コウシン世

一縷 望

アノマロカリス・カナデンシス

 アノマロカリスが上司を喰った。それ以上でもそれ以下でもない。

 東京の夜は明るくて、明かりの半分消えたオフィスの窓からは、赤や緑の光が小さく光っては消える様子が見えて綺麗だ。

 私はいつも通り、残った仕事を片付けていて、天井に張り付いたアノマロカリスが送ってくれる涼しい風を浴びていた。

 彼(彼女?)は、沢山あるヒレで器用に風を集めて、寒くなりすぎない絶妙な温度を提供してくれるのだ。

 不意に、上司が側を通りがかって、私のパソコンを肩越しに覗き込んだ。鼻息の音が耳もとで響く。そして、湿度たっぷりの溜め息をついて、カビが生えそうなネチネチとした説教を始めた。

 まだ仕事が終わらないのかーとか、これだから若者はあれそれーとか。そんなことを言ってるうちに、上司の顔はどんどん真っ赤になっていく。このままじゃ、あなた茹でダコになっちゃうよ……。

 そして上司が、オーケストラのクライマックスを指揮するように人差し指を情熱的に振り上げた直後。

 アノマロカリスが音もなく降りてきて、上司の頭を包み込んだ。

 硬い外骨格からは想像できないほどしなやかに、ぴっちりと真ん丸頭を覆ったアノマロカリスは、息ができずに暴れる上司を意に介さない。

 結局、顔からアノマロカリスを剥がせなかった上司は、だんだん真っ白になって倒れると、ぴくぴくし始めた。

 人として、私は助けなければならないのだろうが、今は人の道よりも、アノマロカリスの道の方が正しい気がした。なんだろう。自然の摂理的な……?

 まだ上司に張り付いているアノマロカリスを撫でると、ひんやりして気持ち良かった。

「もういいよ」とその背をぽんぽん叩くと、アノマロカリスは名残惜しそうに上司から離れた。上司の真っ赤だった頭には血の気がなくて、頭頂に小さな穴が口を空けていた。

 アノマロカリスをよっこいしょと裏返すと、沢山ある歯をもぞもぞさせて何か食べている……。

「ばっちいからペッしなさい! ほらペッ!」

 手を口元にあてがってやったが、二つの真っ黒な飛び出た目が、何も考えていないみたいにぴこぴこ動くだけだった。

 

 改めて辺りを見渡しても、薄暗いオフィスにいるのは、死体とアノマロカリスと私だけだった。この場合、私は罪に問われるだろうか。もう駅前のシュークリームは食べられず、私は一生臭い飯を掻き込むのだろうか。

 アノマロカリスは咀嚼を終えたらしく、私の周りをフヨフヨ浮いている。そもそも、私もコレに喰われて終わるのかもしれない。大脳皮質チューチュー吸われて。

 そう考えていたら、何だか腹が立ってきた。仕事に、上司に、かったるいものばかりの人生に。何もできずに終わるのか我が人生。被害者Bのまま報道されるのか?

 そんなの嫌だ。喰われるにしろ捕まるにしろ、その前に徹底的に楽しんでやる。

「キミ! そう、そこのキミ」

 私は、なお飛び回るアノマロカリスに呼び掛ける。

「こうなったからには共犯だ。責任を取ってもらおうか!」

 アノマロカリス相手に何を語りかけているんだと正気に戻ってはいけない。もう狂気に片足を突っ込んでいるのだから。

 

 私はダメ元で言ってみた。

「私、最後の晩餐に駅前の『ショコラ田中』でシュークリームを食べると決めてるんだ。でも、あと少しで閉店時間で、走っても間に合わないし、このままじゃ朝には留置所行き。だから、」

 私は浮遊するアノマロカリスをガッと掴むと、その大きな甲殻類をぶんぶん揺さぶりながら怒鳴りつける。

「セ・キ・ニ・ンとって私を乗せてけ!!」

 さすがのアノマロカリスも辟易したらしく、私の手を離れるとフラフラと床に降りて、そのまま敷物みたいに平べったくなった。そして二、三度ピョコピョコと跳ねる。どうやら本当に乗せてくれるらしい。

 ヒールを脱ぎ捨てて座布団一枚分ほどの面積に正座すると、アノマロカリスはプルプル震えながら浮き上がる。重くて悪かったな。

 しかし、想像よりも飛行は安定していて、アノマロカリスはオフィスを一周すると、いきなり窓ガラスに飛び込んだ。

 思わず目をぎゅっとつぶり──しかし何も起こらないので目を少しずつ開いてみる。


 そこは東京の夜空だった。ぬるい風とガソリンの香りが顔に当たって弾ける。

 どうやら、アノマロカリスはものを通り抜けられるらしい。まあ、アノマロカリスだもんな。いつも気づいたらオフィスの天井に居て、いつの間にか姿が見えなくなるのだ。

 それにしても高い場所にいる。私は下を覗き込もうとして、頭を乗り出した。と、直後、アノマロカリスが急降下する。

「っァーーーーーーーーア!!!! ストップ!!!!ストップ!!!!」

 私は必死にアノマロカリスを掴むと、上に向かって何度も引っ張る。するとガクンと下降が終わり、地上数メートルで事なきを得た。ふぅ、と息をついて両手を見れば、アノマロカリスの飛び出た両目をギュウと握りしめていた。アノマロカリスが苦しそうにジタバタするので、急いで離す。


「もー! びっくりしたじゃん!」

とアノマロカリスの顔を覗きこもうとすると、今度は前方へ猛スピードで滑り出した。風圧で髪は乱れ、光が視界に線を引いて後方へ去っていく。

 怖くてまた目をつぶれば、喧騒が右へ左へ、一回転して誰かの話し声が耳たぶを掠める。空気が鼻にねじ込まれ、息ができない。近くをエンジン音が駆け抜けてから記憶が無くて、全てが静かになった時には、すでに『ショコラ田中』の目の前に立っていた。

 急いで辺りを見回すと、斜め上の目立たない暗がりでアノマロカリスがホバリングしていた。一発ガツンと言ってやりたかったが、ボサボサ頭で靴もなく立ち尽くす私の方が周りからは奇妙に見えるようで、これ以上注目を集める前にサッサとショーケースの前へ行った。


 一通り覗き込むフリをしてから、

「ア、シュークリーム一つ……いや二つで!」

と怪しい格好で挙動不審な注文をしても、店員さんは「はい!」と笑顔で答え、テキパキと袋詰めを始める。あなたが人間国宝……とか考えながらポケットを探り、シワシワになった千円札を引っ張り出す。

 

 私とアノマロカリスは、近くの公園のベンチでシュークリームを頬張った。あんなに食べたかったシュークリームはいざ食べるとちょっと微妙で、まだ死ねないな……と湿気った夜空を見上げながらボンヤリ考えた。

 

「さて、私は帰るよ」

と二本の触手をカスタードでベタベタにしているアノマロカリスに言うと、奴は焦るようにジタバタして、また地面に伏せた。

「お、送ってくれるの? 今度は安全運転で頼むね」

 そう言いながら乗り込むと、アノマロカリスはビルの屋上くらいまでゆっくり上昇してから飛び始めた。

 さすがアノマロカリスとあって、この暑い夜の都会でも、座っている足元はひんやり涼しい。こんな体験ができたし、まあ明日捕まってもいいかな。

 と考えていたが、何かがおかしい。私の家は反対方向にあるのに、アノマロカリスはずんずん進む。

「ねぇ、私の家、反対方向なんだけど?」

と話しかけたが反応がなく、むしろ少し速度が上がっている。

「ちょっと! 聞いてる?」

 足元の外骨格をペチペチと叩いた瞬間、アノマロカリスが急激に速度を上げた。

 私は、アノマロカリスが意志疎通のできないただの生物であることを今さら思い出しながら、視界を流れる極彩色の街明かりに、ゆっくりと意識を手放した。


 気付くと私は薄暗い場所に横たえられていて、すぐ側をアノマロカリスが浮遊している。頬が触れている床はカーペット貼りで、カビとホコリが混ざった古い香りが微かにした。

 私が身を起こすと、アノマロカリスは奥の暗闇へ進んでいった。その方を見やれば、遠くに非常口の緑色の光がボンヤリ浮かんでいたが、接触が悪いのか点滅して消えてしまった。

 かなり広い屋内らしい。ということは、アノマロカリスと壁抜けしないと出られない場所なのだろう。私は仕方なく、アノマロカリスを追いかける。

 アノマロカリスはその速度のわりに暗闇では眼がきかないらしく、そこら辺の壁や構造物にガンガンぶつかっている。その時にスイッチでも押したのだろうか、壁の一部がすこし明るくなって、白抜きの文字が光りだした。

私は明かりに吸い寄せられるように近付き、読んでみる。


『第4章・古生代』と書かれた太字の下に、細かな説明がズラリと並んでいる。どうやらここは、博物館らしかった。

 三葉虫のイラストや、フズリナの化石、ハルキゲニアなんていう、ミミズにトゲが刺さりまくったようなやつの復元図もあって、普通に遊びに来たら楽しかっただろうな、と思う。

 私は、点々と光る展示やパネルに囲まれた廊下を道なりに、アノマロカリスを追いかけた。


 ついに追い付くとそこは、行き止まりの小さなホールになっていて、暗がりの中、大小様々な模型が吊るされたり、置いてあったりした。どうやら、古生代の海中を再現したジオラマらしいが、廊下からの薄明かりにボンヤリ浮かぶ見慣れないシルエットはなんだか不気味だ。

 またアノマロカリスが何かにぶつかった音がして、直後、プロジェクターが映像を壁に投影した。

 少し古く、ガビガビしたCGで作られた三葉虫が海底を歩いていると、何か白い影が画面を横切り、三葉虫を拐っていった。その名は、古生代ではお馴染み、「エアー・コンディショナー」だ。

けばけばしいテロップで名前が表示される背景で、エアー・コンディショナーは素早く泳ぐと、横に長く細い口で三葉虫を掬い上げ、口辺の薄い歯でバリバリと砕きながら食べている。

 見飽きた光景だ。皆、小さい頃は一様に古代に憧れ、当時、生物では最大級だったエアー・コンディショナーや、丸っこい三葉虫に目を輝かせるものだ。それは大抵、一過性の興味に過ぎず、ある時急激に冷めて以来、つまらなく見えてくる。

 

 映像はすぐ終わって、アノマロカリスは私の側にやってきた。目的が何だったのかはわからないが、見当違いだったらしく、全身がしなやかにうなだれていた。


「もう帰りたい」と一言話しかけてみると、アノマロカリスはしぶしぶ私を乗せ、博物館の屋根をすり抜けると私の住むアパートまで一直線に帰った。部屋に上がるかと思ったが、アノマロカリスは意外にも玄関前でホバリングすると、夜更けの空にゆっくり消えていった。


 私は、その後死んだように眠った。全てが悪い夢だったのかもしれない、とさえ思った。


 明け方、またアノマロカリスに起こされるまでは。

 アノマロカリスは二本の触手で器用に私の布団を剥がすと、私を起き上がらせ、ついてこいと言うように、ベランダへ向かった。


 私は重い目を擦りながら、アノマロカリスが透過していった窓をどうにか開け、足元にいた二匹の三葉虫の上に足を乗せて、ベランダへ出た。

 すると、アノマロカリスはまた地面へ伏せ、私を乗せようとしてきた。昨日のこともあったし、なんだか躊躇ったが、アノマロカリスの動きが、やかましく乗れと催促してくるのでしぶしぶ正座した。

 アノマロカリスは、オレンジ色に染まり始めた空へ飛び立った。少しずつ顔を出した太陽の光が、明け方の凛とした空気をほぐしていく。

 アノマロカリスが上昇をやめた。ビル群が目の前に広がり、空の色と相まって綺麗だ。アスファルトの上を、きらきらと車が進んでいく。


私は足元のアノマロカリスに言った。

「これを見せに来てくれたんだ! ありがとう。そういえばクソ上司放置してきちゃったね。もう発見されちゃったかな」


 ねぇ、と声をかけ、まばたきした直後、目の前の海にビル群が沈み始めた。

 そういえば、ここは海だったんだ。『日本』は、どこまでも続く大洋の一部の名前で……。

 高層ビルの鉄骨がおぞましい悲鳴を上げ、どこまでも深い海原へ垂直に呑み込まれていく。穏やかな波間にぷかぷかと自動車が浮かんでいる。


 おかしい。何かがおかしい。ここはずっと海だったはずなのに、何故ビルが今さら現れて沈み始めたのだろうか。いや、ビルは元々ここにあったし、海も元からある……。

 ということは、どちらかが


 目の前の違和感に頭を抱えていると、アノマロカリスが怪しい動きを始めた。そして、ホバリングしたままくねくねと動き、一瞬で体を裏返すと、私を二本の触手と体全体でがっちり掴んだ。

 食べられるのか、と思ったが、アノマロカリスの妙な興奮のしかたと震えから、どうやら私はつがいに選ばれてしまったようだ、と悟った。


 やはりこいつはただの動物であった。理性もなく、言葉を解さぬ生き物だった。


 私は必死に抵抗した。何度もアノマロカリスの外骨格を殴り、触手にも噛みついた。アノマロカリスの動きが止まった。

 私は訳もわからず喚き立てた。

「嫌! いや!! この怪物が! 理性のない欲のかたまりが! 触るな! さわるな!」


 アノマロカリスはフラフラと私を運び、突然、私を離した。

 私は、轟音を上げるビル群の間に、吸い込まれるように落ちていった。

 海に入る直前、一瞬だけ見えた上空のアノマロカリスは、なんだか『しなやかにうなだれている』ように見えた。

 

 海の底から引かれるように、私は瓦礫と共に沈んでいった。ふと、底から小さなトゲトゲしたものが浮かんできて、私とすれ違っていった。私の記憶が正しければ、あれは博物館で見た『ハルキゲニア』。

 もう全てわかっていた。あのハルキゲニアは、私が古生代に向かう代わりに、現代へ送り出されて来たのだろう。

 

 死にかけているというのに、不思議と、海の底へ向かうほど頭は冴えていった。


 多分、この海は『アスファルト』と入れ違いに。ベランダの三葉虫は『スリッパ』と。

 もしかしたら、『エアー・コンディショナー』は現代のものだったりして。さすがにそれは突飛な考えだな。


 では、古生代で、私はどうなるのだろう。アスファルトの海を不器用に泳ぐのだろうか。エアー・コンディショナーがスリッパを食べている様を意味もわからず眺めるのだろうか。


 一つ、幸いなケースがあるとするなら、私の自我が消える場合だろう。人間の身体を覚えたまま、海底のミミズとして生きるのは苦痛だろうから。


 なお沈み続け、もう地上の光も見えなくなったころ、私の意識は海に溶けだすように消えた。

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