造物主曰く、朕に似せて爾を生せど、焉ぞ爾汝の吾人たるを得んやと

 讀める最中、次の如き念――斯かる念は從前より抱き續けたるものにてはあれど――を反芻した。

 すなはち――最近、少しく事情が變じてはゐるが、從來、人閒は動物を「物」として區分してきた。
 例へば、本邦における民法の父と云はるゝ梅兼次郞は、動物を動產の一として例示したとされる。
 況や、植物に於いてをや。

 彼我の境、那邊にか劃すべき?

 僕は、造物主の存在を否定できぬ――其存在を一般的な「神」の概念で認識することには懷疑的であるものゝ――と考ふるが、造物主にとつて、人閒を含め、其生成物たる生物とは、一體何如なる存在であらうか。

 僕は、人閒とは、生物とは、有機的な機械の一として〝ある〟ものならんと考へてゐる。さう考へざるを得ぬのである。

 該作を讀める前も、讀んだる今も、吾人は有機的精密機械として茲に〝ある〟。