第5話 本の内容について

 本の概要は、前述のように、

「起承転結」

 のような形になっていると記したが、実際にどういうものかということを、ここから記していくことにしよう。

 ただ、本の構成として、

「起承転結」

 という表現をしたが、それはあくまでも、

「小説のような物語のように表すれば」

 というだけのことで、本当に、

「起承転結」

 として成り立っているわけではない。

 小説でも、起承転結形式の書き方をしていても、完全に起承転結になっているとはいいがたいものもだるだろう。つまり、起承転結は小説の必須ではないということだ。

 起承転結の形をプロットとして作成しても、書いていくうちに形式が変わってきて、例えば、四つのうちの二つが一緒になってしまったりすることもあるだろう。

 例えば、転と結が一緒になり、

「起承結」

 であるかのように見えるものもあるかも知れない。

 それはそれで小説としては成立していると思う。例えば、ホームドラマのような小説で、別に何か事件のようなものが起こらずに最後まで平穏な話のものがあったとしても、それはそれでおかしくないと思うのは、あすみだけだろうか?

 ただ、今まで読んできた小説は、そのほとんどに、

「起承転結」

 が存在していたと思う。

 だが、それはあくまでも、小説というものが、

「起承転結」

 の名のもとに成立しているという、固定概念に囚われているからではないかという気持ちになっているからで、後から考えてみると、本当に起承転結ばかりの小説だけだったのかと聞かれると、疑問に思うものもなくはなかった。

 具体的にどれが、どうだったのかというのは、あすみの中の妄想の世界であり、そんな妄想をするのが嫌いではなかったあすみにとって、そんな時間は基調にも感じられた。

 あすみは、読書をする時、作者のように

「焦りから、小説を読むたびに、何か気が散ってしまい、集中できないことから、斜め読みになってしまう」

 ということはなかった。

 もっとも、そんな斜め読みをする人がそんなにたくさんいるとは思えないのだが、それはあくまでも作者の個人の見解であり、

「ひょっとすると、読書が嫌いだと思っている人の中には、作者と同じように、集中できずに、斜め読みになることで、まともな読書ができない」

 という人もいるのかも知れない。

 作者の場合は。

「小説を書けるようになりたい」

 という意識があったから、斜め読みになっても、それを克服したいという意識を持ったのだが、それ以外の人は、

「別に読書ができなくたって、死ぬようなことはない」

 と極端ではあるが、これと似たような考えを持っている人も少なくないのではないかと思うのであった。

 この本を書いた心理学の先生というのも、実は女性で、そのあたりも、あすみの興味を引いたのだ。

「もし、この本を書いたのが、男性だったら、タイトルに興味をひかれたとはいえ、読んでみようと思っただろうか?」

 と感じた。

 確かにタイトルには興味をそそられたが、何となく心理学という言葉に、違和感があったあすみは、すぐには本を読もうとは思わなかっただろう。

 そもそも、心理学という言葉に違和感を持ったのは、あすみが大学生の頃で、一般教養の中にあった心理学の講義を取っていた時のことだった。

 大学の、しかも一般教養の講義なのだから、概ね、総論的なことが多いだろう、

 実際の心理学の専門分野の講義になると、各論的なことが多くなり、もっともっと、難しい話に入ってくるのではないかと思った。

 あすみは、この一般教養の心理学の講義で、一人友達になった人がいたが、その人は男性であり、どちらかというと、控えめなところのあったあすみに対し、ぐいぐいくるタイプの男性で、普通なら、

「鬱陶しい」

 と思うか、

「面倒臭い」

 と思うかのどちらかだったのだろうが、それはきっと、ナンパ目的に見えるからではないかと自分で思っていた。

 大学生の男子学生としては、その方が健全なのだろうというのは頭では分かっていたのだが、実際には、あまり近づきたくない人種であり、

「存在は認めるが、関わりたくない」

 という感覚であった。

 あすみは、自分がかかわりたくないと思っている人たちが結構いる。しかし、それらの人たちを否定してしまうと、その団体社会そのものが成り立たなくなってしまうということが分かっているので、そのすべてを否定するということはできないと考えていた。

「それらの中のどれを否定して、どれを肯定すればいいのか?」

 などということを考えていると、結論は出てこないように思うので、

「基本的には、そのすべてを認めて、その中で、あくまでも自分の中に受け入れるか受け入れられないかを判断するしかない」

 と思っていたのだった。

 その男子大学生は、最初こそ、

「受け入れてもいいかも知れない人なのかも知れないわ」

 と思い、普通に接してきた。

 学部が違っているので、それほど大学で出会うことはないはずだったのだが、思ったよりも、一般教養の授業がかぶっているようで、そのことをその男子大学生がいたく感動して、

「これはまるで運命のようではないか?」

 と言って喜んでいた。

 偶然には違いないとは思ったが、何を根拠に、運命だというのか、ちょっと、その発想が怖い気がした。

 それよりも、その発想を疑問には感じず、あすなにも、同じ気持ちを押し付けてくるようで、それが恐ろしかったのだ。

 あすなにとっては、

「ただの同級生」

 というだけで、別に友達でも何でもないと思っていたのに、彼の中では勝手に友達にカウントされていたのだ。

 だが、自分の友達の中にも、学校でただ挨拶をするだけの相手も友達の一人にカウントする人もいた。実際に同じ学部で、同じクラスで、必要以上なことを話したことはなく、会話というものが成立したことのない人でも、

「相手が自分を友達として認識しているのであれば」

 という発想から、あすなもその人のことを友達だと思うようにしていた。

 何が違うのかというと、

「学部が違うから」

 というのがほとんどではないだろうか。

 同じ学部の相手も男子生徒だし、

「男子だから」

 というのは理由にならない。

 そうなると、学部が違うという理由で考えると、実際上、自分との距離を勝手に考えるからであろうか。

 それほど親しいわけでもなく、学部も違うということで、同じ学部であれば、学年が進むにつれて、かかわりが深まってくることも考えられるが、学部が違っていて、どこまでかかわりがあるかというと、平行線よりも近づいてくることがないように思えたからだ。

 彼氏になりそうな人であれば、その感覚は違ってくるのだろうが、今のところ、そのような気配は感じられない。少なくとも、イメージとして、彼氏として認められる雰囲気ではないので、もし、相手が必要以上に、こちらを彼女として見てくるようになれば、その時から、気持ち悪く感じてしまい、きっとその時点で、二人の関係は冷めてしまって、継続は無理だと考えたのだ。

 だが、幸か不幸か、自分から彼氏になりたいというような接近をしてくるようなことはなかった。

 彼はそれでも、積極的に近づいてくるところがあったのは、きっと、

「友達だという認識が強いからだ」

 と思っていたが、それだけではないようだった。

 どちらかというと、彼は友達が実際には少なかった、きっとあすみに対してのような接し方をまわりの人にしていることで、

「面倒臭い」

 と思われていて、自分がまわりに感じている友達意識ほど、まわりは彼のことを冷めた目でしか見ていないということではないかと思うのだった。

 あすみは、それを感じていたので、むげに突き放すようなことはできないと思うのだった。

 たぶん、他の人のように突き放しても別に問題はなかったのだろうが、彼を見ていると、ただ単に、

「寂しさから、話し相手がほしい」

 と思っているだけのように感じた。

 最初は、自分から話しかけるのも、かなり強引なところがあると感じていたが、それは彼の中にある本当の寂しさのようなものを感じてあげられなかったからではないかと思うのだった。

