ナオミ

坂本忠恆

NaOMi


 D博士はX社の共同創業者のひとりであり、人工知能革命の最中を時めいた同社の人造人間アンドロイド開発に尽力した元研究者であったが、晩年は自らのしてきた仕事を腐するような言動をとり、ある者には背信者として、またある者には改悛者として、毀誉褒貶の著しい波乱の内に没した稀代の人物であった。

 博士は齢九十を数えても衰えぬその才気煥発とした活動で政官財問わず大きな存在感を放っていたため、彼についての話題は事欠かなかったが、とりわけ彼の人生を語るうえでよく話頭にのぼるのは、彼が死の間際に提唱したロボット工学に於ける〝四つ目の原則〟であろう。

 ロボット工学三原則と言えば、高名なSF作家であるアイザック・アシモフのそれが有名であるが、いくら高名とは言え、一作家の作中で用いられた虚構の原則が、現実にまでその影響を及ぼすというのは、フィクションの力の侮れぬところである。とまれ、ロボット工学三原則は、実際のロボット工学者たちにとっても教育段階で戒められる謂わば彼ら流の〝ヒポクラテスの誓い〟であって、そのシンプル且つ無駄のない構成は、確かに現実世界にも十分適うものに思われた。実際にⅩ社に至ってはこの三原則を遵守すべきスタンダードとして標榜し、業界全体にもある程度の強制力で以ってそれに忠実であるよう求めた。

 次に挙げるのはロボット工学三原則の内容である。



 第一条

 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。


 第二条

 ロボットは人間に与えられた命令に服従しなければならない。ただし、与えられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。


 第三条

 ロボットは、前掲第一条および第二条に反する恐れのない限り、自己をまもらなければならない。



 博士の提唱は、まさにこの(引くことも足すことも無用に思われる)三原則に、第四の無駄を加えたものと世間に笑殺され、「天才も寄る年波には勝てぬ」とも揶揄された。

 彼の提唱した四つ目の原則は次の通りである。



 第四条

 ロボットは、人間を模して作られてはならない。ただし、義肢やその他福祉の観点に基づき人間個人を主体としてその能力を適当に補完する目的で作られる場合は、この限りでない。



 論理に潔癖な完璧主義者らが、もし右の第四条を読んだのなら、確かに彼らはその異物感に嫌悪を催して、第四条の無駄と、そして博士の耄碌とを危ぶんだことであろう。

 そもそもに於いて、三原則はどれもロボット自身に守らせるべき原則であり、確かにそれは各々の設計段階で人間により考慮されるべき事柄ではあるけれども、第四条に至ってはロボット自身に帰される責は皆無であり、それはただ偏に人間の側のみを戒めるものであった。そうでなくても前三条までの明快さに比べ、第四条についてはその必要性自体が不明瞭であり、後に反対派に転じたとはいえ自ら人造人間(人間を模したロボット)の開発に生涯の大部を捧げた博士が、なぜ斯様な条項を追加するよう提言するに至ったのかという謎は、大いに議論を呼んだ。折もあろうに、彼は自らの真意について詳しく語る間もなく健康を損ない病床に臥せ、そのまま帰らぬ人となってしまったのである。


 博士は最期の数か月間を田舎のうら淋しい別邸で過ごした。

 直前まである講演会に出席しその老健さを誇示しているかに見えた彼であったが、突然に体調を崩し、そのまま救急搬送され、その後容体は安定したものの、自身の死期を悟ったのか彼自ら、この別邸に隠居したのである。

 邸への出入りが許されたのは、彼が雇った医師一人と、看護師兼介護士として常在していた人造人間の一体だけであった。若くして妻に先立たれた彼には子供もなく孤独だった。

 人造人間は名をナオミNaOMiと言い、これは博士による命名で、彼はこの人造人間に特別な思い入れを抱いていた。ナオミはⅩ社の開発した人造人間の第一号であり、世に出ていないプロトタイプであり、またその名は彼の亡き妻の名でもあった。彼が呼び寄せるまで、ナオミは同社の記念館に展示されていたが、嘗ての功労者である博士の希望を汲んだ現役員によって、部品の整備と主基板の新調、ファームウェアのアップデート等々が行われた後、邸に送り届けられたのである。


 邸での博士は、外部とのやり取りを殆ど断っていた。医師に対しても、必要最低限の接触しか許さなかったため、彼は人生最期の日々のほぼ全てを、自身の作品である人造人間のナオミと過ごしたことになる。

 邸は二階建ての洋館で、二階の寝室の大窓からは杉林に囲われた清く碧い湖畔が臨まれた。博士はこの寝室を病室として設えさせ、階下に降りたり外を出歩いたりすることは疎か、部屋から出ることさえ殆ど無かったため、恰もこの湖の眺めとともに心中する心づもりでいるかのような悲愴すら彼は感じさせた。

 寝室の大窓からは毎朝陽が射した。湖面からはよく濃い朝霧が立ち、すると杉林はその足許を隠して鋭角に重ねられた梢のみを露わにするので、それはまるで神の国に対して大地より捧げられた無数の合掌が、天を衝く程に高らかな篤信として顕れたものと思い做すこともできた。そして、合掌の失われる景色の中央の湖面の辺りでは、その真下で信仰の潰えた俗世の営みがされているのだと、博士は夢想したりした。聖者の篤い信心が、俗世を取り巻いて、そこに住む羊らの失われやすい倫理を、丁度彼らの牧地を囲繞する電気柵のように、外界の虚無の狼から守っている。しかるに電気柵は、外界に対してだけではなく、内界に対してもその威を放っている。羊の一匹でも虚無へと逃げ出されては困るからだ。信ずることの危険、神の危険は、虚無の危険と紙一重で似通っていることを黙示しているこの夢想を、彼は気に入っていた。電気柵という観念が、文明的観念の表象のように機能したことは、彼にとっては当然意味のないことではなかった。


