく頼むぞ」
唐は大親分からの直々の御礼に恐縮した。
ココ・スーはチャイナタウン総合医療センター整形外科の若手医師・郭巨峰が楊の整形を担当し、次回の手術に備えるためデータを隠し持っていると睨んでいた。郭の診察室にあるPCからデータは一切見つからなかった。メカに強いスタッフの岬新の言った通り、データは元々存在しないか、故意に消去されたかだ。整形外科長だった甲偉台のようにデータを常に衣服に隠し持っていたケースもあったが、郭は違う。あいつの自宅を捜索しなくては。
ココ・スーはそこで悩む。郭の家を家宅捜索するには然るべき理由と捜索令状が要る。FBIとは赤間オフィスの新人が引き起こした情報漏洩で潜入捜査官が正体を見破られ、二人とも殺害されるという事態となり、捜査協力契約がストップしていた。残るは市警本部から令状が取れるかだ。ココ・スーは市警本部を訪れ、担当者に面会した。警部のヒーレンは令状を求める根拠を聞いたので彼女は答えた。
「楊の捜査を進めるためには、これまで繰り返し行われたチャイナタウン総合医療センターでの楊の整形手術データが必須です。それにより、楊の顔入り手配が出来ます。これまでの整形担当医師は医療センターの方針でPCにはデータを入れたままに出来ないので、個人的に隠し持つなどしています。今回手術を担当したと思われる郭医師が個人的にデータを隠匿し、次回の楊の手術に備えているのは状況的に間違いのないことです。そこで彼の自宅を捜索したいので、許可を頂きたい」
ヒーレンは少し考えてから言った。
「お宅の赤間オフィスは今FBIとの契約を切られていますね。市警として契約云々は関係ありませんが、同じ捜査機関として、FBIとは違う対応を取りにくい。すなわち、FBIがダメなら、市警で令状を取ろうというようなことに対して安易に応じるわけには行きません。FBIと市警の関係にも影響を及ぼす可能性もありますので、安易に令状を出す訳には参りません」
契約停止は関係ないと言いながら、市警として連邦警察とトラブルを起こすのは御免被りたいということだ。
「楊という重要逃亡犯を追う立場からすれば、その回答はとても受け入れられません。ご再考を願いたい」
ココ・スーが迫る。
「お宅はまるで公の捜査機関のようなことをおっしゃいますが、あくまでも民間の情報機関に過ぎません。楊浩宇を重要指名手配犯として追っているのはFBIであり、市警です。こちらにお任せください」
FBIとの共同捜査協力が停止されたことが情報収集にこれだけ障害になるのかとココ・スーは思い至った。香港警察捜査官時代が急に懐かしく思えた。
めげずに彼女は郭の自宅を管轄する市警分署に捜索令状の申請に出かけた。FBIが発行した契約IDカードはまとめて返納していたので、署では赤間オフィス発行のIDを見せた。そのIDにも「FBI協力機関」と印字されていたので、担当者は了承したのか、話を聞いてくれた。
「いいでしょう。楊は重要逃亡犯ですから、逮捕のきっかけになりそうなことは全て進めましょう」
暫くして裁判所の許可により、捜索令状が市警に降りた。市警の郭宅の捜索に赤間オフィスの要員が関わるという形で、郭のアパートに捜索が入った。郭はココ・スーに会ったことを覚えていたようで、彼女に微笑んだ。郭の自宅用のPCデータの捜索は岬新が担当した。案の定自宅PCにはデータの痕跡すらない。狭いアパートの捜索はあっという間に終わった。ココ・スーは捜索で気になっていた手提げ金庫を開けるように郭に指示した。
郭の顔にニヤリとした表情が浮かんだ。鍵束の中から金庫の鍵を選んで、郭は金庫を開けた。空っぽだった。
「貴方の預金口座と繋がっている銀行は何処なの?」
「S銀行です」
「どの支店?」
「モット・ストリート支店ですけど……」
「そこに金庫を借りている?」
郭は戸惑いの表情を一瞬見せたが、気を取り直すように言った。
「ええ」
「貴方の立ち合いで中を見せてもらうわ」
「しかし、捜索令状はこの自宅だけの捜索に限って発行されていますよね?」
郭は手にしている令状をココ・スーに見せた。
「自宅及び関連先になっているわ。よく見て頂戴」
郭が納得したので、一行は郭を立ち会わせての捜索にモット・ストリート支店に向かった。
銀行に向かう車内で郭は俯いたまま一言も発しなかった。銀行の貸金庫が開けられて、USBが見つかった。新はUSBのデータをラップトップに繋ぎ、開いて見ると整形手術のデータがあった。楊の名前と施術前後の顔がわかる画面がある。
「ほら、出て来た。市警さん、楊の顔を整形した証拠です。重要逃亡犯逃亡幇助の容疑でこの医師の逮捕をお願いします」
ココ・スーは新と笑顔を交わした。郭は悔しそうに唇を咬んだ。手錠を掛けられた郭を前に、押収されたUSBから抜き取られた楊の新しい顔の画面がラップトップに送信された。
市警はその顔を基に指名手配用のポスターを作成し、ポスターは街中に張り出された。FBI支局ではそのポスターの話で持ち切りになった。
「一体これはどうしたことだ!」
支局長のアトキンスは副支局長のコルバートに事態の背景を探るように指示した。コルバートはある程度の察しをつけて、赤間に電話を入れた。
「あのポスターだけど、ひょっとしてお宅が市警と組んだ成果ということか?」
「察しがいいですね」
「うちの支局長がお冠だ。ローカル警察に出し抜かれたってね。ま、それはいい。折り入って話がある。支局長を説得してから伺うよ」
赤間はコルバートの工作が上手く行くように祈った。コルバートは指名手配が赤間オフィスと市警の合作であることをアトキンスに伝えた。アトキンスはマスコミ情報も含めて。ポスターに関する情報を詳しく調べるように命じた。
劉は文からの連絡を受けて、郭が逮捕されたこと、楊が最新の顔で手配されたことを知り、愕然とした。とりあえず親父に連絡だ。劉からの電話で、楊は唖然とした。
「一体全体どうなっているんだ!」
劉は外出を控えるように伝え、チャイナタウン総合医療センター長の漢聖基を呼び出した。
「郭がパクられたぞ! 親父の顔が街中に出ている! 施術の準備だ、わかったな!」
漢は気絶しそうになった。急いで理事長の周に一報を入れ、整形外科長に内定している医者・雷新興の勤務を前倒しする検討に入った。
「とにかく雷に大親分の整形をやらせないとエライことになります。明日にでも来させて最新整形技術を覚えてもらわないと……」
「そういうことだな。雷以外にも整形外科医を早急に雇わないと、回らないぞ」
「それも手を打ちますので、とりあえず雷を来させます」
漢は慌てて電話を切った。
翌朝コルバートは楊が指名手配されたトップニュースの記事を食い入るように読んだ。赤間オフィスが市警との共同捜索で発見した楊の整形写真が大きく一面を飾っていた。連邦警察の名前は一語もない。FBIは市警に出し抜かれたのだ。赤間の中心はココ・スーだ。元香港警察の敏腕捜査官。ニューヨーク市警と共同して汚職警官摘発に辣腕を振るった記憶も新しい。楊を追い詰めるが、いつも最後には惜しくも楊を逃がしてしまう。核心に迫るのは、しかしながらいつも彼女だ。余程優れた腕利きのエージェントに違いない。
この分ではFBIを抜きにして捜査が進展する可能性まで出て来た。さてアトキンスはこの事態をどう判断するのであろう。コルバートは支局長の出勤を待った。この瞬間にも楊が逮捕される可能性さえある。FBI抜きで。
案の定アトキンスは早速コルバートら幹部を長官室に呼んで、対策を協議する場を設けた。
「一年間の契約停止などと言っておられない状況です。直ちに赤間オフィスとの関係を復活しないと、我々は置いてきぼりにされますよ」
幹部の一人は危機感を露わにした。
「しかし、赤間の新人のしでかした大失態で、こちらは二人も優秀な潜入捜査官を失っているんだぞ。それに対する罰則だ、契約停止は」
アトキンスは眉間に皺を寄せた。
「ローカル警察に手柄を横取りされていては連邦警察の沽券にかかわる。FBI独自の捜査網で鼻を明かすわけにはいかんのか?」
副支局長のコルバートが発言した。
「我々が優秀なのはわかりますが、こと楊の件に関してはココ・スーの右に出るものは居りません。ここは直ちに赤間との契約復活をされる方が得策だと考えます」
「でも、契約を停止してまだ数日だぞ。それなのに直ぐ元の鞘に納まるというのは恰好が悪いし、朝令暮改もいいとこだ」
「赤間との関係を復活すれば、ココ・スーも捜査上の便宜をうちから充分に受けられます。聞くところによれば、彼女は捜索に関しても我々の便宜がなくなり、非常に苦労していると社長から聞いています。それなのに彼女は市警の協力を得て、これだけのことをすることが出来る。それに捜査官の死は彼女のせいでも何でもない。あの新人が仕出かしたことなのです。彼女の捜査を容易くして、さすがFBIと言われる方が長官にしても、支局長にしてもずっと得策だと思いますが」
ワシントン本部の長官の名前まで出されると、アトキンスにしても心が揺れる。支局長として楊の逮捕は自分のキャリアにも少なからずプラスになるのは間違いない。
コルバートの説得が功を奏し、アトキンスは渋々だが赤間との契約関係を元に戻すことに同意した。今度はアトキンスがワシントン本部に対して赤間との契約復活を説得する番になった。その件はニューヨーク支局に任せるという長官の言質をとり、アトキンスの代わりにコルバートが赤間に嬉しいニュースを伝えた。
「色々難しいことになったと思い、あんたとじっくり話し合いをしなくてはと思っていたが、その難局をあのスーが凄腕でいとも簡単にクリアしてくれた。実に頼もしい!」
赤間はコルバートの知らせを受けて、心の中でココ・スーに拍手を送っていた。
コルバートは赤間に会って直接話したいことがあると言って来たのはその日の夕方だった。彼はFBIの仕事を終えてから赤間オフィスにやって来た。社長室でコルバートは赤間と隠し酒をシェアしながら話しかけた。
「実はスーのことだ。彼女を捜査官としてうちに頂けないか?」
赤間にはある程度予想したことだった。彼女ならFBIという大組織の中でも十二分に腕を発揮する能力がある。給与や福祉厚生など条件面でも向こうの方が何事においても格段のメリットがある。だが、うちに彼女は必須だ。赤間は彼女が香港警察本部からの帰任命令を拒否し、解雇されることになった時、このまま赤間オフィスに加わらないかと誘ったのを思い出していた。
赤間オフィスへの移籍が決まり、ココ・スーはそれからずっと逃亡する楊一家を追い詰めるエースである。か、と言ってFBIからの誘いはこれからの彼女自身の人生に関わる大きな出来事である。彼女に決めさせてやりたいし、当然そうあるべきだ。
赤間はFBIとの契約停止解除を祝うミニパーティを支局で行った際、彼女の功績を褒めた。続いてスタッフ全員の給与を元に戻し、常勤インフォーマーのフェルナンデスとアンジェロを再雇用することなど、停止に伴って発令した事項を全て帳消しにすることを発表し、喝采を浴びた。その喝采はココ・スーにも向けられていたのである。
セレモニーが終わり、解散してから赤間は社長室に彼女を呼び、FBIからの誘いの話を明かした。ココ・スーは驚いた表情をしながら、赤間の言葉に耳を傾けていた。
話が終わり、赤間が自分の人生のことだからよく考えるように言ったが、彼女は即答した。
「社長にはわたしが香港警察を首になった時、お声を掛けて頂きました。そのご恩は決して忘れません。引き続きこちらで働かせて下さい。お願いします」
赤間は目頭が熱くなった。
「スー、有難う。嬉しいよ!」
二人は残ったワインで乾杯した。
劉は父親の整形の準備が出来たかどうかセンター長の漢を呼び出した。
「整形外科長に内定している雷新興というベテランの医師にやらせようと思います。今最新機器に慣れてもらうための特訓中ですので、もう少しお時間を」
ベテランと聞いて劉は安心したようだった。劉は整形が終わるまで外出しないように楊に念押しした。楊は覇気のない返事をした。
ココ・スーは楊の整形手術が近々チャイナタウン総合医療センターで行われるものと予想し、郭逮捕の捜索に出かけた際にもセンター長の漢に特に何も言わなかった。少しでも気取られれば、手術は何処か別の場所に移されると思ったからである。
漢は漢で、特に何も言われなかったのが却って気になっていた。ここで整形手術が行われるのはこれまでの経緯からして既定の事実のようになっている。捜査陣は沈黙を保ちながら、虎視眈々と近々行われる手術の日を待っている。ここでやりゃ、それこそ飛んで火にいる夏の虫みたいなことになるのではなかろうか。
漢は頭を悩ませた。結果、やはりここで整形するのは危険だという結論に達した。となれば、何処か傘下のクリニックでやらざるを得ない。そこに機器を運んで施術をするということになる。出来るだけ条件のいい所を物色した結果、チャイナタウン総合医療センターにも近いモットストリート・クリニックに白羽の矢が立った。医療センターから秘密裏に施術機器が運び出され、クリニックで荷解きされた。雷はクリニックに寝泊まりしながら、一夜漬けに近い施術のシミュレーションを繰り返していた。
準備が出来た段階で、劉に連絡が入り、楊はクリニックに姿を現した。チュンヤンは待合室で待機することにした。彼女の脳裏には、顔の変わった父親に混乱するハオミンの姿が浮かんでいる。またあれが繰り返されるのか。あの子ももう四歳だ。ものがわかる年齢になり、父親の顔がグルグル変わっては、それは混乱するだろう。チュンヤンはクリニックに出掛ける車中で、顔を余りいじり過ぎないようにと楊に念押しした。楊もその辺のことはよくわかっている。わかっているが、捜査機関をごまかすには、ある程度顔の印象を変えないとダメだというのもまた真実だ。
雷が紹介され、楊は施術椅子に腰を下ろした。前回までのデータがないので、どこをどれだけいじればどうなるのかという肝心なところがわからない。顔の印象を変えて欲しいという抽象的な言い方では埒が明かないが仕方ない。
暫く楊と雷の間で質疑が繰り返され、いよいよ最新機器が稼働を始めた。つまるところ、現在の顔を若干いじくり、印象を変える施術が行われた。細部まで念入りにチェックが行われ、出来上がった顔はそれまでと比べて基本は変わらないが、鼻の辺りの印象などが変わり、顔全体のイメージが変化していた。
チュンヤンはこれなら前回のようにハオミンを混乱させることはないだろうと納得した。雷の腕も証明された。心配で駆け付けたセンター長の漢もほっと胸を撫で下ろしている。場所を貸すだけに終わるモットストリート・クリニックの院長は漢に対してクリニックの使用代を請求した。施術の間は診療がストップしたので、その補償分を払えというわけだ。もしも払わなければ、劉に直訴すると脅されれば、払わないわけには行かない。漢は理事長の周に相談し、支払いに応じることになった。
自宅に戻った楊もチュンヤンもハオミンの反応が気になっていた。夕方サポート部隊に送られて帰宅したハオミンは迎えに出た楊の顔を見て、少し首を傾げたものの、前回のような混乱は起こさなかったので、ホッとしてチュンヤンと顔を見合わせた。
ココ・スーはチャイナタウン総合医療センターの動きをウォッチしていたが、中々楊の整形手術が行われないのを不審に思っていた。探るため整形外科を訪れ、新しく外科長に就任した雷に紹介される。楊の整形手術について両者の腹の探り合いがあった。
「そろそろ楊浩宇の整形が行われるのではありませんか?」
ココ・スーは直球を投げてみた。
「いや、わたしも着任したばかりで部下の郭が逮捕されましてね。こちらの様子がまだよくわかりませんので何とも……」
こいつも相当のタヌキだ。ココ・スーはニコニコ顔で答える雷の裏の顔を想像してみた。ひょっとしたらもう楊の手術は別の場所で行われたのかも知れない。彼女は医療センターの監視をしていた市警の担当者に再度確認を入れた。
「前回申し上げた通りで、特に変な動きはありませんでした」
「監視記録をもう一度見せて下さい」
担当者はファイルを手渡した。ココ・スーは受け取り、細部をチェックしていった。おや、これは?
