苦しんだ後で

 スタートから2時間半。俺の前にバーにいた客が全員はけたので、だいぶ離れた頃を見計らってバーテンダーに断りを入れてから、入り口外で盛大にせた。咽せたら咽せたで喉にも肺にも負担がかかるので、声帯付近のつっかえは無くなるものの余計に視界の半分が白黒点滅をしている。これあと30分は治らないんだよな。面倒な。

 しかしちょくちょく来ているはずなのに、あんなに喫煙者が多い日に初めてぶち当たったな。客だけでも葉巻が2人に全員メーカーが違う紙タバコ愛好家が3人、あとパイプを嗜む客がいた。絵に描いたような"The パイプ"、使ってる所初めて見たかもしれない。流石シガーバー。それだけはいいものを見た。


「おや、中藤さんお久しぶりですね」

「……、お久しぶりです、マスター」

「大丈夫ですか?以前お伺いしたのが間違いでなければ、中藤さんタバコダメでしたよね?」


 席に戻り、若干血の味が湧いている喉と雑音混じりになっている呼吸を整えていたら、後から出勤してきたマスターとうっかり目が合う。喫煙者がいる時に限り、口を押さえるハンカチを俺はよく手元に置く。そこで普通にバレたんだろう。手は入店時のおしぼりで拭けるが、流石に咄嗟のタバコの煙避けもそれでやるのは気が引けるのでそうしている。


「はは……まあ、不意に煙吸うとかなければ何とかなります。喫煙可って知ってて来てるんで、体調管理は自分で何とかしますので」


 さっき盛大に吸ったけどな。まさかのカウンター煙を、バーテンダーの裏切りで。

 カウンターを出て、その辺のソファでマスターが仕事をしながら吸っている例は別の店で知っている。けどボトルの近くで吸ってるのは見た事ないからそういうもんだと思っていた。喫煙所を根城にしているマスターも別にいるが、周りに置いてある物の値段とその人の正体的に、タバコの煙ひとつでも相当ヒリつくタイプなのでそりゃそうだよなと思った事がある。そういえばどちらもオールドボトルコレクターという共通点があるので、管理や品質維持の観点が強いとなると実はこちらが少数派なのかもしれない。

 今回に関しては、見てわかる範囲にオールドボトルは置いていなかった。開いている瓶もなかったと思う。影響そんなにないって言ったらその通りなんだろうけど、マスターの方がその辺の線引き詳しいからいいか。……特にどうとはないが、隣の客の会話から聞こえたしバーテンダーの名前は覚えたぞ。


「おや?そのボトル飲まれたんですね。美味しいですよねそのプライベートボトル。どうでした?」


 マスターが、俺の目の前に置かれた数本の瓶に気がつく。今一番俺の近くに置かれているのは、最近別の店が出した長期熟成のアイラモルトだ。ラベルが随分派手なそれに合わせて、今日はハーフでオールドのウイスキーを少しずつ貰う日にしていた。何を飲んだのか、どういうものかをメモする習慣があるので、マスターからの問いに対する答えはすぐに出た。


「美味しいですよ。香りは凄く強い訳ではないですけどどこかフローラルで甘い麦ベースで、ピートはそこまでじゃないんで刺激も少なくて優しいですね。基本的に爽やかな青リンゴの印象があって、ずっと転がしてるとカラメルの風味と繋ぐようなオイリーで、そこにピートがちょっといる感じです。水で伸ばすと青リンゴ感が強まるので、トワイスアップあたりも相性良さそうでいいですね」


 本当は、ウイスキーのテイスティング的には青リンゴというよりエステリーとか言うらしい。多少嗜む程度にアルコールに耐えられて、蒸留所突撃するようなパワフルなマスター達のおこぼれにたまたまあずかっているだけなので、その辺はまだ覚えなくていいか……と思って5年強くらいになる。正しいコメントで答えられた方が締まるんだろうけど、まあ、それはおいおい。


「ご満足いただけて良かったです。そうですね……それを飲まれたのでしたら、似た熟成期間でもう少しパンチがある、こちらもお気に召すかもしれませんね。あくまで私の感覚ですが、このレベルがスタンダードですね」


 ス、とマスターに出された現行のものよりやや低い瓶は、別のアイラモルトのものだ。限定90本とか25年熟成とかしれっと書かれたものが何食わぬ顔で出てくるのだから、この店の代替というのはそうそうない。このランクを「スタンダード」と言い切るのだから、尚更だ。


「ではハーフ、ストレートでお願いします」

「かしこまりました」


 短い会話の後、何も言わずに注がれるチェイサーが、クリスタルガラス製のコリンズグラスに光を集める。コースターに落ちる影を黄金色に変えるそのウイスキーは、とにかく強いスモーキーさで名高いモルトにしてはあっさりとした麦の甘さを開かせていた。


 ……運が悪いと酷い目に遭うこともある。あるが、肺はダメでも幸いな事に酒の味を楽しめる体ではあった。専門家レジェンドとコレクションに触れるメリットがあまりに大きいので、これからもバーに行くのだろう。

 そんな事を思いながら、55度を超えるグラスの中身を一口流し込んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

弩・フュメ 蒼天 隼輝 @S_Souten

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