第2話 Embark on the Expedition


 体が浮き沈みし、口の中に入ってくる海水を吐き出そうとしてまた入ってきて、その間呼吸もしなけらばならないので、海水を肺の中に吸い込んだ暁にはむせ返り、すっかり気が動転してしまった。水の中でもがいている最中、自分がどういう格好でどういう状態にあるのか、前後左右が分からなくなってしまった少年は偶然息が吸えたタイミングで息を吸い、あとは「タムラ!」「タムラ!」と自分の犬を探して喚き散らし、なんとか呼吸を成立させていた。

 泳げないのか、或いは泳ぎ方を忘れてしまったのか、半分溺れたような少年の側でタムラは彼の頭を水中から出そうと服に噛みつき引っ張り上げようとしていた。けれども体の小さな犬は主人を助けられるだけの力が無く、漂流していた巨大な深海魚の死骸にしがみつくと、器用によじ上り、上からバウバウ吠えていた。恐らく掴める物があると報せたかったのだろう。

 実際少年は必死の思いで死骸のもとまで辿り着き、腐った皮膚に顔を埋め、他の漂流物と同じように海を漂っていた。犬は主人を心配して彼の額に鼻先をくっつけようとしたが、無闇に動くと死骸が揺れるため、銀色の鱗と赤いヒレの上で大人しく丸まっていた。

 海はまだ冷たくなかった。少なくとも冷たすぎることはなかった。

 陸を離れ、一面が黒い鏡のような沖に出ると、暗い星空に見つめられているという感覚があった。満天の星ひとつひとつが白銀の瞳を持った目であり、ちょっとずつ波に流されていく少年を見守るでもなく、ただ眺めている。少年は死骸の皮膚に突っ伏しているから背中で視線を感じていた訳だが、膨張し続ける暗闇に一人で——正確にはひとりといっぴきで取り残されたという感覚があった。無限の広さ、空間の中にちょっとの隙間も無く存在する大気やバラバラになった魂のようなものが砂粒のように詰まっていて、耳の奥がぼわんとする。下半身の感覚が失せて、宙を漂っているような奇妙な錯覚を覚えたがしかし、手を少し伸ばせばタムラの硬い毛に触れられたので、彼はまだ正気を保っていられた。

 夜は長かった。

 いつしか波が穏やかになり、少年は母の胎で眠っていた頃に戻り、気づかぬうちに気絶していた。犬は伏せったまま、今にも泣き出しそうなきらきらした目で少年の寝顔を見つめていた。


 肉団子の異形によって村が破壊された日も同じ臭いがした。血と、生肉が太陽の熱に温められて腐る臭いだ。胃袋を鷲掴みにして揉みほぐすような強烈な吐き気を催す。

 少年は段々濃くなる腐敗臭によって目を覚ました。ぼやけた視界にタムラがいて、死骸の上に立ち、眉間に皺を刻んで吠えている。そして犬の他にもギャアギャアと喚く声が聞こえ、何だと思う前に頭を硬い嘴で突かれた。深海魚の死骸に鳥が群がって来たのだ。だが鳥は彼だけではなく、タムラにも襲いかかった。石のように硬い嘴が柔らかい肉を突こうとする。

「やめろ…」

少年は手を伸ばし、鳥を叩いた。何度も手を振り、後ろからは別の個体に突かれて、ガツゴツと骨に衝撃が走った。小さな呻き声が漏れる。

 まるで弱いものいじめだった。死にかけの生物にトドメを刺し、餌を増やそうというのだ。少年は反撃するのをやめ、防御壁をつくって魚の死骸ごとタムラと自分を守った。徐に、皮膚がちぎれて穴だらけになった腕を頭に被せ、ふるふると震えて項垂れていると、視界の外から誰かの呼ぶ声がした。

 拡声器を使っているためか雑音が混じってその内容は聞き取れなかった。だが一縷の望みに違いないと、少年が振り向いたところに衝撃波が浴びせられて、防御壁を破り海鳥の死骸が少年の顔面を直撃した。

 怯えた鳥たちは一目散に飛び去って行った。そこに一隻のクルーザーが近づいて来て、甲板の船員が、

「大丈夫?」

と、首を傾げた。

 小さな顎まで伸びた白い髪が揺れる。

 少年は顔についた臓物を捨て、船員の紫陽花色の瞳を見つめた。

「大丈夫じゃない」

「だよね」

甲板の手すりに掴まっていた船員は、少し手を動かすと少年らを死骸の上から空中に浮かせて、いとも簡単に足元へ下ろした。

 海水でゴワゴワになったタムラが毛から水を弾き飛ばしている側で、少年は指一本動く気がせずぐったりとしていた。彼の頭の近くに船員が片膝をついた。その影の降り注いだ所だけが冷たく感じられた。日に焼けた指が少年の頰に触れ、傷口についた塩を払った。痛くて体を捩ると犬が吠え立てた。

「ごめんごめん、状態を確認しただけ。こん中でも治せそうだし、問題が無ければ手当してあげるよ」

「…頼む」

奇妙なくらいに友好的で親切な人だと怪しむ心が無かったと言えば嘘になるが、「よし」と言った船員が少年の体を浮かせて、クルーザーの地下へと運んで行くのに素直に従った。犬も歩いてついてきた。

 磯のにおいが漂う薄暗い船内には白髪の船員の他にシロイルカよりも肌の白い、最早病的なまでに蒼白い肌の男がいた。彼は木製の机で猫背になり、何かしらの作業に耽っていたが、

「拾い物は?少年と犬一匹か」

と、眼鏡を上げ、背伸びをした。背骨がバキボキといった。彼はそのまま脚を広げて背もたれに腹がくっつくよう逆向きに座った。

 少年は頭を電球にぶつけながらも、湿った木製の台に下ろされた。てきぱきと治療の準備を進めながら、船員が、

「ただの少年と犬一匹だよ」

と、念を押すように言った。

「見たところは、だろ?逃げ損ねた工作員か何かじゃないだろうな」

「分からない。君たち、何があったの?」

腕の皮が剥けて赤く爛れているところにガーゼをあてながら、船員が不安そうに眉を寄せた。少年はその健康的で若い顔を一瞥し、自分達の安全をちっとも疑っていない、他人を純粋に心配できるほどの強さを持つ船員と蒼白い男の正体を訝しんだ。