「二日前の午前中、大型トラックが医療センターに入り、出て行きましたね。これは何かを運び出していたと思いますが、中身は? それにトラックはどこの運送会社ですか?」
「スミマセン。中身までチェックしていません。運送会社はKTトランスポートです」
「KTトランスポートと言えば、確か精密機械専門の運送会社ですね?」
「ええ」
ココ・スーはオフィスの涼を呼び出し、KTトランスポートで話を聞いた。その荷の発注者はチャイナタウン総合医療センター長・漢で、整形外科用の精密機械となっている。荷受け先はモットストリート・クリニック。ここが今回の施術場所だ! ココ・スーは涼の運転でクリニックに行き、院長の遼政貴に面会した。予想通り遼は全面的に否定したが、ココ・スーは涼にFBIを通じてクリニックの捜索令状を取り、診察室及び処置室、手術室の指紋採取や毛髪などの遺留物を採取し、科捜研に提出した。
その結果、楊浩宇の指紋とDNAが検出された。施術したのは医療センターの外科長・雷とわかり、ココ・スーは雷にFBI支局に任意同行を求めた。雷は施術を認めたが、楊の施術データは残していないとの一点張りだった。雷は重要逃亡犯逃亡幇助の容疑で逮捕された。
漢はその知らせにショックを受けて、理事長・周の部屋に飛び込んだ。
「早急に次の担当医を雇わないと、劉に何をされるかわからん。直ちに整形外科医を探せ!」
漢は身震いしなら理事長室を出て行った。
楊の新しい顔のデータは捜索に拘わらず、何処からも見つからなかった。雷の言うように施術データはバックアップをとらずに消去された可能性が高いと思われた。一体新しい顔はどんな顔なのか。街角に張り出されている市警との共同制作のポスターとどれだけ違う顔になったのか。ココ・スーは日数や施術場所の変更などからしてそれほど大がかりな整形は行われていないと踏んでいた。
似顔絵による手配以降、市警や赤間オフィスに寄せられる楊の目撃情報が多いこともポスターの有効性を示している。重要指名手配犯トップテンに入り、懸賞金も最高額の二十五万ドルが提示されているのもひとつだが、ポスターがこれまでのFBI発行ではなく、市警発行のものになったという僅かな違いが目新しくアピールし、市民の関心を呼ぶのもまた事実である。暫くはじっくり目撃情報に基づく捜査を徹底してみるのも楊逮捕に近づく有効な方法かも知れない。ココ・スーは寄せられた目撃情報をファイルで繰り返しチェックしていった。その多くは未捜査のものだった。重要だが、何らかの理由で捜査から零れ落ちているものもある。
そのうち楊一家がトライベッカのマンションから逃亡する際に文がマンション階からエレベータ、そして玄関と移動する間に人質にした女性の目撃情報に注目する。
文は素顔を曝したまま女性に拳銃を突き付けていた。女性はFBIの犯罪者リストから候劉会の幹部・文強嘉を見つけた。
「この男です!」
文はヘルズキッチンにあるラウンジOOBの経営者である。OOBが捜索されたが、従業員の話で文は最近殆ど店に顔を出さず、専ら情婦の寧が店を仕切っていた。捜査陣は寧を追及したが、こちらこそ知りたいところだと言い張った。
文は楊一家と一緒にトライベッカのマンションから人質を取って逃亡した。文が人質に拳銃を突き付けて、楊一家の水先案内人のような格好で逃げている。文と寧、それに楊一家はこれまでもずっと一緒に逃亡を繰り返して来たのではないのか。楊の潜伏先はメルローズ、クイーンズのジャクソンハイツ、ドブスフェリー、トライベッカと変わった。調べてみると、楊と文は少なくともドブスフェリー以降は同階の隣り合わせに住み、いずれの部屋も候劉会の不動産部門・唐の扱う部屋だ。すなわち文は楊と隣り合わせに住み、世話役をしていると考えられる。
ココ・スーはラウンジOOBに寧を尋ねたが、いつの頃からなのか、店は閉じられ、郵便箱には広告などが溢れ出ていた。抜き出して調べると、出入り業者の請求書が広告の間から出て来た。先月のミネラルウォーターの請求書で、楊がドブスフェリーのマンションに隠れ住んでいた頃の発行日付だった。ココ・スーは卸売り業者を尋ねた。文の連絡先を入手したが、既に使用されていない。業者は店が閉じられているのを知り、その後入金もないので料金を踏み倒されたと悔しがった。
寧か文の居所がわかれば、楊の潜伏場所がほぼ特定できる。ココ・スーはFBIで唐の所有ないしは取り扱う不動産をチェックしているセクションに赴き、トライベッカから半径一キロの円周の中にある物件のコピーを入手した。半径一キロというのには特に根拠がなかったが、比較的長く隠れ住んだドブスフェリーのあとはトライベッカに落ち着く間もなく直ぐに他の場所に逃げていることから、遠くに逃げるよりは近くの別のところに潜伏している可能性が高いと踏んだのである。
ココ・スーはその日から赤間オフィスの三台で手分けして、トライベッカ周辺一キロ内にあるマンションを中心に直接楊の行方を追うことにした。
目撃情報はその後も寄せられ、その中でもトライベッカ半径一キロ以内の目撃が結構あることがわかった。その大半は市警と連携して作った指名手配のポスターが張り出されて以降のもので、楊がさらに別場所で整形した以降の目撃情報でもあることから、現在の顔はポスターの顔とさほど変わらないことが裏付けられた。赤間オフィスの追跡チームは目撃情報を使い、半径一キロの捜索範囲を次第に狭めていった。
