下
男の背に彫るのは心地よかった。
太彫と毛彫りを何度も重ね、化粧の雲海は白く水ぼかし、曙で見切る。やっぱり白が映えた。土蜘蛛の黒がより目立つ。
あの土蜘蛛の黒は俺が今まで入れたどんな黒より鮮やかだった。
色を何度も重ね、ぼかしを施して濃くする色揚げをやった。一番濃い部分に色揚げをすると、濃く黒く鮮やかな濡れ色になる。
男は一度も痛いと言わなかった。俺は寝食を忘れて彫った。男の皮の下に潜む土蜘蛛を、鑿と針で掘り出しているような気分だった。
熱を持った痕を水で冷やせば、俺の仕事は終わりだ。朝から彫り続けて、終わった頃には真夜中だったが、男の背は輝いて見えた。夜闇よりも純度の濃い黒い土蜘蛛だった。
「生まれ変わった気分だ」と、男は言った。
「手前は絵を入れたんじゃない。元々貴方の背に巣食っていた蜘蛛を出したんです」
「俺はこんなにたいそうな奴だったかね」
「初めて見たときからそうでした」
濡れた背に着物をかけて男は困ったように笑った。
それから男は事あるごとに刺青を入れに来た。
その度に男の身なりはよくなった。組で頭角を表したんだろう。俺は錦を着せる大役だ。衣の代わりに俺はスミを着せていく。
九分袖まで牡丹を入れたときは、脇の下の隠しまで化粧を施した。胸割りを入れたとき、男は言った。
「今じゃ身体中先生の大作だらけだ。傷を負えないところが増えていく。随分臆病者になっちまった」
「親分のためなら手前の刺青が傷になるのは仕方ないと仰ってましたが」
男は初めて土蜘蛛を入れたときのように笑った。
それから、しばらく男は来なくなった。
新たにスミを入れる場所も少なくなったから仕方ない。彫り師に構ってられないほど偉くなったのかもしれない。
そう思った頃、男がふらっと現れた。
「先生、まだ彫れそうなところはあるかい」
男はひどく痩せて、目の下は濡れ色を入れたように真っ黒だった。
初めて来たときのように、男は店先に寝そべった。
上等な衣を脱ぐと、男の腹には丸く抉れた傷があった。
「舶来のピストルでやられたんだ。安心しな。背までは突き抜けちゃいないぜ。弾はまだ俺の腹の中にある」
「誰にやられたんです」
「親分だよ。今じゃ俺が親分だがな」
男は歯を見せて笑った。
「下剋上だよ。あのひとは変わっちまった。つまらん女とこさえた馬鹿息子に組を譲るって言うんだ。何度も止めたが聞かなかった。先生の大黒は親分にはもったいねえ。ドスでさぱっと切り離してやった。返す刀で馬鹿息子とその母親の頭を割ったら、腹にズドンと一発だ。虫の息の親分が最後に放った。そのせいで今死にかけてる。俺は親父に腹をやられる運命かね」
「……どうにもならんのですか」
「ああ、もう遅い。それに、弾を出すにゃあ背中を切らなきゃいけないらしい。それはごめんだね。先生の大作を背負ったまま死ぬよ」
初めて背を見たときのように手が震えた。舌も震えた。俺は声を震わせて何とか言った。
貴方が死ぬのは俺のせいだと。
土蜘蛛は古代、ヤマトに逆らった豪傑の呼び名だった。俺は貴方の背に描いた絵が、親分のために傷になるのが我慢ならなかった。だから、古の逆賊を彫り込んだ、と。
ブッ刺されるのは覚悟してた。だが、男は疲れたように笑っただけだった。
「酷いな。俺も刺青に変えられた奴って訳かい。いや、違うな。先生は俺の中にいたもんを表に出しただけだって言ったっけ」
男は背を見せて寝転んだ。土蜘蛛は変わらず男に巣食っていた。
「俺が死んだら土蜘蛛も灰になって消えちまう。それは嫌だなあ」
男の両目が大妖のように輝いて、俺を見た。
「先生、俺の父親はクズだがひとつ、いいもんを残した。最後の土産に先生に教えてやるよ」
男は、親分と妻子を斬ったドスを俺に握らせた。
猟師は熊の皮を剥ぐとき、身体の筋に沿ってやるらしい。男は「先生なら熟知してるから簡単だろう」と言ったが、大変だったさ。
男の訃報を受けて、ヤクザもんだらけの組に行った。男の舎弟に殺されそうな視線を受けた。男の懐刀だったらしい奴が「親分の遺言だから反故にはしねえが、ヘマしたらわかってるな」と脅されたっけ。
誰も手伝わないから、俺はひとりで男を背負って店に連れ帰った。男の体は随分軽くて、刺青の熱を冷ます水に浸けたように冷たかった。
事が終わってから、俺は男の死体を戻しに行った。
道中で俺を呼び止めた警官は妖怪に遭ったみたいに真っ青になった。どうでもいい話だ。何で皆死体に拘るのかわからない。俺は親分に捧げた余り物には興味がないからな。だが、あの男の背だけは、俺のものだ。
俺の一世一代の大作を見たいって?
もう見てるだろ。店に入ったとき、奥に絵が飾ってあるのを見たはずだぜ。
あれは写しの絵じゃない。正真正銘、俺があの男に施して、俺が剥がした背の皮だ。
ムショの中でずっと、あれが腐れてないか、乾いて縮んでないか気がかりだった。
だが、心配いらなかったな。娑婆に戻ってから毎晩、仏壇を拝むようにあれを見てる。
俺には神も仏もいらない。あの土蜘蛛だ。あの男の背が俺の全てだ。
背の土蜘蛛 木古おうみ @kipplemaker
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます