背の土蜘蛛

木古おうみ

 驚いたさ、俺が娑婆に出た頃にはもう明治から大正に変わってたからな。


 時代に取り残されたつったらいいのかね。せっかく手に職つけてたって、今どき誰も彫りもんなんかやりゃあしねえ。この街も随分と綺麗になった。ついこの間まで牛が歩いてた道も、今じゃガス燈がついて明るい。道理でお得意様もいなくなった訳だ。スミ入れるようなヤクザもんはこんな明るい夜じゃ生きられないな。


 確かに俺の客はカタギの方が少なかったが、俺はヤクザでも何でもない。しょっぴかれたのだって盗みと、あとは、何て言えばいいかな。奴らの言葉借りるなら人倫に背く悍ましい行為ってやつだ。大仰な話だろ。

 娑婆に出たら別の仕事でも見つけて、ヤクザもんとは縁を切れとも言われたっけ。向こうは人情で言ったんだろうが、俺にも彫り師の誇りがあるんだ。



 客に「しくじったら首を掻っ切る」と脅されることもあるが、他人様の肌に一生消えない衣を着せるんだから、手前の命かけるくらい当然だ。

 みきりっていって、額と肌の間が赤くなるようじゃ三流。俺は境目もわからない曙みきりをやる。

 絵柄の周りの化粧も拘る。抜きなんかやらない。菊に雲に波飛沫。遠山の金さんなんかを掘るときは、お奉行の刺青が映えるように着物の柄まで拘るもんだ。前に彫ってやった奴は、自分のと金さんので二つもスミがあって得だなんて言ってたっけ。


 お上だろうが盗人だろうが、魂込めた仕事には満足するのさ。

 昔俺がスミを入れた親分が、若いのを連れてきてこいつにもしつらえてくれって言うこともある。孤児同然の若いのにとっちゃ一張羅みたいなもんだ。

 好きに彫ってくれと言われるが、俺はそんなことはしない。ちゃんと絵柄から見せて選ばせる。たいていは親分と同じものをせがまれるんだけどな。


 ああ、そうだ。この店の奥の絵を見たか。まあ、あれは一点ものだ。他の奴に彫る気はないよ。見世物じゃないしな。

 娑婆に戻ってからまだ数度しか仕事はこなしてないが、腕が鈍ったとは思わない。でも、あれをもう一度彫れる気はしないな。



 あの男に彫ったのは大作だった。今は遠き明治は、全部あの男の背中で埋め尽くされてる。


 初めて来たときは若造だった。俺もそれなりに若かったが、あの男はまだ二十もいってなかった。それなのに、もうひとの血を見た目をしていた。

 親分が気にいる訳だ。ちょっと前までこの街を肩で風切って奴らの頭が気に入るんだから、並みの男じゃないのはわかる。


 俺はひとの顔はろくに覚えない。顔に彫るのは罪人だけだからな。代わりに腕や脚、背中なんかはくぼみの深さや骨の凹凸までよく覚えてる。だが、あの男の目は今でも思い出せる。黒一色で烏を彫るときの墨みたいな目だった。



 親分はやたらと上機嫌で「こいつにひとつ入れてやってくれ」と男を突き出した。

「何処に彫りましょうか」

 男は答える代わりにひとつに結った髪を肩に避けて、俺に背を向けてさっと上衣を脱いだ。


 純白の大海原みたいな、途方もなく白く広い背だった。指が震えたよ。

 今すぐ筋彫をしたいと思った。針先についた墨を水で暈す水ぼかしも綺麗に映えるだろう。ああ、白には白が合う。最近じゃ機械で彫る物知らずもいるが、力加減で針穴をデカくできる手彫りの方が淡い色は比べ物にならないくらい綺麗に映るんだ。


 俺が震えて声も出ないのを、怯えだと勘違いしたらしい。男は背を向けたまま俺を宥めるように笑って。

「こいつを消してほしいんだ、できるかい」

 そう言われてから、俺はやっと一点の傷があるのに気づいた。真っ白な背に似つかわしくない、引き連れた古い木端みたいな醜い傷だ。

 許せないと思った。あっちゃいけないもんだ。


 俺は震えを抑えて何とか頷いた。

「跡形もなく消しましょう。誰が見てもわからんように、手前の刺青で塗り替えましょう」

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