目撃情報は映画007で六代目ボンドを演じ、トライベッカに住んでいるイギリスの俳優、ダニエル・クレイグからのものもあった。ココ・スーはクレイグを映画ロケの合間にインタビューした。それによると、彼は居住マンションの近辺にあるデリカテッセンで買い物する楊によく似た年配の男を見かけたという。似ていると思ったのは市警と赤間オフィスが共同作成したポスターを近所のスーパーで見かけていたからだ。
以前からのFBIの指名手配ポスターとは意匠が違い、よく目についたから印象に残っていたという。デリでその顔によく似た男を見かけた時、その男には取り巻きの男女が数人付き添い、男が買い求める品物を聞くと棚に走り、キャリアに入れていた。男女は無地のライトグリーンのユニフォームを着ており、何かのチームの様だったという。ココ・スーはインタビューを終えると、クレイグの大ファンといってちゃっかりサインをもらった。
その近辺のドラッグストアなどでもユニフォーム姿の一団に囲まれて買い物をする楊に似た男やチュンヤンに似た年配女性の目撃情報が寄せられていた。楊が間近にいるのは間違いない。付近のマンションを中心に赤間チームはかなり絞られた範囲で捜索を開始した。
トライベッカは南部に当たるソーホー地区の西方にあるハドソンスクエアのマンションを捜索する時、ココ・スーは唐の所有あるいは取り扱いしている部屋をリストで調べた。部屋数百四十三戸中十七戸が該当している。捜索するマンションの周りはFBIの捜査員で固めてから、各戸に当たる。捜索し、残りは202号と203号になった。隣同士の唐の取り扱い物件というので、楊と文が隠れ住んでいる可能性は高い。ココ・スーらは二戸の玄関ドアをノックしたが、反応がない。管理人を呼んで居住者を尋ねたが、不動産会社から最終的な居住者の名前や家族構成などの情報はまだもらっていないとの返事だった。ココ・スーらは楊らが帰宅するのを待つことにした。
管理人が候劉会の息のかかった人物だったのはココ・スーにとって不幸なことだった。管理人は唐に捜査員らしい男女が楊と文の部屋を調べに来て、マンションが警察に取り囲まれていることを伝えた。唐はサポート部隊と楊夫婦とマンションに戻ろうとしているシボレーアストロの運転手・漢にその旨伝え、ハドソンスクエアに警察がいること、次の隠れ家については後程連絡すると言って電話を切った。チュンヤンは父親の位牌だけは置き去りに出来ないと訴えた。漢はその旨管理人に連絡したが、二つの部屋は捜査員に監視されている。管理人は身動き出来なかった。
漢はシボレーアストロを運転しながら文に連絡を入れた。
「またマンションがバレたようです。文さんは姐さんと一緒に唐さんから次のマンションの連絡が入るまでお待ちください」
文はまたかと顔をしかめたが、仕方がない。何でバレたのか。色々と頭を巡らせてみたが、よくわからなかった。
唐の指示はなかなか来なかった。灯台下暗しが逆に隠れ家としていいのかと思って唐は近場を選んだが、ダメだった。とすれば、ずっと離れたマンションが良い。PCの不動産空きファイルデータをフル動員して次のマンションを探した。最終的に決めたのは、ブルックリンのイーストフラットブッシュで、漢のシボレーと文のマイカーにはイースト91丁目にあるEFハイツの前で現地サポート車にコンタクトするように指示が出た。唐はそのあと劉に緊急電話を入れ、事情を話した。一体何があったのか、劉も狐につままれた様子だった。
夜の帳が降りてからもマンションに動きはなく、夜が深まっても楊も文も帰宅して来ない。何処かで情報漏れがあったのか。ココ・スーはFBIの小部隊を残して、一旦オフィスに引き揚げた。管理人は捜査員の動きを確かめながら、隙を見つけてこっそりと202号室から常の位牌を取り出して、管理人室に持ち帰った。
EFハイツでは夕刻204号室に楊夫婦、205号室に文と寧が入り、サポート部隊の手で、暮らしの準備が進められた。家庭教師役のインテリヤクザ・趙遠望が候劉会事務所からハオミンをマンションに送り、両親に合流させた。チュンヤンは無事に到着した息子を抱き締めた。楊の居所がこんなに早くバレたのは、ひょっとしてサポート部隊のユニフォームが目立ったのではなかろうか。文は念のため今後ユニフォームを止めるようにサポート部隊のリーダーに命じた。
EFハイツのあるフラットブッシュはジャマイカ人のコミュニティがあり、夜に入ると、レゲエ音楽が流れ始める。ハオミンは疲れていつもより早めにベッドで眠ってしまった。
チュンヤンは父親の位牌が送られてくるメドがつき、ホッとして眠り込んでいる。楊も劉に無事着いたことを知らせ、ベッドに横たわったが、なかなか寝付かれない。文の言うように、ユニフォーム姿に囲まれていたのが悪かったのだろうか。ひょっとしたら整形の度合いが以前と比べて余り変わっていないせいじゃないのか。ポスターはまだあちこちに貼られたままだ。俺の今の顔はそのポスターの顔にプチ整形しただけの顔だから、バレて通報されたのではないのか。ハオミンとのことは別にして、やはりもっと顔を変えなくては。楊は劉に電話を入れ、思いのほどをぶちまけた。
