梅のまにまに
鹿月天
梅のまにまに
はて、と朱に目を止めた。
御簾ごしに仰ぐ庭先は薄らと霧がかかっているらしい。秋風に揺れる紅葉の影がどうもぼんやりと曖昧だった。
その中に白はない。心躍らせる派手な紅もない。ただ黄味がかった朱だけが長月の風に揺れている。
しかし確かに見えるのだ。時たま風に煽られるように、ぽろぽろと咲き乱れる梅の花が。それは紅葉を侵食し、瞬きの次には満開の花となる。
几帳を膨らませる秋風が、春の色を持って梅の香を運んだ。御簾の隙間から入り込み、鼻先を撫でるように胸の奥へと落ちてゆく。
そうか、今日は九月十日か。今年もまた梅の香りで時の流れを知る。いつもこの日なのだ。染まりゆく秋風の中で梅の香が現れるのは。
「······
「何ですか、お上」
御簾の向こうへ声をかけると、のんびりとした声が返事をした。
彼は
「梅、見えたりします?」
「はい?」
師輔がちらりと外を覗いたのが分かった。しかしめぼしい物はなかったのか、「またまたぁ」と呑気に口元を隠した。
「新手の言葉遊びですか? 私でも、今回のはよく分からないです」
「いいえいいえ。今回のはただの質問ですよ。言葉遊びをするならば、もっと捻ったものを出します」
「ふふ、お上の言葉遊びは難しいんですから、あんまり捻らないでくださいな。じゃあ、何だろう。お上には見えるのですか? 梅の花」
師輔が衣擦れを残して席を立つ。几帳の奥、外を覗きに行ったようだった。
「うん、紅葉が綺麗ですよ」
やはり他人には見えないのだろうか。
その夜、どうも気になって、再びあの梅を見に行った。すると、花の下に誰か佇んでいる。枝に隠れて顔は見えないが、それが誰なのか不思議と確信出来た。彼は時たま顔を出す。この長月の十日になると。
「お久しぶりですね」
話しかけても反応はない。昔からそうだったので慣れていた。
彼──
言葉一つ漏らさないが、何か聞けば首を振って答えてくれた。初めは道真公か、と聞いた。彼はゆっくり頷いた。父のことを恨んでいるのか、とも聞いた。それには首を横に振った。では何故ここに居るのか、と聞いたが、答えてはくれなかった。
そもそも、私は道真公の顔を見たことがない。生まれる二十年も前には亡くなっていたはずだ。それゆえ、ひと目で彼を彼だと認識出来たのもおかしな話である。しかし、この手の不可思議なことには慣れていた。
そんなもの、この世にあって当然なのだ。ないと否定する術を知らぬから、昔から全てを受け入れてきた。壁があるはずの場所から手招きされた時も、見かけた猫の足が六つあった時も、夜空に首が飛んでいた時も、そういうものかと思った。今でも、六つ足の猫は己の部屋で鞠の上に寝転がっている。
だから、道真公が現れたとてなんら不思議はなかった。初めは恨んで出たのかと思っていたが、違うというので考えるのをやめた。まあ、恨んでいるわけではないなら話しかけてもいいだろう。しばらくの間、たわいも無い話を一方的に喋り続けていた。それから毎夜のように、彼は梅の下に立っていて色々話を聞いてくれた。
しかし、私の即位が決まった日を最後に彼は姿を見せなくなった。理由は分からない。些か寂しくはあったが、痩せ細った兄から懇願されては断ることも出来なかった。
それからは、こうして九月十日にだけ、梅の花を見るようになった。そこに道真公の姿はない。それでも彼がそこにいるような気がして少々心は落ち着いた。
「何か伝えたいことでもあるのですか?」
久しぶりの彼に問いかけてみる。一拍間を置いて、彼は梅の枝に手を向けた。すると、秋だというのに白い花が咲き乱れ、やがてぽろぽろと零れていった。
私はわぁ、と駆け寄った。傍で見てもやはり梅が咲いている。これは面白いと思った。秋風の中に生み出された春は、どこか背徳感さえ孕んでいた。
最後の梅の花が零れ終わると、道真公は小さく笑った。彼の微笑みを見たのは初めてなので、目をぱちくりと瞬かせる。
「──」
彼が口を動かした。声はなかった。ただ、私には何と言ったか分かった気がした。
「主なしとて」そう笑っていた。
突然犬の遠吠えがして肩を震わせる。気がつけば春は消えていた。白い花弁も、柔らかな微笑みも、全てが消え去り黒々しい枝だけが月影に照らされている。まるで夢でも見ていたかのようだ。しかし、それもまた不思議な世界の一端なのだろう。私は深く考えることもなく、ただ、優しい月明かりの中で春の残り香を噛み締めていた。
翌朝、気になって梅を見に行った。すると秋風に攫われたかのように黒い枝が死んでいた。たまげたものだ。突然枯れるなんて。大切にしてきた梅だったゆえ、うら寂しい風が心に吹き荒み、少々抉られるものがあった。
枯れた梅を一番に見に来たのは左大臣・
「元々、菅原の御屋敷にあった梅を分けてもらったものなのです」
彼の口からその名が出るとは思わず、言葉を返すのを忘れた。何でも、道真公が大宰府へ行く前、それこそ私の父が即位したばかりの頃に頂いたのだと言う。
「······主がおらずとも咲くものですねぇ」
彼は父を恨んではいないと言っていた。恨んでいると決めつけていたのは我々京の人間だったのだろうか。梅も彼も、確かに主との春を忘れたことはなかったのかもしれない。もう梅の香は届かなかったが、心に吹き付ける風を感じて御簾ごしに動き回る臣下を見つめる。
父も、こうやって外を眺めたのだろうか。その先に道真公も居たのだろう。兄の元にも彼は現れたのだろうか。現れなかったとしたら、兄から見た外の世界ではただ秋だけが過ぎ去っていったのだろうか。春を見ていたこの私は、あの梅の主になれていたのだろうか。否、あの梅の主のように、そして父のようになっていけるのだろうか。
そんなことを日々考えていたら、皆が気を遣ってくれたらしい。「新たに良い梅を見つけましたよ」などと言いながら、師輔が短冊のついた梅を移しに来たのは、それから幾月か経った梅の盛りの頃であった。
梅のまにまに 鹿月天 @np_1406
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