第9話 大団円

 それにしても、どういうことだろう? 最初は、山岸が松村部長の紹介状を持ってきたことで、完全に信じ込まされていたはずだ。だが、それを今の今まで確認しようと思わなかったというのも、人事を預かっている人では考えられないことである。

 そもそも、山岸という男が、、松村部長の紹介状持参でなくても、最初から信用できる人として採用される予定だったのだとすれば、それはそれでいいのだが、どうもそうでもなかそうだ。

 記憶がかなり曖昧になっている敏子は、自分が事件に巻き込まれているということを果たしてどのように感じているのだろう? それにどこまで山岸という男を信じていたのかお怪しい気がする。少なくとも、彼は過去に詐欺で前科のある男だ。だからこそ、最初に疑わしいところがあったのに、部長の紹介状という印籠があったことで、それまでの怪しいという思いが消し去ったのか。普通ならそうだろうと思える。

 最初は、二人が面識があると思っていたのに、敏子の話で、それが違うことが判明した。警察も二人が知り合いだという前提で捜査を進めるつもりだったのに、当てが外れたといてもいい。

 隅田刑事も、電話で済むようなことを、何をわざわざ聞きに来る必要があったのだろう? 何か、虫の知らせでもあったというのだろうか?

 それを考えた時、

――白鳥敏子は、今の段階でどう思っているのだろう?

 と隅田刑事は思った。

 今の敏子は、まるで生まれたてのひよこのような気がした。話をしてみると、結構聡明で、いろいろなことを考えていて、さらに、先読みまでできそうな女性であったが、肝心なところで、詰めを誤りそうなタイプに感じられた。

 しかし、肝心な部分の記憶を喪失していることで、自分のことを考える時に、ピュアな気持ちになれるのではないかと思うと、彼女を縛っていた何か、タガのようなものが外れるのではないかと思った。素直な気持ちで自分や、そのまわりのことを見ることができれば、何かに気づくのではないかとも思えた。ただ。そこに至るまでが大変で、頭痛がしなければいいと思うほどで、ただ、彼女は頭痛ごときでへこたれるようなところがないように思うのは、かなりの思い込みではないだろうか。

 敏子を見ていると、彼女もやはり何かを考えているようだ。敏子は一体何を考えているのだろうか?

「私は、記憶がない。すべての記憶がないわけではないだけに、その部分にだけベールが掛かっていて、まるで結界が広がっているようだ。結界というのは、そのベールが高ければ高いほど、圧迫感が見えていて、近寄りがたさを感じさせる。そんなベールから遠ざかれば遠ざかるほど意識させられるもので、下手をすれば、夢の中まで追いかけてきそうであった」

 と、敏子は考えていた。

「確か、あの部屋にはベールはなかったはずだが、自分が入ってはいけないと思った空間が確かに存在した。そもそも、あの場面すら、自分が本当はいてはいけない場面だったのではないかと思う」

 と、またしても、敏子は考える。

 敏子が気になったには、やはり、あの時の接着剤の臭いだろうか? 最初はシンナーの臭いだと思ったが、次第にそれが接着剤だと違うものに変わっていったと思ったのに、それほど別のものではなかったのだ。きっとその間に記憶がおぼろげいなって言ったのだろうが、敏子はその時、別の臭いを感じたhずではなかったか。

 それは、麻酔薬の臭いである。

 誰かに蚊がされて気絶した。そして、あの場所に連れてこられて放置された。

 と、敏子は思ったが、今はその感覚を、

「待てよ?」

 と思うようになった。

 本当に敏子は、誰かにあの場所に連れてこられたのだろうか?

 ひょっとすると、誰かに連れてこられたわけではなく、自らやってきたのではないだろうか?

 もし、そうだとすれば、敏子は犯人ではないとしても、今回の犯罪に大きな影響を与えているということになる。敏子が犯行現場で倒れていたというところに、犯人の最初からの意図が含まれていたのかどうか? そのあたりが問題になってくるのではないだろうか?

 そう感じた敏子は。昨日までにはなかった、

「頭痛を伴わない、考察」

 という感覚を無意識に感じていたようだ。

 捜査を進めていくうちに分かってきたことが、まず一つに、二人は面識はなかったが、松村部長にも、

「叩けば埃が出る身体」

 だったということだった。

 仕事のことでも、セクハラ上司というウワサもあり、会社の女性社員を散々食いまくっているというウワサがあった。その際、自分の保身のために、彼女たちのあられもない姿を写メに撮って、それをネタにバラさないようにと脅迫していたという。

 あくまでもウワサであり、何かなければ、誰かに詮索されても、すぐには分からないだろう。もちろん、警察は介入してくることもないし、見つかることはないと、勝手に考えていた。

 そもそも、これは共犯がいなければできないことだった。部長が目を付けた女の子を、半分強姦するかのように襲って、それを写メに撮るのだから、盗撮ではうまくいかない。しかも、犯行を行う方が複数であれば、相手の女は泣き寝入りするしかない。

 その共犯をどのようにして引き込むかというのは、それほど難しくはなかった。

 共犯となるターゲットは、そもそも、犯罪を犯すべくして犯しそうなやつで、学生時代から素行も悪く、一度、悪いことに手を染めてしまうと、足を洗うなど、なかなかできないという性質を、地で行っているかのようなやつだった。

 松村にとって、そんな人間を見つけ出すことは、そんなに難しいことではなかった。

「同じ穴のムジナ」

 を探すなど、簡単なことだった。

 それこそ、

「同じ臭い」

 を探せばいいだけだ。

 松村部長も、その男も、

「犯罪者には、独特の臭いがある」

 ということを分かっていた。

 普通の人間であれば、分からないような臭いを発するのである。だから、この共犯者も、そのことを分かっていたのだ。

 彼は名前を、小山内と言った。彼のウワサはそれなりにあったが、まさか、松村部長とつるんでいるなどと誰も知らなかっただろう。

 警察も松村部長の捜査を行っているうちに、そのようなウワサを嗅ぎつけて、

「この松村という被害者。とんでもないやつだな」

 ということになった。

 そして、今のところ、最重要容疑者として浮かんできたのが、この小山内という男である。

 ただ、小山内には、アリバイがあった。犯行の当日、被害者の松村部長の命令で、地方に出張に行っていたのだ。

 前の日のうちに、約五時間を掛けて、出張先の営業所に顔を出した。その時間は夕方で、予定されている宿泊先にもチェックインを済ませたのが、夜の十時であることは分かっている。

 そして、朝の七時半には、朝食を食べているのを目撃されている。チェックアウトも、八時半にされていて。九時に再度営業所にも顔を出していることが分かっている。

 公共の交通機関での移動も無理なことであり、レンタカーを借りたとしても、夜中に犯行を犯して、往復することは不可能であった。警察の捜査では、そのアリバイを崩すことはできず。アリバイは完璧だったと言ってもいいだろう。

 ただ、この男は、この事件が起こったことで、会社を辞めてしまっていた。今はどこにいるのか分からなかったが、少なくとも、

「この男が犯罪に何らかの役割を果たしているのに違いない」

 という、疑いは大いにあったのだ。

 さすがに今の段階で指名手配ができるほどの証拠はない。少なくともアリバイは完璧に成立しているのだ。容疑者というわけではないが、参考人程度で、さすがに指名手配は難しい。

 桜井刑事や柏木刑事は、この二つの事件が、本当に関係があるのかどうか、疑わしいという思いを抱いてきたのに対し、隅田刑事はあくまでも、この二つの事件は繋がっているという思いを貫いていた。

 しかし、隅田刑事にも、この二つの犯行が、本当に一人の犯人によって引き起こされたものなのかどうか、疑問であった。そうなると、

「この事件には誰かカギを握る人が出てきてもいいはずだ。その人はすでに、我々の前に出てきているのか、それとも、これからなのか分からない。その人物の存在を見逃さないことが大切なんだ」

 と、考えるようになっていた。

 それにしても、今回の被害者の二人、山岸も松村部長も、恨みを買っていたのは確かである。

 かたや、詐欺事件で前科があり、かたや、ウワサの段階であるが、セクハラにそれをネタに女性を脅迫するなどという、どちらも、命を狙われるくらいの恨みを持たれていても仕方がないくらいである。

「死んだ人を悪く言うのは、ちょっと」

 とよく言われるが、この二人に限っては、犯人が恨みからの復讐であったのだとすれば、心底犯人を憎むことはできないだろう。

 そもそも刑事などをしていれば、犯人に同情的な気持ちになることも少なくない。

 動機が復讐の場合であれば、それも当然のことであろう。自分が警察官でなければ、そんな犯人たちを許せないと思うのは当たり前のことであり、その思いを糧にして、自分が強くなってきたのだということを否定できない自分がいると考える警察官も少なくないはずだ。

 隅田刑事もそうであり、まだまだこれからの警察官であったが、桜井刑事や柏木刑事の背中を見ることで、自分を高めていくことを目指していた。

 桜井刑事に対しては、その冷静沈着さから、全体を見渡して、いかにも現場の総責任者たるべく人だということを思わせる。

 柏木刑事に関しては。何と言っても、あのブレない勧善懲悪の姿勢は、警察官に憧れ、警察官を職業にした人のほとんどが最初に感じることであろうことを、ずっと貫いているのだ。

 その思いは、よほど自分の気持ちに素直でなければ貫くことなどできないだろうと思えることで、後輩として背中ばかりを見ているはずのその姿を、急にこちらを振り向いて、包み込んでくれるような錯覚を感じさせてくれる。それが柏木刑事という人の本質であり、桜井刑事にはない、唯一無二の性格を醸し出していると思えてならなかった。

「人はそれぞれに、長所と短所を併せ持っているんだ」

 と思っていた。

 桜井刑事にだって、柏木刑事にだって、ずっと一緒にいれば、

「これがこの人の短所だ」

 と感じるところもある。

 だが、それを補って余りある長所が、その人の本当の性格になっているのだろう。

「長所と短所は紙一重」

 という言葉があるが、

「背中合わせのニアミスのようなものだ」

 と、隅田刑事は感じていた。

 隅田刑事は、今回の事件でも、似たような感覚を感じている自分がいることに気づいてはいたが、その感覚がどこから来るものなのか、分かっていなかった。

 第一の犯罪である、山岸殺害事件の捜査の方もあまり進んでいない。今回の松村部長が殺された事件の一週間くらい前に、敏子は退院していた。自宅に帰ってから、十日ほどは会社に有休を申請し、さすがに会社としても、

「一時的な記憶喪失と、事件に巻き込まれたことによる精神的ショック」

 という診断書を一緒に提出されれば、許可しないわけにはいかない。

 そもそも、有休取得は、法律で年に五日は摂らなければいけないという法律になっている。それだけに、総務の人間が率先して見本を見せるという意味で、法律が施行された三年前から、総務の人間は、平均で七日は取得すrというのが、慣例となっていた。

 そういう意味でも、この有休は別に問題のあるものではない。診断書だって別に必要はないくらいだったが、どこか律義なところがある敏子には、そこまでしないと気が済まないというところがあった。

 だからこそ、総務、人事のような仕事が適任であり、適材適所だったと言ってもいいだろう。

 隅田刑事も、家まで行って、少し話を聞いてみたが、さすがにまだ記憶が断片的だということで、新しい情報を得ることはできなかった。

 ただ、

「彼女は何かを隠しているような気がする」

 と感じたのだが、そこには、自分の勘というだけの根拠のないものが存在するだけなので、それを他の人にいうのは、少し違うと思っていたのだ。

 隅田刑事の、

「刑事としての勘」

 が、尋常ではないということに気づいているのは、桜井刑事だけだった。

 最近の隅田刑事に対して、門倉警部から、

「君は何かを感じた時、私に言えば、私が調べてあげよう、自分で行動してもいいように取り計らってあげることもできるよ」

 と言われていた。

 これは、桜井刑事にも一時期言われていたことだったが、桜井刑事はその特権をフルにいかして、事件解決を早めたことがあり、それだけ門倉警部のお墨付きは、確かなものであったのだ。

 今回、隅田刑事が単独で調べたのは、白鳥敏子の過去だった。

 表向きのことではあまりハッキリとは分からなかったが、そのあたりは、門倉警部にすがる形で調べると、ある程度のことが分かってきた。

「白鳥敏子は、昔、詐欺グループに祖母が騙されたことがあったんだ」

 ということが分かった。

 しかも、祖母は家族のために、かなりの預貯金をしていたようだなのだが、詐欺グループに引っかかったことで、すべてを失ったと感じたのか、命を自らで断ったということだった。

 その詐欺グループに関係していたのが、山岸だったという。

 確かに山岸の入社は、松村部長の紹介状があったわけではなかったが、松村が裏から手をまわしたのは確かだったようだ。

 実は、松村部長と、敏子は繋がっていたらしい。敏子が今の会社に入社する前の大学時代に、学費を稼ぐためにホステスをしていたようだ。その時に面識があったということなのだが、松村という男がどういう男なのかを知ったのは、松村の毒牙に掛かってしまった後だったのだが、敏子という女性は、そこでへこたれるような女性ではなかった。逆に松村を利用してやろうというくらいに思っていたようだ。

 松村の裏ルートを使って、この会社に入社することができたが、いずれは、山岸への復讐を考えていた。

 その時、山岸が職を失って、フラフラしているということが分かり、松村部長の名前を使って、彼を入社させたのだ。

 もし、前科があると分かっても、松村部長の推薦ということであれば、うちの会社では、敏子への落ち度することはなく、山岸をいきなり解雇ということもない。

 そのうちに、敏子は小山内という男の存在を知ることになる。彼も、立場としては敏子に似ていた。

 付き合っていた女性が、松村の毒牙に掛かり、自殺をしてしまった。彼の存在を知ったことで、彼を仲間に引き入れることで、いよいよ山岸殺害がリアルになってきたのだ。

 敏子の考えは、

「交換殺人」

 だった。

 交換殺人というと、それぞれ、まったく関係がない事件で、犯人をたすきにかけるというものである。普通であれば、それぞれの殺人に少しでもかかわりがあれば、犯行は難しいと思われるが、これは法則破りの犯行だ。しかも、交換殺人など、普通は、

「小説ででもなければありえない」

 というものであった。

 交換殺人が成功しないのは、最初に犯行を犯した人が圧倒的に不利だからだ。相手は自分の殺してほしい相手を、自分以外の誰かが殺してくれれば、それでいいのだ。だから、自分がその後、バカ正直に犯行を犯すなどということをする必要はない。

「騙したな」

 と言っても後の祭り。

 警察に訴えて出るわけにもいかず、どうしようもなくなる。だが、今回のように、それぞれの犯行に関係性があれば、自分は知らないということはできないだろう。

 圧倒的な不利な状態を回避するためには、交換殺人なんか、ありえないという考えを重視すれば、できない犯罪ではないと思ったのだ。

 今回の臭いが関係しているのは、これは小山田が、

「こんな、クズのような連中が殺されたとなれば、やつらから、変な臭いが出てきて、それが犯人を指し示すことにならないか?」

 と、オカルト的な理由で言い出したことだったが、犯行のカモフラージュには面白いと敏子が考えたことで、臭いを使うことになったのだった。

スマホが置かれていて、そこに誰かが電話を掛けたのは、あのスマホで、最初の犯罪は小山内が犯行を犯す前に、山岸に、自分が敏子を殺してしまったという錯覚を与えるためのものであって、敏子もまさか、あれほどのショックを与えられるとは思ってもいなかったので、スマホに手の通話が発生した。防犯カメラから切れているところで話をしていたので、スマホを入れ替えることもできたのだ。

 これらの犯行の基礎を考えたのは、敏子であり、そこに枝葉をつけて着色していったのが小山田だった。

 交換殺人のアイデアを出したのも小山内だった。

 小山内は、自分に決定的なほど自信があった。それに人に対して自分がしたことをしてもらった人が逆らうはずはないということで、敏子が自分を裏切ることはないと、完全に信じ切っていたのだ。

 しかし。敏子は最初から小山内を、

「将棋の駒」

 としてしか見ておらず、ある程度まで計画が進展してくれば、犯行のすべてを小山内に擦り付けて、今回の犯行を成し遂げようとしていたのだ。

 今回の犯行がバレた一番の原因は、敏子が小山内の話に安直な気持ちで乗ってしまったことだった。

 あの臭いの感情から、バレたと言ってもいい。近くのK大学理学研究室に、犯罪研究の学科があって、そこでは毒ガスや化学兵器、あるいは、凶器になるものを研究していたのだ。

 その中で、臭いについて研究しているグループがあり、そこによく敏子が参加しているという情報を、門倉警部からもたらされたことで、敏子への嫌疑が強くなり、さらに、小山内という男と関係していることが分かってくると、二人は共犯ではないかということが分かってきたのだった。

 敏子は、すでに犯行が露呈するであろうことは、時間の問題だと思っていたようだ。

 大学に警察が来たということを聞いて、観念したと言ってもいいだろう。

 そこまで大きなことだとは思わなかった臭いを使った犯罪。そこには、自分が記憶喪失にはなるが、すぐに記憶を取り戻して、自分が犯行の圏外になることを計画したものだった。

 何しろ、今回の犯行は、敏子が松村部長を殺さなければ終わらない犯行だったのだ。

 敏子は、もう逃げ隠れをする気はなかった。

 もうこの世に未練もなく、その思いは、今まで生きてきた中での一番の失敗だと思った、今回の計画における臭いを使ったこと。仕方のないことだったとはいえ、それは自分が後から考えた、ニセの記憶喪失だったのだ。

「こんなことさえ考えなければ」

 という思いが、敏子を死への階段を進ませるのだった。

 世間にはいくつもあると言われている樹海、敏子はそのうちのどこに入り込んだというのだろうか……。


                 (  完  )

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臭いのらせん階段 森本 晃次 @kakku

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