「微妙な話だな。でも、親父がそう思うなら施術を受けるか。チャイナタウン総合医療センターに連絡してみる」
劉はセンター長の漢を呼び出し、手術の出来る医者は勿論いるだろうなと少々厭味たらしく迫った。滑り込みセーフというのが漢の実感だった。ちょうど整形外科には引き抜きなどで三人の医者を確保していた。
「いつでも仰ってください。準備いたします」
漢は胸を撫で下ろしながら言った。
「施術場所は? 別場所ですか?」
「どちらがいいんだ?」
「FBIの監視車がセンター前をうろついていますのでこの前のように機器を運び出すと、却って怪しまれると思います。従ってうちの処置室で秘かにやるのがベターだと……」
「中に踏み込まれる恐れは?」
「当病院で警戒に当たります。最近は捜索に中まで入って来ることはなさそうなので、行けると思います」
頼りなさを感じたものの、とにかく今のままの顔ではバレる可能性が高いので、劉は漢に任せることにした。
「医者の腕はどうだ?」
「整形外科長の梁憲暢は監督役として手術に立ち会わせて、中堅の医者・宋楽英にやらせます。こいつは相当な腕を持っています」
「三人いると言ったな?」
「はい。もう一人は張英定。見習いをさせます」
「よし、それじゃ親父と相談して日程を決め連絡する」
劉は電話を切った。
手術日が決まり、劉は楊に付き添って医療センターを訪れた。正門警備窓口には通常警備員に加えてFBI捜査員も立ち合い、来場者をチェックしている。楊は眼鏡を嵌め、顎から鼻下にかけて変装用の髭をつけて劉と一緒に後部座席に座っている。劉もサングラスを掛けて頬に大きな絆創膏を貼っていた。
「どちらに行かれます?」
警備員が尋ねた。FBI捜査員が二人の顔を繁々と眺め、車をチェックしている。シボレーアストロの車両番号は新しい番号に変更してあった。
「この絆創膏の下のできものが化膿したんだ。内科かね?」
劉が顔を指し示した。警備員と捜査員は顔を見合わせて頷き、入場可とした。
梁は初めて楊の手術に立ち会うとあって些か緊張していた。漢の引き抜きで医療センター入りを決め、着任したものの、歴代の整形外科長が楊の逃亡幇助の容疑で逮捕されていることがやはり気になっている。しかし報酬など待遇面が抜群に良く、断り切れなかった。あと二人の新任も多かれ少なかれ同じ理由で引き抜かれていた。
施術する宋は最新機器での施術が出来るというのが医療センターの引き抜きを受けたもうひとつの大きな理由だった。若手の張をアシスタント代わりに準備段階で細かい指示を幾つも出していた。
楊が現れ、ベッドに横たわり、宋は楊に施術に当たっての希望を確かめた。
「結構広範囲にこれまでのお顔を変えるっていうことですね」
楊は頷いて、自分の顔を任せる宋の顔を繁々と眺めた。宋は透明手袋をした手で楊の顔を触診して行った。
「今張り付けてある『お面』はまだ十分使えますのでそのままにして、各部を触って顔全体の印象を変えるという形で進めるのが良いと思います」
宋は張に次々に細かい指示を出して、施術の準備をさせた。施術は先端整形技術で既に楊の顔に貼りつけられている極薄の『お面』と呼ばれる額の一部に穴を開けて、素顔の表面全体に透明の液を流し込み、ある程度固まるのを待ってから、素顔とお面の接触部分を最新機器から引き出された幾本かの細い針で押さえながら粘土細工のように凸凹をつけてゆくという方法である。
透明の液が固まるほどにお面の各部分が形成され、素顔とお面との間に形成された層として固定されて行った。層は素顔にもお面にも馴染み、柔らかな薄い膜を保ちながら、新しい顔が誕生した。劉は楊の全く新しい顔を見て驚いた。果たして幾つ目の顔になるのか。少なくても指名手配のポスターの顔とは全く違う人相だ。最新機器の稼働がストップし、顔が完全に固定するまで二時間横たわったままに置かれた。
劉が自宅で待機するチュンヤンのスマートフォンに早速楊の新しい顔を送った。そして母親に電話を入れた。
「親父の顔を見たかい? これがホントの親父なのか、確信が持てなくなるだろ?」
チュンヤンはじっくりと顔を隅々まで見つめた。
「かなり変わったわね。人は顔でその人と他人を区別するわけだから。その顔がこれだけ変わっちゃ訳がわからないわ」
「ハオミンはどんな反応?」
「スマホの顔ではよくわからない。あの人が帰ってからね」
楊は施術が終わり、帰宅した。二時間ほどしてから、劉はチュンヤンに様子を尋ねた。
「まだ慣れないみたいね。あの人が近づけば逃げるし、口もきかない。睨みつけて一緒に食事もしないわ。もう大変!」
劉はそれ以上母親の愚痴を聞きたくなかったので、早々に電話を切った。
