分岐点
南村知深
選択肢はいつも身近にある
人生の分岐点。
それは案外身近に存在するものである。
例えば僕の場合、今朝ふとしたことで一駅乗り過ごしてしまった。
別に何のことはない、次の駅で降りて乗り換えればよかったのだ。
もしくは、次の駅から会社まで歩くのもいいだろう。五分ほど余計に歩けばいいだけの話だ。
だが僕は、そのどちらの選択肢も選ばなかった。
このままもう少し電車に揺られてもいいんじゃないかと思ったのだ。
どこに住んでいて、何という名前かも知らない顔見知りが、いつもならここにいないはずの僕を見て不思議そうな顔をしているのも、新鮮で面白い。
……会社はどうするのかって?
ああ、その心配なら要らない。
もし電車が事故を起こしてもそうそう遅刻しないように、僕は相当早い時間に会社に着くようにしているのだ。
学生の頃は電車の事故での遅刻を言い訳に出来たが、社会人となるとあまりそれは通用しない。なので、少しくらいの寄り道でも問題ないくらいの時間の余裕はあるのだ。
もちろん、そんなことを気にかけているくらいだから、サボりは考えていない。早朝の冒険は出社時間が迫れば否応なしに終わる。
選択肢に『無断欠勤』を加えてみてはいるが、それを選ぶことはないだろう。堂々とサボっておいて、会社に戻ってからも変わらずそこに僕の席と仕事がある、というのは多分小説やドラマの中だけだ。特殊能力もない平々凡々な僕に、現実はそんなに優しくない。
降りるべき駅を過ぎて十分ほど。
いつもは僕が先にいなくなる車両から、何人かの名も知らぬ顔見知りが降りて行った。
乗換駅だったせいか、一気に人が少なくなった。空席もちらほらと見える。
座ろうかどうかを迷ったが、やめた。座るとそのままずっと座っていたくなる気がして、それはよくないと思ったのだ。
吊革に掴まったままでぼんやりとあまり見慣れない窓の外を見つめていると、次の駅に着いた。
降りるべき駅を過ぎてから時間にして大体十五分程度だが、とんでもなく遠い場所に来たような気がする。
これ以上行くと時間までに戻れないんじゃないかという不安に襲われ、慌てて電車を降りた。同じように電車を降りた客に混じってホームを歩き、改札へ向かう流れから離れて反対側のホームに向かう。通勤時間帯のお陰か、あと三分と待たずに電車がやってくるだろう。
「ふーん。サボる気はないんだ?」
唐突に、そんな声が後ろから聞こえた。
最初は僕に掛けられた言葉じゃないと思って聞き流したが、さっきと同じ言葉に僕の名前が付け加えられた。誰だろう?
「あ、先輩……」
振り向くと、会社の先輩が立っていた。
二歳年上の女性で、すごく美人なのに男前(性格が、という注釈が必要だが)で、頼り甲斐のある兄貴のような人だ。本人には内緒だが、周囲では彼女を指すときは「姐さん」と呼んでいる。また、そのあだ名がピッタリ過ぎて面白い。
「いつも降りる駅で降りないからさ、サボるのかと思ったよ」
「え? 先輩、同じ電車だったんですか? 気づかなかったです」
そう僕が言うと、先輩はひらひらと手を振って違うと否定した。
「私は後輩君と違って、いつもはもっと遅いよ」
「じゃあ、どうして今日は?」
「詮索するの?
と、先輩は周りの目を引くくらい豪快に笑い飛ばした。
……多分、乙女はそこまで豪快に笑わないと思う。
そんな風に心の中でツッコミを入れていると、笑っていた先輩はやれやれと呟いて頭を掻いた。
「実はね、私が進めてたプロジェクトが消えちゃってさ」
「プロジェクトって……半年前から先輩が主導で進めていた?」
確かそれはかなり大きなもので、社運を賭けるの賭けないのという話だったと記憶している。僕のような平凡な社員は、あと数年仕事をこなして経験を積まないと参加すらできないようなものだ。
それが……消えた?
「そう。昨日、いきなり先方から断られてね。食い下がったんだけど、やっぱりダメで。それでヤケを起こして居酒屋をハシゴしてお酒飲んで、終電がなくなって帰れなくなったわけ」
「じゃあ昨日はどうしたんですか。家に帰っていないようですけど、まさか……」
「また詮索する。それとも心配してくれてるのかな?」
にっ、と人の悪い笑みを浮かべる。
明らかにからかわれているのがわかる表情だった。
「詮索です」
だから、きっぱりとそう答えてやった。
心配していないと言えば嘘になるが、気分的にどちらかと言えば詮索のほうに重点を置いている。
僕の答えに、先輩はくすくすと笑い出した。
「気持ちの良い答えだね。よろしい、答えてあげよう。泊めてくれそうな人の当てがあって、そこへ行ったけ――」
と先輩が言いかけたところで電車がホームに滑り込んできた。轟音で先輩の声がかき消され、その続きは聞き取れなかった。
何て言ったんですか?
そう尋ねようとすると、先輩は開いたドアの向こうへぴょんと跳ねるように乗り込んだ。
「これに乗らないと遅刻するよ?」
言って、可愛らしく手招きした。
僕は先輩の軽快な跳ね具合にぽかんとしていて、発車のベルがホームに鳴り響き始めてからはっと我に返って、いそいそと乗り込んだ。なんだか妙なものを見た感じだ。
ごとん、と車輪がレールの繋ぎ目を越え、電車が少し揺れた。吊革に掴まっていた先輩が危なっかしくその揺れに飲まれ、おっとっと、とたたらを踏む。
そのとき、さぁっ、と絹糸のように舞う先輩の髪からかすかに日本酒の匂いがした。
終電まで飲んでいた、というのは本当らしい。二日酔いはなさそうだが。
「さっき、何て言ったんですか?」
「んー?」
訊いても、先輩は何やら嬉しそうに車内の吊り広告を見て「おお」とか「うわ」とか呟いていて、僕の質問には答えてくれそうになかった。
妙にテンションが高いというか、はしゃいでいるというか。
まだ酔いが残っているのかもしれないと思ってしまう、そんな感じだった。
話したいことはいくつかあったが、どうも先輩は会話するつもりがないらしく、僕の存在など忘れたかのように、吊り広告と窓の外の景色を交互に見ては微笑んでいた。
なんだか、会社で見る先輩とは随分印象が違う。
そんなことを思った。
僕は新人の頃から、先輩には何度となく仕事で助けられてきた。的確な指示と万全のフォローには感謝してもしきれない。
気さくで話しやすい仲の良い友達のようであり、ここ一番で誰よりも頼れる先輩。
それが会社での先輩のイメージだ。
しかし、今僕の目の前にいる先輩は無邪気な子供のようだった。
何となく危なっかしいというか、目を離すとどこかに走って行きそうというか。
どちらが素の先輩なのだろう?
今はアルコールの影響があるっぽいから、こっちが素なのか?
「冒険は終わり、かな」
つらつらと考え事をしていると、先輩の声が耳元で聞こえた。いつの間にか先輩が顔を近づけてきていたので、驚いて心臓が跳ね飛ぶくらいに大きく脈動した。
それが表情に出ていたのか、先輩はちょっと意地悪な感じで笑みを浮かべていた。僕の反応を楽しんでいるらしい。
電車はゆっくりとスピードを落とし、いつもは帰りに立つホームが見えてきた。耳障りなブレーキの音が止み、ドアが開く。
駅から会社まで、歩いて十分程度。
その道中、僕は先輩のやや後ろを歩くだけで、結局何も訊けなかった。
社屋に入り、エレベーターを待つ人の列に並ぶ。先輩もそこに並んでいる。ちらっとその横顔を見ると、さっきまでの危なっかしさはなくなり、いつもの『兄貴』の顔になっていた。この辺りの切り替えの早さは、さすが社会人の先輩といった感じだ。
しかし……何だったのだろう。
電車があと十秒遅ければ聞けたかもしれない、先輩の言葉。
……って、ちょっと待て。これはどういうことだ?
ふと、頭に浮かんだ疑問。
だがそれは、解答が出る前にエレベーターが到着して列が動いたせいで途切れた。人波に押されるようにエレベーターに乗り、しばし人口密度の高い息苦しい空間に耐えて、僕の仕事場の階で降りる。当然先輩も同じ職場なので一緒だ。
エレベーターホールからオフィスまで一分もかからない。
そのあいだに、先輩に訊いておかなければならないことがある。
訊けなければ、多分僕は今日一日、考えがそっちに行ったままでろくに仕事もできないかもしれないのだ。
「あの、先輩。訊きたいことが……」
「最後に飲んだ居酒屋の名前でしょ? 別に隠したいわけじゃないし」
と、先輩は僕が訊きたいこととは全く違う、僕の家の近所の居酒屋の店名を口にして、さっさとオフィスへ入って行ってしまった。
完全に質問する機会を失った……というか、与えてもらえなかったという感じだ。
だが――先輩の答えは、まったく無意味ではなかった。
「…………」
僕は、一駅乗り過ごすことになった原因の物が入っているポケットに手を入れた。そこには小さな感触が一つ。
シルバーの小さなクロスが付いたピアス。
どういうわけか、それが一個だけ僕の家の郵便受けに入っていたのだ。それが奇怪で、いろいろ考えていて一駅乗り過ごしたというわけだ。
しかし、今一番考えなければならないのは、わざと一駅以上乗り過ごした僕と同じ列車になぜ先輩がいたか、だ。
なぜ、先輩は降りるべき駅で降りなかったのか。
それは、先輩が片方だけしかピアスを付けていなかったことと関係あるのだろうか?
――僕が選ぶべき選択肢は、二つ。
この謎を全て僕の推測で自己満足するか。
昼休みに先輩を昼食に誘って、きちんと話してもらうか。
多分、ここが人生の分岐点だと、僕は思う。
終
分岐点 南村知深 @tomo_mina
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