中
そうは言ったものの、男とふたりになっても、俺の手は動かなかった。
男は諸肌脱ぎで座り込んだまま、呆れた声で言った。
「怖いのかい。肝の据わった男だと聞いたんだがな。針が痛えと泣く親父を、背が揺れるから動くなと一喝したんだろ」
「怖いですとも。貴方ほどの背は見たことがない。これにスミを入れられるのは一度きりだ。手前が少しでもしくじったら台無しになる。それが怖いんです」
男の背が笑いで揺れた。白い海が波打つような笑いだった。
「あんた画狂だなあ」
世が世なら北斎だ、とも言われた。俺が描くのは馬琴の戯作本の隅っこじゃない、人殺しの背や腕だ、と答えたらまた笑われた。
それから、男は俺を先生と呼ぶようになった。
それから何度も絵を描いてみたが、しっくりくるもんはなかった。龍じゃ崇高すぎる。花じゃ甘すぎる。あの男の背に仏は最も合わない。
男が「何も浮かばねえなら親父と一緒のもんにしてくれ」と言うから、三面大黒天を彫ることにしたが、どうにも腑に落ちなかった。
竹の柄で束ねた針を手にして、寝そべった男の背に向き合った。
「痛むのかい」
「よく錆びた刃物でザクザクやられる気分だと言いますが」
「それは嫌だなあ。俺の背の傷は親父に錆びた得物でやられたんだ。親分じゃないぜ。本物の父親だ」
男は枕代わりの両腕を組み替えた。
「父親は葛城山の猟師でね。酒浸りでいつもお袋を殴ってた。止めに入ったら熊の皮を剥ぐための小刀でざっくり腹をやられたよ。背まで突き抜けた。そのとき俺はまだ八つだぜ」
「よくご無事で」
「先生は哀れまないからいいよな。そういう奴は好きだ。だから、借金を取りに来た親分が父親を刺したときは仏様に見えた。地獄に仏だよ。先生が彫った大黒が血を浴びて綺麗に光った」
「そりゃ彫った甲斐がありました。刺青は手相と同じで、ひとの生き方を変えるんですよ。田舎の湯女も傾国に、ちゃちなゴロツキも夜叉に変わる。親分が仏になったのもそういうことで」
「だったら、俺は親父に命を賭ける奴にしてもらいたい。スミを入れに来たのもそのためだ。背中の傷は逃げ傷みたいだろ。番犬にはそぐわない。腹をブッ刺されるのはいいが、背中は駄目だ」
男は身を返して起き上がった。割れた腹には錆を塗ったような傷があった。
「もし、手前が傷を消したとて、また腹から背までブッ刺されたらどうします」
「仕方ねえさ。先生には悪いが、傷が怖くてヤクザはやれねえよ」
俺は自分の瞳が小刀みたく細くなるのを感じた。俺が精魂注いだ画は、親分のために損なわれてもいいって言うんだ。そのときに男に彫るものが決まった。
「大黒はやめだ、相応しいものがやっと浮かびました。土蜘蛛です」
「そりゃ妖か。歌舞伎で聞いたことがあるな」
「神代にも聞く、葛城山の大妖怪です。身短くして手足長し、侏儒と相にたり、狼の性、梟の情を持つ古強者だ」
「背負うには荷が重そうだ。だが、気に入った」
男は低く笑った。
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