 しかし明かせぬ事情も無ければ、黙っているだけ彼の不利になることは明らかだったので、正直に告白した。

「テロに巻き込まれた」

船員の包帯を巻く手が止まった。紫陽花色の瞳の上で細い眉が八の字に曲がっている。

「大変だったね…」

薄桃色の唇から吐き出される労りの言葉に嘘や形式上の意味は感じられなかった。

 少年は黙って頷き、肘掛けから投げ出した手でタムラの頭を掻いた。

「頼れる人は?」

「いない。親はずっと前に、案内役の奴もたぶん死んだ。助けてくれた人たちも、生きてるかどうかは…」

「どこ出身なの?」

「十四国。この船はどこに向かってる?」

「十一国。君の国よりずっと西の大陸にある国だよ」

そう言われても見当がつかず、少年は虚な視線をタムラの平たい頭に落としたままだ。

 しかし脳内では緑色の瞳の兵士が、

『魔女の所へ行け』

と、彼に語りかけていた。兵士の足元には婦人がいる。汗まみれの浅黒い肌に細い髪をくっつけて、腹部の傷をおさえている。彼女の周りには蠅がいて、血と汗のにおいに狂喜乱舞している。

「魔女の所へ行けば…」

生きて彼女に会えることがあるだろうか。

「魔女?」

「真昼の魔女。ソイツはどこにいる?」

少年は首をもたげて紫陽花色の瞳を見つめた。だが船員は肩を竦めて、

「イル・モーロ。魔女はどこにいるかって」

後ろの蒼白い男に尋ねた。

 イル・モーロと呼ばれた男は肌と同じ色素の薄い目をかっ開き、ずっと話を聞いていたが、「魔女?」と言うと人当たりのいい笑みを浮かべた。

「魔女なあ…」

「どこにいるか知ってるの?」

「知ってても言えないの、知ってるだろ?坊や、真昼の魔女にいったい何を求めてるんだ?それも個人レベルで。仕事が欲しいんならハローワークに行くといい。それかぁ…何か特技があるならアキラの後続にしてやってもいい」

「アキラ?」

イル・モーロの指は少年の隣の船員を指していた。

「次のとこで降りるんだって」

「そう。でも良い案じゃない?別に特技なんか無くたって掃除と料理とソイツのボディーガードをしてやればいいんだからさ」

「やっぱり生活の質が上がると元の生活には戻れないって思うんだよな。この一年は快適な日々を過ごせたよ」

「ね、どう?簡単な仕事だよ?それに一日の大半は自由だし。薄給だけど」

恐らく悪い話ではなかった。しかし少年が首を横に振るのを見て、「給料の話はしない方が良かったかな」と、アキラが苦笑した。イル・モーロも席を立ち上がって「俺はこう見えても不審者じゃない」と、両手を広げた。麻製の服の袖がだるんと垂れる。

「仕事熱心だし同乗者に手を出したりもしない、人を殺したこともない。煙草も吸わないし基本食べ物の好き嫌いだってない」

「変な癖はあるけど」

「いつか君にも分かる時が来るさ、アキラ。兎に角それだって君や誰かに害をなすものじゃない。給料が少ないのは本当だがね」

「いや…俺も次の国で船を降りる」

「え、何故だい?」

勧誘に失敗して、イル・モーロもアキラも意外だと言わんばかりに目を丸くした。

 少年は太腿の間に両手を挟み、

「魔女は願いを叶えてくれるんだろ?俺は、俺以外のヤツも助けてほしいんだ」

と、告白した。

「だからここには留まれない」

「…」

しばらく誰からの反応も無かったが、両手を広げたまま男は肩を竦め、

「誰だ?この無垢な少年に要らぬ情報を吹き込んだのは」

と、哀れみのこもった目で少年を見つめた。

「まあ俺は君を海のど真ん中から十一国に連れて行くだけだから、その間ちゃんと働いてくれさえすりゃ何も言わないよ。だけど君は何とか言ったらどうなんだ、アキラ。君の拾得物だぞ」

壁に寄りかかって難し気な顔をしていた船員は、そのままの顔で振り返って、

「それが君のやりたいことならそうすればいいけど。でも君を助けた人たちは君が勇者になることを望んでないよ」

と、胸の下で腕組みをした。少年は親に叱られた子供のように口を噤んで何も言わない。買ってほしかったお菓子を掌に包んだまま、先行っちゃうよと離れていく母親の影を目で追っている子供だ。

 そんな子を見かねて、

「船が着くまでまだ時間あるし。よく考えるといいよ。やっぱ無理ですってなったって君を咎める人はいないんだし、ね」

船員は明るい声で言って、少年の薄い肩を叩いた。

 こうして新たに洋上での生活が始まった。

 背の高さ的に着れなくもないだろうということでアキラに服を貸してもらい、ゴシック調のパーテーションの裏で服を着替えた後は、手始めに朝食をとった。イル・モーロが机の上に広げていた辞書やらタイプライターやらを隅に退かし、そこにアキラが「塩漬けのナマズの粥」を運んできた。三人が席に着くと、

「おい待てまだ食べるな」

我先にと匙を握った少年に制止をかけ、イル・モーロが両腕を広げた。机の下ではタムラが爪の音を立てながら飯をくれと徘徊している。

 彼は俯き、食前の祈りを唱えた。

「〈そこでまだらの星は踊る

  開眼に相応しき贄

  私は石鹸皿の海豚

  太陽の子と決して口を聞くな

  十七層の王 カスパー・ダーヴィトよ

  我が身で蠢く原始の王に

  この食を捧ぐ〉」

アキラはつんと上向きの唇を半開きにしてつまらなさそうに粥を見つめていたが、祈りが終わったと察するなりスプーンを持って粥を食べ始めた。イル・モーロも何事も無かったかのように食事を開始した。

 椅子の下でおこぼれを狙う犬には茹で米の余りと野菜のかすを与えた。早速がつがつ米を貪っている犬の硬い毛皮を撫で、「何犬?」と尋ねたアキラに、少年は「雑種」と答えた。

 朝食の味はなんとも言えなかった。そういう物だと言われればそうなのかもしれないし、どこかの郷土料理なのかもしれなかった。自分が食べ終わると勝手に席を立ち、空いた皿をシンクに入れる仕組みだった。イル・モーロは真っ先に完食して眼鏡をかけると再び机に向かい始めた。その様子を興味深げに眺めていると、少年の左斜め向かいに座っていたアキラが肘をつきながら、

「翻訳作業中」

と、説明してくれた。

「君は食べ終わったら皿洗いの練習。で、自分の寝床もつくってもらって、あ、あと、そうだ。そのべちゃべちゃのリュックもどうにかして。何が入ってんの?」

元はタムラが入っていたのだが、床に放置されたそれにはまだ膨らみがあって、何かが入っているようだ。緑色の目の軍人の私物に違いない。見てきていいか尋ねられたので、少年はウンと首を振った。

 中から出てきたのは外国の小説、ハンカチ、音楽プレイヤーだった。

「主席国家の軍人が渡してきて…」

乾かしたら使えるかもね、とアキラが言うので、それらは甲板で干すことにした。

 陽射しが強かった。

 船の一画にハンモックをかけ、その下に赤と橙の糸で編まれたカーペットを敷き、タムラの寝床とした。疲れただろうから取り敢えず休めと言われた彼らは外に出て、日向ぼっこでもしようとしたが、数分もしないうちに皮膚がじりじりと焦げだしてあまりの暑さに起きてしまった。太陽が彼らの真上でギラギラと光っている。血管の中まで渇いて、粘膜から水分が失われ、喉が閉じてしまいそうだった。少年はタムラを抱えて日陰に座り込んだ。不気味なほど青い、真っ青な空で彼らの肉をちぎって食おうとした白い大きな鳥たちが悠々と旋回している。あの鳥たちの目玉は同心円状になっていて、獲物が目を回している隙に捕食するという生物上の進化を遂げていた。泣き声も軋んだドアのようで気味が悪い。少年は空に向かって右腕を伸ばし、左手で肘を支えた。指の先から銃弾を放つイメージで、鳥を撃ち落とそうとした。

「バン」

「わっ!」

突然近くで声がしたので、少年は必要以上に驚いてしまった。腹が波打つのに合わせて犬も跳ね、タムラは慌てて飛び起きた。

「今日の夕飯あれにする?」

と、アキラが悪戯っぽく笑って壁に寄りかかった。

「それとも突っつかれたことの仕返し?暇なら話し相手になってよ。アイツ、仕事しだすとそれしかやらないから」

「普段は何してるんだよ…俺が来る前は」

「ラジオ聴いたり本読んだり、朝食、昼食、夕ご飯の準備、掃除、昼寝…大体いつも同じことの繰り返し。だから寧ろ嵐の日なんかは楽しかったりする」

「それに飽きたから、船を降りるのか?」

「違う。目的地がそこなんだ」

アキラは少年の横に座り込んで、剥き出しの膝の上に両腕を置いた。

「君にも関係のある話だよ。第十一国は魔女の同盟国だからね。もしかしたらツテが見つかるかも。魔女の所に案内してくれる人が」

「でもさっき言ってなかったか?知ってても言っちゃダメだって」

「国際法上さ、『永世中立国に関するあらゆる情報の伝達を禁止する』って決められてるんだけど、つまりそれって魔女の国に行く人を追跡したり、偶然同じ方向へ行ってしまうなんて場合には問題にならないわけ。だから勝手に『案内』されればいいんだよ」

「…なるほど」

「勿論そんな簡単なことじゃないけど。みんな魔女の国がどこにあるかは大体わかってる。でも簡単にはたどり着けない」

少年は陽射しの眩さに顰めた顔を、そのまま船員に向けた。

「魔女は俺たちを試してるのか?それとも自分のことがよっぽど大事なんだな」

「いや、これに関しちゃ魔女が悪いというより、人々が魔女を遠ざけてしまったんだよ」

そう言って、アキラは歴史を語り始めた。

 ——1715年、当時の状況は旧勢力の減衰に伴う「災厄」の増加、社会不安、そして経済の停滞により新時代の到来が熱望されていた。人々は宗教や個人差のある「誓い」の効果に頼るのではなく、人類が平等に優れた技術を持ち、安定した発展を遂げられるよう足並みをそろえて科学的な研究を始めた。それと同時に各国は主に「災厄」で失った労働力を補完するべく出産率の向上を図り、衛生、婚姻、裁判制度の見直しと中央集権化が進んだ。結果として人口は増加したが、逆に土地や食糧が不足し出し、国は公営住宅や施療院の建設など公共事業へ着手すると共に、もうひとつの解決案として他国への進出を検討し始めた。そしてこのとき科学的にも経済的にも最も進歩していた当時の主席国家が、これまでその軍事力ゆえに不可侵地域であった未承認地域、つまりは「魔女の国」へ戦争をしかけた。作戦の目的は魔女に捕らわれた同胞の回収だった。勿論これは大義名分に過ぎなかったが、実際のところ独自の経済領域と軍事力を持つ魔女の国へは亡命者が数多く出ていたらしい。けれど主席国家の真の狙いは言うまでもなく魔女の国の併合と肥沃な土地の奪取だった。そして11月2日に宣戦布告し、互いに同盟国を持たぬまま4日の朝には開戦して、直後から魔女は結界を張って国民全員と籠城を決め込んだ。主席国家は周辺地域に対し爆撃を行い、少なくとも避難を拒んだ数名の市民が犠牲になった。6日の朝になると魔女は結界を解き、都へ侵入してきた先遣隊を殲滅したという。その報告を聞いた主席国家は魔女の国から軍を撤退させると、あくまでも『結界を破壊し侵入経路を確保する』目的で、本国から「叡智の結晶」と呼ばれる爆弾を載せた飛行機を発進させた。操縦士は『英雄になれると思っていた』。だが想定外のことにそれも結界によって阻まれて、結晶は空中で爆発すると飛行機もろとも都の周縁部を燃やし尽くし、生態系を不可逆的に変化させる毒をばら撒いた。操縦士の最後の通信では次のような報告があった。『都の建物からわらわらと住民が出て来て、魔女と壁を造っています。皆が私に掌を向け、これから起こることを拒絶しようとしています。私を見つめる彼らの顔を見ていると、この爆弾が不発弾であることを願わざるを得ないのです』。確かに爆弾のもたらした効果は英気を用いた「誓い」には為し得ぬ偉業であった。

「…そういうわけで魔女の国は呪われてるから、特殊な装備無しには立ち入ることも危険なんだって」

アキラは他人事だと言う風に小首を傾げた。

 しかしここで終わっては尻切れ蜻蛉な話である。少年は犬を抱えて、

「それで?魔女はどうしたんだ?」

と、続きを促した。

「学校であんまりちゃんと聞いてなかったっていうか、微妙なとこもあるけど…」

そう前置きした上で、アキラは旧主席国家の最後を語った。

 ——彼らの行為は魔女の逆鱗に触れ、公式に、そして国際的に初めて以下のような最後通牒が発布された。『今から3日の猶予を与える。12日正午までに無辜の民は全て国外へ避難するものとして、貴国への報復作戦を開始する。交渉の余地は無い』しかし魔女の移動手段が分からなかったため、主席国家は避難を早々に打ち切り、港、空港、関門を全て封鎖した上で迎撃体制に入った。彼らも主席国家に数えられるだけあって充実した装備を持ち、最高水準の技術力があり、また、「誓い」を用いた戦いに関しても単純に優れていたと言うだけでは足りないくらいに卓越した英雄を擁していた。が、30日には全ての作戦が終了し、魔女自体が『ある国の消滅』を発表した。

「消滅?国が無くなるって…」

「五年に一度の会議で決まることもあるけど、この場合普通に国民と領土と主権が消えたから」

「そんなこと出来るのか?」

「国民はほら、国外に避難させられたじゃん。中に残った人たちも、軍人はともかく全員避難し終えた想定で来たから、魔女はね、誰も生き残らなかったんだって。国民が消えたから主権も同時に消えた。領土に関しては住める土地じゃなくなったって意味で」

「その、毒?を魔女も使ったのか」

「いや、それがよく分かんないんだけど、」

「寝てたのか」

「寝てない…一応起きようとはしてた!でもだって授業つまんないし…てか、そういうことじゃなくて、魔女が宣戦布告した11月12日から30日までの記録が無いんだよ。誰も見てなかったから。或いは観測者も全員死んだから。馬鹿な雑魚が思い上がった結果、人も文明も滅びたってわけ。科学史は以降300年以上遅れることになったんだってさ。お陰で今も愚かな人類は風邪のひとつさえ治せないでいる」

アキラは目の下に皺を刻むと胸を押さえ、ゲホゲホと咳をした。群青色の青空の中で白い太陽が小刻みに揺れる細い肩を照らしていた。胸にヒューと息を吸い込み、

「わかる?君はそういう奴に会おうとしてんだよ?」

と、少年に問いかけた。

 水平線の彼方に平べったい岩山のような影が見える。どこかの大陸にも思えたが、実際は黒い大気が街の上空を覆う小さな島かもかもしれなかった。少年は拗ねたような口調で、

「俺は何も、悪いことをしていない。魔女に怒られる筋合いもない」

と、こぼした。それにはアキラも「まあ…そうだけどさあ」と、白い頭を掻いた。二人は太陽の陽射しに肌を焼きつつ、船のスクリューが水を掻き分ける音に意識を委ねていた。

 若い船員も思うところはある様だが黙ってタムラの背中を撫でていると、

「アンタはどうして旅してる?学校行ってるんだろ」

何とも無さげに尋ねられ、紫陽花色の瞳で、犬のごわごわとした硬い毛皮を見つめながら、「卒業した。今はだから、卒業旅行って感じ」と、答えた。

 その後アキラは船の中へ戻って少年が持って来た外国の小説を読み始めた。そもそも外国の文字が読めないのだから彼が本を持っていたって仕方ないのだけれど、アキラは代わりに「教科書」をくれた。

「ソイツも守りたいんなら強くないと。誓いは何が使えるの?」

「基本的なのと、火、出すやつ」

「それだけ?じゃあ尚更だ。暇だし教えてあげるから、持っておきな」

少年は甲板から身を乗り出し、細かな水の飛沫を浴びていた。

 船員には少なくとも周りの英気を水に変える誓いの習得まで、体系的に学習を続けなければならないと宣言されていた。だが、まだ殆ど神秘に触れたことのない少年は、水を発生させるとはどういうことだ、水を生み出せるのなら遠くの村まで行って新鮮な水を買ったり雨乞いする必要も、雨のためにぬかるんだ道を我慢する必要だってなかったはずだと幼ながらにその存在を、楽することを恨んだ。実際のところ、少年の想像するものと誓いで生み出された存在は“それ自体が異なる運命を持つ”のだが、まだそこまで考えが及んでいない。しかし一方で、初めて見る海のキラキラとした水面を覗き込んで、海水魚や珊瑚まみれの岩に怯えつつも興味を示していた。そして水を生み出せるのならば、自分にだって海を創れるかもしれないと夢を抱いた。

 けれどもその日は師匠であるアキラが「本読んでから」と授業を先延ばしにしたため、少年は甲板でダラダラと過ごした。夕方にもなると気温が下がって来て、デッキを掃除した後は(ついでにモップを追うタムラと遊んだ後は)、犬を抱えたまま日陰でうつらうつらとしていた。

 するとそこへ誰かがやって来た。薄目を開けると何故か傘を差したイル・モーロが彼らを見下ろしており、大きな布で、犬ごとすっぽりと少年を覆い隠して船に戻って行った。それを彼なりの不器用な優しさだと思った少年は、肩まで布を下ろし、アキラが夕飯だと呼びに来るまで眠り続けた。

 その日の夕食は、香味パン、塩漬けの鰯のマリネ、ホワイトアスパラガスだった。また例の祈りの後、アキラは二枚のパンでマリネを挟み、サンドウィッチにして食べていた。少年もそれに倣い、タムラにはパンの耳をやった。

「美味しい」

「ありがと。食べ終わったら一緒にトライフル作りだよ」

「トライフル?」

「何て言うか、残り物ケーキっつーか」

タムラは食後まで待てず、イル・モーロの椅子を引っ掻いておこぼれをねだった。彼は香味パンからドライフルーツを取り除いて犬に与えた。

「ああ、ごめん」

「構わないさ。犬は肥ってるのがいい」

細身で病的で、薄い金髪を片側だけ伸ばした近寄り難い容姿からは想像もできない余裕のある心の持ち主だと少年は感心した。

「さっきも…毛布…」

「別にいいんだ。俺が好きでやってるんだからな」

婦人といいアキラといい、この男といい、世の中には善人が多いものだと、少年は照れ臭そうに笑った。そういえば二年前に村であった盗人達も——と、黒曜石のような人の放った炎が死骸を燃やすその奥で、少年或いは火の輝きをじっと見つめる異国の軍人、そして彼の顔を隠す錆びた仮面の蕩けた業火を、昨日見た夢であるかの様に彼は思い出すのだった。バウバウ、バウバウとタムラが吠えていて——

 突然カッと強い光が船を照らした。

 少年は反射的に目を瞑ったが、暗闇の向こうではガタンと誰かが席を立った。

「犬を持っていて」

アキラだった。

 匙を置き、彼は呑気にパンを食うタムラを抱き上げようとした。だが意地でも食べ続けようとする犬は、パンを口に咥えたまま彼の胸に押しつけられ、机の下へ避難した。イル・モーロの黒いズボンが目の前にある。

「アキラは?平気なのか?」

「たぶんな。相手は海賊か警ら隊か軍か何かだ。こっち、見てみろ」

男に招かれ、少年たちが窓から外の様子を見るとそこにはアキラの足首があった。

 彼らの乗る船の横に漁船の様な物が着いていて、中から出て来たならず者共が、アキラより頭二つ分も大きい海賊共が彼らの船員に詰め寄っている。アキラを一方的に怒鳴る男の声が、まるで煉瓦のように窓ガラスにぶつかって少年を怯えさせた。漁船の蓄音機からはクラシックのひび割れた音が聴こえている。アキラは熊のような海賊に腕を掴まれており、そのまま相手の船へ拉致されてしまうのかと思いきや、フッと男に息を吹きかけ、忽ち頭を凍らせてしまった。そして腕を振り払おうとしたタイミングで、周りの銃やマグロ包丁を構えた海賊らごと衝撃波で吹き飛ばし、眼前の氷漬けの頭は顔面がズタズタになって血が噴き出た。少年とアキラを隔てる窓も嵐の時のように激しく揺れ、彼はタムラを強く抱き締めた。

 アキラの細い腕から海賊の指が離れてゆき、ふらっと後ろへ倒れかけた男の体を別の海賊へ叩きつけた。しかしその狂った海賊はまだ死んでるとも分からない仲間の体を包丁で真っ二つに切り裂き、血の中から現れてアキラの両目を潰そうとした。アキラは口を閉ざしたまま片方の眉を吊り上げ、あからさまに顔を引き攣らせていた。無意識のうちに背中をのけぞらせ、男から距離を取ろうとしている。だがその背後にも、漁船からも、アキラを攻撃しようとしている悪人がいた。そのまま四方八方から攻撃を喰らい魚の餌にされてしまうのか、或いは死体を回収されて、長い航海の鬱憤を晴らすための肉袋にされてしまうのか、血溜まりに沈むアキラの白い頭髪を想像して少年は吐き気を催した。

 だが彼らの船員は、

「近づくな!」

と、叫び、防御する光の膜を作り出すとその中から、

「〈私は英でる者〉」

酷く落ち着き払った声で「誓いの言葉」を呟き、全方位に黄金の槍を突き立てた。

 雷樹の様に足元から生えた槍の大群はアキラの防御壁自体を打ち壊しながら海賊らを串刺しにし、まるで波紋の様に何度も空中へ突き上げた。蓮の花が落ちた後の悍ましい残骸よろしく穴だらけになった海賊らだが、漁船にはまだ生き残りがいた。アキラは通り道にある死体を踏み越え隣の船に移ると、甲板の老たるならず者へ手を伸ばした。だがすぐ横の壁には開きっぱなしの扉があって、そこに潜んでいた若い男がアキラを撃った。レコードの音声を掻き消す銃声が轟き、アキラは一瞬海の方へよろめいた。

 少年はあっと顔をひしゃげさせて身を乗り出した。しかし血の海と化した甲板の向こう、隣の船ではアキラが、「クソが!」と激怒していた。

 先に右手を払うと老人が持っていた銃を持ち主の顎にぶつけて一時的に動けなくし、その間、船内へズンズン侵入して行くと、暗室の中で何かしらの報復をした。暗闇から出て来た時には専ら相手の血で白い頭髪がギトギトの束になり、右の小さな拳は皮がめくれて腫れていた。

 きっと痛かったのだろう。老人のことは左手で指し、彼が歯茎にぶら下がっている折れかけの歯を見せ血の泡を吐きながら必死に命乞いをするのも意に介さず、天井に、床に、萎びた体を何度も打ち上げ、叩き落として、老人が柔らかい肉の塊になってしまうとやっとそこで眉間の皺を無くし、ほうと溜め息をついた。

 床の血で滑りながら何とか少年達のクルーザーまで戻って来ると、やれやれという感じで扉を開け、窓際の彼らに冷たい視線を遣った。

「見てたの?」

「途中まではね」

イル・モーロが親指で隣の少年を指す。彼はアキラが無事と分かるや否やタムラを下ろし、ヘロヘロと項垂れ手で顔を覆っていた。

「気持ち悪くなるなら見るなよ」

アキラは苛立ちの混じった声で彼を責めた。

「こっちは見たくないもの見せられてんのに。胸糞悪いわ。怪我したし」

「それはご苦労だったな。で?結局アイツら何だったんだ?」

「海賊まがいの違法漁船だよ。魚獲るついでに海上で内臓や金品の受け渡しもしてる。まさかアンタらの顧客じゃないよね?仲間内でシマ荒らしあっての?馬鹿過ぎでしょ」

「俺に言わないでくれよ。アイツらは何て言ってたんだ?」

「知らない。何語か分かんなかった」

「まあ、ああいうのはどっかの国の反社のお得意さんだろうな。たぶん俺たちの仲間じゃない。というかそれは腕見りゃ分かるじゃないのか?そうだよな」

「勝手にして。ついでに片付けて来て。あと、もしアンタらがアイツらとおんなじ様なことしたら普通に手ぇ切るから」

「え、既存のビジネスから撤退しろって、そんなの俺ひとりじゃあ…」

「違う。あんなのビジネスじゃない」

「どんなの?」

「見れば分かる。いいから見て来てよ。あと死体片付けて。ほんと気持ち悪い」

「まったく、俺が船長だってのに!ほら、少年、行くぞ」

「どこにコイツを連れてく必要が?どうせ何にも出来ないんだから。早く行って。一人で行って。一人で片付けられるでしょ…」

アキラはその後も、「見てる暇があったら食べとけよ。硬くなっちゃってんじゃん」と、文句を言い、また食卓に戻った。

 苛立つ船員に急かされ、イル・モーロは傘つと渋々外へ出て行った。もう少年は窓から作業を覗き見るなんてことはせず、ただ落ち込んで、気分悪そうに座り込んでいた。

 しかしテーブルから、

「聞こえなかった?アンタはそこで何してるわけ?」

と、アキラに咎められ、食欲はとうに失せていたものの椅子へ戻り皿に向かった。一方のタムラはようやく解放されて、パンのカスを食べるべく机の下を歩き回った。

 辛うじてホワイトアスパラガスを齧っていた少年に、

「アンタ、その犬がボコボコにされたらどうするの?」

と、アキラが尋ねた。アキラは脚を組んだ状態で、頭に包帯を巻いている。というのも先程の攻防で、防御壁によって大幅に威力を殺したものの額に銃弾があたり皮膚が裂けたためだ。右手の甲も皮が剥けて腫れているし、治療するだけでも大きな痛みが伴うはずだから声と顔が不機嫌そうなのは仕方ない。

「やり返す」

「よね?人体が壊れたら気持ち悪いのは当然の感情として、いちいち感傷的にならない方がいいよ。寧ろ怒りの感情を大事にして生きていかなきゃ。損するのは自分なんだから」

あとソイツも、と、タムラを指差したところ、何か貰えると勘違いした犬はアキラの方へ向かった。

「うわ、さもしいデブ犬」

そう言いつつも背中をひと撫でしたが、飯じゃないならいいやとタムラは踵を返した。


 三日後。快晴の日が続き、少年の肌は一層黒く焦げついた。船が砂漠の海岸に寄港し、もう目的地に着いたのかと思いきや、

「まだだ。第四国の奴に品物を届けなきゃならなくてね、一旦ここで降りる。アキラ、来い。少年は船を守っといてくれ」

あれほど外出したがらなかったイル・モーロが、翻訳した本の紙束を薄っぺらい革の鞄に詰め、その上から黒い薄布を被り、まるでシーツの幽霊の様な格好で船を出た。アキラも腰のベルトに二丁の拳銃をぶら下げ、全身に日焼け止めを塗りたくった上で布をすっぽりと被り、目だけを出した格好になった。

「明け方には帰る。外には出るなよ」

じゃあな、と、イル・モーロがタムラの濡れた鼻を触っていった。犬はぶしゃんとくしゃみをした。彼はやはり傘をさしていたが、この場合は焼けつく太陽から自分を守るためだと納得することができた。

 海と砂漠の間で一人になった少年は、男の言いつけを守り船の中で一日を過ごした。

 裸足で床板を踏み、グラスに水とパッションフルーツシロップを注いでジュースをつくった。多肉植物の鉢植えが置かれた窓辺に寄り、ラジオの電源を入れてジュースをひとくち飲む。イル・モーロとアキラの二段ベッドの近くにソファーがあるので、薄汚れたタンクトップも脱いで裸になり、タムラを腹の上に据えて寝そべった。口の中にパッションフルーツの甘さが染みついている。ラジオではどこかの国の陰鬱な民謡が流れていた。少年はその曲をリクエストした誰かの見知らぬ故郷に想いを馳せた——


 両手で抱えきれないような大きなドブネズミ一家が足元を駆けて行く。石畳は雨に濡れていた。その時彼は女であり、小さな足に黒いローファーを履いていた。りんごの皮や青ネギの詰まった生ごみの袋がアパートの横に堆く積もっていて、家々の屋根の隙間から見える今にも大粒の涙を溢れ出しそうな曇天の向こうで、黄色がかった空に煙が三本伸びている。彼女は首をもたげ、雨晒しにされ灰色になった洗濯物に目を留めた。突然白くぼやけた視界の中で、掠れたオルゴールの音が聴こえ出す。大通りを挟んで正面に位置する家の二階の窓に、菓子箱のような小さいオルゴールがあった。音はそこから聴こえるのだろうか、箱の表面に取り付けられたバレリーナ人形がくるくると回っている。彼女は路地から飛び出して、煉瓦造りのその家の、地下へ繋がる階段を降り、丸いドアノブを両手で握った。何かに追われているのか、彼女は扉が開かないと分かっているのに何度も取っ手を捻り、ドアを叩いた。それでも駄目だと分かるや否や、彼女の溜息と共に視界が暗転し、次の瞬間には見える物が全て右に九十度傾いていた。はあ、はあ、という荒い息と共に不鮮明な光景が映し出される。彼女は地面に這いつくばり、煉瓦か湿った木の板に頬をくっつけ、格子窓の隙間から中の光景を覗き見ていた。自分の吐息が骨を伝って頭に響く。腐乱臭に青ネギの臭いが混じっていた。暑いのか寒いのかは定かではない。だが異様に興奮していた。心臓がバクバクと音を立て、左心房の弁が開いたり閉じたりする振動でさえ明確に感じ取れた。彼女が見ている地下室には蛙の目玉のような黄色い電球が煌々と灯っている。青っぽいコンクリの壁には裸で逆さ吊りにされた中年女がいて、鉄棒の刺さった股からは血が流れていた。駄肉のついた腹には無数の青あざがあり、殆ど歯のない口でオエオエと泣いていた。彼女と向き合うように、これまた中年の男が椅子に縛り付けられていてた。彼は背中の皮が所々剥がれ、残酷なパッチワークをつくっていた。男は側に立つ軍人か何かに麺棒で顔面を殴られ、一瞬ではあるが横を向いた。ラズベリーの様にぼこぼこと膨れた彼の顔に彼女の視線は釘付けになった。はあ、はあ、と息が上がり、心拍数が上がっていく。頬に涙が伝った。男は赤紫色に腫れ上がった顔で、まだ手をつけられていない左の目で確かに彼女を見た。魚の様に鬱血し、飛び出た唇は硬く閉ざされたままだったが、彼が僅かに首を振るのが分かった。彼女も首を振り返した。嫌だ。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……、お父さん!お母さん!!

 その時誰かに肩を掴まれ、彼女はハッとして振り向いた。


「うわあああ!!!!」

悪夢を見て叫びながら起きるというのは少年にとって初めての経験であった。

 犬がぼてりと床に落ちてしまったのも気づかず、少年は掌で顔を覆って頬肉を揉んだ。全身が汗で濡れている。

「〈時刻は午後零時、ここで最新ニュースをお届けします…〉」

ラジオはパーソナリティーを変えて相変わらず続いていた。

 彼は自分が泣いていたのに気がついて目を擦った。そこへ主人を心配したのかタムラが戻って来て、手と手の間に自分の顔を捩じ込み甘えてきた。少年は、犬の柔らかく、小さな体を抱き締めて、傷ついた心の失った肉を取り戻そうとした。

「タム…」

何も分かっていなさそうなこの無垢な生き物を胸に押しつけ、

「お前は逃げるんだよ」

と、囁いた。犬は、はっ、はっ、と息を切らすばかりで何も答えない、理解していない。

「そうだよな、暑いよな…」

ただ生きているばかりの犬の様子を見ていると、少年も段々悪夢の内容気にするより、寝苦しかったのが原因だ、体温を下げなければならないと冷静になることができた。

 体を起こすと、床に放置していたジュースを飲み干した。当たり前だがぬるくなっていて、甘さが舌に絡みついた。彼は裸足のまま台所へ向かった。

 すると後ろから着いてきていたタムラが何かを見つけて猛烈に吠えた。少年の心臓は一瞬凍てつき、流しの棚から包丁をサッと抜いて振り返った。

 タムラの視線の先、ラジオの置かれた窓の向こうにジッと彼らを見つめる人影があった。少年は目を見開き、少し遅れて言葉にならない叫び声を上げた。

「タム!」

その場で犬を手招き、人影からは目を離さないようにして抱きかかえた。

 暗いうろのような二つの目で船内を覗き込んでいた来訪者は、少年らの存在に気づくとわざわざ窓硝子をノックして彼の反応を待った。真っ赤な唇にはずっと穏やかな微笑を湛え、黙って少年を見つめ続けている。

 だが彼はイル・モーロの言いつけで船外に出るわけにはいかなかったので、タムラを抱いたまま、必要以上に近づかないよう指の先で開錠し、窓を開けた。額に入った絵のような真っ白い女の顔が少年を見つめていたが、それより凄まじい熱気が中に入ってくるのに耐えられず、彼は今すぐにでも窓を閉めたくなってしまった。

「誰だ⁉︎」

少年は熱気を振り払うつもりで包丁を振り回していた。

 そんな彼とは対照的に、女は汗ひとつかいていない陶器の様な白い顔で、

「〈こんにちは。ハニガンと申します。ひとつ確認したいことがありまして〉」

と、両目を右に、左に動かし、船の内装を確認した。

 少年はハニガンの言葉が分からず顰めっ面で首を傾げたが、彼女は割れたピスタチオの様な、つまりほっそりとした輪郭に長い黒髪で額の上に垂れ幕をつくり、そうあるべきだとでもいうような美しい顔を崩さぬまま質問を続けた。

「〈私は勇者がどこへ行ったのかを知りたいです。彼の行方を知りませんか?〉」

「何?何語なんだ?」

「〈すみません、おっしゃる意味がわかりません〉」

「分かる言葉で喋れよ。もういい、部屋が暑くなる。じゃあな!」

「〈勇者はどこにいますか?〉」

台所へ向かった少年の背中を二つの瞳が追う。彼女は無視されると灰色のグローブをはめた手で、コンコンコン、と窓枠を叩き、

「〈勇者はどこにいますか?〉」

と、同じ質問を繰り返した。

 タムラに水を与えていた少年は鬱陶しそうに振り向き、グラスを空にした。ハニガンの質問がうざったいばかりではない。彼女の格好は見ているだけで暑かった、暑苦しかったのだ。恐らくウール製のグレーのコートにロンググローブ、黒い大きなボタンは顎の下まできっちり閉めて、重たげな瞼と赤い唇が真冬の装いに華を添えている。少年は呆れ返って溜め息を吐くと、ダイニングテーブルからメモ用紙とペンを取って彼女に与えた。

「書いて」

「〈ありがとうございます〉」

それから彼女の書いた単語を幾つかあるイル・モーロの辞書の中から探し出し、三十分後には意味を知ることができた。

「私、捜す、勇者…」

少年は目を丸くした。それと同時に呆れて、乾いた笑みを漏らした。指の先をメモに打ちつけ辞書を閉じる。

「こんなの信じてるなんてな…」

だが迷信だと一笑に伏すにはあまりにも奇妙な巡り合わせだった。

 もううんと昔のことの様に思えるが、少年は二年の月日を共に過ごした老婆の妄言を思い出していた。

『あの人でなしめ。呪われた怒りが聞こえぬか。誰が忘れようとも、お前が忘れようとも!決して裁きからは逃れられん…よく聞け、お前よ、見捨てられし子供よ…我らは未だ奴の罪に呪われているのだ!聞いているのかお前!お前に言っているのだ、カオラインの息子よ!』

老婆は占い師だか何だかの一家の末裔らしく、生まれつき挙動不審で訳のわからない叫びを上げたり夜中に歩き回ったり、目が悪いため畑仕事を出来ないからと村では手余し者として、人目につかない荒屋へ隔離されていた。皮肉なことにそれが幸いして、村が襲われた際には外へ出ていた少年を除く唯一の生存者となったのだが、彼女は『勇者』の存在を信じ、そして憎んでいた。

 だから少年は一度だけ老婆に聞いたことがあった。

『勇者勇者って…何がそんなに気に食わないんだよ』

これを聞くや否や老婆は下唇を震わせ、キエエと発狂し、泥を拾って少年に投げつけ始めた。

 だから彼は、ずっと老婆にとっての『勇者』がいて、それに裏切られたか何かをされた結果このように狂ってしまったのだと、血の繋がっていない老婆に対し、寧ろ憎しみさえ感じていた。

 しかしあの老婆以外にも『勇者』の名を口にする者が現れるとは、少年は口を噤んで指を机に打ちつけていた。その間にも、

「〈すみません〉」

外ではハニガンが待っていて、彼女はもう一度窓硝子を叩いて少年を急かした。

 彼はメモを持ち上げて、今や彼女と同一言語による意思疎通が出来ないことを悔しく思った。その上彼は文字が書けない。アキラやイル・モーロの活動を側で見ていたから辞書の引き方ぐらいは分かっても、自分の思いを綴ることはできなかった。この場に船員たちが居たら代筆を頼めたのだろうが、生憎彼らは街の方へ行っている。

 仕方なく少年はメモの裏に絵を描いて、ハニガンに見せた。

「〈これは…〉」

彼女が顎の下に指を添え、困惑するのも無理はなかった。

 地図のつもりなのか、長方形の枠の中に十六個の国が正確な位置関係を全く無視して描かれており、枠外にある十七個目の丸に矢印が指してあった。少年はそこを指差し、

「世界の中心にいるとかいないとか…神の側に…俺たちはここにいるだろ?だから、どっから見ても中心なわけ、そこにいるらしい。なんか、よく…わからないけど…」

曖昧かつ不明瞭な少年の説明をハニガンは黙って聞いていた。しかし反応が悪いため、彼は更にタムラを抱き上げ、犬の頭のてっぺんを現在地だとすると、『勇者』がいるのは臍のあたり、つまり世界の中心だと熱弁した。

「これ分かってるのか…?」

ハニガンは顔をぬっと近づけ、タムラの臍を凝視した。

「〈ふーーん〉」

居心地悪そうにした犬が足をばたつかせ、彼女の高い鼻を蹴飛ばしそうになると、

「〈わかりました〉」

そう言って彼女は身を引いた。

 少年の描いた下手くそな地図をさりげなく回収し、ずっと跪いていた状態から暫くぶりに立ち上がった。すると彼女の長身痩躯が顕になり、思わず少年は顎を引いて、恐ろしいものを見る目つきで彼女を見上げた。

 そこに、

「〈ありがとうございました〉」

と、立ったまま腰を曲げ、彼女がお礼を言ってきたので少年はタムラを抱えたまま後ずさってしまった。

 だが彼女は気にせず砂漠の彼方へ歩いて行った。後頭部で結えた馬の黒い尾のような髪が、小さな尻の前でゆらゆら揺れていた。男は何でも動く物に目を奪われがちだと言うが少年も暫く彼女の後ろ姿を見つめていた。

「〈…ではS市在住のヴェルギリウス・ヒカナトイさん二十六歳が行方不明になったまま一週間が過ぎようとしています。情報提供を求めるビラ配りにはヴェルギリウスさんの家族に加え、恋人のハギヅキさんも協力し、懸命な搜索活動が続いています。当時ヴェルギリウスさんは……〉」

ラジオからも異国の言葉が流れていた。

 少年はつまみを回転させ、適当に自分の母国語で喋るチャンネルに変えた。そこではやたらテンションの高いDJが、早口で愛国主義的な原稿を読み上げていた。

「芸術だけは原産国を不問とする、ですって!ああ女王陛下万歳!その勢いは留まるところを知らず、彼らを知らないのはもはや地球裏のマーラだけとなりました!では早速聴いていきましょう!エル・セル・ドリューで『ビッグ・ディッパー』!」

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Depressed Dog: 憂鬱な犬 @Blue_Stahli

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