第4話 望月

 小さな小さな、白くて丸い半透明の粒。それが数十個。そして、粒の中では、肌色の何かが蠢いています。

 それは、卵でした。その卵の中にいるモノは、ヒトの胎児の姿をしていました。


 …………あ、あっ………あ……………。


 魚の卵。ヒトの子供。それが意味するところは、たった一つでした。


 ーーーーーーーーーーー!!!!!


 きっと、クラゲに声を出す口があれば、雄叫びが天にまで届いたでしょう。その代わりと言わんばかりに、池の中から、膨大などす黒い力の奔流が溢れ出します。

 クラゲは生まれ直しました。そこにいたのは意味もなく海に浮かぶちっぽけなクラゲでも、人魚に無邪気に憧れたクラゲでもありませんでした。それはクラゲが今、一番なりたい姿でした。

 ちょうど駆けつけた狩衣の男が叫びます。

「まさか……まさか我が子達を喰ったのか!こよバケモのッ」

 その言葉は最後まで続きませんでした。横薙ぎに放たれた水流が、男の首を斬り飛ばし、断面からどばっと赤い血が吹き出しました。


 それは黒い月でした。光を失った、墨のように真っ黒な水の月でした。屋敷の上をぷかぷかと浮かび、そして次の瞬間、次々と水の弾が放たれ、屋敷はあっという間に崩れ落ちました。

 黒い月は、水でできた腕を伸ばして、石の下の団子虫を探すように瓦礫を剥がしていきます。そして人を見つけては、ひとつずつ、ひとつずつ、腕の中へ引きずり込んで、体の中でじわじわと消化していきます。不老不死といえど、骨も残らず喰らい尽くせば、命は終わります。

 許さない。許さない。よくも。よくも。死んでも彼女を利用したな。死んでも彼女を穢したな。許さない。許さない。殺してやる。殺してやる。

 黒い月の怨嗟が響きます。老人がいました。若い女がいました。立つこともままならない小さな子供がいました。ひとつずつひとつずつ、丁寧に丁寧に、喰らい尽くしました。最初は人魚を食べた者だけを殺す予定でしたが、もうそんなことはどうでもよくなっていました。

 そうして剥がす瓦礫が無くなりました。それでも腕を動かして、人魚の欠片を探しました。鱗の一枚も、髪の一本も、指先の爪一つさえも、見つかることはありませんでした。

 黒い月は、狩衣の男を見下ろしました。首を切っても死にきれないのか、胴体だけでもがいていました。さっきまであれほど憎んでいたあの男が、今ではひどくちっぽけなものに見えました。だから、何も言わずただ男を喰らいました。そして、静寂だけがそこに残りました。


 ………あぁ、そうだ。


 やるべきことがまだ残っていました。黒い月は、池をのぞき込みました。人魚の卵が、底に一つだけ残っています。

 それが人魚が残した唯一のものだと、黒い月にはわかっていました。それでも、この子を殺すことにしました。


「くっはっはっは!壮観壮観。この様子だと、ことは済んだようだな」

 突然、後ろから話しかけてくる者がいました。振り向くと、ニタニタと笑いながらこちらを見つめる、袈裟を着た僧侶が立っていました。

 いいえ、よく見ると袖の下から吸盤のある赤い腕がのぞいています。人間に化けた、いつぞやの蛸でした。


 ここに入ってこられたのか。


「うむ。結界の術者が死んだからな。こんな急拵えの変化でも入れたわい」


 …そうか。


「浮かない顔だな。まぁ、我も事情は凡そ察している。」

 蛸は、池の中をのぞき込みました。

「殺すのか?こやつ」


 あぁ、殺す。こんなおぞましいものは、ひとつ残らず消さなければ。


「ふむ。我はこの家の者どもに大いに恨みがあってな。その礼と言ってはなんだが悪いことは言わん。やめておけ」


 …………なぜ?


 蛸は、くっくっく、と笑いました。

「お前さんが発った後に、ちと占いをしてなぁ。知りたいか?」


 関係ない。この子供は殺す。


「待て待て、人魚に会いたいのだろう?」


 …………………!!


「食いついたな。」


 ………教えろ。


「そう怖い顔をするな。………今のお前さんに顔など無かったな。」


 ………。


「人魚の骸より生まれし人魚の子、人として育たん。そして子を残し、その子がまた子を残し。やがて再び、人魚は再臨せり。」


 ………どういう意味だ。


「平たく言えば、生まれ変わり。魂の先祖返りとでも言おうか。」


 …この子の子孫に、人魚の魂の生き写しを持った子が生まれてくると?


「うむ。とにかく、この子供を殺せばその望みは無くなるぞ。………まぁ、それでも殺すというのなら、我は止めはせんが。戦って勝てる気もせんし、なにより止める義理も無い。」


 …いつだ。いつ生まれてくる。


「わからぬ。十年後か二十年後か、はたまた百年後かもしれぬし、二百年後かもしれぬ。まぁ、それくらい今のお前さんなら余裕だろう」


 ………あぁ。


 黒い月は屋敷を離れ、パニックに陥っている村の方へ向かいました。そして、人魚の肉を食べた者を匂いをたよりに探し出して全員殺してから、残った村人たちへこう告げました。

 人魚の子を育め。血を絶やすな。傷つけることを許さぬ。もし血が絶えることがあれば、今夜の続きが始まることと知れ。

 村人たちは恐怖のあまり、平伏して従いました。


 黒い月はゆっくりと、海へと潜り始めました。深く、深く、光さえも届かない深くへとです。

 黒い月はそこでただ待ち続けました。人魚の卵を食ったことで、人魚の子孫とは血の繋がりが生まれています。だから、その子達がどんな状態なのかは、ここからでも手に取るようにわかりました。

 黒い月にとって、待つのは少しも苦痛ではありませんでした。人魚はいつも、クラゲが生まれ直すのを待っていてくれました。だから、今度はクラゲが、人魚が生まれ直すのを待つ番なのです。


 十年が経ちました。まだへっちゃらです。


 二十年が経ちました。まだまだへっちゃらです。


 五十年が経ちました。全く問題ありません。


 百年が経ちました。体が古くなったので、生まれ直しておきました。でも待つのは平気です。


 二百年が経ちました。少しも苦しくありません。


 五百年が経ちました。まだまだ、待ち続けられます。


 千年が経ちました。まだまだ、まだまだ…………………


 今も、今でも、黒い月は待っています。深い深い海の底で、いつか生まれてくる人魚を、たったひとりのたいせつなひとを、たったひとりのあいするひとを、ずっと、ずっと、待ち続けています。

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クラゲと人魚 兎骨 @fool40aran

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