承句 3
「あっちいですね……」
彼女がぼやいた。
「僕は腰が限界なんですけど」
「こんなに暑いのに荷物まで持たせるんですかぁ?」
彼女は随分と鷹揚な足取りだった。
「少しぐらいは持ってくださいよ」
「しょうがないですね……」
彼女はため息交じりに僕の荷物を半分持った。
「一応言っておきますけどしょうがないのはこっちなんです」
僕がそういっても、彼女は未だにふてぶてしく振舞う。
僕らはアゴラ*の市から帰っていた。帰路にはもう斜陽が降り注いでいた。革袋のオレンジは陽に焼けていた。もうすぐ熟れてしまいそうだった。
「そういえば」
彼女はふと声を弾ませた。
「この畑って」
彼女がそう言って目を向ける先には、僕との出会いの場があった。そこは既に菜さえ植えられていなかった。雑草の一つも生えない土の広がりがそこにはあるだけなのだ。
「久しぶりですね」
僕は言った。
「えぇ、本当に」
彼女は嘆息した。
「あの、」
彼女は突然振り向いた。その笑顔は凛々しく留まっていた。
「少し、そこに座ってもらってもよろしいでしょうか」
「唐突ですね」
「いいじゃないですか」
僕は彼女が指さした所にゆっくり座った。彼女も隣に座って来た。彼女はオレンジを手に取った。
「どうせだから、もう食べちゃいましょう」
彼女は唆すような口ぶりでいた。ただ、確かにちょうど今その時が食べごろだと思えた。明日や昨日でも駄目なのだ。
そうして彼女はそのてっぺんから手をかけた。その爪は皮を深々と突き刺して、ぷすぷすと濡れた。
「……貴方はあの時までどうしてたんですか?」
彼女はこう言ってこちらを向いてきた。その顔はまた余裕に微笑んでいた。
「僕ですか」
僕はかなり考え込んだ。思えばあの時より前は何をしていたのだろうか。ちっぽけな歌の一つでも作っていたのかもしれない。いや、それさえまともしていなかったような気がする。彼女との出会いは何もかも変えてしまったようだった。
「私はですね」
彼女は目を地面に移した。その声はとても意気揚々としていた。まるで将来の希望を話す時のようだ。
「……いつもあんまり楽しくありませんでした」
今度は少し暗そうだった。
「日雇いの仕事を繰り返して、その時々で全然違う所に行って、詩だってその合間に細々とだけしていて、」
彼女は続ける。
「いつまでこんな生活なんだろうって思っていました。あの時だって結構絶望してたんですよ」
彼女は苦々しく言葉を押し出しているようだった。僕でさえ少し痛々しいと感じていた。二人とも一瞬押し黙った。しかし、彼女の顔はその間に笑顔へと変わっていた。その様は正しく天真爛漫と言えた。
「でも、貴方に逢ってからはだいぶ変わったんだと思います」
彼女は爛々な口ぶりだ。僕は少し呆けたような顔をしていた。
「いつもいつも楽しかったですよ。貴方に逢う時はもっと嬉しかったですよ。貴方と話している時はもっともっと幸せでした」
彼女はその頬を限りないほど赤くしていた。僕の頬も今までにないぐらい温かかった。
その時、オレンジの隙間からは果汁が噴き出した。瑞々しく宙を舞い僕の頬へ落ちた。言葉の堰は切られたようだ。彼女はふと笑った。僕の心臓は肥大をもう治めていた。彼女も同じようだった。心と心が今一つに触れあった。
「セイキロスさん、」
「好きですよ」
彼女とは思えないほどあまりに率直なそれは、最早とどまることを知らないようだった。彼女はまるで爛々とした眼差しをこちらに向けていたのだ。
「……多分、僕もです」
太陽から漏れ出た西日に僕は心を焼かれていた。熱さに耐えかねて僕は言葉を吐き出した。それは膿のように粘ついていた。
彼女の眼は途端に緩み切った。碧眼には僕の姿が映っていた。彼女のように凛とはしていなかった。寧ろ呆けたように突っ立っていた。そのうえ、その上で蕩けてドロドロになっていた。斜陽まで混ざったので、琥珀のようだった。
「私は貴方が好きなんですよ。好き」
彼女は繰り返し言い放った。悉く僕には貫徹しなかった。空中に掻き消えるそれをただじっと眺めていた。しかし、ある時沁みるような熱さが体を駆け巡ったのだ。身の全てが総毛だったのだ。
「セイキロス、さん」
遂にその言葉は僕の心まで打ち砕いた。熱さは四肢の末端まで確かに焼き尽くしたのだ。喉元まで込み上げた希望に僕は笑いそうだ。それより以前の世界が信じられないほど色褪せたように思えた。視界の全てが色鮮やかだった。彼女との誓いは今現実のものなのだ!僕の物なんだ!こぼれ落ちる間際の嬉しさが辺りを埋め尽くした。彼女との間合いはどんな旋律よりよほど調和していた。
「あの、食べますか?」
彼女はまた美しく笑いかけて、手を差し伸べてくれた。その手ではオレンジが三日月状に光り輝いていた。なんだか夢のような様で気持ちが良かった。
「……はい」
「じゃあ、」
すると、彼女はそれを僕の口へと押し込んだ。あまりに唐突で訳が分からなかった。なめらかな感触の後に、彼女の指も少し入って来た。温かく柔らかく、それでいてコツコツと歯に当たった。彼女にもちゃんと血は通っているのだ。
「あの……何を」
次に彼女は僕に抱き着いてきた。僕の隙を見計らったようだった。正直言って、彼女の魂胆は解らなかった。が、それでも良いとも思った。こうすれば彼女の拍動がよく聞こえるのだ。彼女が生きているということが実感できた。今この瞬間が現実だと理解できた。それはとても喜ばしいことなのだ。
蒼天の向こうには入道雲が立ち、白々と夏を演じている。ただ、僕の指先にも、確かに熱さは灯っている。彼女のキトンの柔らかさが、そこには伝っている。そして手を離してみれば、彼女も白く、可憐な笑みをたたえて、僕と視線を、真っ直ぐに重ねていた。
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