エピローグ 【 白石 】

1

 近所の庭に植えられた桜の木が風に吹かれて花びらを散らす。アスファルトをまるで桜貝のような花びらが転がっていく。黒いパンプスの表面を桜が一、二枚撫ぜていく。


『リバーサイド■■南』のアプローチに花びらが吹きだまり、桜の敷物のようだ。


 また春が来た。


 白石は後ろに立つ女性に、「どうです?」と問いかける。


「桜がきれいですね」

「ご近所の桜ですけど、毎年この時期になると花びらが舞って風情がありますよ」


 白石が案内している女性は、今日から三〇三号室に入居する、オリエント株式会社の新入社員だ。


 アプローチから中に入り、白石はマスターキーで自動ドアを開けた。


 エントランスで一旦足を止めて、「ここがエントランスです。椅子が置いてあるのでちょっと話をするのに便利ですよ」と説明した。


 エレベーターの登るボタンを押す。すぐに扉が開いて、二人は乗り込んだ。


 何事もなく、三階にエレベーターが到着する。エレベーターを降りて真正面、廊下の一番奥に三〇三号室がある。


「こちらからも景色が見えるんですね」


 女性が言うと、白石はコンクリート造りの手すりから見下ろし、指さす。


「今年、下の家が取り壊されてビルが建つらしいので、この景色、見納めかもしれないです」

「え、そうなんですか」

「太陽光が入ってきて明るいんですけどねぇ」

「お隣は住人の方はいらっしゃるんですか?」

「二〇三号室、三〇二号室、上の四〇三号室は空室になってますから、多少音を立てても気にしなくて良いですね。ただちょっと響くので、夜は気をつけられてください」

「上も社宅なんですか?」

「いえ、四階から六階までは普通の賃貸です。社宅は二階と三階ですね」


 女性が廊下をキョロキョロと見回している。


「一人暮らしは初めてですか?」


 その様子が初々しくて、白石は笑顔を浮かべた。


「はい、実家はF県なんですけど、田舎だったから。やっぱり■■は賑やかですね! 休みの日にいろいろと見て回れそうだし、わたし、スイーツ好きだから食べ放題に憧れてるんです」


 とてもおしゃべりで明るい女性だ。おそらく新卒だろうから二十歳か二十二歳だろう。今年三十になる白石にはその若さが眩しい。


 曰くのあるマンションに住むことになるのは気の毒ではあるが、出来るだけのことはしようと白石は思う。


「デパートが三店舗ありますし、デパ地下のスイーツも意外に美味しいですよ」


 白石はそう言いながら、鍵を開けて鉄扉を開いた。


 吹き込む風に押し出された部屋の空気は、長く空室にしていた割りにかび臭さはなかったが、やや焦げ臭い。


 焦げ臭さに眉をしかめつつ、この臭いに纏わる記憶がよぎって、白石は中に入るのを躊躇った。後ろに立つ女性を振り向く。


「さ、中に入られてください」


 女性を先頭に、白石も中に入りドアを閉めた。


 短い廊下の先にキッチンが見える。ほとんど使われていない上にクリーニングをしているので新品同様だ。


 前の住人が置いていった、もしくは処分できなかった家具がそのまま残っている。


 部屋の真ん中にあるテーブルの下に、焦げた臭いの発生源があった。真っ黒い穴から微かに炎が見える。


「あの、ここじゃなくてもいくらでもご紹介するので、出たい場合はすぐ相談してください」


 そんな言葉が咄嗟に口を突いて出た。


「ここがいいです。ロフト広いですね! ■■がすごく近いし、正直社宅でこんな場所無理だろうって思ってました」

「何か気になることがあったら電話してくださいね」

 と何度も伝えたが、部屋を夢中で見回す女性の耳には届いてないようだ。


 仕方なく白石は注意事項などの書類を鞄から取り出して、彼女に渡した。注意事項だけは読んで聞かせる。


『二十時以降のエレベーターの使用はお控えください。ゴミ集積所での喫煙はご遠慮ください。夜間の騒音は住人のみなさんのご迷惑になりますのでお控えください。女性限定マンションですので男性の入室はお控えください』


 女性が注意事項を聞きながら頷いた。


「分かりました。でも、なんでエレベーターに二十時以降は乗ったらダメなんですか?」


 まっとうな質問に、白石は真面目に答える。


「二十時以降はエレベーターに不審者が出るからです」

「そうなんですか?」


 ありえないことしか言えないのは辛いが、本当のことを言ってもやはり辛い。


 女性は腑に落ちない表情を浮かべていたが、部屋を出る頃にはそんなおかしな事など忘れてしまったように楽しそうに笑顔を浮かべていた。


 白石がドアを閉める為に女性に背を向けた。先に出た女性が快活に、「こんにちは」とだれかに挨拶する声が聞こえた。


 三○一号室の住人に挨拶したのかと思い、白石は振り返って女性の見ている先に目をやった。


 バタンと言う音と共に、三〇二号室のドアが閉まった。


「え?」


 白石は目をしばたかせて、三〇二号室のドアを凝視した。慌ててドアノブを見ると、ドアノブにはガス開栓の案内がかかっている。ありえない。三○二号室は去年の夏、空室になった。いまだに美海子は見つかっていないのに。


 まさか、そんな……、と複雑な心持ちになる。


「三〇二号室はまだ入居されていませんよ」


 精一杯冷静を保った。


 チェーンがかかったドアの隙間から覗いていたのは、確かに美海子だった。暗く生気のない目が、白石を見つめていた。


 白石の言葉に女性が戸惑っている。慌てて白石はごまかす。


「あ、いえいえ。業者がクリーニングに入っているのかもしれないですね。驚かせてすみません」


 その答えが腑に落ちたのか、女性がほっとしているのが分かった。


 もう一度、三〇二号室のドアを白石は見た。


 亜都里が言っていた四〇三号室の女性のように、美海子もまだ部屋で暮らしているのだろうか……。


 白石は胸の内にじんわりとにじむ不安を覚えながら、女性に言う。


「それで入居は明日からでいいですか?」


 鍵を渡された女性はにこやかにほほえみながら答える。


「はい、明日引っ越します」


 不吉な未来が脳裏を巡る。しかし、そんな嫌な予感を振り払うように、白石は女性に告げた。これが白石に出来る精一杯のことだから。




「もし、気になることがあったら、必ずわたしの携帯にご連絡ください」




 まるであざ笑うかのように、生温かな春風が、廊下に漂う焦げた臭いを白石の顔に吹き付けた。








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侵蝕 〜とあるマンションの怪異〜 藍上央理 @aiueourioxo

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