最初の歌。セイキロスの歌。エウテロペの詩

無為人

起句

「菜を摘めちょいと、ちょちょいのちょいと」


 女性らは今日も勇ましく歌っていた。蒼天の照覧にあってさえ、なおも快活に歌っていた。


 僕はそのすぐそばの塀に座っていた。ただ、何をするでもなく、その光景を見つめてばかりいた。目的という目的などなかった。それだけ見つめて、ただ菜が地面から抜けていくのを見つめて、そのまま陽が沈むのを待っていた。それだけで十分な日々だった。


 このギリシアの国で、市民の男が働くなど必要さえなかった。ただ寝て、食べて、したい者だけは趣味などもして、そうやって過ごしていた。そんなものだから、僕らはいつでも暇だった。それこそ、時間さえあればほっつき歩き、こうやって逞しい女性の労働を見るぐらいしか、暇の潰しようは無かった。だからこそ今こうしていた。


「ラ、ラーラ、ラーララ、ララーララーラ」


 僕は歌ってみた。というのも、先ほど趣味とは言ったが、僕にとってはこれこそが趣味だった。「作曲」である。どうにもこれにおいてのみ、僕は確かに才を賜っていた。ここに来たのは暇つぶしのためと言ったが、それ以上にこの為でもあった。つまり、彼らから、メロディー、そして歌詞に関する着想を得る為だった。


「ふむ……」


 僕は空を仰いだ。雲はいつまでも、地平の果てまで漂っていた。それでもその間隙からはいくつもの陽光が差し込んで、僕たちの体を照らしていた。さながら天啓だった。ただそれでも、僕の頭を悩ませる事項は、何さえ解決しなかった。


「歌詞……か」


 メロディーにおける才は、確かに秀でた僕だったが、詩才まで同時にとはいかなかった。どんな旋律を生もうとも、それに伴う詩だけは頭に浮かばなかった。雄大なる自然や、荘厳な建造物を見ても、掠めることさえしなかったのである。


 そんな僕は今、頭を抱えて、とにかく唸っているばかりで、その間にも脳裏には様々なメロディーのみが低回する。その旋律に詩は、当然の如く無い。ただ、僕の悩みとは裏腹に、雲は少しずつ霞んでいくばかりである。先ほどまで、暗雲でこそないものの、光など一閃さえ通さなかった雲までもが、陽光を透かして、こんどこそ地表の何処までもを照らしているのである。


「何してるんですか?」


 ふと声がした。可愛らしい女性のものだった。顔を上げてみると、先ほどまで菜を摘んでいた女性の一人が、僕の顔を覗き込んでいた。その瞳は正しく碧眼であって、被るキトンとは似合わなかった。また、その真横には金髪が流れていて、碧眼と言い、まるでギリシア人とは思えなかった。


「ごめんなさい。邪魔でしたか?」


「いや、全然そんなことありません。でも、気にはなって」


「大したことではありませんよ」


 彼女は快活に、迫るような意気でもって僕にこう問うものの、彼女が僕の話を解せる確率など、そう高くはないだろう。音楽の話など、大抵は素人に伝わるわけもないのだ。ましてや文盲の可能性もあるというのだから、その確率はより大いに高まる。となれば僕には、教える義理も、ましてや能力さえなかったのだ。


 それでも彼女は押し迫り、僕の体を追い立てた。なので僕は地面へ手をつけ、よろけた体をそれで支えた。


「あっ、すいません!あの、あんまり距離感分かんなくて……」


「……大丈夫ではあるのですが、何が貴方をそうまで?」


 彼女の頬には一筋の雫が垂れた。


「いやあの、ほら、貴方は何か、歌を作っていらっしゃるようですから」


 僕は少し目を丸くして、彼女の赤らんだ頬を見つめつつ、


「……それなら、わざわざ聞かずとも」


「それも流石に忍びないなって」


 彼女はクスクス笑いながらこう話すので、僕にも何か、可笑しいような気さえ湧いてきて、何だか少し笑ってしまった。


 そして僕はそのまま、


「そうですよ。市民と言えば、これぐらいしか耽ることもありません」


 と言う。


 すると彼女は、今度ばかりは一歩引き、少し躊躇ったように、手のひらを腕へ擦りつける仕草をすると、こんなことを切り出すのであった。


「私にも聞かせてもらえませんか?」


 僕はこの問いに対し、直ぐに良いと答えることはできず、数舜ばかり様々ないい訳のみが脳裏を錯綜した。が、彼女を顔を見ていると、その瞳には確かに炎が灯っていた。その様の中で、僕が断るなどというのも甚だしく不可能であった。寧ろ直ぐ、気の良い声で、