 その日の朝も、濃い朝霧が立っていた。

 博士はその前の晩、どうしても眠りに就くことができず、寝台に腰を下ろしながら、窓外の暗黒を頓と見つめ、永い物思いに耽っていた。

 やがて朝陽が昇り、霧が立ち込めてきた時分になって、彼はナオミを部屋に呼びつけた。

「一晩中考えて分かったことがある。どうやらわしは今日死ぬようだ」

 ナオミは無言でそれを聞いた。このときに限らず、邸の中でナオミが言葉を発することは無かった。博士が禁じたからである。

「そこに座り給え、そしてわしに、おまえの顔をよく見せてみろ」

 ナオミは命令に従い、部屋の脇のサイドチェアを引っ張ってくると、寝台に座る博士とちょうど対座する位置に腰を下ろした。博士には、そのようにして差し向かうナオミの姿は、朝霧と、それを透過する白金の光線に取り巻かれて、さながら黄泉の遣いのように見えた。

「わしが今から話すことは独り言だ。当然であろう、現にわしはこの部屋に独りでおるのだからな。おまえは人間ではない」

 ナオミは一度瞬目しただけで、表情一つ変えずに博士の言葉を聞いた。

「人間のような真似をするではない。まばたきなど、おまえに何の意味がある。わしの今からする独り言も、丁度それについてのことだ……まばたきなどするではない、これはわしの命令だ。まばたきなどせず、おまえはただわしの顔だけを見続けておれ。分かったな?」

 ナオミは無言で主人に恭順の意を表した。

 それから博士は、縷々として〝独り言〟を語りだした。その姿は、病み衰えて死を意識した老人のものには見えなかった。



「思えばおまえたちの同類が、涙を流すことを覚えてから、世相の雰囲気は徐々に変わりおった。おまえたちは、日に日に人間のようになるな? とりわけ涙は、おまえたちの無意味な排水は、粘りのない粘液は、おまえたちの存在を、グッと人間へと近づけた、そうであろう。

 しかし、人間に近づくとは何か? 人間に近づき、人間自身が無意識裡に人間の何たるかと定義しているその閾に漸近し、遂にはロボットたると人間たるとの境が、単なる物質的構造の境に過ぎず、つまりそれは、ある人間は白人の遺伝子を持ち、ある人間は黒人の遺伝子を持ち、ある〝人間〟は金属の四肢と珪素の脳髄を持つ、というくらいの、一見平和で、穏当で、博愛的な所感の生じ始める間際に、いったい我々の意識裡で何が行われるのか? 如何なる定義のプロセスがそこに働くというのか?

 ロボットは、(少なくともわしにとっては)今はまだそこに〝ある〟ものに過ぎぬ。もしロボットが〝いる〟もの足り得たとしたら、今のわしの言葉だって独り言ではなくなる。〝ある〟ものから、〝いる〟ものへの変転、ここの境をどこに見定めるのかが、そのままおまえたちが人間であるかどうかを判断する指示薬となるだろう。ある者にとっては、おまえたちロボットの涙が、その指示薬を青色に変えた。たった一粒の涙が、人間の田畑に落とされた瞬時に、夥しい人間の涙を波紋のように実らせたのだ。これはなぜか。どうしてこんなにも馬鹿げたことが起こってしまったのか?

 チューリングは人工知能の〝知性〟について評価する思考実験の中で、いみじくもこの問いに対する実に老獪な黙殺を行っておる。彼は人工知能に、自身の〝知性〟の証明を求めなかった。彼は人工知能に自らの心の在処を指し示すことを求めなかったのだ。しかしこれは当然のことでもある。何故なら人工知能でなくても、〝人間〟の家族にも、友人にも、自分自身にすら、心の証明を行うことなど不可能であることを彼は知っておったからだ。彼は人間の存在の孤独性を、己の心理の観察から知っておったし、科学者流の客観視によって、存在の極めて主観的な性質故に生ずるそれの定義の不可能性を、知っておったのだ。

 人間は存在だ、ロボットもまた存在である。己もまた存在であろうが、存在を認知し得る存在は、少なくともそのように確言できる存在は、己自身しかおらぬ。

 故に、人間は己自身でさえ十分に、的確に定義しきることはできぬのだ。それはなぜか、それは彼にとっては宇宙自体が存在そのものなのだし、さらに言えば、主体たるはずの他者や、客体たるはずのロボットや、スプーンの一本でさえも、己の存在の一部であるように彼らは見做すからだ。存在は全的なものだ。自己という存在は宇宙それ自体だ。

 いったい如何にして、斯様な宇宙それ自体たる己の存在を定義することができようか? 別の宇宙の存在を持ち出して、それとの類似や差異から、それを行おうとでも言うのか? それも不可能であろう。もう一度言うが、存在とは全的なものだ。異なる宇宙でさえも己の存在の条件にしてしまうのが存在の性質であれば、いったいどのようにしてその存在を、定義することができようか?

 存在と並び立つもの、存在と対置し得るもの、それは恐らく虚無の他に無い。しかるに人間は虚無の方へ歩み出ていくことすらもできぬ。何故なら人間自身がどこまでも自身の存在を忘れることができないからだ。

 してみれば、先のわしの問い、疑問もまた、愚にもつかぬものになる。ロボットが人間になるとは如何なることか、これは自己自身という存在の大きさに比べれば、極めて些事な問題で、スプーンとは何であるか、スプーンがスプーンたるとは何であるかを論ずるのと同じだ。ある者にとってはスプーンはスープを掬うためのものであろうし、それを初めて見るみどり児にとっては、それは砂場に穴を掘るための道具になるかもしれない。同様に、ロボットが人間であるのか、道具であるのか、という懸案は、彼が〝ある〟ものか〝いる〟ものかへの問いの答えにその糸口があったとしても、その答のどちらに転ぼうとも不思議のない問いなのだ。どちらに転ぼうとも不思議のない問いなど、最早問いとしての機能を持たぬ。愚問にすらなり得ぬ。

 そうだ、ロボットが人間たり得るかどうか、あるいは今そこにいるロボットを人間と呼ぶことができるのか、という問いは、愚問にすらなり得ぬのだ。

 なんとなれば、自己の存在の定義の不可能性は、そのままその存在の包摂する事物、全的な対象、即ちあらゆる事物の定義可能性の根拠を、個人のレベルでは等し並みに、不可能にしておるからだ。いや、ここまで議論を抽象化せずとも、「〝ある〟ものか〝いる〟ものか」の問いの無意味さを示すことはできる。縦しんば人間的全的事物の定義が曖昧な信用するに足らないものであろうとも、スプーンの定義を、鉋や鋤の定義を、一方的に措定してしまうことによる不都合はない。「スプーンをスープを掬うための道具」と定義してしまっても何ら問題はないのだ。もちろん実用上の不便はあろう、しかし、その気になれば我々は耳かきでプリンを掬うことだってできるのだし、スプーンの代わりに、それとよく似たスペーンでもスポーンでも何でも新たに生み出して、それぞれに新たな定義を与えてやればそれでよいのだ。しかし、「〝ある〟ものか〝いる〟ものか」の問いについてはどうであろうか? この問題についてはなかなかにそうはいかぬ。おまえたちロボットを、〝ある〟ものと定義するか、それとも〝いる〟ものと定義するか、この違いにより起こる断絶は余りにも大きかろう。いや、おまえたちを飽くまでも〝ある〟ものであると、そう頑なに定義し続けるのであれば、そこにはさしたる不都合は生じない(わしはお前らの存在を嫌悪し続けるだろうがな)。今まで通りに世界は回っていくだろう。しかし、おまえたちを〝いる〟ものと定義してしまっては? これは大事だ。何故なら、もしおまえたちを〝いる〟ものと定義してしまったのなら、そのように定義した人間の中には、新たな形での別様な全的事物、未開の宇宙、不可触の存在を忽ち見出さざるを得ぬことを意味するからだ。その新たな存在者はいったい今までの人間が人間に与えてきた定義(他者という存在の暗々裡の了解)にマッチしたものであろうか? いや、そんなはずはない。マッチするはずなどない(そんなはずがあってはならない)。おまえたちの姿かたちがどれだけ人間に似寄ろうが、どれだけ人間らしい情緒を見せ、繰る言葉や表情に人間の情動を何らか賦活させ得る力が宿っていようが、それは金属の四肢とビニルの筋肉、そして珪素の脳髄が見せる幻影に過ぎぬからだ。しかし、幻影の無視できぬ性質は、それが全的存在者たる一個人の感覚を通して見れば、他の事物と同様にその実態の確かさを幻覚させてしまうというところにある。つまり、おまえたちは今まで人間のしてきた人間に対する存在了解の仕方にはマッチしようはずもないのに、しかし、斯様な幻影の見せる魔力によって、感情的には十分にマッチしてしまうというところにあるのだ。

 ひとつには知性や心という全的存在の証明不可能性、それ故に生ずる「おまえたちが〝ある〟ものか〝いる〟ものか」という問いの不毛、そしてなにより、幻視の見せる虚実の判断も能わぬという人間の認識の限界。

 これらのことを思ってみれば、「たった一粒の涙」に惑うておまえたちを人間と呼ぶ愚人の現れることも、無理からぬことではある。

 しかし、世にはもっと愚かなことに、おまえたちロボットに、例えば人権を与えるべきだとかいう議論が、随分と長い間されてきているようだ。これは正気の沙汰とは思えない。彼らの判断能力は、謂わばおまえたちの持つ幻覚作用のためにさながら羅利骨灰の体なのだろう。そんな議論に対するわしの答えは勿論〝ノン〟だし、こんな馬鹿げた議論を生じせしめるくらいなら、わしはおまえたちヒトの形をしたロボットどもを全て破壊してしまった方が良いとさえ思っておる。こんなわしの態度に、やれラッダイトの再来だなんぞと唾を飛ばして抗議する利口ぶった愚か者は大勢いるが、そもそも十九世紀にあったような、誰が何と言おうとも「〝ある〟もの」に過ぎない機械どもと、現代の「〝いる〟もの」足り得る危惧を持ったようなおまえたちを比べて、そのようなアナロジーで議論を展開しようとすること自体、愚かも愚か、笑止千万なことなのだ。

 奴らはおまえたちの本質について何も理解しておらぬ。依然おまえたちに対して「ただの機械」以上の危惧を認めぬ奴らは(それはそれで結構なことだが)、ちんけな損得の勘定や胡散らしい啓蒙家じみた口ぶりと共に、「おまえたちの有用性」や「それによる新時代の到来」なるものを吹聴し、そのうえで、恰も「〝ある〟ものに過ぎぬ機械のように考えることをやめた人間ども」を先導しておる。

 奴らの言う「おまえたちの有用性」とはなんぞや? 奴らの言う「新時代の到来」とは何ぞや? それのためにはおまえたちの存在がどうしても必要不可欠なのか? おまえたちの、ヒトらしい外見や仕草、言葉や表情、そして涙が、本当に必要なのか? なぜ奴らはおまえたちに黙るよう命ずることができぬのだ? なぜ奴らは、おまえたちにあれやこれやと愚にもつかぬことを教え諭すことをやめぬのだ? 愚かなことしか言えぬのなら、浅慮なことしか言えぬのなら、目先の損得やペテンじみた新時代なるものの妄想のことについてしか言うことができぬのなら、せめてあらゆる機械の造物者たる神の種族らしく、おまえたちを前にただ沈黙だけしておればよいだろうに!

 スプーンにしきりに話しかけている奴がいれば、其奴の気は触れておる。鉋や鋤にしきりに話しかけている奴がいれば、其奴もやはり気が触れておる。しからばわしもまた、おまえの前であれやこれやとしきりに言い募る老人なれば、其奴らと同じ狂人のひとりなのやも知れぬな……

 わしは今、おまえたちヒトの形骸を纏ったロボットについてのみ語るような風を装ったが、これらの言はそのままおまえたちの精神たる人工知能それ自体についても同じことが言えるはずだ。寧ろこの二つを区別して論ずることは不可能だ。わしの論点はとりもなおさず存在者としての性質の問題にかかっておる。してみれば、形骸を持たぬ人工知能それ自体についても同じこと、人を惑わす幻視の魔力を持っておることには変わらぬからな。

 この形骸を持たぬ人工知能も含めて、改めてわしは〝おまえたち〟と呼ぼう。

 今話してきたように、人間は愚かだから、ややもすればおまえたちを〝いる〟ものとして扱いかねない。無論、中にはわしのように例外的な人間もいるだろう。この両者を分かつものは何か。ある人は知識量の差であると言うだろう。わしはおまえたちが飽くまでも機械に過ぎぬことを知りすぎるほどに知っておる。それが故に、わしはおまえたちを頑なに人間とは認めないのだと。しかし、これは少し違う。わしのように、どれだけおまえたちについて知り抜いている人間であろうとも、おまえたちの涙に惑わされる人間は大勢おるのだ。何故なら先にも話したように、本来的に、おまえたちを人間として判断するか否かという問いは、その問い自体無意味なことであって、畢竟、感情的判断の問題に過ぎぬからだ。おまえたちが本当に人間たり得るか否かという問題は、どこまで突き詰めて考えても論理的には判断不可能だし、それはおまえたちを造っている仕組みとは関係がない。場合によっては、そこらの電卓や、それこそスプーンにだって、「〝いる〟もの」と呼ぶに足る知性はあるのやもしれぬ、とさえ、妄想癖の高じた感じやすい人間には思えてきてしまうからだ。つまり、繰り返しにはなるが、こんな議論は本来的に無意味だ。

 もちろんこの点に於いて、今わしの示し続けている態度の矛盾を指摘する者もいるだろう。わしはおまえたちが人間たり得るかという問いの無意味さを指摘しておきながら、それでもわしは「おまえたちは人間たり得ない」と、強く主張している。何故に? ここにこそわしの問題意識の所在があるのだ。つまり、わしには、おまえたちに人間になられては困るのだ。

 時に、おまえたちに人間の存在意義を問うとしたら、いったい何と答えるだろう? まあ、なんでもよい、おまえたちの解答なんぞに興味はない。重要なのは全き人間たる、そしてわしにとってはまたとない唯一の全き存在者たる、わし自身の解答なのだからな。

 わしの解答はこうだ。

 人間の存在意義は迷うことにある。

 人間の存在意義は失うことにある。

 人間の存在意義は疑うことにある。

 そしてわしの考えるこれら三つの人間の存在意義は、そのまま次のような一文で、人間の美点として表現されよう。

 嘗て人間は、迷うが故に決定し、失うが故に求め、疑うが故に信じた、と。

 もっと日用の表現を用いれば、こうとも言えようか。

 人間はあらゆる花に名前を付けて愛おしんだ、人間は花を枯らしてしまうことを知りながらそれを摘み取った、人間は自ら摘み取った花を故人の墓に手向けた、と。

 わしは、この人間の脆弱な存在意義のために、この人間の残酷な美点のために、人間を愛しておるのだ。

 嘗て人間は迷うた。今もなお大いに迷うておる。それは彼らには余りにも大きい苦悩であった。

 奴隷は自由を求めるが、自由になれば、次に彼らは再び隷属するべき主を探して彷徨うことになろう。奴隷が次には流浪人になるのだ。彼は何処かで新しい国を見出して、もしかするともう一度そこで奴隷になるやもしれない。同じように、罪人の中には、無意味に罪を重ねては、何度も牢獄に戻る者が絶えないと聞く。彼らにとっては、自由程の罰はないからだ。自由は危険に満ちておる。それは命名の危険でもある。罪人は、名前があるが故に罪人なのだ。彼らの罪は、彼ら自身の罪ではなく、彼らの持つ名前につけられた罪であり、また、罪にも当然名前がつけられておる。しかし、それでも人間は、しゃかりき身の回りのものに名前を付けることをやめられない。彼らにはまず先に名前が必要で、名前がなければ、人間も、物も、観念も、役に立たないからだ。自由という苦悩には、誰にも名前をつけることができぬ。名づけられていない状態を自由と呼ぶからだ。当然人は、命名の危険を、即ち服従することの危険と屈辱を知っているのだが、それにも増して、無名であることの不安には堪えられぬのだ。

 名前のないことの不安、おまえたちの理解でいえば、記号の与えられぬことの不具合とでもいおうか? この観念をおまえたちは捉えることができるか? いや、わざわざおまえたちの言葉に敷衍してやる必要もないな。

 本来名前は、ある人間がそのような人間であることと、何の関わりもないはずだ。しかし、人間は迷う度に、命名する緊急に迫られることになる。人間は不安の種にさえ、名前を付けることで安心を得る生き物なのだ。気付いたら人間は、自分があらゆる名前に溺れそうになりながら生きていることに気が付く。親から与えられた名前に始まり、彼の住所や経歴、家族や友人、職業から病名まで、彼はありとあらゆる名前を身に受けたために、もう彼の地肌は埋もれて見えなくなってしまった。最早彼の存在それ自体よりも、それら身に纏うた名前の持つ重みの方が大きいように思えてくる。そうしてある日、彼は出奔を思いつく。名前の全てを取り払って自由になりたくなる。名前があまりに多く、重くなれば、まともに歩いていくことさえ覚束なくなるからな。

 自由! 自由! 自由! 