 この時に感じる相手の気持ちの中の本質に、

「寂しさというものが含まれているかどうか?」

 ということが重要ではないかと思ったのだ。

 この寂しさを分かるか分からないかで、相手を見る目が変わってくる。

 つまり、自分を心理的に相手が動かすには、相手の本質を見る必要があるのではないだろうかということをこの時に学んだというのを感じたのだ。

 もし、その意識を他の時に感じていたとすれば、自分が彼から、この感覚の影響を受けたということを、時間が経つにつれて忘れていったに違いない。

 しかし、それを忘れずに覚えていたというのは、

「二人が知り合うきっかけになったのが、心理学の講義だった」

 というのが大きかったのではないだろうか。

 それまでは、心理学というと、

「一般教養として、取らなければいけない単位の一つでしかない」

 と思っていた。

 彼から毎回のように挨拶をしてもらい、友達と意識されるようになるまでは、本当に心理学の授業をそれだけのものだと思っていたが、彼を意識し始め、面倒くさいかも知れないと思いながらも意識していると、心理学の授業も真面目に聞くようになり、それまでの自分、そして今の自分、そして、彼と接している自分についても、考えるようになっていた。

 結構心理学の講義も結構面白いもので、さすがに言葉が難しすぎるので、専門的にやれと言われると、かなり微妙な気がしていたが、一般教養で習う程度の講義くらいは、理解できると思っていたが、それもきっと、自分が理解しやすいようにと、切り取って考えるようになったからなのかも知れない。

 そもそも難しい学問を切り取って考えられるようになるのだから、それだけ講義も真面目に聞いているという証拠であり、理解できるところだけでも、理解できるという自信にもなったのだった。

 そんな中で心理学というものに、いろいろな種類のものがあり、考え方もいろいろだと思った。細かいことは別にして。あすみは、心理学というものを。

「総論の授業ではあるが、それをさらに総論として理解できる部分だけを切り取って、うまくつなぎ合わせれば、自分独自の解釈としての、心理学ができあがるような気がしてくる」

 と思うのだった。

 そんな心理学をいかに勉強するのかということは、それ以上は考えなかった。だが、徐々に忘れていく中で、きっと肝心なことだけは頭の中にあったのだろう。

 そのことを思い出させたのが、その時から十年以上も経ってから本屋で偶然手に取ってみることになった、

「感と勘の違い」

 という本であり、タイトルから、

「これは心理学関係の本に違いない」

 とすぐに分かった気がした。

 何かがピンときたのだろう。

 その本に書かれている、起承転結で言えば、最初の章にあたる「起」の部分では、

「勘というのが、感の中に含まれる」

 という書き方をしていたのだ。

 これは、本人も最初に指摘しているように、一番分かりやすいものであり、その言葉を聞いただけで、何となく理解できる気がした。

 この場合は、感というものを、まず、どう考えるかというものであり、

「含む方を、広義という意味で考え、含まれる方を、狭義という意味で考える」

 という発想から考えるのが、無難なのではないかと思うのだった。

 感という字は、

「感じる」

 ということを意識して考えると、まずは、

「感という字を用いたものを考えてみる」

 という考え方があるだろう。

 一番考えられるのは、五感である、いわゆる、

「味覚、視覚、聴覚……」

 などというものが、まず考えられる。

 もっとも、これらは、このお話のそもそもが、ここから始まったので、思いつくものの最初がこれでなければ、そもそもおかしいというであろう。

 それ以外には、音感、触感、体感、などのような、身体に直接感じるもの、つまりは、五感に近いものと言えるものがある。

 また、好感、実感、痛感、反感、違和感などのように、気持ちが左右するもので、いわゆる、

「感情」

 と呼ばれるものも、感という文字が含まれるものである。

 また、他には、共感、情感などのように、感情に近いが、それだけではなく、

「情」

 という思いが含まれたものもある。

 さらには、「敏感」、「鈍感」、「性感」などというような、身体に直接感じるものが、自分にとってどのような影響を及ぼすものなのかということを考えらせられるような言葉もある。

 さらに、先ほどの、五感とは違った、言葉では言い表せないようなものにある第六感などのようなものだけではなく、前述の霊感などという、

「超科学的」

 とでもいうのか、科学では鶏鳴できないような、

「感」

 も存在している。

 また、これはたまたまなのか、

「勘」

 という言葉のものも存在する。

 これも、どちらかというと、第六感や霊感などのように、言葉では言い表せない種類のもので、

「超科学的なもの」

 と言えるのではないだろうか。

 ただ、それを信じていない人から言わせれば、

「非科学的なもの」

 と言われてしまい、超自然現象的なことすら、否定する考え方である。

「幽霊や妖怪などというものは迷信であり、科学で証明されないものは、この世には存在しない」

 という、一種の、

「科学至上主義」

 とでもいうべきか、それとも、

「科学万能主義」

 とでもいうべきか、それらの人を見て、単純に、

「頭が固い」

 と言ってしまっていいのだろうか?

 実に難しいところである。

 ただ、そうなると、実際には含まれないであろう、

「ヤマカン」

 というものも、広義の意味という理屈で考えると、含めてもいいような気がする。

 そもそも第六感というのが、曖昧なものなのだから、第六感の中に、このヤマカンを含めてもいいのではないかという考えも生まれてくる。

 そうなると、

「勘は、感に含まれる」

 という説にはかなりの説得力があるような気がする。

 この章では、次の起承転結の二番目に当たる、「承」の部分にまで入り込んでいるようで、まあ、当然のごとく、一番語るには必要な分量だといっても過言ではないだろう。

 含まれる方の、

「勘」の方だが、これも実に偶然なのか、それとも、名前の付けたかの方が偶然だったのか、

 山本勘助の、

「ヤマカン」

 は、カタカナで書かれることが多いが、それは、他の言葉と同じように、

「感」

 という言葉ではないからであろう。

 現在言われている、ヤマカンという言葉も、結構曖昧な意味で考えられていることが多いのか、現代の使用例としては、

「あてずっぽう」

 という表現の代名詞のような使われ方が多い。

 どちらにするか迷っているが、どちらにしても、それほど、自分に被害も影響も差がないので、

「勘」

 というものに頼って、あてずっぽうで決めるという考え方と、

 逆に、どちらを選ぶかということが、大きな影響を与えるにも関わらず、その根拠にまったくの信憑性がなかったり、どちらを選ぶかということにおいて、迷いしかない場合、その選択を、

「神に委ねる」

 という感覚での、開き直ウィからの、

「あてずっぽう」

 として、選ぶという意味での、ヤマカンというものでもある。

 これが、当時としては、祈祷師による占いなどによって決めることもあるだろう。

 特に、戦国時代の軍師というのは、占星術や占いなどに長けている人もいた。

 中には、角隈石宋という軍師がいたのだが、彼は、九州豊後の国の戦国武将である大友宗麟に仕えた武将であり、大友家の軍師的存在でもあった。

 そもそも、彼は兵法、神仏についての知識、気象学、天文学、疫学などの知識に長けており、軍師としての役割を十分にできるだけの才覚を備えていたのである。

 しかし、大友家が薩摩の島津との闘いが勃発した際、石宋の助言を無視して、無理やり戦に臨んだことで、彼は詩を決意して戦に臨み、結果、やはりというか、大友家が敗北し、彼もそこで戦士してしまったのである。

 もっとも、余談であるが、大友宗麟は、キリシタン大名としても、有名で、日向に、

「キリシタン王国」

 の建設を目指していたという。

 冷静に考えれば、この王国にはどこか矛盾があるのではないか?

 なぜなら、

「キリスト教は、そのような王国というのを認めているのか?」

 というのも違和感を感じる。

 確かにキリスト教は、差別的なものを認めていないように思えるが、実際には分からない。

 ただ、大友宗麟という武将は、きっと自分がそこの国王として君臨しようという意識があったのだろう。とにかく、どこでもいいから、自分が王になりたかったという意思を持っていたということになるのだろうか。

 そもそも、大友宗麟という人がどういう戦国武将であったのかということは現時点の作者には、不勉強であったが、角隈石宋という人物には大いに興味があるので、それを含めたところで勉強してみたいと思うのだった。

 そういう意味で、同じ軍師としての顔を持つ山本勘助の名前をいただいた、

「ヤマカン」

 という言葉も、もっと深い意味があるのではないかという興味を持って、さらに勉強してみたいものである。

 そんなことを考えていると、確かに、

「勘」

 という言葉も、少なくはあるが、広義の意味で考えると、もう少し広がりや可能性がありそうな気がするが、

「感」

 というものほど、ハッキリと広がっている考えはないといえるのではないだろうか。

 確かに、

「○○感」

 というものは、前述だけではなく、他にもありそうだが、ピンと来るものだけを瞬時に羅列しただけで、前述だけの言葉が出てきたのだ。それを思うと、本当はもっとたくさんあるのかも知れないが、考えただけでこれだけあるのだから、まだまだ隠れている言葉がたくさんあるはずだ。

 この本も、感という言葉をいくつか並べていたが、さすがにここまでたくさんの言葉を並べたわけではない。

「要するに、分類できればいいのだ」

 というだけのことである。

 その本において、最初の章としての話としては、一番理解しやすいところから入った。

 そして、それが一番しっくりくる発想で、誰もが納得できるような、鉄壁に近い内容の説なのに、それをわざわざ本にするということは、それだけしっかりと書くことで、後半の話にボリュームを持たせるための伏線ではないかと思っていた。

 実際には、それは一つの考えであったが、これだけでなく、もっと深い考えがあることを誰が分かるというのだろう。

 あすみの方も、そこまで考えて最初は読んでいたわけではない。

 論文に近いような本だということで、かしこまった気持ちになって、精神的に固まった気持ちで読んでいたが、そこまで神経質になる必要はなさそうだ。

 そもそも、あすみの中には、理論的に考えるということができているようで、小説を読んでいるよりも、よほど集中して読める。

 他の人であれば、

「真面目に読んでいると、頭が痛くなる」

 というほどの考えになるのではないだろうか。

「物語のように、流れるような展開になっていない」

 というのが理由であるが、逆にあすみの方では、

「難しい本なだけに、分かってもらおうとして、段階を踏んで書いているだろうし、なるべく時系列も、順序通りにして、難解にしないようにしなければいけないと思っているのではないかと感じていた。

 今まで大学の講義でのテキストを読んできたが、そんなに簡単に読めるものではないだろう。

 これが簡単に読めるくらいであれば、

「自分だって、学者になれる」

 とまで思うかも知れない。

 あくまでも、飛躍した考えであるということは分かっているが、それにしても、ここまでの飛躍は、他の人にはできないだろう。

 もしできていたとすれば、

「自分だって、学者になれるかも知れない」

 と思うと、

「もう少し勉強を頑張ろう」

 という、ことを思う人も出てくるだろう。

 しかし、これは実に安直な考えであり、子供のような単純さだといってもいいのではないだろうか。

 だが、ことを考えながら本が読めるのも、最初の段階だけのことであり、途中から話が変わっていくうちに、次第に、

「自分が何を考えているのかということさえ分からなくなってきた」

 というところくらいまでに、考えが至ってしまっているのである。

「最初の方のページで、理論的な説明ができているから、専門家の人であれば、後半の難しい話も理解できるのかも知れないな」

 とあすみは思った。

 しかし、考えてみれば、これは別に専門書というわけではなく、どちらかというと心理学にとっての、

「入門書」

 という感じの本であり、

「今週のベストセラー」

 というコーナーに置かれているのだから、まさにその通りなのだろう。

「何も学者でなくとも、興味があれば面白い」

 というような帯がついている。

 この言葉に興味を持って本を買う人も少なくはないだろう、

 少なくとも、タイトルだけで本を買ったあすみよりも多いのではないだろうか。

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