承句 2
「ほら、早く来てください」
彼女は僕を追い抜いて、振り返ってはこうせかしてきた。その時、裾の大半は揺らめいていた。彼女の服は白を基調としていたものの、いつもとも違えて、少しは絢爛だった。
「そう急ぐことでもないでしょう」
「……まぁ、それはそうですけど」
彼女は不貞腐れたようにこう言うと、今一度前に向き直して、軽快な様で歩き始めた。
僕たちは今、旅行に来ている。といっても、詩のためでもなく、また、旋律のためでもない、たかが旅行である。ただ近くの湖へ趣き、そこで一夜でも明かそうかという算段である。なので別段、これといった用意をするでもなく、最低限の荷物だけ担いでここには来た。ただそれも、担いでいるのは全て僕だった。
「あっ、鳥!」
彼女が指をさす先では、小鳥がひっそりと、木陰に紛れて止まっていた。
「綺麗ですねぇ……何処から来たんでしょう」
彼女は感慨深げにこう問いた。
「アオガラですから、何処にでもいるでしょう」
僕はただ漫然とこう返した。正直言って、これ以上荷物を持ちたくもなかったのだ。さっさと宿泊地について、適当に眠りたかったのだ。
「でも、この子の行く先ぐらいは気になるじゃないですか」
「そうですかねぇ。徒労だとも思えますが」
僕がそう言った途端、アオガラは何処かへ飛んでしまった。行方も知れないほど速やかに飛び去っていた。
彼女は少しばかり沈黙していた。彼女の疑問が氷解することは二度とないのだろうから、当然やもしれなかった。
「……全く情緒の欠片もないですね、ほんとに」
そして直ぐ、彼女は吐き捨てるようにこう言うと、また少し拗ねたような歩調を取り始める。
道程に沿う川は次第に速度を増していき、いよいよ早瀬となっていく。木々は崖上に生え連ね、陽の一閃さえ通さずにいる。ふと、川側から水が跳ね上がると、彼女の足元にパシャリと落ちた。足元から彼女は多少に濡れた。ただそれでも、何の気なしに彼女は歩いた。無神経だった。あるいは強さだった。僕にはどうしようもないほど美しく見えた
「着きましたかね?」
彼女がそう言った先には、空のような碧潭が、限りないほど広がっていた。湖だった。ただ、斜陽が鏡面を差して、淡く橙に滲んでいた。彼女の目のようだった。
「それで、どうするんです?」
僕は問うた。
「分からないんですか? ほら、」
彼女は僕の背に立つと、荷物の一つをちょいと摘んで、それを天まで釣り上げた。
「なんですか?それは」
「アルキメデスさんって聞いたことありますよね。その人の発明です」
彼女は落ちるそれを受け止めながらこう説いた。
それの形状は、軽木と布が三角錐に繰られた、ある種の美術品だった。それこそ、彼女が扱うにはあまりに重厚だった。けれども、彼女は気軽にそれを組み立てた。それは彼女にとって、簡明な児戯のようでさえあった。
「それ、どこで手に入れたんです?」
「通りすがりの商人が安く売ってて、複製品のようですから」
彼女は僕の疑問にさえ簡潔に答えた。それこそ、その児戯と並行して答えていた。
そしてその美術品を確かに彼女は組み立てきると、彼女はそれの中に入って、僕を手招いた。
「出来ましたよ」
「…これって入っても大丈夫なんですか?」
「崩れないか、と?」
「そうです」
彼女は頭も入れて、
「それなら心配入りません。もう何回か使いました」
僕はその言葉を聞いて、少し躊躇ったものの、荷を背負う以上、最早仕様がないと悟り、渋々中へ入った。
「ほら、綺麗でしょ」
湖が映す空には、夕日が下っている。その周囲には、木々が連なっている。霞に陽が灯る。草木が吹かれた。木の葉が二、三枚空を揺蕩った。
「確かにそうかもしれません」
ただ、僕がそう言ったのは、決してその風景のためでもなかった。寧ろ彼女にこそあった。それこそ、彼女の目に灯るそればかり見ていた。
その相貌は彫像のように艶やかとしていた。まるで何を受け付けるでもないようだった。しかしながら、そこに排他の意思は微塵も介さないのだ。目ばかり鮮やかだからだ。空のような碧潭が、絶海のように広々と湛えるのだ。砂塵のようにざらついた橙が、一滴それに垂れているのだ。さながら水晶だった。彼女は瞬いた。彼女の湖を押し流した。涙が一滴零れたようだった。僕はそれに心を奪われてしまった。
「……どうしたんですか? そんなに睨んで」
彼女は僕へと振り向いた。碧潭には僕が映っていた。僕は非常に赤面していた。面映ゆいとのみ感じていた僕にはさながら衝撃だった。
「私の顔、何かついてます?」
彼女の金髪がその眼元までするりと抜けた。僕の赤面はいよいよ臨界を迎えつつあった。それでも彼女は押して迫り、僕の体を追い立てた。
しかし、ふと彼女の後ろを一身に、アオガラが猛々しい様で飛び込むと、それは内部の様々に荒らしまわり、遂には彼女の軽装へと素早く絡みついた。
そして彼女は猫のような驚嘆を咽ぶと、最早を混迷をきたしたのだろう。怪物のように暴れだしてしまった。どうにかしようと僕が力一杯にアオガラを掴み、それを服から引きはがすと、それは僕に飛び掛かってきた。前屈みに僕は倒れた。
目を開けてみると、そこには彼女がいた。今度は彼女の腕を鷲掴みにしてしまっていた。彼女の眼を見ると、僕は当然赤面していた。ただ同時に、今度は彼女までその頬を赤らみに燃やしていた。
「……すいません!」
僕は余りの事態に戸惑っていた。彼女は未だに無言であった。
「もおぉ……何なんですか!」
彼女の目は残雪のように溶かれていた。今にも零れそうな碧潭であった。
僕は取り敢えず身を離し、彼女を解放した。彼女はその目を手で覆い、荒く呼吸をしていた。それでいて、僕も同様だった。僕は湖に意識を向けるよりほかなかった。
川向かいの地平に、夕日は煌々と灯っている。鏡面に反射して、木々のどこまでもを照らしている。さながら黎明のように、白白と穿っている。
彼女もようやく起き上がり、僕と同じく湖を眺めていた。
湖の橙はいよいよ消えかかっていた。青などもう影さえなかった。そのうち夜が来た。雫の音がした。波紋が広がった。枝葉に鳥は戻らなかった。にもかかわらず、空気は今でさえなおも澄み渡っている。
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