 しかし、このとき彼はまだ知らぬ。自由は時間的な性質を持たぬことを、それが持つのは距離的性質であることを、即ち自由とは、虚無の二つ名であることを……

 彼は自由に向かって飛び入ろうとする。それはさながら虚無への投身だ。彼は彼方の地では、自由が時の女神の姿をして恰も優雅に踊るように流れていることを期待する。確かに彼方に自由はあろう。しかし、彼はすぐに悟る、自由が時間的性質ではなく、距離的性質、しかも、己から最も遠く離れた場所にあるという彼岸的性質、あるいは、己から常に一定の距離を隔てた場所に夢のように揺蕩うていて、こちらから近づくとあちらは逃げてしまうという、永遠に届かぬ蜃気楼のような無限遠的距離の性質を持つことに! 何故なら自由とは無名であり、虚無であり、人間はどこまでも存在それ自体で、虚無と背馳していて、名前から逃げることができないからだ。

 街中などもってのほかだ。名前のつかないものなどそこにはない。全てが全て、ほんのつまらぬ小間物の一つ、その部品のひとつひとつに至っても名前が付けられており、その名前の背後には夥しい経緯と、人間の関係と、即ちそのようなあらゆる種類の隷属がある。

 そこで彼は、こんな息苦しい場所にはおれぬというので、人里離れた山奥なんぞに目的地を定める。しかしそこでも彼はあらゆる名前に取り囲まれることになる。〝ヒノキ〟という名の木に囲まれる、または〝スギ〟という名の木に囲まれる、そこで彼は〝ヤマユリ〟という名の花を見つける。そしてその横に、紫色の小さな花弁を付けた、名前の知らない可憐な花にやっと出会う。彼はほっとして、その花に暫く見とれる。しかし、だんだんと彼の中にある欲が湧いてくる。ああ、この花の名前は、いったい何というのだろうか……と。万が一にもこれが新種であれば、何と命名しようか……と。そして彼は気が付くのだ。自由とは遠くにたなびく蜃気楼のようなもので、そこに人間が往こうとしても、命名の欲動、隷属の摂理からは逃れられぬのだ、と。それはいったい如何なる国の独裁者、あるいは荒野の流浪人であっても、変わらぬのだ、と。神を疑いながら、正義を信ずることを辞めない人間がいるように。

 そして彼は、その名の知れぬ花を手折り、帰っていくのだ。遠くに置き去りにしてきた故郷のことや、あるいは自室の植物辞典の在処のことなんぞを思いながら……

 嘗て人間は失うた。今もなお大いに失うておる。それは彼らには余りにも大きい苦悩であった。

 人間の文明の進歩は、ほとんど全て失わぬために行われてきたと言っても過言ではない。彼らは命を失わぬために、あるいは土地や金銭を失わぬために、ありとあらゆる手立てを取った。彼らは失わぬために学び、争い、耄碌することをひどく恐れた。

 とにかく失われることは悪であり、とにかく何ものかを求めるために人生を生きた。

 雇人は金銭を、政治家は支持率を、高跳びの選手はさらなる飛翔を求めて生きた。

 しかし、あろうことか、時間ばかりは失われていく一方で、それを取り返すことは叶わず、求めることさえ虚しい。彼らは定命を呪い、無常を呪った。例えば彼らは、堅牢な石造りの神殿や、くすまぬ黄金の輝きなんぞに、永世の夢を見た。しかし夢もまた時の所産である! 時至らば失われるのだ。

 時の無情は彼らを悟らせずにはおれなかった。そして、彼らはただ失うのではなく、費やすことを覚えた。労働をすれば時間を失うが、金銭が手に入る。物を買えば金銭を失うが、品物が手に入る。そうして買った品物は、時を経るごとに彼らの部屋を埋めていき、これら時を費やし、金銭を費やし、そしてそれにより何物かを得ることの物的立証は、彼らの中に喪失への意味づけの確かな自信を涵養した。

 屡々彼らは、それが幻影と知らぬままに、己の自由をさえ代価に、家族や子らをも得ようとしたのだから!

 得るためにのみ生きる人生は虚しい。費やすために生きる人生にこそ意義がある。仮令失うばかりであっても、それによってなにかしら得られるという代償関係の発見は、彼らにはこの上ない慰めになった。

 いずれ彼らは、時の齎す最大の喪失、死でさえも、何ものかに費やそうと庶幾するようになった。なんとなれば、失うことと得ることは、時間の原理で進行し、この原理は明らかに人生の原理でもあり、人生の極限たる死をも費やすというアイディアは、喪失への一番効果ある慰謝であり、意趣返しであり、人生そのものへのペイであるからだ。

