第3話 曖昧な第六感
小説を書けるようになった分岐点、そして、長編を書けるようになった分岐点、それぞれにあったが、短編が書けるようになってから、十数年、そして、中長編を書き始めてからの、約八年くらいの、執筆人生もそろそろ二十年を突破してきた。これは実際に作品として、パソコンという形で残すようになってからであって、それまで、本当にノートに書きなぐった時期のものは入っているわけではない。
もっとも、手書きだったので、おのずとその日に書ける内容には限界がある、たぶん、原稿用紙でいえば、一日の執筆量は、五枚くらいが限界だっただろう。
実際にそれくらいしか書けていなかったし、それくらいの量では、たかが知れている。その頃は恥ずかしくて、
「趣味で小説を書いている」
などと言えない時期だった。実に細々とやっていた時期で、ある意味、一番楽しかった時期かも知れない。
「有名作家になったら、どうしよう?」
などという、今では考えられないような妄想もしていた時期だったからだ。
今ではさすがにこの年齢にもなり、
「プロになりたい」
などという思いも、とっくの昔になくなってしまった。
「プロになれば、主導権は出版社に移り、好きなものを好き勝手には書けない」
という思いがあるのと、
「プレッシャーを感じながら書きたくもない」
という思いがあるからだ。
今こうやって、
「質よりも量だ」
と言っていられるのも、アマチュア作家として、二十年以上君臨し、自分だけでひそかに咲いていたという意識があるからだ。
プレッシャーのないことが、量を重ねるということに、これほどの貢献があるとは本当に思っていなかったといってもいいだろう。
令和三年十一月時点で、今年の中編作品は、すでにこの作品が五十六作品目である。中編を書き始めてから、最高でも年間が十九作品だったものが、昨年の後半から、今までの執筆時間を、一時間から二時間というのがほとんどで、一週間に一日くらいは、ほとんど書かない日があったにも関わらず、昨年の後半からは、それを、平均で約一日の中の四時間を使うようになった。
しかも、ほぼ毎日のことである。
そういう意味では、十一月の時点で、五十五作品完成は自分でもすごいことだと思う。普通の文庫本にすると、二十八冊になるという計算だからである。
少し、自慢のようになってしまったが、今まで自分のことを作者が作品に書くということはなかっただけに、新しい試みとして、それなりに面白いと思い書いていると、自慢のようになるというのも、無理もないのではないかと思うようになった。
実際に。ちょうどこれくらいが、今までの短編一作品くらいになるだろうか。それを思うと、何か感慨深いところもあるような気がするが、たまにはいいかも知れないと思っている。
さて、いよいよ本題に入っていこうと思うのだが、ここまでの話を忘れていただいても一向にかまわないと思うが、ひょっとすると、どこかに伏線のようなものがあるかも知れないとも思うが、まだそこまで作者は考えが詳細になっているわけではないので、何とも言えない。その評価をするのは、最後まで読み終わった、
「読者の皆様」
ということになる。
この前置きというのは、長すぎる感のあるものであったが、作者としては、面白く描かせてもらったことに感謝の意を表しながら、本編に移らせていただくことにしようと考えるのだった……。
世の中には、第六感というものがある――。
と、最初に書かせていただいたが、この第六感というのは、この言葉を聞いた時、
「普通の人が感じることのできないような、不思議な感覚」
ということが頭に浮かんでくる人が多いのではないだろうか。
第六感という言葉イコール、不思議な感覚という意味であり、第六感という言葉がどうして使われているのかということを、最初に違和感として思う人は、たぶんいないのではないだろうか。
そもそも、第六感というのは、確かに不思議な力ではあるが、言われているような、霊感のようなものでも、ヤマカンでもない。
そうなのかも知れないが、それだけに絞ってしまうと、せっかく、第六感と言ってしまうのでは、範囲が狭すぎるだろう。
そうでなければ、霊感でも、ヤマカンでも、それ以外に限定できることでも、そういえばいいのであって、
「似てはいるが、実際には違っている」
と言えるのではないだろうか。
人間に備わっている、視覚、聴覚、触覚などという五つの感覚とは異なるものとしての存在は、
「異次元」
という言葉と意味合いが似ているのかも知れない。
次元というのは、まず自分たちが存在している三次元という世界がある。そして、一次元、二次元という世界はどういうものなのかというのは、イメージ的には確立しているではないか。
一次元というものは、点と線でできた世界であり、二次元というのは、縦、横が確立した平面というもので成立している。そして、我々のいる三次元には、そこに高さという概念が存在することで、立体というものが確立してきて、それがそれぞれ同じ世界でも、次元が違うということで、概念としての、一次元、二次元が存在するのだった。
だが、四次元の世界というのは、一体どういうものなのだろうか?
一般的に、
「立体に、もう一つ、時間軸というものが存在すると考えられ、それを四次元と呼ぶ」
ということのようだが、概念としては理解できないわけでもないが、あまりにも漠然としている。
SFや特撮などで、四次元の世界というものを創造する映像はあるにはあるが、それを文章や、絵に表現するのは難しいだろう。
何しろ、時間という概念を、形に表すということは難しいことであり、確かに時間というのは、時系列として、
「流れている」
というものである。
時間というものは、前にただ進むだけの、誰にも動かすことのできないもので、そういう意味では、立体においての高さなどと同じように、最初から概念として授かったものであり、それだけに、創造するというのは、個人的な感覚としてはできても、それを大衆に証明するというのは、かなりの至難の業だといえるのではないだろうか。
特撮などにおける異次元、いわゆる四次元の世界というのは、実際に、同じ空間には存在しているものだという。
登場人物が何かのきっかけで、異次元世界への入り口を見つけてしまったことで、異次元の存在を予感したとしよう。しかも見つけるのは、少年少女のような、いたいけな子供たちであり、頭が凝り固まった大人では、考えられないことだろう。
例えば、空間で、微動だにしない鳥を見つけたとしよう。大人だったら、どう考えてしまうだろうか? 夢でも見ているのか、それとも、自分の気が狂ってしまったのかということを、まず疑うことだろう。
しかし、子供であれば、
「おかしなことになっている」
と、まず大人に相談するだろう。
大人だったら、的確な答えを教えてくれると思うからだが、子供はその現象を決して、自分が悪いから、そのようなものが見えているとは思わないだろう。
目の前のものを否定するのではなく、現象を認めたうえで、何とか納得しようと考えるのだ。
そこが大人と子供の違いで、実はこの違いが大きかったりする。
つまりは、その違いによって、
「大人には決して見ることのできない世界を、子供であれば見ることができるのかも知れない」
ということで、それらの世界を作り出した宇宙人が、子供を使って、子供には信じ込ませ、大人には逆に信じないように誘導する。
つまりは、
「オオカミ少年」
という童話のような感覚になるのではないだろうか。
そんな異次元の世界という発想は、SFや特撮に結構多いのだが、さらにそこにタイムマシンの発想が絡んでくると、その存在を否定する考えも生まれてくる。
それがいわゆる、
「タイムパラドックス」
というものであり、特にタイムマシンを使って、過去に行く時などにありえることだ。
そんな
「否定したくなるもの」
というものが存在する時点で、
「第六感というのも、そういう種類のものではないか?」
と考える人もいるようで、
「霊感や、ヤマカンとどう違うというのか?」
という疑問を元に考える人は、そもそもの霊感、さらにヤマカンについて考えるようになった。
第六感を、何かの超能力的な発想のものとして考えるのであれば、霊感という考えが一番最初に浮かんでくるものであろう。
霊感というと、
「霊が乗り移ったかのような、まるで潮来か何かの存在が考えられる」
という風に感じる人も多いだろうが、実際には少し違ったもののようだ。
霊という言葉が絡んでいるので、霊媒師などが関係しているように思われるが、どちらかというと、霊能者の方が近いのかも知れない。
修行僧と呼ばれる人たちが、断食や、不眠(お籠り)、あるいは、滝行などにおいて、疲労することによる生理的な条件、あるいは、山中、神殿、深夜の時間帯と言った慣用的条件を整えることによって、余計な意識が遠のいていき、理知的感覚がなくなってくることで得られる感覚を、霊感と呼ぶものとなるのだろう。
だから、実際に霊が乗り移ったわけではなく、もし、乗り移ったとしいぇも、それは、外的な要因ではなく、自らが求めることで感じ取るものなので、そういう意味で、
「超能力に近い」
と言っていいだろう。
超能力というのは、人間の脳は、実際の一部分しか使われておらず、実際に使っていない部分を使う能力を備えている人のことを、超能力者と呼ぶのだという。
つまり、超能力者も、別に他の人にはないものを持っているわけではなく、誰もが持っていて発揮堰内能力を発揮できるという意味で、
「他人よりも長けた能力を持っている」
と言えるのだろうが、この感覚も、霊感というものを、
「霊が乗り移ったという感覚と、自分が修行によって得られたものだ」
と考えるという意味で違っているといえるのではないだろうか。
第六感という言葉が曖昧なのは、そういう意味で、自分の内側に存在はしているが、それを引き出そうと自分が感じる感じないは別にして。他力であろうが、自力であろうが、出すことのできる、
「まるで超能力のようなものだ」
と言えるのではないだろうか。
さらに、ヤマカンという言葉があるが、これは、実際の感覚という意味ではない。
昔、戦国時代に、武田信玄という武将がいたが。彼の軍師として有名な、山本勘助という男がいた。
通説としては、
「実在したかどうか、怪しい」
と言われる人であるが、彼には霊感めいたものがあり、まわりに説明できる根拠のようなものを持ちあわせているわけではないが、実際に、彼の言うとおりに行動すれば、それが正解だったという意味で、ダジャレも含めて二なるのだろうが、
「ヤマカン」
と言われるようになったという。
彼の功績として、一番有名なものは、
「キツツキ戦術」
というものであろう。
これは、第四次川中島の合戦において、山本勘助が提案した作戦で、部隊を二つに分け、山に陣を張っている上杉軍を、夜の闇に紛れて夜襲を掛け、後ろから攻められる形で混乱させ、平地に追いやったところで、正面に、別動隊の武田軍が控えているので、そこで挟み撃ちにするというものだった。
しかし、上杉軍は、武田軍の陣地から上がる煙を見て、怪しいと感じ。攻められる前に山を下りたのだ。そのせいで、武田軍は半分の手勢で、混乱していない十分な敵兵に立ち向かわなければいけなくなったというお話である。
これは別に勘助が悪いわけではなく、相手が優れていたというだけで、別に勘助のすごさを妨げるものではない。ただ、この作戦の責任を取って、戦では先陣を切ったことで、勘助は討ち死にをしてしまうことになるが、彼の功績は歴史上語り継がれ、名軍師として、その名をとどろかせているのだった。
第六感というものが、そんな霊感やヤマカンとは違うが、近いものだということを考えさせられたのが、
「年齢の高い人なら分かるかも?」
というテレビ番組だった。
どれだけ高い年齢かとうと、ほぼ作者と近いくらいの年齢で、
「まもなく、還暦」
という人が多いのではないだろうか。(ちなみに作者の執筆時、令和三年十一月時点では、まだ還暦を迎えていないかも知れないが、これが実際に公開されるであろう予定では、すでに還暦になっている可能性が大きい)
そのクイズ番組というのは、霊感とヤマカンと第六感というものを組み合わせたようなバラエティ番組だった。
クイズ番組というよりも、対抗戦による、バラエティ色の強いゲーム形式と言った方がいいだろう。
もうすでに、内容はほとんど覚えていない、結構長寿だったという記憶はある、自分が学生時代だったという意識からも、実際の長さよりも長寿だったという意識の方が強かったに違いない。
だから、
「第六感と聞くと、霊感、ヤマカンを思い出させる」
と感じるのだった。
若い人たちの中には、
「この作者は、なぜ第六感という言葉を、霊感とヤマカンに結び付けたのだろう? ヤマカンなんて、本当の感というものとは違うではないか」
と感じた人が多かったに違いない。
それを思うと、昭和という時代、さらにバラエティ形式の当時のゲーム感覚がどのようなものだったのかということを思い起こさせるのだった。
しかも、第六感というものは、さらに曖昧なものである。
ヤマカンのように、山本勘助とこじつけて考える話もあるが、霊感というものすら、勘違いされている節が結構あるではないか。
それを思えば、
「ハッキリとした人間の五感以外の、感と呼ばれるものは、そのほとんどが曖昧で、第六感という言葉の広義の意味に含まれるのではないか?」
とも考えられるような気がしたのだ。
五感のように、身体と密着して考えられるもの以外は、感覚というよりも、頭や脳による感覚であり、それが、普段とは違う感覚や感性を示した時、どれを第六感というのだというのであれば、
「普段の感覚では、考えることのできないような、不可思議な感覚を、すべて第六感という」
と定義してしまうと、霊感も、ヤマカンもその部類に入るだろう。
霊感というものを最初に考えた時、
「霊が及ぼすものなら、それは本人の感とは関係のないものなので、感覚とはいえないのではないか?」
というものであった。
例えば、酒に酔ったり、薬物の影響によって、幻覚を見たり、幻聴を聞いたりするものは、本人の感と言えるのだろうか?
