使えない文字
飯田太朗
きついスランプ
作家は言葉を綴る仕事だ。
だがその言葉がなくなれば? 僕は、作家は、何をすればいいのだろう……。
*
「ダメですねぇ……」
担当編集者の与謝野くんがため息をついてパソコンの画面から顔を上げる。
「この話、『天海石』と同じですよ。先月号の」
「やっぱりそう思うか……」
僕は頭を抱える。
「それとここ。『狂』の字は禁止です。どうしようもない場合を除きなるべく使わないでください」
「その『どうしようもない』っていうのはどんな時を指すんだ?」
「うーん、例えばキャラクターの名前になってる時とかですかねー。それ以外はパッと思いつかないや……」
「……そうか」
「やりにくいかもしれませんが、やってください」
「その制限が厄介なんだよな……」
ハッキリ、言おう。
僕はスランプに陥っていた。書けない、とかいう話じゃない。書けはする。うん。文章を書くこと自体に問題はない。ただ、なんだ、こう……。
何を書いてもダメな気がするのだ。このところポリティカルコネクトの関係で使ってはいけない字というのが増えた。ひとつ表現をするだけで「これはダメです」「これは控えてください」だ。もう何をしていいか分からなかった。作家は言葉をもがれると翼がなくなるのだ。しかも心配事はそれ以外にもあった。
「ル・イネールの支払い、どうなってます?」
「君ここに来て鬱になる話やめてくれるか」
「あっ、すみません」
ル・イネールとは、遠い地英国に伝わる「呪われた真珠」だ。これを持った人間は呪われ、やがて破滅に導かれるということだが、僕は……。
「でもハッキリと、この真珠手に入れてから先生おかしいですよ。財産もこれ買うのに使い込んじゃったんでしょ?」
「ああ」
実は拙作、『幸田一路は認めない』の前回の話は呪われた宝石についてだった。僕はその取材のため、ほぼ全財産をはたいてこの真珠を買ったのだが、果たして呪いとやらが……。
まず、叔父の財産の相続で六百万ほど持っていかれた。いや、叔父は何も借金をしていったわけではない。
叔父は僕のために年百十万の預金を二十年間してくれていた。贈与税の非課税ギリギリである。そして僕の名義で口座を作ってくれていたので、相続という形をとらなくて済む。税がかからない。
果たして叔父が死んで、僕の元に大金が、となった段階で税務署から手紙が来た。追加徴収が必要です、と。
叔父は僕の名義で口座を作ってくれていたのだがこれは振り込み主が叔父しかいなかったので実質的に叔父の金であるとのこと。叔父の財産に当たるので、相続に当たっては相続税が必要です、と。それで六百万持っていかれた。それでも転がりこんだお金からすれば六百万なんて大したことない、と思うかもしれないが……。
僕は元々叔父がくれる予定の資産込みでル・イネールの購入プランを考えていた。だから六百万の不足は六百万のマイナスなのである。哀れな僕には、いきなり六百万の借金が残った、というわけである。
その他にも細かな出費が重なって、重なって、重なって、果たしてル・イネールの思惑通り、僕は破産寸前になった。金がない。故に何かを読んだり聴いたり経験したりするインプットも難しい。
「すまんが原稿料前借りできるか」
「飯田先生ならまだ融通が利きますけど、限度がありますよ? もう三回目です」
「すまん……」
「何にせよ、残り数話書けば単行本として一冊出せます。『幸田一路は認めない』のシリーズはファンが多いですし、映画化の声もかかってます。頑張ってください!」
「ああ」
しかしまぁ、頑張って、と言われても。
与謝野くんが帰った後、僕はしばらく机に向かったが、やはりダメだった。仕方がないので僕は散歩に出た。この日は記録的猛暑とかで、午後二時なんかに外に出たからほとんどローストされているようなものだった。
暑い……暑い……暑い……。
熱から逃れてその森の近くに行ったのはある種必然だったと言える。
静かな森だ。大勢の針葉樹の中に広葉樹がちらほら。何でもカブトムシやクワガタムシが取れるらしく、朝方に子供たちが突撃していくのを見たことがある。
