己喰らいのマンティコア
「よくもわたしの前でエイロウを喰ってくれたな」
口から溢れてくる唾液をもう隠すことさえかなわない。
あたりに漂う血肉の匂いは官能的ですらあった。それも自らを慰めるような行為では満足させてくれない、煽情的な美食の香りだ。
リュカ・マンティコアには、もう我慢ができなかった。
牙を立てる。
「ナニヲ、シテイル……?」
リュカは自身の指を食いちぎって嚥下した。
みるみるうちに身体がどす黒く変わっていく。目の前にいるマンティコアとは違い、黒い汚泥のようなものへと変貌する。リュカは自身の右手がなくなるまで喰らい続けた。
己の肉はすなわち血族の肉。
禁忌を破った人喰いは理性をなくした暴食の化身となる。
付近のエーテルを貪欲に吸い上げてリュカの身体は巨大化し、あっという間に目前の敵をちいさな獲物へと変えていった。
「バカナ……ナンダ、ソレハ……」
獲物はエイロウを手から落とし、すくみあがる。捕食される側となった恐怖によって声が震えている。
リュカはそれを見て笑った。
「ははっ、くはははははっ! 仲間を喰ったこともない雑魚が! わたしの前でエイロウを喰ったことを後悔しながら死ね!」
巨大な左腕を軽く叩きつけるだけで相手の身体は果実のようにぐしゃりと潰れた。
「グ、ゲェッ……」
「おまえはどこから喰って欲しい? 腕か? 脚か? それとも胸か? お母さまはうまかったよ。眼も、脳も、心臓も。ああ、もう二度と喰えないことが悔やまれる」
ひしゃげた小兵の腕を一本、二本と引きちぎる。次は脚だ。二本とも引き抜いた。
「答えろ。おまえはどこから喰って欲しいんだ? ええっ⁉」
「ヒッ、ィ……」
泥がぼたぼたと地面に落ちる。それはリュカの口から溢れ出した涎だった。
「答えないなら、いっそまとめて喰ってやる」
「やめてください」
口を開いたリュカの身体が止まる。
戦意を喪失し死を待つのみとなった肉塊の前に、首を切り裂かれたはずのエイロウが立っていた。
血染めのローブに包まれたエイロウがまっすぐにリュカを睨む。
「わたしの方がおいしいです! こんなまずそうなひとを食べるなんて許しません!」
リュカはぽかんとした。
「おまえこんなときになに言ってんの?」
「だから、わたしの方がおいしいと言っているんです! さっきわたしが食べられるのを見て羨ましがってましたよね? しかとこの眼で見てました!」
リュカのなかで急激になにかが冷めていく。
黒い汚泥は形を崩し、気がつくとリュカは人間の形へと戻っていた。
「いや、そりゃ、その……」
「おいしいですよぉ? どうせさっき人肉食べちゃったんですから、ほら、ぱくっといきません?」
そう言って血まみれで身を寄せてくるエイロウ。
「あ、あう、あう……」
頭がくらくらして、理性が溶けていく。
「はい、あーん」
「あーん……」
だめだ。言われるままになってしまう。
開かれた口。唾液であふれる口の中にそっとエイロウの指が入る。舌をなぞられた。ぞくぞくする。このまま口を閉じて顎に力を入れれば、エイロウのこと……
だがそのとき、ちょうど天罰の
「「わぎゃあああああっ⁉」」
ふたりはそれで意識を失う。
こうしてリュカは、エイロウのことを食べ損なった。
*
「アリカってやっぱりいじわるだよな」
「ですね。わたしをこんな身体にしておいて、リュカにあんな魔法をかけてるなんて。本当に救う気あるのかって話ですよ」
次の村へと向かう道、妖女と聖女は賢人の悪口を言い合った。
「この世界のすべてのひとに自分を食べさせれば不老不滅の罰から解き放たれる、だなんて。聖女だのなんだのと言われながらずいぶん長いことやってますけど、終わる気配がぜんぜんありません」
「新しいのが生まれてきちゃうからなあ」
リュカは真顔で言った。気を許すとエイロウのことで頭がいっぱいになってしまうから。
「だから夜にはこっそりお祈りしてるんです。この世界に子供が生まれなくなりますようにって」
「やっぱり魔女だな、おまえ」
「ま、いまの生活も悪くないですけどね? わたし、ひとがご飯を食べてるところを見るのが好きなので」
そう言いながら指で唇をなぞってくる。やば。
「おまえ、忘れたのか、あの雷のこと。またおちてくるぞ」
「いいんです。どうせ不老不滅なので。それより、リュカが理性溶かしてわたしのこと食べてるところが見たいなー、とか?」
誰の目があろうとも全部無視してここで押し倒して、その身体にむしゃぶりつきたくなる。本当ならこの先百年は会うべきではない相手だ。でも、そんなふうに禁忌を破ってまで欲しくなる相手だからこそ、いっしょにいる価値があるのだとリュカは思った。本気だ。一時的な食欲に惑わされているわけではない。
「はいはい。じゃあもっとおいしくなってくれ。我慢できなくなったら無限に食べちゃうからな? 誘惑したのはおまえなんだから責任を取れ」
「あはっ。言いましたね? じゃあ本気出しちゃおっかなあ」
軽口を叩き合いながら歩む罪人たち。
償いの旅は永遠に終わることがないかもしれない。
それでも手をつないで先へと進む。
互いの欲望を知るふたりでなら、きっと寂しくはないだろうから。
己喰らいのマンティコア サクラクロニクル @sakura_chronicle
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