結句

 それから数週経った後、彼女は死んだ。


 咳を幾らか込んだ後、深呼吸を一つして逝った。最後の言葉は「ありがとう」だった。


 僕の目の前には彼女がいつも座っていた椅子が置いてあった。それは何事も無かったかのように、ただがらんどうとしていた。僕が幾度か座面を摩ってみても、ただ沁みるような寒さが広がるばかりだった。そしてそれは彼女の寝ていたベットでさえ同様であった。


 僕はベットに横たわった。やはり冷たさばかりがそこを占拠していた。曇りであるので、窓からの陽光が差し込む訳もなかった。だからだった。当然ではあるのだ。彼女の死に際と、さして違いはなかった。


 僕は数舜ばかり眠っていた。その度に夢を見た。彼女とのものが殆どだった。彼女の死に場所で寝たのだから、それこそ当然だった。その中には彼女が死ぬときのも含まれていた。


 彼女との別れの瞬間は、所謂劇的ではなかった。僕が仕事から帰ってきた折に、彼女は息が絶え絶えになって、意識さえ明瞭にせず、先ほどの言葉を投げて逝った。彼女に敷いてあった枕は、その後も少しは暖かかった。ただ、今はもうそうでもなかった。


 机には蝋燭が延々と灯っていた。一つは弱弱しく揺らいでいた。もう一つは既に掻き消えていた。僕はその机に手をかけて起き上がった。もう随分長いこと外を出ていなかった。今からでもそうしようと思ったのだ。勿論僕は死にそうだった。ただそれでも良い気はしていた。


 そして僕は今足を踏み下ろして、立ち上がった。ドアまで向かわねばならないことのみが、ただただ腹立たしかった。それでも、自身の飢えを凌ぐ上でそれは必要な順序だった。僕は歩き始めた。


 その時である。


 はらりと、アサガオのように、つるりと、薔薇の如く、一枚の紙が落ちた。端々から黄ばんでいて、中央には一滴ばかりの血痰が付いていた。どうあがいても彼女のものだと思えた。僕はそれを拾い上げた。


「あぁ…………」


 彼女の文字が綴られている。それはポロポロと滑ってしまいそうなほどか弱く見える。力の源などどこにもない。ただ意思だけで刻まれたのだとはっきり判った。僕の為なのだろうか。やはりそうとしか思えなかった。もう僕の心はあの碧眼のように、爽やかに洗われていた。何事でもしてやろうという勇気が怫然と湧き出したのだ。


 僕は外へ出て、それから彼女との畑へ向かった。道中はいつも彼女と通った帰り道だった。僕はそこでシオンの花々を数輪を摘んだ。そして、あの畑に着くと、そこは未だにただ雑然と土が広がるばかりだ。それでも、それは前よりも少し煌びやかに見えた。僕はあの塀の欠片を集めて、石工に加工を頼んだ。戻って来たそれは円柱に艶やかとしていた。もう一度畑へ戻って、それを埋めた。そして、歌を刻んだ。彼女の詩も刻んだ。彼女とのうただ。多分、これが最後になるらしかった。


「私は墓石です。セイキロスがここに建てました。誓って死ぬことのない、永久の思い出の印にと」


 碧空からは夕日が照り付けている。でも、それは多分僕たちだけに差し込んでいる。海原から波がさざめいた。なめらかに海風が僕らの間を過ぎる。このうたはいつまでもどよめいている。照り付ける土の中に、蠢く虫はまた戻っていった。






 生きてる間は輝いて


 決して思い悩まないで


 人生はほんの束の間


 そして時間は奪っていくもの

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最初の歌。セイキロスの歌。エウテロペの詩 無為人 @denkaseihin

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