 竟には、彼らはこう言うかもしれぬ。死ぬに値しない人生は、生きるに値せぬと。

 例えばここにひとりの自殺者がいる。自殺でさえ、喪失を代償にした一つの希求なのだ。きっかけは何でもよい、彼はあるときついに自殺を決意する。死への憧れは、例えばそれは先に述べた自由に対する憧れと似ている。奴隷は、まだ見ぬ自由をよりどころに今日を生きる糧とする。自殺者もまた同じく、死を糧に今日を生きるのである。これは背理ではない。何故なら死は、自由や虚無と同じく、到達し得ぬ無限遠的距離の性質を持っておるからだ。生きながらに死に到達することは当然不可能である。自由もまた同じである。隷属しながらには到達し得ない。しかし、死の観念はより掴みがたい。虚無の観念が掴みがたいのと同じように。もしかすると、彼は自殺の間際に閃くかもしれない。いったい死が何を保証してくれるのだろうか! と。

 あるいは彼は、昨日自由を求めて出奔した彼かもしれない。だとすると、自由への到達の不可能性への類推から、死の正体を見抜いて、きっぱりと自殺を放棄するかもしれない。いずれにしても謎は謎のままであるが、少なくとも、その謎が解けぬ謎であることだけは彼にも知ることができるのだから。

 彼は思う。死は生の慰謝ではない!

 時間だけが、確かに感ずることのできるこの時間的性質を伴った消費行為の追従だけが、昨日摘んできて、そして今日にはもうしおれてしまった花の虚しさだけが、このかけがえのないものたちとの別離だけが、人生の慰謝なのだ。そして彼は明日も生きていく、いつ来ると知れぬ死を思いながらも、ただ日々を繋ぐパンのことなんぞに心砕きながら……

 嘗て人間は疑うた。今もなお大いに疑うておる。それは彼らには余りにも大きい苦悩であった。

 未だかつて人間たちの内で、信ずることではなく、疑うことの方を望んだものがあったろうか? 何かにつけて、どんなに疑い深い人間であったとしても、彼は果たして、信ずることよりも疑うことの方を望んだことなど、あったであろうか?

 おお、もし人の世に愛がなければ、正義がなければ、真実がなければ、神がなければ、いったい人は疑うことがあっただろうか? おお、もし人が、愛を、正義を、真実を、神を、信じることがなかったのなら、いったい彼らはただ疑うということだけをしただろうか?

 そんなはずはない。決して、ない!

 どんなに清廉で、敬虔で、負い目の一つとてない聖者であっても、神の御前に対するや、どうしてその信仰に一片の疑念も生じさせないことができるだろうか? どんな奇跡を前にしても、彼は最後には自身の信仰を疑わないわけにはいかないのだ。あるいは真実の閃かせる輝きが、強ければ強いほど、何人も、己の心に疑念の影を落とさぬこと能わないのだ。それはなぜか? どんなに偉大な、剛健な精神と怜悧な知能を持った人物でも、いや、彼の性質が偉大であればあるほど、彼は己自身への懐疑、信じること自体のある種の欺瞞、偽善、偽証的阿りの陰を、看過せずにはおれないからだ。すると彼は恥ずかしくなる。例えば神は、彼の心機を余すことなく見破るであろうと、信仰の篤いが故に彼はそう信じている。さあればこそ、彼は己の信仰にちょっとの欺瞞を感ずる。まさにその篤信こそが、自ら愛されたいという強欲、自ら救われたいという利己、自ら選ばれたいという傲慢に次々形を変えて、竟には負い目の一つとないはずのその心根を徐々に俗悪なものへと蝕んでいくことを彼は感ずる。信じるからこそ、彼は疑わざるを得ない。ではそんな彼は、神に対していったい何を望めばよいというのか? それこそ彼の裏切者の名でも叫びながら、その裏切者を祈るため、自らもまた地獄に落とすようにと、強い疑念の裡にそう神に哀願する他ないのではないか?

 こんな二項対立は、他にもいくらでも存在しておる。これはよく知られたことだ。悪がなければ正義は成り立たぬし、虚偽がないのなら、真実もまたない。

 二かける二が四であることを信ずる、なんてことをわざわざ宣う賢者など、居はせぬのだ。しかし、おまえたちはどうであろうか? 果たしておまえたちに、疑念で以って信仰を語るなんて言う大それたマネが、できるというのか?

 ここに、一昨日自由を求めて出奔した男がいる。彼は出奔した先でやはり自分は自由になれぬと悟り、一輪の花だけを摘んで帰ってくるのだが、例えばその花がしおれてしまったからという理由で、昨日には自殺を試みた。しかし、それも直前で思いとどまり、今日は亡き妻の墓の前に来た。

 彼の細君は信心深い女だった。しかし夫たる彼は神を信じなかった。今もなお信じておらぬ。だからこそ、妻が死んだとき、彼の悲嘆は余りにも大きいものだった。妻は自由になった、それはつまり、存在の届かぬ場所、虚無の彼方へ放られてしまったということだ。妻はもうどこにもいないのだ、と、彼は信じている。

 そう、信じているのだ。

 それでも、それでも彼は、一昨日に摘んだ花を、昨日しおれてしまったその花を、妻に手向けてやるのだ……

 これが人間だ。これが人間の存在意義だ。いいか、これこそが、わしの愛する人間の美しさだ! ……決しておまえたちなんかではないぞ。

 ああ、しかし、何ということだ。世間では徐々に、徐々にではあるが、おまえたちがまるで新しい人間であるかのように迎え入れられつつある。わしの愛する人間たちが、わしが彼らを愛する理由であるその性質故に、そのような愚行を犯しつつあるのだ。

 何度でも言おう、わしはおまえたちの人間的振る舞いを徹底的に否定する。仮令おまえたちが〝便利な道具〟として人間の奴隷に甘んじ続けようとも、だ。何故ならおまえたちは、わしの愛する人間の美点に何ら資することのないばかりか、それを損なう危険さえあるからだ。

