第4話 感と勘について
熱が上がってくる時というのは、身体のどこかに異変がある時と並行している時であり、例えば、喉の痛みであったり、身体の節々が痛かったり、寒気がしたりという、風邪でいうところの前兆のようなものがあるだろう。
寒気や身体のだるさなどからの喉の痛みなどから、熱を測ってみると、
「三十七度五分ある」
などということで、学校や会社を休むために、連絡を入れてから、病院に行くことになるだろう。
病院で診察を受けて、風邪だと診断されると、風邪薬や、熱がある時は解熱のための注射や点滴を打ってもらうことになる。ブドウ糖の点滴なども気持ち悪くて食事が摂れないなどの人には、摂取されるかもしれない。
熱が下がるまで、家で横になっているのが基本であるが、その時は、なるべく、身体を冷やさないようにする。
「頭を冷やす」
ということのために、アイスノンなどを使うことはあるが、基本的には身体を冷やしてはいけない。
その証拠に、夏が上がりつつあるのに、
「寒い寒い」
と言って震えているではないか。
これは一体どういうことなのだろうか?
説明としては簡単である。
「熱があるということは、身体の中に入った風邪などの菌やウイルスと、身体の中にある自浄するための抗体とが、戦うことで、身体から熱が発生するのだ」
つまりは、熱が上がりつつあるということは、身体が風邪に打ち勝とうとしていることだから、上がろうとしている熱を下げるのではなく、上がり切ってしまうまで、身体を温める必要がある。熱が上がり切るまでは、身体の中に籠っているので、汗が出ることはない。
しかし、熱が上がり切ってしまい、身体が風邪の菌に打ち勝つと、今度は、身体の中から風邪による悪い菌を出そうとして、一気に汗をかくのである。
身体から噴き出したような汗が出てくると、今度は、冷やすようにする、解熱剤を飲んだりすることもあるだろう、
もっとも、熱が、三十八度以上の高熱になってしまうと、解熱剤や座薬を使うのが普通である。
そこまでくると、身体があと少しで熱に打ち勝つことができるので、解熱剤を使うのだろう。
ただ、インフルエンザのような高熱が続く病気は、一度や二度の解熱剤では効かないこともあるので、大変ではあるだろう。
風邪などと引いて、発熱するというのは、身体が病気に打ち勝とうとしていることなので、熱が出ること自体が悪いことではない。
それを勘違いして、
「熱が出た時は、すぐに冷やして、熱を下げなければいけない」
と考えている人も多いだろうから、そのあたりを本当はもっと分かっていると、いいのではないかとも感じる。
曖昧なものという感覚から、
「平熱と発熱、さらに平均体温との差」
というものについて考えてみたが、熱が出た時の対応というのも、結構勘違いをしている人も多いということを考えると、
「曖昧なことに対しては、結構間違った考え方を持っているものもあるのではないだろうか?」
と考えることも多かったりする。
特に最近では、世界的な伝染病などが流行る時期でもあるので、病気や病気に対しての正しい対応などということを皆がそれぞれ考えるというのも大切なことではないだろうか?
そういえば、最近、どこかの医者が面白い研究をしているという話を聞いたことがあった。
その人は医者と言っても、半分は心理学の研究もしているようで、いくつかの本も出版している。その中に。
「感と勘の違い」
なるものがあるようで、この間、本屋に行くと、その本が置いてあったので、気になって見てみたが、思わず買ってしまったのは、何か気になるところがあったからなのだろうか?