果たして楊はまた整形したんだろうか? ココ・スーはチャイナタウン総合医療センターのゲートで出入車をチェックしているFBI捜査員に接触した。チェック表を見せてもらう。KTトランスポートのような精密機器専用運搬車の出入りはない。ということは外部で整形が行われた形跡はない。他の車両をチェックしてゆくと、一台のシボレーアストロに目が留まった。楊の専用車と同じ車種だが、車両ナンバーは違う。乗員はドライバー含めて三人。髭面の年配と、大きな絆創膏を頬に貼った中年男。若いドライバー。行き先・内科(できもの治療)。院内滞在時間・四時間四十八分。できもの治療に約五時間? 長すぎる。髭面の年配はつけ髭をした楊だ! ココ・スーは新と整形外科に急行した。PCなどにはいつものように整形データはない。その機会に彼女は新任の医者に面会した。三人とも楊の整形はしていないと口を揃えた。鑑識許可証を持参して鑑識が指紋採取等を行ったが、ベッドから何から全て指紋はきれいに拭き取られ、その後には指紋の提出を受けた新任の医者のものしか検知されず、髪の毛なども見つからなかった。
その後目撃証言の通報がすっかり影を潜めてしまった。それは何処かで整形が行われ、楊の顔が市警と赤間オフィスが制作した指名手配写真とは似ても似つかぬものになったことを暗示していた。
「また振り出しに戻ったようね。楊はまた顔を変えたんだわ」
ココ・スーは次の戦略を考えようと、赤間の人脈で赤間オフィスに入社した元テロリスト・国吉英雄と行きつけの店・クレセントに足を運んだ。新型コロナの感染者がまた増えているため、市当局は屋外のみの営業を認めていた。少ない屋外の席にこれだけ客が押し寄せると、自然と客は少しずつ屋内の席にも座り始める。ココ・スーはオリジナル・カクテルを舐めながら、屋内のテーブルに席を取り、店内を見渡していた。国吉も久しぶりの酒場の雰囲気を味わっていた。
酒を呑んでいる客はマスクを外し、テーブルに置いている。向かい同士に座り、大声で話し合っている。これではまた感染者が増えるのも当然だ。そう思いながら客一人ずつに注目していると、奥のテーブルに座っている二人の男に目が留まった。ひとりは年配の男。もう一人は中年男だ。何処となくこの二人は親子じゃないかと直感した。
中年の方は黒いサングラスをかけ、マスクをしている。酒を呑む時にはマスクをずらしてグラスを口に運んでいる。その瞬間ココ・スーは劉だと直感した。とすれば向かいの年配男は楊じゃないのか。ココ・スーは反射的に隠しカメラ内蔵の眼鏡をバッグから取り出し、装着した。トイレに立つふりをして二人のテーブルに近づき、マスクをしていない年配男の顔写真を何枚も撮った。そのままトイレに入り、赤間に緊急電話を入れた。
「楊と劉がいます。場所は八番街四十二丁目東側のクレセント。タイムズスクエアから西に直ぐのところです。至急FBIにも手配頼みます!」
赤間オフィスのスタッフはそれぞれの自宅からクレセントに駆けつけた。二人の動きを注視するココ・スーの前で突然二人が立ち上がった。料金とチップをテーブルに置き、二人は店を出ようとしている。ホールドアップしようと思ったが、周りに客が多過ぎる。もし万一撃ち合いになったらと思うと、店外に出てからの勝負だ。ココ・スーは国吉と二人に続いてそそくさと店を出て行った。
二人の歩む先に黒塗りの高級車が停まり、用心棒らしい男が車外に出て後部ドアを開けて待っている。運転手は社内で待機している。ココ・スーは左肩にかけたホルスターから拳銃を取り出し、銃口を男らに向けて叫んだ。
「楊浩宇だな、両手を挙げて立ち止まれ!」
年配男らはギクッとして立ち止まった。
瞬間、用心棒が状況を飲み込んで胸の拳銃に手をかけた。国吉は用心棒めがけて撃ち、拳銃を弾き飛ばされた用心棒がひるんだ瞬間、劉が楊の背中を押して「逃げて! ヤサ(隠れ家)を変えろ!」と大声で叫び、ココ・スーめがけて銃弾を放った。国吉が劉を狙ったが、劉は車から飛び出した運転手の援護射撃を受けて素早く車に乗り込み、急発進で走り去った。
ココ・スーは逃げようとした用心棒の肩を掴み、羽交い絞めにして押さえつけたまま、最初に現場に到着したオフィスのスタッフ・浩之に手錠をかけさせた。用心棒はその直前何かを飲み込んでいた。彼は市警の分署に連行されてから苦しみ出して絶命した。科捜研で分析の結果、胃の内容物から青酸化合物が検出された。
ココ・スーは市警の現場検証に立ち会い、詳細に証言した。市警に店内営業を咎められた店主のフェルナンデスはニューヨーク市のコロナ対策違反に問われ、即刻閉店の命令を受けた。
ココ・スーは逃げた年配男の顔写真をFBIとも共有し、楊の現在の顔を確認した。
フェルナンデスの店の前から楊とみられる男が逃げた際、劉の車に乗らずに走って逃げたことを重視した捜査当局はヘルズキッチンの近くに楊の隠れ家があるものとみて、ローラー作戦に乗り出した。劉も取り調べを嫌って、そのまま姿を消していた。
楊はマンションに逃げ帰り、直ぐに候劉会不動産担当幹部・唐に連絡をとって善処を依頼した。
「走って逃げたのなら、八番街四十二丁目の近くがマークされます。そうですね、今度はクイーンズで探しましょう。とにかくまずお迎えに参ります。荷物をまとめておいてください」
唐はそう言って電話を切った。楊はチュンヤンと急いで荷物をかき集めた。四歳になったハオミンはますます動きが活発になっている。ハオミンを連れて家族で逃げるのはもう何回目だろう。少々頭が混乱して来る。今はそんなことはどうでもいいのだが、楊は妻と息子を足手まといに思わない自分にホッとしていた。その昔ならきっと独りで逃げ回るだろう。そして性的欲望が赴くまま女の尻を追いかける。しかし齢七十一にもなれば、性欲も段々と萎み、しかも整形の副作用で顔面痛を抱えているわが身にとって残る楽しみと言えば息子の成長と酒ぐらいのものだ。性欲はオナニーで済ませる。これでも俺にとっては大いなる変化である。