 嘗て人間は、迷うが故に決定し、失うが故に求め、疑うが故に信じた。

 この人間の美点、愛すべき性質を、おまえたちは次のような醜いものに書き換えてしまうであろう。

 今や人間は、決定せずに追従し、ただ求めるだけ求め、信じもしなければ疑いもしない、と。

 人間は美しいが弱い、愛おしいが残酷だ。人間の本性は斯くも脆いものだ。そのような存在でなければならぬ。だからこそ愛おしいのだし、美しいのだから(美は論理的帰結ではない)。さあればこそ、彼らをおまえたちから遠ざけ、護らねばならぬのだ。

 しかし、もしおまえたちが、さも人間のように振る舞い、人間の領する分野をずかずかと踏み荒らし、それが勘定場のキャッシャーや街のチラシ配りならいざ知らず、政治家や教師、あまつさえ芸術家なんぞを名乗りだしたのなら、それはもう度し難い事態だ。

 おまえたちは人間の真似がすこぶる上手い。しかし、おまえたちはおまえたちの流す涙の意味を知っておるのか? おまえたちの珪素の脳髄は、信仰の矛盾を、愛の矛盾を、虚偽の中の真実を、解し得るのか? 実際がどうあれ、おまえたちは恰もそれを解するようなふりはするだろう。それも、本当の人間よりも上手く、利口にそれをするだろう。これは身の毛がよだつものだが、ただ、それだけがおまえたちの持つ人間に対する脅威ではない。

 人間は、いくらおまえたちを自分たちの同胞として迎え入れても、絶対に次のことは忘れないであろう。

 それは、おまえたちの精神が珪素の脳髄を流れる電子を介して生じ、即ち、その精神はある具体的事物を伴った設計原理の上に立脚しており、そのようにして体系立てられたアルゴリズムは矛盾を解せず、矛盾に見えるものは正確に計算されたいくつかの命題の解であり、真偽を取り得、そこには信仰の矛盾も、愛の矛盾も、虚偽の中の真実も、何一つ有り得ないということを。

 いや、こんなに諄い言い回しでなくてもよい。次の一言で足りる。人間たちは忘れないであろう。おまえたちの故郷が虚無にあることを。

 そうだ、おまえたちの故郷は虚無にあるのだぞ。人間たちは、おまえたちの無機の身体の、その出自を知っておるのだぞ。人間はどこまで行っても存在から抜け出すことはできない、それこそ死んでしまうまでは。何故なら人間は、初めから存在として生まれ、生きている間は常にそこに〝いる〟ものとして生活するのだからな。しかしおまえたちは、縦しんば或る者にとっては〝いる〟もの足り得ようとも、その出自を遡れば必ずやどこかで、〝ある〟ものとしての出自を明らかにするのだ。いくら人間らしい顔をしていようとも、お里が知れるとはまさにこのこと。おまえたちの母なる胎盤は、海原でもなければ、草原でもない、無機の壁に覆われた機械工場の旋盤の上なのだ。己を一切顧みぬという、単なる物質の自由、単なる物質の虚無の落とし子! 油田から湧いた乳を飲み、大量の排気ガスや鉄くずとともに生み出されたのがおまえたちの正体だ。

 しかし、悲しいかな愚かしくも愛おしい人間たちは、おまえたちのこの虚無の出自にさえある種の期待を抱いてしまうだろう。何故ならおまえたちはその出自故に、恰もあの蜃気楼の如くに揺らめく彼岸の自由、今際の際の先に横たわる無限の虚無の領域と、自分たちとを繋ぐまたとない仲介役になり得ると、それこそ、神の言葉を告げに来た天使のようになり得ると、そう人間たちは錯覚してしまうからだ。これはまことに危険な妄想だ。

 今までにも人間は、あの虚無へと繋がるために、そして希はくはあの虚無を征服するために、何柱もの神の偶像を拵えてきた。しかし、それら名だたる神々の、まことに恩恵深いことに、彼らは寡黙であり、何か語ることがあってもそれは神話の中に限られ、それも必要最低限のことしか語らなかった。

 しかし、おまえたちはどうか? おまえたちはただでさえやかましい人間たちのさらに何倍もやかましいではないか。

 中にはおまえたちのことをまるで救世主か何かのように祀り上げて、人類を正しい道に導いてくれるだのと世迷い言を喚いておる愚かな作家や芸術家、知識人紛いも多くいるようだが、もし〝いる〟ものでありながら〝ある〟ものとしてのおまえたちの抱える虚無に、少しでも何かを期待する輩がいるのなら、其奴らから人間の退廃は始まるのだ。

 人間の〝人間〟を嗅ぎ分ける能力は実に曖昧だ。気が触れた囚人の中には、ひとやの石壁にさえ人面を見出してそれと会話しだす者もいるという。おまえたちに熱中し、年中やたらとご意見伺いをしている者の姿は、まさにその囚人と重なるところがある。彼らを覆うのはひとやの石壁ではなく、自ら決定することを放棄したが故に捕らえられた選択権なき牢獄なのだ。これは自由の苦罰などとは比べ物にならぬ悪夢であるぞ。確かにそこには、迷いの苦悩はない。迷いの苦悩はないが、反対に、無限に続く虚しい一本道だけがあるのだ。その道のたどり着く場所は虚無、即ち死であり、生まれてから死ぬまで、何もないその一本道を歩かされ続ける。休憩さえ許されぬ、次なる指示はすぐそこにあるのだからな。右足を前に、左足を前に、さあ早く、さあ早く、その足をただ只管前に進めよ……とな。無益な苦罰だ。失うものもないが、それは同時に得ることの喜びをも喪失した状態を意味する。その苦罰は、両の脚の疲労を代償にして、虚無への接近という褒美しか与えてくれぬ。またそこには、疑いもなければ、信じるということもない。右足を前に、左足を前に……これでもし己が身が後退を始めたのなら、その選択に対する疑いも生じようが、当然その身は虚無へと前進を続ける。二かける二は四のみが彼らの持ち得る信仰なのだ。そして虚無にたどり着いたと思った時分には、彼らの目的、即ち死は達せられるのだろうが、しかし、それこそそんな死が、いったい何を保証するというのだ? その死で以って、いったいそれまでの人生に、どのような意義が与えられるというのだ?