僕はそんな森の傍を歩いた。空気が綺麗で美味しかったが、しかし頭の中のモヤは晴れなかった。どうにも、文が思いつかない。どうにも、書けない。
やがて僕は、いつの間に来たのだろう、森の入り口にいた。それまでは、森と道路の境界線には鉄線が引かれていたのだが、ここだけその線がなかった。ぽっかりと、穴のように、木が開け。夏の日差しさえ葉っぱで陰らせて、その道はあった。しかも、坂道だった。下りだった。
坂道はこの世とあの世の境界線。
『幸田一路は認めない』を書いていた時に出会った資料に、そんなことが書いてあった。『幸田一路は認めない』は民俗学を土台としているため、地方の伝承、神話の世界には必然詳しくなる。この知識も、それで得られたものだった。坂。ここから異界に、行けるとすれば。
僕は歩いていた。熱から逃れる意味でも、そして好奇心を満たす意味でも、現実から逃避する意味でも、僕は森の坂道を下っていった。そして出会った。あの屋敷に。
それは茂った木で日差しがほとんど入ってこないような場所にどでかく構えられていた。和洋折衷なのだろうか。巨大な屋根構えの門がひとつ、どかんとあり、その門の向こう、開けた場所には、これまた大きな西洋館がひとつ、そして離れと思しき小屋がひとつ、あった。僕は首を伸ばして屋敷の敷地内を観察した。
その看板に気づいたのは、そうした覗き見が功を奏したとしか言いようがなかった。
門から本館へ繋がる石畳の通路の真ん中。
三角型に寄せられた板があり、その正面にはこうあった。
「悩める作家、お入りください」
悩める作家……。
まさに、僕のことだった。いや、「作家」が何を示すかによるが、少なくとも小説家は作家だ。これで中に入って「いえ、入っていいのは手芸作家です」なんて言われても文句は言える。
僕は慎重に一歩踏み出した。そうしてじりじりと門に近づき、中に入り、石畳の道をこれまたじりじり歩くと看板に近づき、そして内容を一瞥した。「悩める作家、お入りください」。やはり、そうある。
僕はまたじりじり歩くと、本館と思しき館の入り口についた。階段があって、すたすたと上った。やがてドアの前についた。
ノッカーがある。
おそるおそる、それをつかむ。
ガンガン。
やや乱暴な叩き方をしてしまったが、しかし広い屋敷の中に響くにはちょうどいい音量なのではないだろうか。
少し、待っていると、中から声がした。低い男性の声だった。
「お入り」
渋みのある声。
「お入りなさいな」
二度目の声で、僕はいきなり何かに胸倉をつかまれた。かと思うと唐突にドアが開いて、僕は見えない何かに胸倉をつかまれたまま、どんどん屋敷の奥の方へと引っ張られていった。ちょっとしたジェットコースター並みの速度。僕は「うわあ」と情けない声を上げた。
やがて、僕の体は大きな木製のドアの前でピタッと止まった。先程の声が、ドアの向こうから聞こえた。
「君はどうしてここに」
感情のない、だが重みのある、声だった。
「表に看板が……」
とつぶやくと、ドアの向こうの声は笑った。
「ああ、そうだったね。しかしあれを見てここに来たということは、君も悩める作家の一人、というわけだ」
否定できない。なので、答える。
「まぁ……」
と、いきなりドアが開いた。僕の前に、部屋の中の景色が広がった。
薄暗い部屋だった。昼間なのにカーテンを閉め切っている。壁という壁に本棚。天井まで届いている。室内の灯りは、部屋の最深部にある机の上にガスランプみたいなランプがひとつ。そして声の主はそこにいた。
頰のこけた、気難しそうな顔の男。
齢四十くらいだろうか。いや、三十と言われても納得はできた。少なくとも二十代や五十代ではない。貫禄、落ち着き。ある程度年齢を重ねなからこそ出る、迫力。そして奇妙な若々しさ。
「失礼。原稿を書いていてね」
男がしゃべった。
「私は手書き派だから、他の作家よりも時間がかかってしまう」
「あなたも作家……ですか」
僕が訊くと男はニヤッと口の端を歪めてから、目線を上げた。
「写経している坊さんにでも見えたかな」