まもなく連絡が入り、マンション下に車が着いたという。ナンバーとドライバーの名前を聞き、行き先はクイーンズ・フラッシングメドウズというところのマンションとだけ唐は話した。マンションの部屋まで現地で案内するように不動産屋のドライバーに申し付けてあるとのことだった。緊張しながらマンションのエレベータで階下に降りると、表玄関のシースルーゲイトの向こう側にドライバーらしい男が立っていた。
「兆さん?」
「はい、唐さんから伺って来ました。さあどうぞ。荷物をお持ちしましょう」
兆は二人のバッグを持って車に走り、チュンヤンはハオミンの手を引っ張って楊と後ろの座席に腰かけた。
兆は安全を確認してから発進し、ヘルズキッチンの通りをマンハッタンからクイーンズに繋がるミッドタウン・トンネルに向かった。
クレセントから出て八番街四十二丁目の交差点を渡る時、何処からか現れた女に突然フルネームを呼ばれ、ホールドアップされそうになった瞬間が蘇った。ハオミンはチュンヤンの膝で奇声を上げている。この子は成人した時一体どんな人間になり、俺はどうなっているのか。まだ生きているのか、死んでいるのか。生きているとしても塀の向こう側にいるのか。まだ逃げ続けているのだろうか。
赤間スタッフはFBIのヘルズキッチン捜索に加わっていた。マンションや住宅を一戸ずつ潰してゆく作業は地味だが、楊の逮捕という目的を達成するために不可欠なものだ。ローラー作戦はようやく楊が家族と隠れ住んでいたもぬけの殻のマンションの一室に達した。
直近まで人が暮らしていた跡が見受けられる室内で指紋採取が行われ、遺留品が押収された。遺留品にはクレセントのマッチや包装ビニールなど子供用品の残骸もあった。
科捜研で分析の結果、その一室には楊の指紋があちこちから出た。赤間オフィスでは緊急ミーティングが開かれていた。赤間が口を開く。
「もう一歩で楊が逮捕出来なかったのは返す返す残念だ。もう少しうまい立ち回りがあったのではないかと猛省している。おまけに昔の仲間、フェルナンデスが店内にまで客を入れていたことで店が休業になった。それと楊の件で事情聴取を受けた。この前は劉と一緒に来店したが、それまで二、三回楊単独で店に現れたらしい。隠れ住んでいたマンションと店がごく接近していたせいだろう。もう少し泳がせておくことも出来たのかなと今になって思うが、劉の顔が確認できたので、相手は楊と推定できた。これがチャンスだと思って動いたココ・スーの判断は正しかった」
「俺だってそうしたと思う」
アドバイザーの波佐間が口を開いた。
「小さな息子と一緒に逃げているんですね。あのチュンヤンとかいう女が母親ですか?」
浩之が言った。
「恐らくな。昔のあいつからしたら、ちょっと考えられない行動ではある。子供はチュンヤンに任せて、自分は別の女とくっついて暮らすような奴だったが、七十を超えて心境の変化でもあったのかな。それと、ココ・スーが楊の顔写真を撮ってくれたのが今後大いに役立つ。お手柄だ」
赤間がココ・スーに微笑んだ。
「あの顔で公開手配するかどうかはFBIとの協議が一応要りますね」
ココ・スーが返した。
「明日合同幹部会があるので、早速公開することでプッシュしたい。スーは他に何かあるかい?」
「ちょっとこれからの戦略を考えています。もう少し時間をください」
「了解。よろしく」
楊はココ・スーが撮った顔写真入りで直ちに指名手配された。面が割れたと楊は直ちにまた整形手術を受けた。
ハオミンはかなり人相が変わった楊を父と認めず、避けていたが、日が経つにつれて楊の新しい顔に徐々に慣れて行った。抱っこされ、体臭を嗅げば、それは父であり、ハオミンの鼻に記憶されている。声も生まれてずっと聞き慣れている父親のだみ声だ。歩く時の姿勢、速さ。身のこなし。笑い声。全てがハオミンの記憶に、これが父親だと染み込んでいる。顔を除いては。
その後楊はココ・スーの執拗な追尾に敗れて逮捕され、刑務所で獄死した。楊の正妻の息子・劉が後継の領袖となり、然るべき時期に父親の楊と愛人のチュンヤンの間に生まれたハオミンは楊と劉の後継者として候劉会を束ね、今では中国マフィア・黒社会の領袖として裏に表に幅広いビジネスを展開している。
ハオミンの豪邸にある書斎には先々代の領袖で父親・楊浩宇の肖像写真が掲げられている。ハオミンは暇があれば、その顔に見入る。ニューヨークの中国マフィア・候劉会の初代領袖として黒社会を背負っていた頃のいかつい表情を見せている。楊はその後巨額脱税で摘発され、家族で逃亡生活を送って顔を何度も変えた。ということはその肖像写真の顔が、俺が生まれる前の親父の元々の顔ということになる。
今日もハオミンは獄死した時の痩せこけた父の最期の顔を思い出しながら、顔とは一体何を意味するのかと一種哲学的な自問をするのだった。
了
逃亡者 安江俊明 @tyty
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