転句

「……入りますよ」


 僕はこう言って扉を開けた。彼女の家だった。扉の向こうには彼女がいた。彼女は死の床ですうすうと眠っていた。あの紙束は多分一枚しか増えていなかった。その時、さらさらと風が彼女に靡いた。束からは数枚がするりと飛んだ。すると、彼女の瞼がピクリと動いた。彼女は夢うつつそうに目を開けた。


「良かった……来たんですね」


 彼女の頬は太陽より赤赤としていた。彼女の具合は真に良さそうに思えるのだった。もうずっとベットの上だとは信じ難かった。ただ彼女が横たわるだけなどとは勿体ないとさえ思った。けれどもベットに浮くその脚は血管のように細々としていた。それは何よりも彼女の現状を表していた。


「あまり、動かない方が良いでしょう。オレンジ、剝きますから」


 彼女は軽く頷いた。


 このオレンジはもう熟れ切っていた。腐る寸前だった。こんなのでもいいかと彼女に聞いても、彼女はどうしてもと言って聞かなかった。


「まるで私のようじゃないですか」


「……は?」


 彼女の物言いはあまりに唐突だった。それが彼女の言葉だとは流石に思えなかった。その眼差しが異様に沈んでいたので、それが確かなのだとようやく判った。


「そんなわけないでしょう!」


 僕の語頭はかなり力強いものだった。それこそ自分が思うよりも遥かに強烈な程だった。それほど僕は驚いていたのだ。彼女も驚いたように目を見開いていた。碧眼は昔より瑞々しく煌めいていた。


「本当に?」


 彼女の声は震えていた。音楽のようにジグザクとしていた。


「嘘なんて言うつもりはありません」


 かなり敢然とした態度だと思う


「だって私ですよ」


 彼女の相貌は未だに晴れない。


「だってなんて言わないでください」


「言いますよ!いつも私の為にいて、貴方ばかりが苦労して! もう私、貴方を見続けることができない……」


 彼女の大声は僕より弱弱しいものだった。それでもそれは著しく切羽詰まっていた。彼女の感情は膿のように這い出したようだ。


 そして、それは僕の心を大いに穿ったようだった。つま先から震えて、座るのさえやっとだった。けれども多分、彼女の体は、心は、それ以上の灼熱の最中にあるのだろうと思う。彼女の身にばかり注目していて、僕はそんなことまで見落としていた。心への責め苦なんて見ようともしなかったんだ。彼女の眼は憂いに満ちていた。その涙は滴り落ちることを止めなかった。途端に彼女は咳をして血反吐を撒いた。


「大丈夫ですか!」


 床にこびりつく一片の血はあまりに黒々と不動でいる。碧眼は皺が寄るせいでもう見えない。その息は今絶え絶えである。


「ほら、ゆっくりと」


 僕は彼女の背中をトントンと叩く。彼女は幾許かの時を苦しそうにしていた。しかし、その体を覆っていた汗は次第に流れ落ち、息の絶え絶えも少しずつ治った。


「本当に・・・・・・こんなことで良いんですか?」


 彼女は半ば呆れたようでさえあった。


 ただそれでも、僕の決定が覆ることは絶対にないだろう。彼女に充てた想いは不屈だと言えるのだ。僕の心が、彼女と行きたいと、彼女のものと同じぐらい強力な心で主張しているのだ。さながら金剛だった。僕は意を決して彼女を見つめた。


「エウテロペさん」


 僕の言葉に彼女は顔を上げた。僕は続けて言った。


「大好きです」


 僕は言った。感謝でさえあった。何よりも愛情だった。彼女を包むに足ると思った。彼女から学んでいた。


「・・・・・・っ!」


 彼女の碧眼は遂に輝いていた。僕の姿が確かに反射していた。僕の翠眼もそこには映っていた。彼女の時のように橙に灯っていた。


「私、貴方と一緒にいて、良いんですね」


「はい。良いんです。大好きだから」


「私、貴方に看てもらって、良いんですね」


「大丈夫なんです。大好きだから」


 彼女は確かに泣いていた。大河のような水流が一筋、静かに流れていた。


「嬉しい・・・・・・」


 そして、遂に彼女は目元を拭き取ると、


「私も、大好きです!」


 太陽が彼女の背後を燦燦と照らす。彼女は昔のようにあまりに屈託としている。彼女がもう一度息づいた時、遂に僕は微笑んでしまった。


 彼女との抱擁を交わす。暖かい血脈は僕にも伝わるほど強い。彼女の腕の力強さが僕を抱きかかえる。彼女の眼の碧さが僕を繋ぎとめる。その時僕は、仮に何があろうと、彼女を守ろうと深く心に決めた。






 ただ、彼女との日々はそれほど長くなかった。


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