笑っていいのか分からない、そんな冗談だった。
「私は
名前を訊かれたので、答える。
「飯田太朗……小説家だ」
「奇遇だね」
佐波氏は笑った。
「私もだ」
少しの間、沈黙が流れた。
僕は辺りを見渡した。どこを見ても本、本、本。
「あっ」と僕は声を上げた。佐波氏が微笑む声が聞こえた。
「ハヤカワ版『クロイドン発12時30分』、だね。君が見ているのは」
「絶版のはずじゃ……」
「私は持っている」
君の作品もあるよ。と佐波氏が後ろの本棚を示した。僕は佐波氏に近寄って背後の棚を見た。
『幸田一路は認めない』……。
「私は大抵持っている」
氏は相変わらず手を動かしながらつぶやいた。
「持っている」
「……悩める作家、お入りください、とは」
僕が真意を訊ねると、氏はまた僕のことを上目遣いに見て、それからペンを置いた。今度は椅子に深く腰掛け、こちらをじっと見据えてくる。
「君の問題は……」
と、氏はつぶやいた。
「萎縮しているね。まず経済的な問題だ。だがこれは今までの君なら難なく解決できた。書けば金になるのだからな。しかし今の君は書けない。何故そうなったか」
氏は静かに続けた。
「ふうむ。『制約が多い』。違うかね」
制約が多い……。
思い当たる節がある気がした。僕は何かに縛られている。何か。何だ……。と、考えて思い至る。
――「狂」の字は禁止です。
そうだ。最近ポリコレ的な問題で使ってはいけない字というのが増えた。あれもダメ、これもダメ、どっちに行っても壁にぶつかる。何をやっても怒られる。
「使ってはいけない字、に悩まされています」
僕は素直に答えた。
「制約が多い」
すると佐波氏は笑った。
「まるで小説家の自由が文字に依存するような言い方だな」
「それは……実際、そうでしょう」
「まさか君は『狂った人間』を表現するために『狂』の字を使っていたわけではあるまいね」
氏は立ち上がった。それから、机を迂回して、大きな一歩でこちらに近づいてくる。
「『狂った人間』の表現は他にいくらでもある。変質的、固執する、螺子が外れた、何度も繰り返す、乱れた、変わった、何でもいい。何でも。作家の翼は無限大、だろう」
氏は強く言い放った。
「何を制限に感じる必要がある」
しかし僕は反論した。
「『狂おしい』はどうでしょう」
「言い換えればいいさ。『どうしようもないほど愛しい』とかね。どうしても『狂おしい』と書きたければ漢字を開け」
「そんな、そんな子供騙しで……」
しかし氏は黙っていた。沈黙が何かを語っていた。
そう、僕にだって、分かっていた。
いかなる状況でも表現をするのが作家だ。子供騙しに陥ってもなお表現をするのが作家だ。子供騙しを子供騙しと見せない腕を発揮するのが作家だ。そう、作家次第なのだ。使えない文字を迂回して、でも迂回に見せない書き方をするのは。
と、気づけば氏が、僕の前にいた。手にはペンを持っていた。
「書いてみるといい」
「……書く?」
「書いてみるといい。君は作家だろ。書かずにどうする」
それにここは……、と、佐波氏は両手を広げた。
「書けば叶う家だ。書けばそれが現実になる家だ」
「書けば叶う……?」
僕は首を傾げた。しかし氏は、やはり微笑むと、今度は机に近づき、その上の原稿を取った。それからそれを、僕に見せてきた。
「君のことが書かれている」
「僕の?」
「ああ。君の」
そうして僕は、氏の差し出した原稿を読んだ。
〈神奈川県S市万福町に住む推理作家がいた。その作家は今、どうしようもないほどスランプで、書こうにも書けない状況にいた――〉
驚き、さらに先を読み進める。
〈作家は財産を失っていた。原稿を書かなければ破産してしまう。しかし例のスランプで、どれだけ書いても原稿は編集部の門を通らなかった。作家は途方に暮れた――〉
僕だ。僕のことだ。
〈二進も三進もいかなくなった作家は、現実から逃れるために散歩に出た。猛暑の中、水もなく、日傘も帽子もなく、ただひたすら、歩いた。やがて涼を求めて森の傍に来た。しばらく辺りを歩いていた作家はふと、森の一部が開けていることに気づいた。作家の目の前には、下り坂があった――〉