「まぁ、未完成ではありますが、減るものでもないですしね」


「あっ、ありがとうございます!」


 彼女が謝意をたたえてこう言う間にも、僕は数回咳を込み、準備を整えれば、ほんの少し息を吸って、


「ラ、ラーラ、ラーララ、ララーララーラ」


 先ほどと同じ旋律を繰り返した。


 歌ってみてすぐ、ただ僕は適当な言葉を並べているに過ぎないと気づいたため、少しばかり恥ずかしさが全身に立ち込めるのを感じた。が、それでも彼女は手のひらを軽く打って、僕の歌をこう評した。


「良いですね!何というか……陽光の照る布地のような、大木の下の夏のような、朗らかで、ある類の温かみがあります」


 その語調の生き生きとした様に、僕は少し戸惑った。詩の無い僕の歌を、こうまで高く評価した人はいなかったからだ。その言葉遣いが、決して文盲のものではなかったからだ。


 けれども、彼女は直ぐまた口を開いて、


「でも、歌詞は?」


 僕は彼女から目を逸らして、


「ないです」


 すると彼女は、何かを察したように、


「あぁ……なるほどです」


 彼女は苦笑いを口にして頷いた。その様子に僕は、正直言って恥ずかしいとさえ感じていた。彼女の視線には、確かに憐憫が混じっていたからだ。歌の本懐とは、メロディーではなく、詩にこそある。となれば、僕が言う歌とは、所謂「歌」ではなく、それに近いだけの、紛い物に過ぎなかったのだ。


 数舜ばかり、彼女との間合いには重苦しい空気が漂った。彼女にとってそれは、僕にこう問いてしまったことへの後悔だろう。僕にとっては、彼女にこれが知られてしまったことへの後悔である。菜を摘み取った畑の蠢く虫に、また急激に日射が差した。


「良かったら私が考えましょうか?」


 そんな時、彼女はまた、ふとこう言った。なんの忌憚さえそれには無かった。ただ風が靡いて、その金髪が空を揺蕩うばかりであった。


 ただ、それでも僕の悩みは何さえ洗われなかった。未だに歌詞は思いつかなかったのだ。寧ろ、滾るような怒りが、沸々と心根から湧き出ることのみを感じていた。


「貴方にできるんですか?」


 僕は少し喧嘩腰に言った。


「えっと、実は私、結構そういうの得意でして」


「というと」


 彼女が赤面して言うのを、僕は未だに問い詰めた。


「ほら、美しい風景や人々の奮闘を見てると、何か言葉が自然と溢れてくるじゃないですか」


 彼女は絞り出すように、笑いながらこう述べた。ただそれでも、僕は吐き捨てるような語気で、


「僕にもそういう体験がない訳ではありませんよ。僕が聞きたいのは、あくまで貴方の特異な体験です」


 その時の彼女は下を向き、黙ってただ二の腕を掴むばかりであった。そのうえ、その顔は正しく恐怖に満ちていた。今更ながら、僕はその顔に諭された。そしてそれは、僕が不必要なまでの怒りを発露させていたという気付きであった。


「まぁ、先ほどの歌のようなものを詠んだというなら、話は変わるやもしれませんがね」


 けれども僕は謝れなかった。彼女に対して誠実さを見せるでもなく、それこそ目を逸らし、寧ろ挑発するような調子で、こう吐き捨てるばかりであった。


 ただ、もう一度彼女を、今度は横目で見直してみると、その恐怖は既にその顔から消え尽くしていた。それどころか、ある種の高揚こそがそこを占拠していた。僕を真っ直ぐに見る、優越の視線だった。


「あの詩を綴ったの、私なんですよ」


 彼女は尻上がりにこう言うものの、僕がそれを信じ切ることは到底できなかった。なので僕はあくまで不機嫌そうに疑義を呈すことしかできなかった。


「……まさか」


「まさかじゃないです。本当です」


「そんな虫のいい話、この世に存在するはずもありません」


「それがあるんですよね!ふふっ」


 彼女は朗らかに笑った。


「こんなちんちくりんの五体で?……はぁ」


 僕は未だに減らず口を叩いたものの、これに至っては彼女に聞こえてさえいなかったようで、彼女は未だに優越の視線をこちらに向けていた。その様に僕はまた嘆息をついたのだが、彼女の提案が脳裏で反芻し続けるのも、またその時であった。


「二言はありませんよね」


 僕の問いに、彼女は爛漫と返す。


「勿論です!」


 僕は彼女の様子を見て鼻で笑ったものの、その時には既に全身へ安堵が染み渡っていた。それから遂に僕はその塀から立ち上がった。彼女も同時に立ち上がり、欠伸をつけば、踊るように地面を蹴って、快活そうに僕の前へ出でると、


「さぁ、行きましょう!」


「行きましょう……って、どこに?」


「私の家です」


 突拍子も無い話が出でて、さながら僕は愕然とした。ただ彼女は、その様がそれほど面白かったのか、正しく朝日のような笑いを浮かべていた。


 今、天に雲は、最早一分でさえ無かった。ただ青空が、障壁もなく陽光を通すばかりであった。菜を摘み取った畑の上に、蠢く虫が爛れるばかりであった。


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