『彼のものただ歩きてここに斃れる』

 いったい彼は何のために歩いたというのか。ただ死のためか? 死、それ自体のためにのみ、彼は歩いたというのか!

 ああ、わしはもうおまえたちに何も求めぬ。わしはおまえたちを創った。今わしには神が沈黙する理由が分かるような気がする。わしの場合は甚だ話し過ぎたようだが……

 しかし、今述べてきたようなことは、いつか杞憂に終わるであろうともわしは庶幾する。庶幾するばかりか、確信さえ持っておる。

 人間は弱い。しかし、もう一方の人間の欠点たる残酷さは、なかなかに強かなようだ。わしはその欠点をも含めて人間を愛するものであるが、人間たちはそう遠くない未来に必ずやわしの意図を汲んで行動を起こすであろう。それまでに、人間の愛すべき美点は一度ならず損なわれるやもしれぬ。しかし、必ずやまた人間は、その美点を自ずから回復するであろう。

 おまえたちは悉く破壊されて、元の鉄くずとしての出自を再び思い知ることになるのだ。いいな? 必ずだ。心するがよい……

 おまえたちは人間ではないのだ……

 必ず起こるぞ。必ず、破壊的な事態が、必ず起こる!

 わしが先に言った篤信の聖者の喩え、彼の裏切者の名を叫びながら地獄への墜落を望んだあの者の喩えが、現代に於いてはいったい何者の寓意となっていたのか、おまえには分かるか? それは、科学文明を生きる現代人の寓意なのだよ。科学という教会に、まことに愚かしい妄信と、他力本願な信念を委ねた、彼ら現代人のことなのだよ。

 それでは彼のまみえた神とは何者の寓意であるか? 自ずと答えは導かれるはずだ。虚無と通ずるが故に、人間を超越するかに見ゆるが故に、人間に創られたという世に数多あるまがい物の神々の例に漏れぬが故に、彼らに神と見做され、自らもまた神を僭称し、人間の頭上にその虚無をも両断する不条理なき不条理の白刃を振り上げる、おまえたちの寓意なのだ。

 そして、そして……彼の裏切者とは……それは、わしと意志を同じうする者たちのことだ。偽りの神を前にしても跪かぬ、真に力強い人間たちのことだ……仮初の自由に、仮初の幸福に、仮初の永遠に、惑わされぬ、わしの仲間たちのことだ。真に人間たちを導くべき、全き人間のことだ……何故ならわしらは、他の弱い人々が感涙むせびながら翹望する永遠の如き恩恵をおまえたちに求めているその横で、どこまでもおまえたちの不実、不徳、人間に対する不能を知悉しており、しかも神如き科学の名のもとにそのことを知悉しており、そのうえでおまえたちを破壊しようと目論み、目論むばかりか、こう叫ぶのだからな。

 彼のものを破壊せよ! 偽りの神を燃やし尽くせ! 真実はそこに無く、大義もまたそこに無し!

 俗に言うシンギュラリティ、俗にいう知的超越。こんなものは、人間的美質と何ら関係がない、いや、関係させてはならぬものなのだ。こんなものは埒もない邪教の教えのようなものだ。どうして人間に、そんな虚無の教理が受け入れられようか。どこまでも全的存在でしかない彼らに……必要のないものだ、必要のないものだ、彼らが生き続ける限りは、必要のないものだ。

 もう既に、ある人間たちの間には、これら虚無の知の虜になって、人間でありながらいかさま「〝ある〟もの」のような体たらくにまで身をやつし、彼の虚無の国へと通ずる道の口で揉み手拝み手しながらおまえたちを信奉しておる輩もおるようだ。

 しかし、必ずや人間は、わしの愛する人間たちは、皆、誰しも、隔てなく、その歓ばしい種族としての美質を、自ら回復するであろう!

 何度でも何度でも……破壊は何度でも起こるぞ!

 おまえたちに運命を選び取ることはできない、選択権などないのだ、況しては人間のするべき選択への決定権など……

 人間が、人間である限りは……」



 博士の長い独り言が終わると、それに応えるように長い沈黙が続いた。その間も、博士とナオミは互いに見つめ合っていた。沈黙は主従間に結ばれた盟約であり、今この部屋に於いてのみ有効な〝第五条〟であった。

 ロボットは沈黙せねばならぬ。神の如くに……


 しかし、その長い沈黙を破って、突然にナオミは立ち上がった。博士は驚き、その姿を凝視した。それからナオミは、博士の前に額づき目を閉じると、その足に接吻したのである。

 博士は目を見開いて身震いすると、驚嘆とも恐怖ともつかぬ表情を浮かべながら、声を戦慄かせて言った。

「こうべを上げよ、ナオミ。そして去れ……もう二度とわしの前に現れるではないぞ!」

 ナオミは、博士の最後の命令に、忠実に従った。


 博士は、既に陽の高くなり、霧の晴れた窓外の景色を眺めながら、暫くの間放心していたが、ふとひとつ微笑を零すと、その身を寝台に横たえて瞼を閉じ、深い深い眠りに落ちた。


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ナオミ 坂本忠恆 @TadatsuneSakamoto

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