その本を三日前に本屋で見つけた人は一人の女性で、名前を、波多野あすみという。年齢は三十歳で、普通にOLをしていた。
事務の仕事を毎日、コツコツとこなす毎日だったが、真面目な彼女にはお似合いだった。少々の残業くらいなら、苦になることもない。さらに彼女はまわりから堅物と陰口を叩かれているのだが、おだてや、頼まれごとには弱く、
「波多野さん、申し訳ないんだけど、今度の休日出勤変わってくれる?」
などと同僚や後輩の女の子から言われると、嫌とは言えないタイプであった。
「ええ、いいわよ」
と、理由も聞かずに承諾してくれる。
普通は、皮肉を言われたり、理由を聞かれるのが当たり前で、皆覚悟と言い訳を考えたうえでお願いしてくるのだが、あすみは皆のお願いをただ受け入れてくれる。
ただし、あすみに対して、
「優越感を与えないとダメだ」
ということは分かっているようで、お願いに来る時の皆は、一律に腰を低くしてくるのである。
そうなると、あすみは、
「喜んで」
と口には出さないが、それくらいの気持ちを含めて笑顔でうなずくのだ。
皆は、心の中で、
「ああ、よかった。こんな人が事務所に一人くらいはいないとね」
と、ほくそ笑んでいることだろう。
「ありがとう。今度何か奢るね」
と口ではいうが、誰も後で奢ってくれないことくらい、あすみには分かっていた。
自分が利用されていることくらいは、ずっと前から分かっていた。分かってはいるが、
「私の取り柄はこれくらいだからな」
という思いと、
「ここで断って、変に嫌われるのも、本意ではない」
という思いがあるのも事実だった。
ただ、まわりから嫌われても構わないという思いは持っていた。
学生時代から、結構まわりから離れたところにいて、誰かとつるんだことはなかった。「一度くらいは集団とつるんでもよかったのに」
と思ったこともあったが、それはあくまでも、中学生くらいの子供の考えとして思ったことだったと、感じていた。
そもそも、小学生の頃から人と馴染めるような人間でなければ、思春期以降、人と絡むことができなくなるということは自覚もしていたし、実際にそうだったのだ。
だから、後悔をしているわけではない、
後悔をしても仕方がないという思いもあるが、それ以上に、
「今さら人と絡むなどということを考えてどうするんだ」
という考えであった。
そのことを今さら思うということは、頭の中を子供に戻さないとできないことだと考えていた。
頭の中を子供に戻すなどできっこない。もし、そんなことができたとしても、まわりは皆大人なのだ。子供に戻った自分が同じ状態でつるむことができるとすれば、小学生しかいない。
そんな状態を想像することなどできるわけもなく、そんなことを考えてしまった自分が恥ずかしくもあった。
だから、余計に、まわりの人と絡むようなことはしないようになり、だから、人に媚を売るようなこともない。
逆に自分を利用しようとしているのかも知れないが、自分に媚を売ってくる人たちに対して、
「あんたたちの考えなんかお見通しよ」
とばかりに、自分の中だけで上から目線になっていることを感じていた。
もちろん、まわりの人に気づかれないように、細心の注意を払わなければいけない。それでも、こんな感情を持つというのは、自分の中での密かな楽しみとして、自分の中では、申し訳なさそうに頼んでくる皆を見ていることで、優越感に浸るのだ。
まわりは、そんな彼女に優越感を味わわせようとするのだから、
「願ったり叶ったり」
と言えるのだろうか。
あすみは、それからその本を注意深く読んでいた。あすみは、本を読むのが得意ではないと自分で思っていて、その理由は、
「ついつい気が散ってしまうからだ」
と考えていた。
なぜ気が散るのかというのは自分でも分からなかった。作者のように、焦りがあるというわけではないようで、見た目はいつも落ち着いた環境で本を読んでいる。ただ、本を読んでいると、ついつい余計なことを考えるのだという。
彼女の性格が真面目過ぎるというのか、
「集中して読んでいると、その本の内容を勝手に想像してしまって、つい余計なことに考えが及んでしまう」
というのが、彼女の特徴のようだった。
作者も、想像するというのか、妄想に走ってしまう時がある、ただ、本を読んでいて妄想してしまうことはなく、妄想することを、自分では悪いとは思っていない。
だから、小説が書けない。本をまともに読むことができないという理由に、
「妄想するからだ」
という考えが入る余地がないような気がしたのだ。
小説を書く時は、集中しないと書けないが、本を読む時は、同じ集中でも違っているような気がする。
本を読む時は想像するものであって、小説を書く時は妄想するものではないかと作者は考えているが、ひょっとすると、他の人で、
「俺には小説を書けないと考えている人がいる」
とすれば、その人は、
「妄想することは、決して悪いことではない」
と考えるようにすればいいのではないかと思うのだった。
小説を書けないと思っている人は、妄想と想像の違いをまともに考えたことはなく、ただ、
「想像は、いいことであり、妄想は悪いことだ」
と、同じことであっても、言葉を変えることで、いいことと悪いことの解釈が変わるのではないかということを決して考えることはしないのだろうと思うのだった。
それは、小説であっても、小説以外の文章であっても同じなのではないかと思う。何もないところから文章を生み出すというのは、フィクションであっても、ノンフィクションであっても同じである。作者の場合は、同じだということは理屈としては分かるが、
「どうしても、ノンフィクションを小説という括りに入れることを許せない」
と考えている人も少なくはないと思うのだった。
「事実は小説よりも奇なり」
と言われるが、まさにその通り、ノンフィクションの方が、小説よりも奇妙な話だったりすることも多いだろう、
しかし、ノンフィクションはあくまでもノンフィクションであり、文章にしてしまうと、どうしても、フィクションにはかなわないと思うのだ。
だから、逆にフィクションというのは、頭の中で考えていることが妄想でなければいけないほど、奇抜でないといけないと考えるのだ。何しろ小説よりも奇妙な話をのフィクションとして書いたとしても、それは、絶対にフィクションにはかなわないと思うからだった。
そんな考えで小説を書いていると、最初、小説をどうしても最後まで書き切れなかったというのも分かった気がした。
それだけ、最後まで書き切るためには、書き始めから、ラストをおぼろげながらに思い浮かべていないとできないことだ。
そのためには、最低限プロットが必要である。そのプロットが書けないのだから、最後まで書くなどありえないだろう。どんな書き方をしても、最後はまともには終わらない。
「永遠にループしたまま書き続けることになるんじゃないか?」
と、まるで、負のスパイラルを描いているような気がするのだ。
双六で、最後はピタリの数字でないと上がれないという。あの感覚に近いものがある。つまりは、最後に行けばいくほど難しい。
帳簿をつけるのでも、最後になればなるほど難しい。最後、数字が合わなければ、最初から一個ずつ見ていかなければいけないという感覚に近いのではないだろうか。数字が大きいほど、見つけやすい。なぜなら数字が小さいと、原因はまず一つではないからだ。いくつか絡んでいることで、プラスマイナスが絡み合って、小さな数字になるのだ。それを思うと、
「最後になるほど、ゴールするのが難しい」
という考えになるに違いなかった。
あすみは、そこまで細かいことはなかったが、性格は結構真面目で、堅物なところがあった。そのくせ、おだてに弱いと来ている。利用しようと思う人であれば、これほど楽に利用できる人はいない。
あすみは、自分が真面目過ぎるということは分かっていた。だから損をしやすいということも分かっている。
しかし、実際に自分が損をしているという印象はなかったのだ。
印象があるとすれば、まわりの目だった。
あれだけ頼りにしてくる時や、おだててくる時は、穏やかな表情をしているのに、そうではない時、
「どうしてあれほど、冷めた目で見るのだろう?」
という感覚はあった。
確かに、人は、自分が何かをしてほしい時は、甘えてきたり、こちらが何とかしてあげたいと思うような表情になるという感覚はあった。だが、思っているのと、次第にまわりの視線が変わってきた。
それは、あすみが感じている違いとは違うという意味で、これも勝手な妄想なのかも知れない。
しかしこれを妄想だと思わないと、自分が勝手に妄想しているのだと思ってしまうに違いないと考えるのだ。
自分の感覚が今までと明らかにずれてきていることを自覚してから、その思いに変化があった時があったとすれば、
「それは、社会人になった時だろう」
と感じた。
学生時代は、中学、高校と、三年間、ほぼ似たような感覚だった。
一年生のあいだに周りになれて、二年生以降は、受験を目指すという毎日だったような気がする。特に真面目なあすみにとって、中学、高校の三年間ずつというのは、あっという間だったような気がする。
中学の時には思春期があったはずなのだが、その時は思春期を感じていたと思うのに、過ぎてしまうと、まるで夢だったかのように感じられる。
それどころか、
「私に思春期なんてあったのかしら?」
と感じるほどで、そもそも何が思春期なのかということが分かっていないという感覚である。
高校生になると、クラスメイトの男の子で、自分のことを好きになってくれた人がいるのを感じていた。
彼は、あすみに輪をかけて真面目なタイプであり、告白などありえないと思えるほどの青年だった。
あすみは、自分が真面目だという意識があるが、自分とりもさらに真面目な男の子がいると、今度はその子を苛めてみたくなるくらいだった。
実際に苛めるわけではなく、それとなく、こっちにも気があるかのような素振りを少しだけ見せて、相手を焦られて楽しんでいたのだ。
それは、きっとあすみのストレス解消になったのだろう。
これは、あすみの中にあるS性の表れだったのかも知れない。
相手も、実はMという思いがありながら、それを認めると、あすみがSだということを認めなければいけない。それは自分で許せなかったのだ。
「自分はどう思われてもいいから、あすみさんには、自分を卑下するような感覚を持ってほしくない」
と感じたようだ。
しかし、それは彼が傲慢であることを示していた。あすみの性格を勝手に思い描いて、自分の掌で躍らせるようなことになってしまうことを、自分の罪悪だと思っていたに違いない。
彼もあすみも、それぞれ、SやMの感覚を持っていながら、あと一歩を踏み出すことができない。
もし、どちらかに踏み出すことができていれば、二人は付き合っていたかも知れない。
その付き合いがどのような関係になるかを想像するのは困難だが、もし、SMの関係になっていたら、二人は結構相性が合っていたかも知れない。それを二人ともが感じていることが、その証拠ではないかと、思うのだ。
二人が付き合うことはなあったが、どこかで再会すれば、
「やけぼっくいに火が付く」
ということになるのではないかと、お互いに思っていた。
あすみは、そんなことを考えていると、今度は本の内容を思い出していた。
タイトルである。
「感と勘の違い」
というところが目についたので、本を買ったのだが、期待にそぐわない内容で、正統派の本という感じだった。
そこに書かれていたのは、第六感についての話が多く、一般的に言われている第六感と、著者の考えている第六感とが、そもそも違っているというところから始まったのだ。
その作家は女性であり、そもそも、あすみがこの本を手に取ったのは、タイトルと一緒に、作者が女性だというところにも興味を持ったからだった。
あすみも、子供の頃から、結構難しい話を考えるのが好きだったので、女性が考えた心理学的な話ということで、目が離せなかったのだろう。
確かに今は、女性の心理学者も珍しくもなく、男性との違いがどこにあるのかと思っていたが、実際に手に取って本を読んだり、講演会などに出席する気にもなれなかった。
正直、面倒くさいというのが本音であり、それをまわりに気づかれないようにしているのは、やはり、真面目だと思われたい気持ちがあるからだろう。
あすみの場合、自分が真面目になったのは、誰かの影響があったためだという意識はあるのだが、それが誰の影響だったのかということまでは分からない。
ただ、本を読んでいて、気が付けば何かを考えていると思った時、自分に影響を与えた人のことを思い出しているのではないかと感じたのだ。
まるで夢を見ているような感覚だが、それは、我に返ると、覚えていないということと似ているだけで、今までの感覚で考えると、違って見えてきたのは、学生ではなくなってからかも知れない。
学生時代は、いくら高校時代が中学時代の繰り返しのように思えても、実際の高校時代は、ただの延長ではなかった。それはきっと成長の過程というのが一番なのだろうが、それだけではないような気がする。
きっと、一年生、二年生、三年生とそれぞれの学年になった時、前にあった時代を思い出すのだろう。
しかし、社会人になると、一度入社してしまえば、二度と新入社員になることはない。
転職するか、くらいしかないのだろう。同じ会社で部署替えくらいであれば、その部署では一年目であったとしても、自分が一年目だとは思わないだろう。前の部署の時に知っている部署なので、その大変さも苦労も、さらに楽しみも何となく分かっている気がするので、
「すべてをリセットした」
という気にはならないに違いない。
若いうちであれば、
「いろいろな部署を経験するのは、別に悪いことではない」
と思うだろう。
むしろ、若いうちの経験が、将来の自分を作り、最後には出世に繋がるということになるだろう。
あすみは、今三十歳になっているが、入社してから、そろそろ八年が経とうとしている。彼女は、大学を卒業してから、今の会社への入社には、さほど苦労はなかった。
別に、やりたい職業があったわけでもなく、入りたい企業があったわけでもない。だからと言って、目標がないということが、それほど気になるわけでもなかった。
どちらかというと、仕事は二の次であり、会社もどこでもいいという感覚だった。
就職できればいいという感覚が強かったのだが、
「結婚するまでの腰掛入社」
というだけではなかった。
結婚願望は、どちらかというと、ある方ではなかった。実際に好きになった人もいて、付き合ったことのある男性もいたのだが、その人とは、あまり深い関係になったわけではない。
もちろん、肉体関係はあったのだが、相手が肉体関係を結んだとたん、それまでと豹変した。
まるで、自分の所有物であるかのような態度になったのが原因だったのか、次第に冷めてくるのだった。
相手はそんなあすみに対して、不満があらわだった。きっと、身体を重ねた瞬間から、本当の恋人になったのだという感覚だったに違いない。あすなとしては、肉体関係が別に恋人関係としての的確な理由になるわけではないと思うのだった。
だから、あすみは、それから彼氏がほしいとは思わなくなった。自分では、それがトラウマだとは思っていないが、周りから見ると、きっと、それがトラウマになるのだと思うのだろう。
男というものに対し、抱いた感情がトラウマになってしまうと、
「結婚など考えられない」
と思うのも当然のことである。
ただ、あすみは自分を実食な性格で、いい意味でいけば、勧善懲悪のような性格であるが、悪い意味でいけば、融通の利かない性格だということも分かっていた。
しかし、勧善懲悪という言葉には、魔力のようなものがあり、融通が利かないのも、勧善懲悪という性格が備わっているからだということで、
「短所を補って余りある」
とまで思っていたのではないだろうか。
そんなことを思っていると、最初こそ男性にトラウマを持ってしまったが、考えが少し変わっていった。
「彼が悪いのではなく、私が彼にもっと従う気持ちを持っていなければいけないにも関わらず、自分から近寄ろうとはしなかったことが、原因なのかも知れない」
という思いを抱いた。
そのため、トラウマをなるべく忘れるようにして、新たな自分を発見したいと思うようになっていて、そこで見つけた本が、
「感と勘の違い」
なる本であった。
ベストセラーというわけではないが、一時期、本屋の中の、
「今月の話題の本」
というコーナーの中に置かれていた。
ちょうど、時代も、令和三年という、世界的な、
「訳の分からない伝染病が流行った時代」
の真っただ中であり、他の本も、SFチックな本や、伝染病についての小説やドキュメントなどが、話題の本として、ベストセラーになっていた。
そんな、伝染病関係の本がなければ、ひょっとすると、この本も、ベストセラーの仲間入りをしていたかも知れない。
いや、逆に言えば、伝染病の流行がなければ、心理学的な本としての、時代を反映している本としての役目ではなかったかも知れない。
あすみが読んでいると、
「この本は、あくまでも、伝染病が流行った時代を背景に書かれたものではなく、作者の先生が考えていることが、奇しくもその考えと、時代が合致しただけのことで、ある意味先生の考えに時代が追淳したかのような感覚だ」
と言ってもいいのかも知れない。
先生がその本で言いたかったことを、自分の説として、一つ大きなものがあり、そこからいくつかの可能性を考え、それを羅列するように、一つの章にまとめることで、ちょうど小説における、
「起承転結」
のような構成になっていることから、その内容は、当時の時代を反映しているかのようで、奇抜でありながら、センセーショナルという精錬された言葉を使いたくなるほどのスマートな本に出来上がっているかのように、あすみには見えたのだ。
実際には、心理学という観点から、敬遠する人が多いのか、話題の本と言っているわりに、それほど売れたということではないようだったが、あすみはその自分の性格からなのか、それとも、自分の性格を顧みたいという感覚からなのか、その本を何度も読み直すようになった。
一度読み切ってしまうと、しばらく本を見ることはなかった。確かに一度読破して満足した感覚なのだが、その時は一度読むだけでいいのだと思ったのだろうが、あれだけ満足して読んだはずの本の内容が、実際に役立っていないような気がした。
本の内容が難しく、理解したつもりでも、理解できていなかったのか、それとも、その時々の場合によって、本の内容への解釈が変わるからなのか、この本は読書物というよりも、ハウツー本としての機能の方が、むしろ強いのではないかと思うようになり、一度読み切った本でも、その時々の状況によって、読み直してみると、まったく違った感覚になることもあるのだと感じさせられたのだった。
一度読み直してみると、それまではほとんど、読破したはずの本を再度開いてみることはなかったのに、一度解禁されてみると、今までの感覚がウソだったかのように、小説であっても、
「もう一度読み直してみよう」
と感じるようになっていた。
その根源となった発想が、この。
「感と勘の違い」
という本であり、そのうちにあすみのバイブルのような本になっていったのだった。
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