確かに、自分の中に潜在している感覚を、
「覚醒させる」
という意味での、アルコールや薬物関係が、一種の媒体となっているだけだとすれば、幻覚や幻聴も、自分が見ることができるものだといえるのかも知れない。
あくまでも、最後の一押し、つまり覚醒があるかないかというだけで、感情の中に潜んでいるものだとすれば、それも、一種の第六感ということになるので、幻覚、幻聴までもが本人の意識によるものだとすれば、第六感と言えるだろう。しかし、それは、
「意識であって、意思ではない」
むしろ意思としては、表に出したくないもので、普段から抑制しているものであるとすれば、それを呼び起こすには、必ず何かの媒体が必要だと考えると、第六感とは言えないと思えた。
ただ、
「自分の中にあるものを、本当は隠したいという思いがあるのに、それを逆に放出したいという表向きの意識とは違う意思が存在しているのかも知れない」
というものが存在しているのではないかと考える人もいて、その意識が実際に第六感の中の一つの成分を彩っているのではないかと考えていた。
なるほど、そんな考えも一つなのかも知れない。
「マイナスにマイナスを掛けると、プラスになる」
というような感覚なのか、それとも、
「ブーメランのように、隠したいという意思が表に出るのを、ひそかに隠された意識がm反発を起こし、意思とは違っているかのような雰囲気を醸し出しているのかも知れない」
と、感じているのかも知れない。
後半の方が説得力があるように感じられるが、前半も専門家がそれなりの説明をすれば、説得力があるだろう。
ただ、この思いはあくまでも、結果から考えた理屈であり、屁理屈と言ってもいいかも知れない。
ただ、人間が感じるもので、五感以外にどんなものがあるのかと言われると、思い浮かぶのは、霊感、第六感ということになる、(この場合は、心理学的な面から考えると、ヤマカンは含めない方がいいのかも知れない)
人間の心理の中で、大きな存在となるべき基本的なものを五感と考え、それ以外のものを第六感として漠然と表現するというやり方は、結構あるものなのかも知れない。
五感というのは、人間に備わっているものとして、説明可能なもので、それぞれに、身体の一部がその感覚の核を担っているようで、分かりやすいといえるだろう。
しかし、第六感となると、身体のどの部分がかかわるのか分からないものも多く、それ以上に、霊感などのように、自分を鍛錬することで、その域に導こうとする感覚であったりするのは、どこかにプラスアルファが存在し、敢えて苦境な状況に追い込むことで引き出す能力として、前述のブーメランのような感覚と似ているのかも知れない。
いや逆に、霊感というものを考えた時に、ブーメラン減少が頭に思い浮かび、第六感としての力を引き出しても不思議はないと思ったのだ。
この場合の第六感を考えた時、その反発させるために、霊感における鍛錬に当たるものとして、
「嫉妬心」
や、
「やっかみ」
のようなものではないかと思えるのだ。
もう一つ考えられるものとして、
「羞恥心」
というのがあるのではないかと思うが、それぞれに、表に出すことを否定し、隠ぺいしようとする意識が働くものではないだろうか。
「人に知られると、信用をしてもらえなくなる」
あるいは、
「人に知られることが何よりも恥ずかしい」
という思いであるのだが、この両方に共通していることとして、
「人間であれば、誰もが隠し持っている感覚だ」
ということではないだろうか。
しかも、
「嫉妬心があるから、相手に負けないようにしようと、二度と感じたくないという思いから、自分も頑張ろうと思う」
という感覚、そして、
「羞恥心があるから、相手に二度とこのような弱い部分を見せて、相手にマウントを取らせたくない」
という思いから、自分に対しての反発心という意識で、前を見るのと同じで、それまで表に出なかった感情が飛び出そうとする、状況が生まれてくる一番の状況なのかも知れない。
それを考えると、人間が必死で隠そうという考えに至るような状況が生まれた時、第六感が働くのではないだろうか。
誰もが今までに第六感を発動したことはあるはずで、それがどんな現象なのか自分で分かっていないことから、
