承句 1
「こんなものでどうでしょうか」
「どれ」
僕は彼女が見せるパピルスを裏返した。
「ふむ、良いんじゃないでしょうか」
そこには、敢えて言うならば山岳の湖畔のような、雄大かつ繊細な文が広がっていた。そのため、僕はこう評せざるを得なかった。
「ですよね! いやぁ、私にとっても自信作だったんですよ、これ」
彼女は鼻高々にこう言った。
「といっても、誰に見せるわけでもありませんがね」
僕は少し自虐の意図を含めてこう言うものの、彼女は髪を指で巻いて、斜めがけに僕を見ると、
「だからこうして見せて、聞いているんじゃないですか」
少しの沈黙の後、僕はまた彼女の指摘を笑った。そして、
「仰る通りです」
彼女は頬を膨らませていた。
今協議しているここは、彼女の部屋だった。そこには木製のベットと、花瓶の置かれた机があった。窓からは風がせせらいでいて、彼女の髪を時々靡かせていた。
ここに来てからは、もう一年が経とうとしていた。彼女に会ってからもうそれだけ経っている事実は、僕にとって余り信じきることのできないものだった。ただその中でも、彼女の詠んだ詩がその机の上で少しづつ束に成っていくのを見て、僕はようやくそれを腹落ちさせていた。
「いやぁ、でも感慨深いですよね。私と貴方が出会ってから、もう一年だなんて」
彼女は座っていたベットに倒れて言った。
「……心でも読んでるんですか?」
「あ、てことは気づいてたんですね!? それなら、」
彼女は、起き上がって僕を見据えると、腕を差し出して、
「ほら、何かないんですか」
「はぁ?」
彼女がこう問うため、僕は困惑してこう陳ずると、彼女はまた、
「貴方と私の間柄ですよ?」
「だから、知りませんって」
僕がこういうと彼女は溜息を深くつき、目を逸らして、
「けちんぼ」
「けちんぼって……貴方らしくもない」
「だってそうじゃないですか!?」
僕は顎に手を添えて、
「いやだって本当に知らない……貴方の故郷の土着な風習の類なのでは?」
「むぅ……分かりましたよ!そうしておいてあげます」
彼女はベットを軽く叩くと、直ぐ横になって、枕に顔をずっぽり埋めた。
ただ、その時僕には、ある一つの疑問が浮かんで、
「そういえば、貴方の故郷について聞いたことがなかった。ギリシアではないでしょう?」
「もうちょっとぐらい私に興味持ったらどうなんですか?」
彼女はまた不満げに、枕の端から僕に目を向けてこう質した。
「いやだって、意外と聞く機会も無くて」
彼女は大きな溜息をまた一つついて、不機嫌そうに、
「はぁ……でもそうですね。確かに私はギリシア人ではありません。もっともっと遠い、山の方から来ました」
「山の方……ですか。随分漠然としていらっしゃる」
「でもそれにはオリンポスさえ敵いません。巨大で、鋭利で、かつ尊大で……湖から下流に、川が流れていました」
彼女は様々に思い出したのか、少し呆けた顔で、窓から空を見つめつつこう説いていた。
「それではかなり遠いところから来られたようで」
「いや、言う程でもないですよ。実際ここには、いつの間にか居た訳で」
彼女は空から目を逸らすと、机の上の束をじっとりと見つめていた。
「お母さん、元気にしてるかなぁ」
彼女は溜息をつき、壁にもたれかかっては天井を見つめた。
僕もその様子についての対応が分らず、数秒に渡り間こそがここに飽和したものの、ようやくそれらしい返事が頭に浮かんで、
「母親ですか。何か思い出でもあるのですか?」
僕がこういうと、彼女はまた僕を、訝しむような面持ちで見据えた。
「そりゃあ無いはずもありませんが……とはいえ、別段これと言ったものはありません。精々、ヒチンの美味しい日のことぐらいです。そもそも、そういう貴方はどうなんですか?」
僕は壁にもたれつつ、苦笑いでもって、
「僕の母は、所謂死産だったんです」
すると彼女は少し目を見開いて、これまた僕から顔ごと逸らした。
「……ごめんなさい」
「いや、別にどうということもありませんよ」
彼女は枕の端を優しく握り、そのまま少し立ち上がって、机上の束を手に取ると、もう一度ベットに座った。それから、数秒ばかりそれを見つめていた。そして直ぐ、顔を上げたかと思えば、
「……そういえば、ありましたよ、思い出。今さら思い出すようなものではありますが」
「へぇ、聞かせてもらえますか?」
彼女はその束を静かに置くと、もう一度ベットに倒れ込み、呟くような調子で話し始めた。
「お母さん……多分お母さんだったと思います。私と一緒に林檎を取りに行ったんです。川沿いの、それも早瀬のすぐそばに」
彼女は少しシーツを握った。
「お母さんは籠をしょって、私もしょって、ここよりも遥かに不格好な様で、誰もいない小道をすくすくと下れば、直ぐその果樹が、激浪を向こうにして見えました」
彼女は足裏で床をついた。ドチン、と音がした。それでも彼女は話し続けた。
「私はその時多分……なってる林檎を見たのは、初めてだったんです。だから、浪が荒れ狂うさなかでさえ、直ぐに走り行って、それで……」
窓から風が突拍子もなく吹いた。
「その浪に足を掬われれば、抵抗さえまともにできずにその渦中に放られました」
その時、僕の心悸は躍動していた。場面や展開は無論のこと、ことさら結末などとうに分かっているというのに、ただでさえ波打っていた。
彼女は続けて語る。
「勿論私はその時、死んだと思いました。これだけははっきり覚えています。山から目が逸れていって、太陽が目に直撃して……髪が濡れながら地面を滑る時、多分私は叫びました」
彼女は少しばかり物憂げそうでさえあった。
「なるほど。でも貴方は生きている」
僕は低く、じめった調子で質した。
「そりゃそうですよ。だって母が、私が今にも落ちるというその瞬間になって、もう半身は浸かっているというのに、私の腕を、ぎゅいっと一気に掴んだんです。おかげで衣服はびしょびしょでしたし、土に打ち付けた膝にはちょっとした血だまりができていました」
彼女はその文面とも違って、随分と弱弱しく、申し訳なさそうに語った。
「それで、勿論私は引き上げられるんです、岸に。木漏れ日が幾重にも照り付けるんです、瞳に。それから母が、それを遮るように出でて、私の目前を占めて、
『ほら、これでも食べて』
と言った瞬間を、今でも私は、何よりも熱烈に覚えています」
彼女はそれを最後に、数刻ばかり黙りこくった。
僕はその様相を不審に思い、あくまで疑義を呈すように、彼女へ柔和に問いてみる。
「それで終わりですか?」
「……なんだか恥ずかしいですが、そうです。これより先はなんでか覚えていません」
確かに彼女はその言葉通り、林檎のような赤らみを頬にたたえて、それから枕を顔に押し付けていた。
ただ、彼女の赤面にも関わらず、歴然とした感心が、心根から深々と広がっていくのを、僕はさながら血脈で感じていた。彼女のその独白に、全く打ちのめされてさえいた。幾つになるやも解らない、ただ他愛ない事柄を、いくつに成れども忘れない。もしくは、その他愛なさを、他愛なさとも思わない。その純然たる心持ちにこそ、詩性は宿るのだと、僕は全く膝を叩いていたのである。
そしてふと、彼女との間に広がる均整は、それから零れた僕の感動によって、正しく水に差された。
「それが貴方の詩を生んだのですね」
彼女は訝し気に、横凪ぎの視線をこちらへ向けると、
「それって褒めてるんですか?」
「今、貴方自身が褒めていたじゃないですか」
彼女は赤面しつつ、
「具体的には」
「遠い遠い過去と故郷が、太陽のように爛漫と、せせらぎのような清廉を、貴方に齎したということです」
彼女は遂に枕を体で覆って、
「卑怯です……」
「何がですか?」
「私以上の詩才を持ってる」
「何を言うんですか」
僕は彼女の間違いを、少し鼻高々に笑って、
「僕は貴方を真似したんです」
途端に、彼女はもっとその枕を押しつぶして、足まで体に押さえつければ、
「やっぱり卑怯じゃないですか……」
彼女は壁に手を当てて、体を震わせながらこう呟いたようである。
風は今まさに吹きさらした。彼女の金髪は少しも凪ぐことのないようだった。雫が一閃、彼女の方から見えた、気がした。
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