ハワイ
その晩さっそく、私たちは例の装置を使うことにした。
「こんな時間に寝るのは久しぶりだな」
「健康的だね」
ヒナタはそう言うと、ヘッドギアのコードを適当にコンセントに差し込んだ。
「これでいいんでしょ?」
「いや、初回起動時は色々セッティングする必要があるらしい」
私は説明書を読みながら夢想機のキャリブレーション、テスト運転、各種設定を行った。そのあいだヒナタはクリスマスイブの夜の子供みたいに、そのへんを落ち着きなくウロウロしていた。
「これでよし」
「じゃあ、寝ますか」
私は睡眠薬をいつもの倍飲んだ。そして二人でベッドに並んで横になり、ヘッドギアを被って、そのまま眠った。
******
目が覚めた。いや、現実から覚めたと言うべきか。
私たちは何もない真っ白な空間に立っていた。
「何もないね〜」とヒナタが情報量0の言葉を呟いた。
「ヒナタはどんな夢にしたいの?」
「そうだな〜」
「ハワイに行きたい!」
ヒナタがそう叫んだ瞬間、あたりはホノルルのビーチに変わった。もちろんホノルルのビーチなんて行ったことはないから、それはヒナタの頭の中の、ホノルルのビーチのイメージということになる。観光客は一人もいなかった。きっとヒナタが二人きりを望んでいるからだろう。
「あたし、ピナコラーダってやつ飲んでみたいな」
「マリブとパイナップルジュースのカクテルみたいなやつだっけ?」
「それそれ」
「あたし、買ってくる」
そう言うと、ヒナタは売店まで歩いていった。ピナコラーダなんてイメージすればその瞬間出てくるのにな、と私は思った。ヒナタはきっとそれを売店で買いたかったのだろう。
私たちはビーチベッドに寝そべりながら、のんびりとピナコラーダを飲んだ。
「ねぇヒナタ、サーフィンしてみない?」
「賛成!」
私たちは売店からサーフボードを借りてくると、海に入った。
「夢なんだから裸になっちゃおうよ」
そう言うとヒナタは着ていた水着を海に放り投げた。私もそれに倣った。私たちの水着は何かの生き物みたいに海を漂っていたが、そのうち波に飲まれてどこかに消えていった。
「うわぁ!大波が来たよ」
私たちはプロのサーファーみたいにスイスイ波に乗った。サーフィンなんてしたことなかったけど、夢なんだから何でもありだ。
「ねぇユズハ、競争しない?」
「いいね」
私たちはどちらが長く波に乗れるか競争した。巨大な水の壁が迫ってきて、サーフボードは正確無比にそれを捉えた。やがてその壁は砕けて、クリスタルみたいな水飛沫が飛び散った。私たちは海に飲まれた。海はレモンサイダーの味がした。海中には、オパールみたいな光を放つクラゲが何百匹も泳いでいた。私たちはその中で抱き合って眠った。
******
夢から覚めた。ヒナタも同時に起きたようだった。時計は午前六時を指していた。こんな朝早くにすっきり目が覚めたのは久しぶりだった。というか人生で初めてかもしれない。私は昨日まで、自分は一生早寝早起きなんてできないんだと思っていた。
「凄かったね!」
「うん、凄かった」
私たちは小学生みたいな感想を言い合った。本当に凄いものに対面したとき、人は小学生になるらしい。
「朝ってこんなに静かなんだね」
「知らなかったの?朝は静かなんだよ」
ヒナタはまた情報量0の返しをした。私たちに聞こえるのは、遠くの高速道路で車が走る音だけだった。その音はどこか儚げで、小さな虫の羽音のようにも聞こえた。
「ねぇ、ユズハ」
「今日の夜も一緒に夢見ようね」
「うん」
「約束ね」
ヒナタはそう言うと、朝ごはんを作り始めた。私は自分のコーヒーを淹れ始めた。
私はヒナタとの約束を守るため、コーヒーは一日三杯までという鉄の掟を自らに課すことにした。これはその貴重な一杯目だ。
私がニュースを見ながらコーヒーを飲んでいると、ヒナタがベーコンレタスサンドを持ってきてくれた。
ニュースは、カルト教団に公安のガザ入れが入った話題で持ちきりだった。爆薬の原料などが押収されたらしい。私は物騒だなと思いつつも、他人事のようにそのニュースを眺めていた。
やがて、ヒナタは家から出ていった。今日は月曜日。当たり前だが、ヒナタのような正常な社会人は外で仕事をする日だ。対して、私はほとんど家から出ない。外出するのは、心療内科に行くときだけだ。そして心療内科に行くときは絶対、ヒナタが一緒に来てくれないとだめだった。
私は、机に向かって小説を書き始めた。仕事ではなく趣味で書いている小説だった。それはただ自分で消費するために書いているものだった。だから誰にも見せたことはなかった。しかし、心の奥底には、それを誰かに評価されたい、という思いがあるのも事実だった。けれど、もしそれが評価されなかったら、私の心は折れてしまう気がしていた。だから誰にも見せるわけにはいかなかった。
時計は午前10時を指していた。私は二杯目のコーヒーを淹れた。私はだんだん不安になってきた。早くヒナタが帰ってこないかなと思った。飼い主の帰りを待つ文鳥みたいな気分だった。私は抗不安薬を飲んだ。30分ほどすると薬が効いて落ち着いてきた。人が恋しいという気持ちも薬でこんなに簡単にコントロールできるものなんだ、と私は思った。
正午になった。ヒナタの作り置きがなかったので、私はカロリーメイトを食べた。
午後1時になった。私は仕事の小説を書き始めた。1000文字、2000文字と、ただ数字だけが増えていく。文章という一次元の線が淡々と伸びていく。そう、これはただの線なんだ、と私は思った。内容のない、ただの線。それを引き伸ばしていくことが、今の私にできる仕事だ。
仕事を終えると、私は三杯目のコーヒーを飲みながら、映画を観て時間を潰した。カフェインが足りなくて、とても眠かった。私が観たのは『インセプション』という少し古い映画だった。それは、人の夢の中に入っていくという設定のサイエンス・フィクションだった。その設定は、昔は画期的なアイデアだったのかもしれないが、人の夢に入ることが当たり前になった今では、やや退屈に感じた。私は映画の途中で眠ってしまい、ラストを見逃した。
午後7時になっても、ヒナタは帰ってこなかった。私は不安を紛らわすために四杯目のコーヒーを淹れてしまった。
ヒナタが帰ってきたのは夜遅くだった。ヒナタは泥酔していた。月に一回ぐらいこういうことがある。ヒナタは酒乱の傾向があった。
「それでさぁ〜」
「クライアントが急にコンセプト変えたいって言い出して」
「営業が勝手にできますって言ったの」
「入稿まであと少ししかないのに、デザインがやりなおしに」
「戻っちゃったのぉ〜」
ヒナタは愚痴をこぼし続け、私はただ頷き続けた。
「どうしたらいい?」
「えっ、う〜ん」
「どうしたらいいって聞いてんの!」
ヒナタは怒り始めた。私はヒナタを必死になだめた。
「私にはどうしたらいいか分かんないけど」
「ヒナタは超凄いデザイナーだから、きっと何とかなるよ」
「ね?」
「ほんと〜?あたし、超凄い?」
ヒナタはビットコインの価格が急上昇するようなスピードで陽気になった。
「ねぇ、夢でも見よっか」
「賛成〜!」
私はヒナタをベッドに連れて行くと、頭にヘッドギアを被せた。そして自分もヘッドギアを被り、睡眠薬を飲み、ヒナタの隣で一緒に眠った。
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