「自分が意識しないところで、まわりの態度が変わってしまった」
ということでしか感じることのできないような思いをしたことがあるだろう。
それこそ、第六感というものが発動された時であり、意識していないつもりで効果があることから、霊感のような意識を第六感に持ってしまうのかも知れない。
また、曖昧なものとしての感覚で、熱がある時の感覚を考えたことがあった。
そもそも、体温というのは。皆個人差があり、その人の平熱は一人一人違っているものではないだろうか。
例えば、普段から、三十六度五分を平熱が超えている人もいれば、
「三十六度を超えることは、ほとんどない」
という人もいるだろう。
それなのに、平熱と発熱の違いのラインは、三十七度と、一律に決まっている。これも何かおかしいのではないだろうか。
基本的に言われているのが、
「平熱が低い人でも高い人でも、基本的に体温が三十七度を超えると、発熱とみなす。したがって、三十七度未満は、発熱にあらず」
ということである。
そして、
「三十七度五分から三十八度までが、微熱という呼び方になり、三十八度以上となれば、高熱と言われます」
と言われている。
そういえば、発熱して、入院の必要がない場合の自宅療養の場合は、ほとんどの人が、
「とんぷく」
という形で、座薬であったり、解熱剤の経口薬をもらって帰ることだろう。
食事ができる人は、解熱剤を飲むことができるが、胃腸に負担が掛かっていたり、きつくて食事も摂れない人は、座薬を入れることで、熱を下げることになる。この場合の接種の目安としては。
「熱が三十八度以上出た時、使用してください」
と言われることだろう。
さらに、これは、令和二年から、全世界で流行した例の伝染病であるが、あの病気の通院目安として保健所から、
「三十七度五分が、四日以上続いた時」
と言って、厚生労働大臣から通達があり、それが基本であった。
ちなみに、それは、あくまでも目安であって、本来の趣旨とは違うと言われ始めた時、
当時の、某厚生労働大臣が、保健所を悪者にして、自分の保身に走ったということがあったが、普通に感がレバありえないことだった。
ただでさえ、保健所、医療従事者が悲鳴を上げているのに、瀕死の重傷の人間の首をさらに絞めつけるようなマネをして、人間として許せないと思った人も少なくはないだろう。
作者もその一人であり、
「顔も見るのも嫌だ」
と思っていたら、何と、内閣が変わったら、その男が、官房長官などになっていて、見たくもない顔を晒されて不快になったことがあったという話であった。
さて、このように、発熱というのは、いろいろ個人差があったとしても、平熱と発熱の差には、個人差は関係ないという。
となると、
「発熱の基準というものは、元が違っているのに、発熱の基準は共通だというのであれば、何が基本なのか疑いたくなる」
というものである。
そもそも、中には、平熱が三十七度を過ぎている人だっているだろう。かと思えば、三十五度台の人もたくさんいることだろう。
特に作者などは、この二年近く、例の伝染病のために、会社に毎日体温を報告しているが、その時に計った体温を平均してみると、三十五度五分から、三十六度二分くらいがもっとも多く、それ以上、それ以下だと実に稀なケースということになる。
そうなると、三十七度を超えた時点で、他の人の高熱に値するくらいではないかと思うのも無理もないことだろう。
普段は体温計を見なかったが、ちょっときついと思って体温を測って、三十八度近くになっていれば、体温を見てしまったという意識が強く、そこからさらにまだ熱が上がっていくものだと考えるようになったのだ。
しかも、三十九度を超える熱が出ると、一度横になってしまうと、頭がフラフラして、起き上がることができなくなることがほとんだだった。
特に、扁桃腺持ちの人などは、高熱が出るのが当たり前という風になっているので、高熱が出た時は気を付けておかないと、意識が飛んでしまうこともないとはいえない。高齢になればなるほど、気を付ける必要が出てくるだろう。そういう意味で、発熱というのもバカにできないものである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます