Depressed Dog: 憂鬱な犬

@Blue_Stahli

第1話 Behold Boy!


 雨漏りのする荒屋で老婆が魚の頭を切り落としていた。まな板などない。水を吸った黒い切り株の上で病気の淡水魚を切っている。血と潮の生臭さは湿った土の匂いでいくらかマシになっていた。擦り切れ、皮膚をちくちくと刺す不快なばかりのござの上で老婆は両手足を剥き出しにしていた。熱帯雨林の蛭の這う茶色い枝を彷彿とさせる、細い手足だった。爪はでこぼこで黄色く変色していた。目もろくに見えていなかった。それでも老婆は生きて、死んだ魚を切り刻んでいた。それは同じ家に暮らす少年と、彼の犬に捧げられる食事となっていた。

 今、家の中に老婆の姿はない。明朝息を引き取ったのだ。

 玄関というにはあまりにもお粗末な、藁の壁の割れ目の近くで少年と彼の犬ーーーーいかにも雑種らしい耳のとんがり方と毛並みをした中型犬ーーーーが出立の準備を進めていた。外は明るく、白き陽光が荒屋中に差し込んでいた。しかし光が届くのは彼らのところまでで、今朝まで老婆が座っていたござと魚の血の染みついた切り株は未だ夜の闇に浸かったままであるかのように暗く、沈んでいる。

 濁った瞳で魚を見つめ、わずかな鱗のきらめきを頼りに包丁を振り下ろしながら、老婆は常に言っていた。

「お前は今に全てを捨てて行くんだろう。全てを捨てて…隠してるつもりかい。口には出さねが、無駄なもんさ。お前の目には、あのならず者が映ってる。忌々しい、忌々しい、お前もここで、苔むした岩になるんだよ。そうだろう、勇者様の示してくだすった、馬鹿な人間共には相応しい最期じゃないか。それなのにお前は、何を知った気になって…どこへ行こうっていうんだい…お前なんか、お前なんか…」

老婆の陰鬱な雑言を、少年は家の隅っこで犬を撫でながら半分聞いて、半分聞いていなかった。犬と同じ濡れた目をして、頭の中ではある日村に訪れた災厄と『ならず者』の記憶を繰り返し再生していた。

 それは今から二年前、村に少年と老婆以外の人間がまだ存在していた頃のことだ。千年前からほとんど変わっていない藁葺屋根の数戸の家と、そう遠くないところで血の繋がっている住民たちが家畜の鶏、豚などと暮らしていた。時折村へやって来ては「保護」と引き換えに米などを奪っていく軍人さえいなければ、彼らは政治と無関係でいられた。勿論山を越えたところにある市役所とか国に収める税金とかそういったところで世の中との繋がりは持っていたが、互いの評価は「ほとんど無害」であった。海を隔てたところにある大国の住人からしたら時間の停滞を肌で感じて気が狂いそうになる生活水準に違いなかったが、少なくとも平和ではあった。

 幸せの基準は人によりけりである。しかし死と痛みと隣り合わせの生活を好んでする者はそういない。よって、彼らはその頃多くの人間に比べてまあ幸せだったのではないかといえる。と、言うのも、世界の大半の人間は、「平和」とは程遠い生活を送っていたからだ。経済が破綻しているとか自殺率が上昇傾向にあるとか、生きていくことを前提にした「平和」が脅かされているのではなかった。そもそも明日命がある保障はどこにもなかった。

 「我らの敵」「意志を持った災い」「罰」----様々な呼び方はあるにせよ、世界には魚と鳥と虫と動物の他に「呪い」があった。「呪い」が呪うのは人だけではなく時に他の生命体、それも人間たちが「呪い」に分類する同族までもを呪い、生活を破壊し、多くの場合、命を奪った。そのやり方は千差万別で、第一に殴って殺したのか、神秘的な力を使ったのか、なぜ殺したのか、どこから来たのかなど説明のつかないことばかりだ。正確には幾つかの「呪い」に関しては詳細な説明を加えることも可能であったが、「呪い」を一般的に語ることはまず不可能であった。

 「呪い」は移りゆく。

 そして際限が無い。

 人々は「呪い」に抗うため、終わりなき戦いを挑んでいた。まともに、即ち解決の糸口を見つけ、排除に向けて剣をとれたのは三百年ほど前だと言われている。人間の歴史はそれよりも遥かに長いと研究で明かされているから、実際どれだけ人間が無抵抗のうちに死んでいったのかが分かるだろう。

しかし研究も歴史もあくまで神話だ。

実際に開戦の火蓋が切って落とされた瞬間を見た者はいないし、三百年以上生きた人間と会ったことのある者、或いは自分がそうであると名乗りを挙げた者はいない。

ただ終わりなき戦いを強いられているという人間の現状だけが真実である。

 だが興味深いことに、この世で唯一「永世中立国」を名乗ることを許された国が発行する『世界を知るための50項目』という非常に信頼性の高い、黄色いカバーが目印の異常にぶ厚い(鼠の背ほどもある)本によれば、世間の人間たちから寿命を縮め、不幸をもたらすものとして特に恐れられる五つの存在があった。だがその中に「呪い」の存在は認められなかったのである。どんな「呪い」もそれらに比べれば恐るるに足りない、ということだ。

人々を恐怖のどん底に陥れる「呪い」以上の恐怖とは何なのか。これらの項目を読めば本の意図している通り、概説的ではあるにせよ『世界を知る』ことが可能になるだろう。尚、翻訳版は多少文体に違和感を覚えるところがあるかもしれぬ。そこは「永世中立国」以外の読者全員が平等に我慢しなければならない。以下はその抜粋である。



【特集】

  60年版!“最恐ランキング”総選挙!!

  結果発表ーーー!!!


我々永世中立国の情報局調査員広報委員会は単なる情報収集屋ではありません。国々が政治的な理由で分断されている中でも人々の知的交流を促進し、異文化交流を促進することに重きを置いています。そこで今回は世界中の人々が何に対して恐怖を感じるのかに関し、我々の最高指導者、「真昼の魔女」の名のもと(文字通り)全国的な調査を行いました。現在国として数えられている16ヵ国のうち、我々永世中立国を除く15ヵ国の約2憶7900万人の方に協力して頂き、このランキングは作成されました。集計にあたり、例えば「名前の無い宗教団体」とか「あの親殺し共」とか、蔑称(別称)で回答されたものに関しては正式名称に統一し、ランキングが細分化され過ぎないよう、あまり票数の集まらなかった事物はひとまとめにして掲載しました(地震、雷、津波は「天災」とするなど)。以下は100位~1位までの結果となります。また、5位以上に入賞された方/ものに関しては別途ページを設け、ささやかながら特集を組ませて頂きました!ではお楽しみください!


100位 BLTのコンサートの当落結果

99位 MTGのコンサートの当落結果

46位 UNDER KUMMERが完結するか

45位 エドが火をおこせるか

44位 エドの腹痛が治るか

6位 卒業試験

(次頁からトップ5の発表!)


5位:失敗作

そう呼ばれる理由は主に二つあります。ひとつは、その本当の名前を誰も知らないこと。どこで生まれたのか、女なのか男なのか、何に属しているのか、その素性は誰も知り得ません。そしてさらに、その目的、つまり、なぜ普遍的な一般人さえも恐れるような連続殺人鬼になったのか、誰も知らないのです。しかし「失敗作」は、まず第八国で犯行に及んだため、著しい繁栄を遂げる君主国に対抗するための人間兵器として実験的に作られたと主張する者もいますが、結局は悪意ある創造主の手に負えなくなり、暴走を始めたというわけです:つまり、「失敗作」は既に神の領域にあることなのです。彼らの評価が正しいか間違っているかは別として、このことは「失敗作」がそう呼ばれる二つ目の理由と繋がっています。

即ちその理由とは、古の人智を越えた力を、よりにもよってこの、力を持つに値しない素性不明の殺人鬼に与えてしまったということです。

ところで読者の皆さんは「我々の誓い(以下「誓い」とする)」について、どの程度ご存知でしょうか。ライターのように仕組みを知らなくても使えるのだから、知るべきは仕組みではなく、使い方だけだと主張する方もいらっしゃると思います。まあ、その通りでしょう。だから、「誓い」の使い方を既に習得している方も多いのではないでしょうか;実際にそれが叶うことを想像して、誓いを口に出したり、動いたりしてイメージを鮮明にすることで「誓い」を使うことが可能です。ここではその他の復習を行いましょう。

では、読者の皆さんの中に、何が「誓い」を実現させるのか知っている聡明な方はいらっしゃるのでしょうか。「誓い」は、物であれ現象であれ、「英気」からできています。「英気」は、究極的にはあらゆるものを構成していますが、それは生きている物体から発生するものです。だから、死んだもの、文字通り死体や石油や鯖のサンドウィッチは、少なくとも英気の断片を持っていますが、しかし、崩壊が進むにつれて、普通はその断片を不可逆的に失います。

ここから先は、より専門的な話になります。「誓い」にいくつ種類があるかご存じですか?私たちの中には、いくつの「誓い」が存在すると思いますか?現時点では、四つの種類があります。まず一つ目は、皆さんご存知の通り、「心からの祈り」、これは「真の誓い」とも言えます。つまり、一つ目以降のものは、少なくとも「心から」ではないということです。二つ目は「呪われた祈り」で、簡単に言えば「呪い」ですが、使用者は「サンタギラの法」と呼んでいます。三つ目は「人間に捧げられた祈り」で、これも「サンタギエラの法」と同じく邪道と定義されていますが、ほとんどの人はその存在と名前以上の意味をご存知ないでしょう。そして、私たちも三つ目に関しては同じです。使用者や開発者が死亡したか或いは別の理由があるのか、その使用者や活用例が非常に少ないためだと推測しているのですが、どうでしょう。そして最後の一つ、古の人智を越えた力は、「誓い」の普遍性を変えることも破壊することもできると言われています。その存在を知っている人は、「叶えられた祈り」と名付け、呼んでいます。

「失敗作」はどうやらこの「叶えられた祈り」を使うことができるようで、その力で共和制・君主制を問わず多くの人間を殺しています。しかし、それは一般人を対象にしていないそうです。生き残った市民は、「私たちと神の期待に敵対する者を逮捕してください」と、勇気をもって、その情報を明らかにしました。


4位:サンタギエラ

カステル・サンタギエラ自体は個人名ですが、彼らは宗教、経済そして政治の共同体です。その影響力は世界中に及んでいます。特に、医療分野や富裕層だらけの市場を通じて成長し、影響を及ぼしています。普遍的な神の力が及ばない分野に入り込み、お金や慈悲などでは満足できない渇いた心を満たし、替わりの臓器や人生、ドラッグ、無制限の寛容などでもって、最高の喜びを得ることができない心を満足させます。しかし、私たちはよく、誰かの幸せは誰かの不幸によって作られると耳にするでしょう。ここではこの訓戒に二つの意味が存在します。つまり、ある金持ちが欲しがって買った人生や臓器が、貧乏人から奪われていることです。「奪われる」という表現に対しては、「貧乏人も参加できる新しい市場を作ることで、彼らを生き延びさせてやってるんだ。むしろ私達は彼らがマトモになるための環境とチャンスを与えている」と主張する事業者がほとんどです。しかし同時に、そういう事業者たちもそれがビジネスの一側面に過ぎないことは知っています。彼らが提供する臓器の大半は盗品であり、世界の犯罪率の増大に寄与しています。と、ここまで説明しても、サンタギエラは既存の法律や倫理、秩序を認めていないので、犯罪率など(犯罪の定義からして)彼らには関係ないことであり、さらに、サンタギエラを偉そうに非難する億万長者の慈善事業家たちも、実際には彼らの顧客のひとりだったという実態があります。このように、宣教師、麻薬取締官、医者、家族、隣人、政治家など、あちこちにサンタギエラの信奉者は潜んでいるのです。もしかしたら、「自分は信者ではなく、ただの利用者だ」という人もいるかもしれませんが、自分の臓器でさえ明日には他人の体に収まっているかもしれないのに、彼らはサンタギエラの商品を通じて無意識に血の資本主義を養い続けているのです。


3位:主席国家

この世界には、16の国家があります。非承認地域は国に数えられず、未開拓地と見なされるため、永世中立国1カ国を除く15カ国が公式にその土地を支配する権利を持っています。この仕組みは、言語や文化の違いによる議論や対立、憎しみを根本的に払拭するために設けられたものです。このようにして誕生した16の国々は、経済力や軍事力、自殺率の低さ、出生率の高さなどによって5年ごとに順位が変動するため、個人名を持たず、例えば第一位の国は「主席国家」と呼ばれ、第二位の国はそのまま第二国と呼ばれます。だから、仮にかつて第三国に統合された地域が、国際機関に対して独立を求める訴えを起こし、永世中立国が「15位以内に入るだけの力がある」と認めれば、その地域は他国に代わって国として認められることになります。しかし、それは非常に稀なことです。

そして今、私たちの主席国家はケン・ゾクロウの治める国です(どの国にも名前がないので、読者にどの国のことを話しているのか想像させるのは困難を極める)。場所的には、「割れた大海」の西に位置する大陸の、下からおよそ2/3にあたります。彼らは伝統的に「我々の誓い」を、たとえそれが神から与えられた恩恵であったとしても、自分たちの生活を快適にするための道具と解釈し、宗教に対して配慮することなく進歩し続けています。そのため、特に敵対する君主国では、彼らを功利主義、あるいは「血の通っていない親殺しの集団」と評価しています。今回も、自分が恐れるものの代表として主席国家に投票した人のほとんどが君主国の市民でした。いずれにせよ、主席国家の国家公務員は神の威信などどうでもよく、それ以上に、神の代わりに世界正義の基準になろうとしていることだけは明白です。そして今の主席国家を語る上で外せないのが、主から神聖化を簒奪し、主席国家の呪われた下僕として恐れられる外交官、ミナノワタツイバミです(写真1参照。戦争で、「神話を描いた絵のよう」とまで称された顔面を酷く傷つけた後は、銀の仮面をかぶるようになった。彼についての詳細は、エドガー・クルスキ『栄光の国の創造者』を参照されたい)。彼は多くの点で戦争のプロといっていいでしょう。以前、彼はあるインタビューで、「私はおしゃべりが好きです。戦争のあとの、会議が特に」と、語りました。彼は外交官になる前は軍人だったのですが、その吐き気を催すような秘匿されるべき軍功と、平和な時代に似合わない力のために、一時的ではありますが外務大臣にしました(今は違いますが)。旧第三国(現在の主席国家自治区)で1万2千人の死者が出たというニュースにショックを受けた読者も多いでしょう。ケンの政府は、それが自分たちの計画で、ツイバミによる犯行だとはまだ認めていませんが、それが彼のキャリアを汚したことはもはや公然の秘密となっています。とにかく、彼はこうして自ら戦争を起こし、戦い、終わらせたのです。そして今もなお彼は国と共に生きています。この事実が、彼に生存を許された人々の傷を膿ませ、主席国家を憎み仮想敵とする人々から安らかな眠りを奪っているのです。


2位:砂の男たち

ミナノワタツイバミは(一応選挙で選ばれた政治家なので)国民から愛されていると言えるでしょうが、君主国の国家公務員である「砂の男たち」は国民からも全く愛されていないのです。私たちの調査によると、彼らに投票した人のうちの60%は、心の弱さから道徳的な罪を犯し、彼らに連れ去られることを恐れた君主国の人々でした。残りの40%は、彼らの所業を非難する人々からのものでした。

筆者が思うに、主席国家と君主国の公務員の質の違いは、前者が少数の恩寵的な才能の持ち主で構成されているのに対し、後者は残酷で飼いならされ愛国心を持つように訓練された一般人で構成されていることです。選りすぐりの狂気的な愛国者によって形成された「砂の男たち」(性別不問。だから、「砂の男たち」という小見出しのタイトルではなく、>悪夢の人攫い<とかそういうタイトルにすべきだと一時は考えました。しかし、現地では「砂の男たち」と呼ばれているので、ここでは注意書きにとどめています)が有名になったのは、収容所から脱走したある工作員の書いた暴露本がきっかけでした。彼らの「人間に捧げられた祈り」に関する非人道的な研究を明らかにしようとしたその工作員によると、まず、彼女は無意識の状態で、おそらく車を使って彼らの施設に連れて行かれました。それから目を覚まし、彼女は服を脱がされ、血の沁み込んだ藤椅子に縛りつけられていることに気づきました。寒さと恐怖に震えつつ、隣室の壁の下から流れてくる血を見て、そして誰かの悲鳴を聞きながら、何時間もそこで待っていました。すると、ゴム手袋をはめた巨漢の秘密警察の男(太っているのではなく筋肉質)が目の前に現れ、「名前と所属を言え」と言いました。しかし彼女が黙っていると、二秒後には顔面を殴られました。たった一発のパンチで、彼女は英気の壁を作りそれを防ぎましたが、いとも簡単に鼻梁が曲がって、白い歯は砕け、口の中には血の味が広がりました。椅子の上ですくみ上がっていると男がまた殴りかかってきたので、彼女は嘘の情報を話しました。男は彼女の怯えた目を見つめ、陰毛に火を点けると、足をばたつかせ、性器を炙られる痛みに叫び散らす彼女へ再び尋ねました。「あなたの本当の名前と所属は?」

彼女がどのようにして暴力と絶望の監獄から脱け出したのかについて興味がある方は、彼女の本を読むことをお勧めします(アシュリー・ゾクロウ『砂の男たち』)。とにかく、施設の人間は機械のようで、恐怖や人体の仕組みをよく理解していました。しかし彼らはその知識を効率的な拷問や国際法に違反した誓いの開発に利用しているのです。なお、君主国の女帝は暴露本の真偽こそ明らかにしなかったものの、秘密警察の存在はあっさり認め、「ゆえに恐れよ、逆らうな」と、宣告しました。「砂の男たち」は公に認められた人間製の兵器として、内外を問わず君主国の敵を狩り、残忍な方法で処刑し続けています。


1位:黒幕

多くの政治家や活動家が「黒幕」の存在に言及し、人々に希望を、或いは恐怖を与えています。しかし、ある物事の裏には黒幕がいて、それが糸を引いていると言っても、いったいどんな陰謀に加担しているのでしょうか?この問いに対する答えは、国や階層によって異なります。以下は、本著に寄せられた意見の一部です。

-勇者を「呪い」で殺した首謀者であり、主の息の根を止めんと陰謀を企んでいる親殺しの仲間に違いない!奴はケンに命じ、無神論という病を広め、憎悪と対立を煽り、大戦を起こそうとしている!(38歳/男性/聖職者/第五国)

-この時代、世界中に存在する「災厄」の総称だと思うんです。そして、それは神の被造物である我々と同じように生まれたものでしょうね。したがって、これらの「災厄」が発生した場合、どこに責任があるのかと問われれば、君主国の熱心な信者を除いては、我々には神を非難する権利があるでしょうね。(27歳/男性/音楽家/第八国)

-我々に降りかかる「災厄」というのは須らく君主国と功利主義者と真昼の魔女の間で行われている茶番に過ぎません。彼らは「災厄」を利用した代理戦争を行っているのです。つまり、これらの権力者はすべて黒幕なのです!(21歳/女性/学生/主席国家)

-誰も黒幕の姿を見たことがないだろ?カステル・サンタギエラも同じだ。あんなに有名なのに誰も見たことがない。俺の言っていることは理解できるよな?つまり黒幕はカステル・サンタギエラなんだ!二人とも、あらゆるイデオロギーを無視し、真に新しい秩序を築こうとしているからな。(60歳/男性/自営業/第七国)

-経済格差によって弱者を淘汰し戦争、移動の自由化で世界を支配しようとする国ですから、国家の陰謀であることはわかります。彼らは、私たちの命のことなど、まったく考えていないのです。私の不幸を笑う声が、ほら、聞こえてくるでしょう?ああ、私は病気なんかじゃありませんよ。仮に、仮にね、病気であったとしても病原菌は社会的なものであるに違いありません。彼らこそが黒幕なんですよ。え?『彼ら』が誰なのかって?私を苦しめる国のことですよ!(42歳/女性/医者/第十五国)

私たちは黒幕の正体を知ることはできませんが、黒幕が私たちに何を与えているのかを知ることはできます。結論として、黒幕は私たちに「災厄」や経済的、国際的、生活的な不幸を与えています。さらに注目すべきは、多くの人が黒幕に人間の姿を重ね合わせていることです。しかし、その黒幕がケンなのか、ガラムグダン(君主国の女王の名前)なのか、サンタギエラなのか、神なのか、今のところ分かっていません。

ちなみに筆者の意見を述べさせていただくと、黒幕の正体はコーヒーだと思うのです。コーヒーは美味しくないし、見た目もただ黒いだけ、豆など割れて腐った爪のようです。それにも関わらず、なぜか怪しげな薬のように人々を魅了し、原産地が限られているために多くの国で栽培できず、不当な価格上昇によって帝国主義を促すがゆえに経済格差を助長して、包括的な不幸を人々にもたらしているからです。読者の皆さんはどう思いますか?


 以上五つ、「失敗作」「サンタギエラ」「主席国家」「砂の男たち」「黒幕」が近代の恐怖の象徴となっているわけだが、「呪い」と違うのはその作用が特定の国、人物、希望者に与えられることだろう。更に魔女とその国の人間が『世界を知るための』を作成するにあたって、人々が敵対する恐怖の存在を指し「アイツこそ呪いだ」と罵り、データ収集に協力したのも面白い(後書きより全世界の「怯えて生きる方々」へ謝意が述べられていた)。だから「呪い」の存在が希薄になったというよりかは、新たな「呪い」が誕生したに過ぎないという見方もできる。

 さて、少年の話に戻ろう。

 少年とその村は三百年以上も前から観測されていた「呪い」とも、近年新しく恐れられるようになった身近な「呪い」ともおよそ無縁の環境にあった。主席国家群と覇権を争う君主国の連中が幅を利かせて、米をかすめ取ったり近所の娘を姦したりしたという以外、直接生死に関係のある被害は確認されていなかった。軍がそれなりに役に立っているのだろうと思い、ぼんやり生きること十年。

 税金は貨幣で納めなければならないので、特産品でもなんでもない、村で育てただけの鶏を町へ売りに行った帰りである。少年は泥の道を裸足で帰っていた。犬のタムラも一緒だった。肉球がぬかるんだ道に足跡を残した。

『タム』

少年は頻繁に振り返って、犬がちゃんとついてきているか、泥に足をとられて沈んでいないかを確認していた。タムラは自分で歩きたがる健康な犬だった。

 犬の「なんだ」と言いたげな、きらきら光る瞳を見て、少年は再び歩き出した。

 湿度が高く、今にも雨の降り出しそうな蒸し暑い日だった。村まではこのだたっ広い草原を越え、谷を越え、森を通って行かなければならない。ばばばばば……、と、どこかでプロペラの回る音がしていた。ヘリコプターが飛んでいるのかもしれなかった。運が悪ければ神秘的な力で墜落させられて、高所から落ちれば助かる見込みがほぼ無いことから折角開発されたにも関わらず、この機械は民間でも軍用でも使用されることはあまりなかった。乗り手がよっぽどの強者であれば話は別だが—--と、空を見渡しながら歩いていたところ、少年は水溜りを踏んだ。まだ雨は降っていないはずだと彼は後ろを振り返った。そこではタムラが黒い水溜りに鼻を寄せ、得体の知れない液体を舐めようとしていた。

 あっと鶏用の鳥籠を落とし、少年は犬を抱き上げた。腕の中で犬が暴れていた。

『なんだよ、もう』

足先を恐る恐る水面に浸し、彼は片足立ちになってそれが何なのかを見ようとした。

『あっ、血』

気づけば足の裏全体が真っ赤になっていた。

 泥のぬかるみでわからなかったが、血はそこら中に染み込んでいたらしい。

 少年は鳥籠を拾わず、犬を抱えたまま村の方に走り出した。

 プロペラの音がずっとついてきた。暗い山の中を泥まみれになりながら走って、途中、犬を下ろして息をついたりもしたが、またすぐに走り出した。谷底の沢にも血が滲んでいた。赤く染まった水の流れに少年は一度立ち止まり、蒼ざめた顔で眼前の山を見つめた。

 心臓がばくばくいっているのを感じ取って、犬が心配そうに少年を見上げた。視線を感じ、少年は犬の平たい頭を撫でた。毛が硬い。それから恐る恐る歩き出した。

 沢から村までは申し訳程度の道がのびている。勿論コンクリートなどで舗装された道ではないが、草の生えていない土の歩道になっていた。どうやら巨大な何かが血を垂らしながら村まで向かったらしく、道とその両脇にある笹のような茂みにも、虫の卵みたいに赤黒い血痕がぽつぽつとついていた。少年は鳥肌が立つのを感じた。犬を抱いていなければ、浅黒い肌を濡らす大量の汗を服で吸い取ることもできたのだろうが、そのときは肩を竦めて頬から顎に垂れようとする汗の筋を拭うことしかできなかった。

 緩やかな坂を上りきったところに村はある。

 たった十歳の華奢な体で、よくも中型の雑種犬を運びきったというものだ。彼はようやく犬を下ろし、残りの道を並んで歩いた。辺りは物音ひとつしない、静寂に包まれていた。鳥も虫も死に絶えた様だ。曇天から差し込む鈍い光が彼の視界を明るくし、村の惨状をあざあざと映し出した。

 得体の知れぬ、手足の這えた赤黒い肉塊が村の広場に転がっていて、血溜りの中にその、カビの生えたミンチ肉みたいなものと村の住人たち、そして何者かの断片が転がっていた。住人らは抵抗しようとしたらしく、農機具や包丁などが散乱していた。実際その抵抗にどれだけの意味があったのかは分からない。何せ息のある者は誰一人としていなかったからだ。少年はひとりひとりに声をかけ、首筋に手を当て、死んでいるのを確認した。しかし中には村の住人ではない、というのも彼らと肌の色が全く違う手足があり、それらはひとつとして原形を保っていない、つまり五体満足で残っている死体が無かった。

 少年は作業じみたその行為を追え、呆然と突っ立っていた。眉尻を下げ、今にも泣き出しそうな顔をしていたが、衝撃のあまり涙は当分出て来そうになかった。

 はあ、はあ、と息を繰り返すばかりで当惑していると、タムラが急に吠え出した。

『タム…?』

いったいなんだと犬の吠え散らかしている方に視線を向けた。

 そこでは丁度、住民の消えた家から見知らぬ誰かが出てこようとしていた。

 少年は犬を手招きながら後ずさった。

 タムラがばうばうと吠えているのは、黒ずんだ軍服っぽい服に身を包む、腐った川のような色褪せた金髪の、ここいらでは異様に背の高い男であった。血のついた抜き身のマチェーテを差し置いて少年の目を奪ったのは何よりもその、男の顔であった。顔面を骸骨のような仮面で覆い、表情はまるで読み取れないのに、仮面の表面が錆びた鏡になっているせいで己の恐怖に引き攣った顔ばかりが見えるという悪趣味な細工が施してあった。

 それでも首の向きから男が少年を捉えているのだと分かった。男は腰を屈めて戸を潜り、陽の下へ出ると立ち止まった。左の小脇に水菜と死んだ鶏を抱えている。

 瞬時に、食べ物を得るべくこの化物をけしかけたのかと少年は考えたが、自分の怒りを悟られてはならなかった。大抵軍人というのは敵意を向けられることを嫌い、相手の目の中に反抗の意を認めると予防策として危険分子を鎮圧する方向に意識が働く。少年は男から目を逸らし、未だにばうばうと吠え続けているタムラに鳴き止んでほしいと願った。けれども願うだけで足が竦み、眉を八の字にして俯き立っているだけが精一杯だ。結果として沈黙と、それを断続的に打ち破る咆哮が彼の胃をビクつかせ、そして暑さに拍車をかけた。肉塊と死体の浮かぶ血だまりがぶつぶつと煮え立ち沸騰する手前であった。

『おう!ようようよう…』

畜舎の方から肌の黒い、長身痩躯の陽気な外人がやって来て、右手を男に突きつけた。

『食いもんは見つけたか?じゃあもう行くぞ。』

それからくるりと腰を回し、少年に向かってニッと笑った。金の前歯が怪しげに光る。

『安心しな、“お前の敵”は殺しておいたぜ』

この男も左手には米袋を抱え、盗人であるのに間違いはなさそうだった。しかし一言も喋らず猫背で突っ立っているだけの仮面の男とは違い意思疎通が図れたため、

『あの肉団子か?あ、アンタらが呼び込んだんじゃないのか?』

少年はここぞとばかりにタムラを抱え、地面に蹲って尋ねた。

『肉団子?ちげーよ。俺らは浪人だ。ここらを彷徨いてたらやり合う音が聞こえたもんでな。助けてやったら食糧のちょっとばかし分けてもらえんじゃと思って来たんだ。ま、その時にゃ殆ど手遅れだったがな。』

『殆ど?』

『ああ。あそこん家の婆さんは無事だ。あとお前もな』

雨に濡れた土よりも黒い肌の中で、特別目を引く灰色の瞳が少年を見下ろす。少年も、戦えぬ老婆が置き去りにされた村の端の家を見つめた。

 話を聞くのに飽きたらしく、仮面の男が陽気な方の腕を小突いてひとり歩き出した。全身を覆う銃火器と刀剣とがガシャガシャと音を立てる。

『いってぇ!おい!内出血してんのが分かんねーのかよ?ったく、それじゃあな。婆さんと犬を大事にしろよ』

そんなことを言いながら、陽気な男も仮面の跡についていった。

 だが道半ばで振り返ると細長い指を伸ばし、

『“我が血のように”』

燃えよ、と、肉塊に火を放った。

 少年は頬に熱さを感じた。そして囂々と燃える死骸の山に視線を向け、汗がたらたらと流れてくるのも、それに集ってくる蠅も無視して日が暮れるまで炎を見つめ続けた。

 老婆が死んだ今、村には何も残っていない。

 もはや少年が村に留まり続ける意味は無かった。彼は粗末な家を出ると、傍にある土饅頭に視線をくれた。犬が道の先でワウと彼を呼んでいる。琥珀色の陽光が目的を果たした家々と、数十もの土饅頭、そして少年の背中を温めていた。最早誰も住むことのない、自然に還るべき人の在処を目に焼きつけ、少年は故郷を永遠に去った。


 父親の着ていた深緑の開襟シャツ、半端な丈のズボン、サンダル、腰のベルトにナタをひっかけ、首から下げた麻の紐に水筒やら薬の缶やらを取り付けただけの如何にも民兵らしい格好で少年は旅に出た。昼は暑いから、あの時の陽気な外国人に倣って袖を捻り肩まで上げ、口に虫が入るのを防ぐため黒い布で顔の下半分を覆っていた。タムラはというと、木の根が地面全体を這うような密林以外は自力で歩いた。しかし虫の多い所や足場の悪い地帯では、少年の大きな肩掛け袋に入れられて、顔だけを出し、ヘッヘと大人しく運ばれていた。

 彼らは山を降り、そしていつも鶏や豚を売りに行く町よりもっと大きな都市へ行こうとしていた。彼らの住む第十四国において最大の都市は、北に一週間ほど歩き続けてようやく辿り着く場所にあった。先進国らしく人の住む場所とそれ以外がくっきり分かれている国なので、道中は森、密林、湿地帯、虫と木を見ない日は無かった。

 けれども三日目の夜、大雨に遭って、これまで粗末といえども屋根のある場所でしか寝たことのなかった少年は風邪をひいた。木のうろへ逃げ込み、ナタで掌を切って、皮膚が痛痒くなるのと同時に熱を持ち始めるのを待って、

「“我が血のように”」

熱い火よ灯れ、と、囁いた。

 ぼう、と掌の上に火の玉が浮かんだ。傷口から血がとろとろと滴るのが見えた。空間が僅かに暖かくなり、少年は安堵の溜め息をついた。

 犬は体育座りをする少年の足に濡れた体を寄せて、彼を心配そうに見上げていた。

「ああ…早く街へ行こうな」

干し魚と乾パンを一枚ずつ食べ、彼らは抱き合って寝た。


 瞼の裏がうっすらと明るくなる。小鳥の囀りではなく、姿の見えない野生動物たちの奇妙な鳴き声が少年の目を覚まさせた。

 森に朝陽が差し込んで、葉の上の露が真珠のようにきらめいている。

 少年は熱っぽく、グラグラとする頭を押さえて、「ん?」と辺りを見渡した。抱きかかえていたはずのタムラがいない。

「タム!」

慌ててうろから這い出ると、木々の向こうからワウと鳴き声が聞こえた。戻ってくる気配はなく、なんだと思いつつ行ってみると、やけに興奮した犬のそばにリスの死骸があった。

「おまえ、こんなことできたのか」

無邪気ではあるが少年にべったりで、蝶を追いかけることはあっても狩猟をしたことなど一度もなく、彼は意外と思いつつ湿った地面からリスの死骸を摘み上げた。

「ありがとな。焼いて食べよう」

そうは言っても食欲があまりなかったので、三分の二以上はタムラが食べた。

 少年は犬のご飯中、地図を広げて近くの町を探した。父親が徴兵されたときに貰ってきた数十年前の地図であるから現代に通用するかは分からなかったが、山を少し降りたところに国道が走っていて、それを辿れば小さな町があるようだった。兎も角そこで運転手を雇って都市に行こうと彼は考えていた。

 薬の缶を開け、昨日傷つけた掌に生薬を塗り、包帯を巻いて、指を閉じたり開いたりした。痛みはあるが腫れて動かせないということはなかった。

「食ったか?」

犬は食べることに夢中で、骨を噛み砕き、中の骨髄までかじっていた。

 一度こうなってしまうと首の皮を掴んでも絶対に動かないので、仕方なく食べ終わるのを待っていた。

 リスが真っ白い骨だけになってしまうと、彼らはようやく移動し始めた。コンパスと地図だけを頼りに歩みを進め、タムラを肩掛け鞄に入れ、急な斜面を飛び降りるとアスファルトの道に出た。危うく転けそうになったが、道の反対側は落ちたら万に一つも助かる見込みのない崖である。柵やガードレールが整備されているわけもなく、少年はタムラを落とさぬよう恐る恐る身を乗り出したが、下界は靄に包まれていた。しかしうっすらと街の様子を見ることができて、軍用トラックには会いたくないと思いつつ、彼らは山道を下って行った。


 朝陽が顔を出してから数時間後。

 少年とタムラが街に足を踏み入れる数分前からヒビ割れた音で何かの歌が流れていた。歌は街の中央にある茶ばんだサイレンから流れている。

「なんだ…?」

その頃にはタムラを地面に下ろし勝手に歩かせていたが、また鞄の中に戻そうか迷った。しかし歌のせいで頭痛が再発したし、街の住人はサイレンの方へ集まって行ったので大丈夫かと鷹をくくっていた。

「やあ」

突然物陰から声をかけられ、少年は声を出さずに驚きおののいた。

 声の主が誰かを確認する前にナタの柄を握り警戒心を露わにすると、

「落ち着いてくれ。ただの挨拶だ」

と、宥められた。

 少年に話しかけてきたのは異国の人間だった。鼻から顎にかけて茶色のふさふさとした髭が生えていて、二日も徹夜したような澱んだ顔色をしている。彼は煙草の灰を落とすと物陰から出てきて眩しそうに顔を俯けた。

「ああ…ううう…こんな朝っぱらからよくも…はあ…」

「あの人たちはいったい何を?」

「知らないね!俺には関係のない話さ。けど君は、見たところこの国の人間だろう?一緒に歌わなくていいのか?」

「歌う?」

「ほら、労働讃歌やら国歌やら…」

「言われたことがない」

少年にはあまり、国家の一員であるという自覚が無かった。

 しかし異国人は満足そうに頷いて、

「いいな。まだこんなに純粋なヤツがいたなんて。これからも世界市民であることを誇りに思えよ」

と、肩を叩いた。

 その際毛むくじゃらの腕に六つ目の刺青(正確には不規則な方向を見つめる六つの目を持った人間の刺青だが、そうなると最早人間かどうかも疑わしい)があるのを見つけ、少年は神妙な面持ちで男に尋ねた。

「“サンタギエラ”か?」

「違うな。ギで上がるんじゃない、タで上がるんだ。サンタギエラ。これで正解だ。そう、俺はサンタギエラだ。何か用か?」

「いや…」

「じゃあ俺の方から言わせてもらうぞ。君、友好の証として…」

「いや、いや」

少年も鶏を売りに行く町で、サンタギエラの商人はどこにでもいるという話は聞いていたが、自国の辺鄙な田舎にまで住み着いているとは思わなかっただろう。

 無理に勧誘されるのはごめんだが、この出会いは少年にとって幸運なものとなった。彼はこんな噂話を聞いていたのだ。

「おい、ただ呼んだだけなんてお子ちゃまみたいなこと…いや、君は見るからにお子ちゃまだが…」

「嘘だ。用はある。」

「なんだよ。で?何が欲しいんだ?」

「欲しくはない。寧ろあげたいんだ…アンタ達は人体を買い取るって聞いた。」

飼い主がついてこないのに気づいてタムラが戻って来た。だがそこで犬の主人は自らの手首を不安げにさすり、

「金が要る。血を抜いてくれないか?」

と、話を持ちかけていた。

 刺青の男は煙草を咥え、肺に煙を流し込んだ。そして吸い殻を生ごみ処理機に放り投げると青白い顔で頷いた。

「勿論、いいぜ。昨今血は垂れ流しだ。いつだって不足してるのにな。他にもいいのか?目とか腎臓とか、皮膚も買い取るぜ?」

「大金がいるわけじゃない。」

少年は被せ気味に言った。

「血だけ」

「1リットルと2リットルどっちがいい?」

「…俺を馬鹿だと思ってるのか?そんなことしたら死ぬだろ?」

「黙って抜かなかっただけ優しい方だと思ってくれよ。な?」

馴れ馴れしく肩を叩いてくる男に嫌悪感が募った。けれども閉鎖的な町で、名前を知られていないような村から身ひとつで出てきた少年を雇ってくれる店など存在しない。大体、高額な給与の仕事には裏があるものだ。

 ついて来い、と、男が薬局の中へ入っていくのに少年もついて行った。自分を忘れてもらっちゃ困ると犬が吠えたので、タムラを抱えて店に入ると、

「犬!ひい…なんて汚い犬なんだ。〈金がないなら犬なんて飼うなよ。馬鹿な子だ〉」

男は故郷の言葉で文句を言い、そそくさと店の奥に入って行った。

 白く塗られた木の壁と、同じく白のタイルが敷き詰められた施術室は藁葺き屋根の竪穴住居に比べれば、別の時代にやってきたのかというほど文明的で清潔に見えた。

 だが窓のない部屋と蒼白い照明、それから部屋の中央に置かれた診察台兼椅子が少年の不快感を呼び起こした。彼は犬を床に下ろすと真っ白い床が汚くなると思ったのか、タムラを診察台に、自分は医者が腰掛ける用の丸椅子に座って腕を出した。座る場所のなくなった男は僅かにたじろぎ、

「あ、お金。前払い」

と、少年が言い出す隙を作ってしまった。

 男は診察用デスクの中から「200ミリのぶんだ」と札束を渡し、大きな溜め息をついた。田舎の人間の図々しさに舌を巻いているのだろう。

「これで首都まで行けるかな」

少年は紙幣の枚数を数えながら尋ねた。男は採血の用意をしながら、

「首都に行きたいのか?そりゃあ残念だったな。ここから出てる出稼ぎバスは町の人間しか使えねえ。住人を買収しようったって知り合いなんか一人もいないんだろ?仕方ないな。俺が連れてってやるよ。安心しろって。その金を半分返してくれたら連れてってやる。俺も集めたパーツを取引先に渡さなきゃいけないからな」

「嘘だ。俺をまるごと取引先に売るつもりだろう?」

「嘘じゃないって。それに歩いていくつもりか?やめた方がいいぜ。命がいくつあっても足りない。こっから先は地雷原だの軍の施設だので君が想像する五十倍は危険だからな」

そう言われて、少年は自分に選択肢がないと気づいた。地雷原云々の話を確かめようにも方法が無いし、仮に嘘だとして、男の提案を断ったとしても都市へは歩いて行かなければならない。既に風邪をひいて体が重く、気分が悪いのに、最低四日は山の中を歩き続けなければならないなんて常人には気の遠くなる話だった。

 それでも何が最善の選択かと頭を悩ませているうちに、男が勝手に少年の腕へ針を刺そうとした。

「待て!」

「なんだよ?大声出すなって。ほら、犬が見てんだろ…」

診察台ではタムラが男を見張っていた。

 すると少年は真面目な顔つきで、

「あの犬は…特別な犬だ」

と、告白し始めた。

「わかるだろ?大事にしなくちゃならない理由がある。あの犬は俺の守り神なんだ。」

「あ…?は、はあ…?」

「俺は都市の位置も方向も分かってる。もしもお前が嘘をついて俺を仲間の手に引き渡そうものなら、その時はアレにお前を噛み殺させる。俺はある村の出身だ。村は人の死体を固めたような恐ろしい“呪い”に壊滅させられたが、それでも俺が生き残ったのはあの犬のお陰だ。俺を粗末に扱うな、そして何より、あの犬は」

淡々とした口調でそんなことを言い聞かせたが、勿論事実とは異なる。“呪い”から少年を救ったのは異国の二人組であったし、その間タムラは吠えていただけである。

 しかし男は、「それ本当か?」と、一旦少年の肌から針を離して、もしゃもしゃの髭を撫でた。

 まん丸の目が虚空を見つめ、

「〈嘘…いや、わからないのはどちらも同じか…〉」

と、呟いていた。

「分かったなら早く抜いてくれ」

少年はデスクに手の甲を打ちつけ、逆に男の決定を催促した。タムラも診察台の上で自分の尻尾を追いかけるようにグルグルと回り始め、今にも糞を撒き散らしてやるぞという兆しを見せた。

 血や内臓ならまだしも犬の糞は御免だと、

「わか、分かった!」

取り敢えず男は少年の腕に管を刺し、200ミリぶんの血液を抜いた。

 採血をしている間の十五分間、少年は片手で台の上の犬を撫でながら、段々と気持ち悪くなっていくのを感じていた。体が空っぽになるような、足の指を誰かに引っ張られているような落ち着かなさがあった。吐き気を堪えるため、顎をつんのめらせて天井を眺めた。壁や床と同様、白っぽく塗られた天井だが、返り血で水玉模様になっていた。こういうところに仕事の杜撰さが表れるものだ。

「都会へ行ってどうするんだ?」

暇を持て余した髭の男は、座る場所が無いので仕方なく部屋の四隅を歩き回っていた。

 少年は口をもごもごさせ、魘されているかのように頭を揺らした。

「都会へ行って…」

「都会へ行けば一人ってことは無いだろうな。君も知らず知らずのうちに国家の構成員として体系に組み込まれ、経済を回すんだ」

「ローニンになる」

「ローニンに?成る程な。良い選択だ。ところでローニンってなんだ?」

「自分の力を…他人の為に使える奴のことだ」

「ほお?なら俺だってローニンだ!サンタギエラ以外の奴の人生をより幸せに、実りあるものにするためこうしてぺちゃくちゃ喋って…トーク力を活かしてるんだから。立派なローニンだろう?」

「そうかもな」

「君もサービス業に就け。幸いなことに君が今から行く場所は職で溢れてる…残念なことがあるとすれば、誰も他人のことなんか思い遣ってないってことさ」

皮肉っぽく笑うと施術室から出て行き、カウンターの奥でパイプ椅子に腰掛け、第八国の大衆向け週刊誌『赤い部屋』を読み出した。それも一部は口に出して。

「ったく往生際が悪いな!おい!リズはまだ敵認定しないみたいだぞ!君も都会へ行ったらおかしな病に気をつけるんだな。俺ンとこにあるみたいな人類の叡智に基づく治療薬じゃあ治らない、“呪い”が蔓延ってるぜ!」

デスクに肘をつき、俯けた顔を手で揉みほぐしながら、少しでも気持ち悪さを紛らわせるべく少年も叫び返した。

「敵認定って⁉︎何を?」

「“敵”を“敵”として認定するかどうかだよ!それを“敵”と認めた瞬間、“敵”“呪い”“意思を持った災厄”を初めて観測した国にそれの駆除義務が発生する!もしその国に“敵”を排除するだけの力が無く国際社会に“呪い”を蔓延させる恐れがあれば他国の内政干渉も待ったなしだ!戦争の良い口実になるんだよ!」

「いったい何を…」

「未知の病さ!何でもその病…」

店のガラス扉が開けられて、今日初めての客が来た。男はさっと雑誌をしまい、少年との会話を打ち切り仕事に戻った。

 大声を出したことで余計に体力を消耗したと、少年はため息を吐いた口のまま首を後ろに曲げ、診察台のタムラを見つめた。犬は退屈そうに丸まって、顔色の悪い飼い主を上目遣いで見つめ返す。

 客が飲料水、携帯食、倦怠感に効く錠剤を買って帰ると店主の男が施術室に戻って来て、少年の腕から針を抜いた。傷口から少量の出血が見られたものの、男は無視した。

「それじゃ夕方に出るから、車に乗りたきゃさっき渡した金の半分を持って来るんだな」

少年は頷き、立ち上がろうとしたがふらついて、診察台に手をついた。貧血と頭痛と熱とで肌が薄く粟立っていた。

 しかし拳を固めると、吐くのを我慢している人のように呼吸を整え、タムラを抱えて店を出て行った。彼らの習慣では、風邪というのは休息と食事と代謝によって治癒されるべきものであった。少年は街の飲食店で赤いスープとよだれどりを頼み、とりは上にかかっているソースを退けてタムラに、少年はカイエンのふんだんに入った味噌スープを飲んで汗を流した。それから街の外の日陰で涼み、ゴミ捨て場の新聞などを読んでいるとあっという間に日が暮れた。

 黄色みの雲が薄く伸びているくらいの、夕暮れというにはまだ早い時刻だったが構わずに、彼らは男の店へ入って行った。そのとき別の客とすれ違ったが、彼の抱いている犬とぶつかって、犬はフグと鼻を鳴らした。けれども客は不安定な足取りでさっさと店を出て行ってしまい、彼らは不満げに首を傾げた。

「もう来たのか」

レジの前に立つ髭の男がうざったそうにするのも構わずに、カウンターへ犬を置き、

「何だあの客」

と、少年は愚痴をこぼした。

「おめーが言うな」

「病人みたいだった」

「そりゃ病人の来るとこだからな。君こそ例外だよ」

「サンタギエラは病気も治すのか?」

「治す…ふん」

男はカウンター奥へ消えると施術室から保冷バックをとってきて、電気を消し、レジから金を取り出すとそれもバックに詰め込んだ。

「君は商売を分っちゃいないな。まあ、それも都会へ行ったら分かるだろう。この世は人の欲望とビジネスで成り立っている」

さあ行くぞと店の電気も消し、少年たちが出てしまうと扉に鍵をかけた。息を止めた彼の店が黄金色の陽に灼かれている。ガラスの扉に少年と犬の姿が映っていた。

 街でいちばん品揃えがいいという二階建ての商店の隣に月極駐車場があり、少年たちは車の後部座席に乗り込んだ。商店から母娘がお菓子を買って出てくるのをジッと見つめていたが、それも風のように過ぎ去った。「夜明け前には着くだろう」という男の言葉に頷いて、窓から都会までの景色を眺めていることにした。


「…んだ?…が、…おい、待て…」

「〈何者だ⁉︎免許証を出せ!〉」

「〈ほらよ。一体何なんだ?お前ら…〉」

「〈ふむ、アーリオ・オーリオ…ふざけた名だ。で?こっちは?〉」

「〈コイツは…〉」

「〈おい!起きろ!〉」

少年は硬い何かにどつかれて、蛙のように飛び起きた。腕の中でスヤスヤと眠っていた犬も驚きのあまり吠え立てている。

 窓の向こうへ目を向けると車が複数人の軍人に囲まれていた。数メートル先の茂みには二台の軍用車が停められており、赤いランプが陰鬱な林を暗闇の中から浮かびあげたり沈めたりしている。しかし彼らは村へ食糧の催促に来ていた軍人とは違う。窓越しに少年の顔を見つめる無機質な表情は人殺しの専門家として大差ないが、顔の骨が一回り大きく、眼窩や頬骨が彫刻刀で削り取ったかのように窪んでいて顔の陰影をより濃くしていた。

 助手席のドアから身を乗り出した軍人に銃床で殴られ、少年は血の出た額をさすっていたが、訳もわからぬうちに座席から引き摺り下ろされてしまった。その際片腕にタムラを抱いて離すまいとしていたが、

「〈犬を渡せ!〉」

強引にタムラを奪い取られ、ついでに鉈も奪われ、何をするんだと暴れた。タムラも軍人の手の中で体を捩り、隙があれば人差し指の親指の間に噛みつこうと牙を覗かせた。

 しかし少年は土の上に引き倒され、更に運転席の髭の男は助手席に置いていた保冷バックの中身は何だと尋ねられ、軍人が無断で開けようとするのを邪魔したところ、腕の刺青を見られて、

「〈貴様、サンタギエラか〉」

と、冷たい声を浴びせられた。軍人の目に憎悪が宿り、彼は口をきゅっと結んで男も同じように殴ろうとした。

 だが男は手を翳すと銃に触れることなく軍人ごと車の外へ押し出して、無理矢理アクセルを踏み、自分の後頭部を撃とうとしていた別の軍人を巻き込みながら他の襲撃者達も轢き殺すべく思い切りペダルを踏んだ。そして急速にバックをしようとした車は軍人の冷静な判断によりタイヤを破裂させられた。

 少年は男の乗った車が蛇行しながら木の幹にぶつかっていくのを見ていたが、すぐに「立て」と首根っこを掴まれ、二つある軍用車のうち、バスのような見た目をした装甲車に詰め込まれた。

「タムラを返せ!おい!」

彼の叫びなど意に介さず、というか言語を理解していなかったのだろうが、無情にも車の扉は閉め切られ、瞬く間に発車してしまった。

 中から外の光景を見ることは出来なかった。窓も無ければ灯りもなく、ひたすらに密閉された空間で彼は車の揺れに耐えなければならなかった。木の根の張り巡らされた凸凹の地面を無理に突き進んでいくものだから、車体が大きく揺れたとき、少年は立っていることができずに倒れてしまった。

 うあ、と声を上げたのは彼だけではなかった。他にも数人が乗っているらしく、彼は誰かの上に手をついてしまった。

「ごめん」

するとその誰かは、汗をかき熱った両手で少年の手を握り締め、「ここに」と、椅子へ誘導してくれた。

 椅子といっても冷たい鉄板に過ぎないのだが、腰を下ろすと少しは平静を取り戻せた。彼は不安で顔を皺くちゃにし、

「何が起きてるんだ?」

と、暗闇の中で顔の見えない誰かに尋ねた。

「わからない。きっと何かの勘違いよ」

「勘違い?」

「誰彼構わず攫ってるんだわ。だってここは未承認国家の中よ?あの人たちは主席国家の兵士でしょう?私たちを攫う意味が分からないもの」

政治に詳しくない少年は、疑問も反論も口に出せず黙っていたが、女の手を握り返し、

「魔法で車を壊せないのか?」

と、声を震わせた。

 しかし女は肉のついた柔らかい手で少年の指をきつく握り、「怖いことしないで」と嗚咽を漏らした。鼻を啜る。

「生きて帰りたいでしょう?」

「帰れるのか?今どこへ向かってるんだ?」

だが彼女は泣かないようにするので精一杯で答えを捻り出すことができなかった。

 次の瞬間、外で風鳴りのような奇妙な音が聞こえ、車体が斜めに切り裂かれた。たちまち悲鳴がこだまして、少年以外の捕虜は切り裂かれたのとは反対側の壁へ身を寄せた。少年も女に引っ張られたが手を振り解き、壁の傷から外の様子を覗き見た。

 ——燃える木々に灰色の煙、意味をなさない言葉が銃弾のように飛び交っている。戦闘が起きているのは一目瞭然だった。風のように走り抜けようとする輸送車の中で必死に目を見張り、聞き耳を立てていると彼にも分かる言語で何か叫んでいるのが聞こえた。藍色の粗末な野戦服は、少年が住む十四国の兵士の装備だ。彼らは「逃げろ」「撤退しろ」と叫んで手を振り回しており、車は彼らより早く先へ先へと逃げて行った。だが先へ行った所には、ヒトの形をした“呪い”と、

「ツイバミだ…!」

「坊や早くこっちへ来て!」

「ツイバミがいる!」

「ええ?」

車が急停止し、女が少年の両肩にしがみついた。運転席では軍人らが、

「〈轢き殺すか⁉︎〉」

「〈迂回しろ!〉」

と、慌てふためいている。

 間違えようがない。横転した車と迷惑そうな顔で腕を組む、制服姿の同乗者達を庇い、“呪い”と対峙していたのは紛れもなくツイバミだった。煙の中で火の赤さを反射し蕩けた石のように輝く銀仮面、煤にまみれた群青のインバネス、新品のように皺ひとつない主席国家の青い軍服——通りがかりの人のようにさりげない仕草で“呪い”の四肢と首を切断すると、その場に片膝を立てて座った。彼は今にも動き出そうとする死体から目を離さずに、左手を真っ直ぐに伸ばして前方を指した。車が動き出し、あ、と少年は壁にへばりついた。頭にはツイバミの彫刻のような横顔と、僅かに開いた唇の上気した色が鮮明に焼きついていた。

 直後、瞬い光が密林を照らし出し、車内にも朝焼けのような光が差し込んだ。

「ツイバミって、あの?」

そう言う女のふくよかな顔もありありと見えた。彼女は少年の母親くらいの歳だろう。彼女も少年を見て驚いていた。

「あなた、ずっと子供なのね」

「…おれの…」

「なに?」

少年はよたよたと婦人の前に跪き、「タムラが…」と呟いて頭を抱えた。

 疲れた顔の捕虜達は、そんな少年を見て益々憂鬱な気分になった。連れがいる者は連れの肩を抱き寄せ、一緒に啜り泣き、ひとりで連行された者は顔を逸らすか首を垂れて、口を噤んだまま塞ぎ込んだ。ただ婦人だけが少年の肩に手を添えて、「きっと無事よ」と励ましてくれた。

 しばらくして車が目的地に着いた。

 少年は席を立ち、壁の穴から外を見た。

「どこだ…?」

「収容所だよ」

見知らぬ老人が答えた。無精髭に白い毛の混じった男は、

「帰れやしねえ。俺たちは反乱分子であることを認めるか、敵の求めてる情報を答えられなければ拷問されて、死ぬまで痛めつけられる定めさ。この目で見たんだ、間違いねえ」

と、潰れていない方の目を指した。その指は不自然な曲がり方をしていて、関節が常人よりも二つ多かった。小さな黄色い爪が奇妙な場所から生えており、彼がその例外であることを物語っていた。

 非情な現実を突きつけられ、更に泣き出す者もいれば少年のように希望を捨てきれない者もいた。

「逃げられないの?」

なかなか迎えが来ないので、その隙に情報を聞き出してしまおうと彼は尋ねた。

「出来た者もいる。だが基本は無理だ。特に女は。時間が無いからな。拷問されてない間は男の兵士に犯されているのが殆どだ。アンタだってそうなるだろう。年増だからといって女じゃなくなるわけでもあるまいし」

突然矛先を向けられた婦人は、そんな話に勝手に出すなと老人を睨みつけた。

 しかしこれから待ち受ける過酷な生活を想像し、膝の上で両手を組み、がっくりと項垂れてしまった。ほつれた髪が汗ばむ首にくっついていて見るからに煩わしい。少年は現実を認めたくないと首を横に振って、また外の様子を観察し出した。

 そしてどこかで銃声が鳴るのを聞き、大袈裟なくらいに肩を跳ねさせた。

 車内でも嫌だと悲鳴が上がる。

 少年は婦人のもとへ駆け寄って、彼女と手を繋いだ。

「あんな風に言ってたけど、逆に坊やは逃げられる可能性があるってことよ。ああ神様、どうかこの幼い子供をお守りください」

「おばさんだってきっと…」

「私はもういいんだよ。優しい子ね。絶対に生き延びてね。ああ神様、神様…」

祈る彼女のもとに光が差し込んだ。

 外から誰かが扉を開けたのだ。

 皆の視線が荷台の外——若い女が放つ光の中心に集まった。

 彼女は口を真一文字に結んだまま捕虜達の顔をじろりと眺め、そして、

「降りろ」

と、ぶっきらぼうに言った。

 その言葉を聞いて、少年も含め捕虜達は全員胸を撫で下ろした。というのも女の肌は浅黒く、目は丸く、顎と鼻先が尖っていないことからすぐに同郷の人だと分かったからだ。どういう訳かは知らないが、兎に角解放されたのだと彼らは喜んで車を降りた。

 月明かりではなく、サーチライトが周囲を照らしていた。生温かい空気の中に夜の冷たさがあり、捕虜達は汗が冷えるのを感じた。コンクリの壁と有刺鉄線に囲まれた収容所から人々の騒ぐ声が聞こえた。何だと目を向けてみると、入り口の所で兵士が倒れていた。灰色の壁に血飛沫を浴びせ、もたれかかるようにして倒れていた。

 ぼんやりしていると、少年は婦人に手を引っ張られて他の捕虜と同様、車の近くに並ばされた。彼らの前にもうひとりの軍人が連れて来られた。その軍人は助手席に座っていた方の男だった。

 現地民の兵士に両腕を掴まれていたが、拘束を解こうと酷く暴れ、逃げ出したところへ発砲された。しかし男は手を振り上げると銃弾を跳ね飛ばし、空中で方向転換した弾が兵士の女の頰を掠めた——かのように思われた。彼女は背中の後ろで両手を組んだまま銃弾の軌道を曲げ、そして男を跪かせた。彼は何か巨大な物に押し潰されかけているようだった。目を見開き、初めのうちは抗おうと膝に力をこめていたが、彼女だけではなく周りの兵士達が皆自分を見下ろし“圧”をかけていると悟るや否や呻き声を発し、両膝を地面に叩きつけた。

 目に見えない力の応酬が行われた後、女が顎で合図すると、周りの兵士たちが男の両腕を掴み、地面と水平になるよう伸ばした。男は翼を広げた鳥のような格好になった。

 だが女が腰の鉈を抜くと、すぐさまその片翼が切り落とされた。

 間近でそれを見させられた少年と婦人は短い悲鳴を上げ、繋いだ手に力をこめた。反射的に目を逸らしたが、視界の外から、大人の男の聞くに耐えない絶叫が二人の意識に干渉し、恐怖と不安とを煽った。

 残る腕は一本だ。片腕を切り落としてもう片方の腕を残しておく道理など無いので、女は余った方も切り落とした。これで男は飯を食うことが出来なくなった。ひとりで身体も洗えぬだろう。たちまち不具者になった男は顔を真っ赤にして、叫びながら地面をのたうち回った。

「さあ、これで自由にできる」

刃の血を振り払い、女は捕虜達に向かって命令した。

「死ぬまで痛めつけてやれ。あなた達を殺そうとした敵だ。何をしても構わない」

そう言われてもすぐに動ける者はいなかった。何せ捕虜達を支配していたのは怒りではなく恐怖である。寧ろ『痛めつけてやれ』と強制されたことで、少年の中には新たな不快感と焦りが生じていた。

 不具者になった男は、体の中の気を制御することでなんとか出血を止めた。だが情けない喘ぎ声を上げそうになる口を固く閉ざしてぶるぶると震え、目の下や鼻の上に大量の脂汗を滲ませている。

「どうした?長く生きすぎて、感情の起伏が無くなったのか?ご老人」

女は腰から警棒を抜き、帰還兵である老人に差し出した。彼のようやく手に入れた平穏が、このまま忘れられると思っていた憎悪が、かさついた皮膚の上で波立ち、堰を切って溢れ出そうとしていた。

 敵の男を見つめたまま動きを止めてしまった老人に無理矢理警棒を握らせると、女はぶらぶらと歩きながら次のように宣告した。

「我々の側につく者は生かす。そうでない者は皆殺しだ」

ギョッとして背後を振り返り、女を睨むと彼女の黒い瞳と目が合った。同じように汗をかき、理解できる言葉を喋り、銅の色の肌をして、温かい血を流しているはずなのに、それだけでは同胞たり得ないということらしい。

 かつては国の為に戦ったというのに、この期に及んで生贄の儀式へ参加を余儀なくされた老人は、ぐっと武器を握り締めると奇声を上げ、抵抗できぬ不具者に殴りかかった。男は健常者であった頃の感覚が抜けきらず、二の腕から先が欠損した腕で顔を覆った。肉の潰れる音がして、男は凄まじい叫び声と、

「〈クソッタレ!死に損ないの爺が!〉」

罵声を浴びせた。

 すると老人が眉を吊り上げ、

「〈人殺しめ!〉」

と、言い返し、警棒を投げつけると男の腹を蹴っ飛ばした。

 彼に倣って不具者を痛めつける者がちらほら出てきて、男は口から血の混じった涎を吐き、体を丸めて暴行に耐えていた。一方、顔を引き攣らせた少年の腕に婦人が縋りついていた。

「これじゃあの人達と同じじゃない」

「そこの親子、どうしたんだ?どうして参加しない?我々に助けられたくなかったというのなら、今ここで死んでもらって構わない」

実際には親子ではないのだが、二人は互いに互いを守らなければという信念が芽生え始めていた。

 少年は、婦人の心を痛めることがあってはならないと、ある思惑を持って唾を呑んだ。

「坊や?」

彼女の手を振り払い、男へ近づくと、少年は男の喉を踏み潰そうとした。そして婦人が手を汚さないで済むよう自分で終わらせようとした。

 だが、

「待って、それはまだ早い。せめてひとり一回は罰を与えてくれないと。あなたの母親とそこの母娘、前へ出ろ」

「何も無理矢理やらせなくても…」

「君は男の服を脱がせて。下だけでいい」

「はあ?」

「黙って従え。殴るぞ?」

女が少年を指し、そのまま指を男の方へ移動させた。散々殴られ蹴っ飛ばされて、男の鼻は折れ曲がり、目と唇が青黒く膨れていた。病気の魚みたいだ、と少年は嫌悪した。

 こんな男へ更なる恥辱を与えるのかと少年は血の気が引くのを感じたが、選択の余地は無かった。自分と婦人達の命がかかっているのだ。男は既に脱力しきっていたので、ベルトを外し、下着ごとズボンを引き摺り下ろすだけで痣だらけの素肌が露わになった。少年は首を横に振って、

「どうするつもりだ?」

と、女を責めた。

「コイツらが与えてきた痛みと屈辱を味わわせてやる。それに、種子も絶やさなければならない。まずはあなたの母親からだ」

「ま、待て!強姦だったらこの国の兵士たちもやってただろ?それに、他の奴がやった罪をこの男だけに償わせるのか?」

「いずれ他の奴も同じ目に遭わせる。今、収容所の制圧を進めている。潰した性器は塩漬けにでもして主席国家に送ってやればよかろう。穢れた種子をばら撒く男は全て殺し、女は生まれるべき命だけを宿すの。もういい?あなたはこの国の人間でありながら畜生の去勢もしたことがないのか」

情けない、と、女はあからさまな溜め息を吐いて軍人の股ぐらを蹴った。男は声にならない悲鳴を上げ、蒼ざめた顔を真っ赤にして、四つん這いのまま逃げようとした。

「見ろ。汚い犬め。殺してやる」

少年の顰めっ面が女を見た。だが当の本人は後ろの仲間に「撃て」と合図して、捕虜達の当惑など意に介さなかった。

 怒りに顔を膨らませる長身の兵士がボウガンを持って前に出て、軍人のぶよぶよとした尻を力いっぱい蹴りつけた。尾てい骨が陥没し、背骨が少し曲がったはずだ。凄惨な叫び声を上げて、軍人は少しでも下半身を敵から遠ざけようと背中を丸めた。そこへ「四つん這いになれ!」との怒号が浴びせられ、兵士が腕を振りかぶると背中の皮を切り裂いた。ぎゃあと叫ぶと血塗れの歯が覗き、そのまま軍人は泣き始めた。

 後ずさる少年の耳を婦人が覆った。すると別の兵士が彼女の手を掴み上げ、

「やめて!」

と、そこで諍いが起こった。

 横っ面を引っ叩かれた婦人は鼻から血を吹き、不具者の上に倒れ込んだ。だが、彼女ごとボウガンで射抜こうとする長身の兵士に少年が体当たりをした。


「〈標的、射程圏内〉」


パシュンと音がして、兵士の頭を貫通した弾が女兵士の肩にも命中した。

 一瞬何が起きたのか分からなかったが、少年は婦人を立ち上がらせるとその場からすぐに逃げようとした。森の方から装甲車の走って来るのが見え、最早味方などいないと、二人は降りてきた人間と対峙するつもりで腕を伸ばした。

 だがその前に、収容所の方で建物が崩壊し、巨大な瓦礫の塊が宙に浮かび上がった。車から降りてきた主席国家の兵士らは少年たちには気づいていたのかもしれないが、“呪い”の鎮圧を優先して彼らの逃亡を許した。ならば敢えて戦う必要も無いと、彼らは暗い密林の中へ突き進み、あらゆる敵から姿を隠そうとした。

 少年は婦人に引き摺られるようにして、木の根に躓きながら走っていた。婦人は目を見開き、疲れるのも忘れて、

「ここから離れましょう。国も安全とは言えないわ。遠くへ行くのよ、兎に角遠くへ」

と、少年に言い聞かせた。

 だが彼は、

「タムラがいる!俺は行けない。ここでタムラを探さなきゃ」

と、足を止めようとしたが、聞く耳を持たない婦人によって泥の地面を引き摺られた。

 うわ、あ、あ、と嘆いていると、葉の擦れ合う音がして、英気の刃が飛んで来た。婦人の創り出した防御壁は一瞬にして砕け、暗闇から二人を窺う不気味な目玉と目が合った。まるで走馬灯のように、少年はツイバミが一方的に蹂躙していた“敵”の姿を思い出したが、彼らはツイバミのようにはいかなかった。寧ろ立場が逆になったといえる。婦人の前に少年が創った防御壁も刃のスピードを少し遅くするだけに留まり、彼女の肩から腰にかけてを斜めに切り裂いた。

「おばさん!」

少年の絶叫が婦人の呻き声を掻き消した。

 そこへ“敵”がフと現れ、二人の前に「休め」の姿勢で立ちはだかった。頭部を白い布で覆い、顔は見えない。男性用の喪服を着て、それが葬儀の参列者であると同時に埋葬される死体であるかのようだった。普通の人間と背丈も変わらず、寧ろ目立たなくて、黒い装いなどは闇に溶けきっているにも関わらず、確かに質量がある。きっと“敵”の正体を頭で理解する前に、自分たちは大きな漆黒の槌か何かでペシャンコに叩き潰されてしまうのだろう、そして桃色の薄い肉片となるのだ——少年は心が無になるのを感じた。それを理解するのに一刹那の時間も要さなかったし、“敵”も彼らを殺すこと以外に何も考えておらず、次の一手を繰り出すまでにかかった時間は僅か一秒にも満たなかっただろう。

 だだ、何よりも早く鉛玉が“敵”の頭を撃ち抜いた。頭部を覆う白い布が一瞬にして赤く染まった。そして頭上から降ってきた緑目の軍人が“敵”の頭をかち割り、肩に乗っかったまま、人間なら耳があるであろう部分に手を押し当てて断続的に英気を流し込み、中に臓物があったのかどうかは知らないが挙げ句の果てには顔面を破裂させた。

 倒れゆく“敵”の肩から着地した軍人は、ふらふらと少年達の方へやって来ると彼の前に膝をついた。そうしたくしてしたというより、力尽きて座らざるを得なかったという風に見えた。戸惑い、怯える少年の前で、軍人は何も言わずにナップザックを下ろした。そして渡した。

 少年が恐る恐る受け取ろうとすると、中から雑種犬が出てきて少年に飛びついた。

 硬い毛並みにつぶらな瞳、短い手足と三角の耳、

「タムラ!」

「タムラ…?ああ、タムラって…」

側で婦人が笑っていた。それから疲れたように溜め息をつき、押し黙った。

「おばさん…!」

「〈おい、少年。〉」

彼女へ触れようとする少年の肩を掴み、軍人が強い口調で言い聞かせた。まるでそうすれば言語の壁を超えて意味が伝わるとでもいうように。

 少年は非難のこもった目で彼を見つめた。

「〈言いたいことはわかる。だが俺たちには善悪の区別がつかない…すぐには、それも、はっきりとは。けれど今は君が敵じゃないと言える。寧ろ君を助けたいとさえ思っているんだ。不思議だろう?たぶん俺はそうすることで、逃れたいんだ、この戦争から…全てが悪ではなかったのだと〉」

「よくもタムラを…あの運転手も殺したんだろう!」

「〈ああ、そうさ。ここを戦場にしてしまったのは俺達だ。でも時間が無い。何十年後かもっと先かは分からないが、謝罪を聞きたいならその時に聞いてくれ、時の宰相がしてくれるだろう。兎に角君は生き延びなきゃならん〉」

「分かる言葉で言え!」

「魔女の所へ行け。〈早く。そこで助けを求めろ〉」

「ま、魔女?魔女って…」

「真昼の、魔女だ!」

「さあ!」と肩を叩かれ、ナップザックを拾い、肩にしがみついたタムラを落とさぬよう立ち上がった。

「おばさんも…」

「いいえ、ここでお別れよ。一緒に行ってあげたいけど、私が守られるんじゃダメ」

婦人は地面に座り込み、傷を押さえながら、少年に向かって気丈な微笑みを投げかけた。

「坊や、元気でね」

夜の闇の中でも彼女の目の輝きが星のように少年の進むべき道を照らしていた。

 少年は二、三歩後退り、それから走り出した。腕の中で犬がユサユサと揺れ、肩にしがみつく力が強くなった。どう『魔女』のもとへ行けば良いのか、具体的な手段は何も頭に浮かんでいなかったけれど、ひとまずはこの“呪い”と悪意の蔓延る森から生きて帰らなければ——

 犬を抱きかかえている状態では魔法も使えず、闇に慣れたといっても人間の、何ら特筆すべきことの無い目玉を使って足の踏み場を探さなければならなかった。泥で滑って転びそうになっても何とか踏み止まり、犬を抱き直して宛もなく彷徨った。背後では轟音と、人の叫び声まで聞こえるような気がした。冷たい汗が首筋を濡らす。蝿が集り、はあはあと息を吐きだす少年の口に突っ込んで来ようとした。彼は頭を振り乱し、視界の端にヤブイヌが走って行くのを見た。野生的で、愛嬌の欠片もない、キツネとタヌキとクマをかけ合わせたような見た目をした小動物だ。短い手足で彼らのことを追い越してゆき、一目散にこの惨状から逃れようとしていた。

 だがその肉球が、シダの葉の中に隠されていた地雷を踏み、凄まじい爆発で小さな体は細切れになった。

 近くにいた少年は何が起きたのかも分からず爆風によって木に打ちつけられたものの、無意識のうちにタムラの頭だけは守っていた。犬は大丈夫だろかと視線を下ろした際に手の甲の破片には気づいたけれど、実際には体のあちこちに破片が食い込んでいた。

 だが彼を最も混乱させたのは、痛みではなく服についた火であった。混乱していたからか、或いは本能的にか、少年はタムラを離して服を脱ぐということもせず、木々の合間から見えてきた海へ真っ先に飛び込んだ。

 飛び込んだと言っても目の前は崖で、彼らは心の準備も尻込みもできぬまま、宙に浮かび、その直後には穏やかな夜の、漆黒の水面へ身を投げていた。

 

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