目が離せなくなってきていた。
〈坂道を下るとそこにはお屋敷があった。お屋敷の門は立派で、その向こうに看板があった。『悩める作家、お入りください』。作家はおそるおそる中に入った――〉
「そうして……」
佐波氏の声が腹に響いた。
「君は今、ここにいる」
小説の続きにはこうあった。
〈推理作家は果たしてある男と出会った。その男は作家だった。男は告げた――〉
「……この先は?」
そこから先は書かれていなかった。僕は訊ねた。
「この先は何がある?」
「君が書くんだ」
佐波氏は強い目線をこちらに送ってきた。
「そう、君が書くのさ」
「僕が?」
僕は原稿を持つ手を下ろした。
「無理だ」
「どうして無理なんだ」
「最近書けない。いや、書けても陳腐な表現しか……」
「陳腐かどうかは読者が決める」
「納得できないんだ」
「全てに納得できる創作なんてない」
「第一この部屋にはパソコンがない」
「このペンで書けばいい」
「僕には書けない」
「書けるさ」
氏は頑なだった。ペンをこちらに勧めたままだった。
やがて根負けした僕は、ペンを受け取ると、「この机、使っても?」と氏が座っていた椅子に座った。それから、原稿を前に、唸った。
何を書けばいい。
何を。何を。
「書いたことが現実になる」
氏の声がした。それは救いの声だった。
「いいかい。書いたことが現実になるんだ。例えば呪われた仮面の話を書けばその仮面がこの部屋に現れる。密室殺人を書けばその密室への扉がこの部屋の壁に現れるだろう。近未来の話を書けばこの部屋の文明だけ一世紀以上飛ぶ。そういう部屋なんだ……いや、そういう屋敷なんだ、ここは」
「書けば、現実になる」
僕はつぶやいた。氏が被せてきた。
「日本語に何文字あるか知っているかね。君はパソコンで書くと言ったな。君が使える文字は、パソコンで変換できる漢字と、誰でも使える平仮名片仮名だ。これらの総文字数は70,234文字だ。いいかい、70,234文字だ。どうした、一字使えないくらい。これより昔は『気ちがい』『気違い』『きちがい』なんてパターンの単語が使用禁止になった。それに比べれば、たったの一文字。何ということはない。書けばいいじゃないか。一字の迂回ぐらい大したことない。馬鹿馬鹿しい」
「言葉狩りとも取れるんですよ」
「やれるもんなら狩り尽くしてみろ。人がコミュニケーションを取る以上、文字は消えない。言葉は消えない。この世から一文字も、一単語も、一熟語も、一センテンスも、どんなまとまりでも言葉がなくなればそれは確かに作家にとっては死活問題だろう。だがそんなことは、まだ当分起こりそうもない。それに起こったとしても他に手立てはある。だから安心していい」
さぁ、書いてみろ。
そう言われた僕は、ペンを握って原稿用紙に向き合った。それからペンの先を、おそるおそる、本当におそるおそる、紙につけた……。
*
「先生、スランプ抜けられてよかったですね」
与謝野くんが笑う。僕はコーヒーを啜った。
「『狂』の字もなくて完璧です。……ちょっと表現が重厚になったような? いやでも、この辺りの文章なんかは軽妙洒脱というか、かっこよささえあるし……」
「書いてみたんだよ」
僕はシンプルに解決策を述べた。それは佐波氏の邸宅であった出来事だった。
「書いてみたんだ」
僕は思い出していた。僕は氏の原稿の続きにこう書いたのだ。
〈もう、何も、おそれるものはない〉
そう、書いた。
スランプを抜けたい、とも、金が欲しい、とも書かなかった。ただ心の枷を解き放った。それだけだった。
「それが君らしい」
佐波氏は笑った。
「それこそが君だ」
僕は頷いた。
「僕は作家だ」
それは決意表明にも似ていた。
「この先は、僕が書く」
作家は言葉を綴る仕事だ。
だがその言葉がなくなれば? 僕は、作家は、何をすればいいのだろう……。
簡単なことだ。
その先を書けばいい。
了
使えない文字 飯田太朗 @taroIda
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