性交
「ただいま〜」
ヒナタが帰ってきたとき、部屋は真っ暗だった。私は床で毛布に包まって泣いていた。ヒナタは私に膝枕をして頭を撫でてくれた。
「ねぇヒナタ」
「ほんとに朝ごはん美味しかった?」
私は尋ねた。
「もちろん美味しかったよ」
「ねぇ」
「明日からはもう、ずっとあたしが作ってあげるから」
「だからユズハは気にしちゃだめ」
私はその言葉に安心すると同時に、微かな抵抗を感じた。私はそれで「ん」とだけ返事をして、また泣いた。
ヒナタはそんな私を見て、嬉しそうな顔で言った。
「夢見て全部忘れちゃおっか」
******
夢を見た。
男性器の生えたヒナタに犯される夢だった。私は夢の中でもまだ泣いていた。ヒナタは満足げな表情で私を見下ろし、腰を振った。ヒナタの長い髪が枝垂れて、私の口に入ってきた。甘いシャンプーの香りが、喘ぎ声とともに口から鼻腔へ流れた。私は抵抗を感じつつも、結局はヒナタに委ねた。
ヒナタの汗が、ぽつりぽつりと私の身体に落ちた。どこからかペトリコールが漂った。やがて、叩きつけるような夕立が私たちに降り注いだ。私たちが快を感じるたびに雨風は強くなった。雷が光って、ヒナタの裸体のシルエットが私の目に焼き付いた。もう一度雷が光って、空は砕けた。私たちは絶頂し、土砂降りの中で燃える一つの生命になった。
******
汗だくで目を覚ます。ヒナタはまだ眠っているようだった。
私は、性交の快感の残り香を鼻腔に感じ取った。それは隣で眠るヒナタの甘いシャンプーの香りだった。
そして私は、昨日感じた抵抗を思い出した。それは私の心の中に、確実に存在するものだった。
私は、もう一度朝ごはんを作ろうと考えた。ヒナタが本当に美味しいと思えるものを、自分の力で作りたかった。
私は昨日まで、卵焼きを作るのが難しいことすら知らなかった。私はまず簡単なものからチャレンジすることにした。スマホで『朝ごはん レシピ 簡単』と検索した。
私はスクランブルエッグを作ることにした。フライパンにバターを入れ、加熱し、溶いた卵を入れる。ヘラでかき回す。全神経をフライパンに集中させる。そして、卵が固くならないうちに取り出し、ケチャップをかけた。
私は、できた、と思った。
やがて、ヒナタが起きてきた。
「あの……」
「実は今日も、朝ごはん作ったんだ」
「今日のは美味しくできたと思う」
ヒナタは驚愕したような表情を見せた。私はそれを見て不思議と満足した。
******
それから私は週に二回ほど、ヒナタのために朝ごはんを作るようになった。それはちょっとしたことだったが、そのちょっとしたことで、私は小さな自信を持ち始めた。その自信は、蝋燭に点いた微かな火のようなものだった。しかしそれは、確実に私の心を灯していった。
そして、私たちは夜になると毎日一緒に夢を見た。私たちは様々な場所に出かけ、様々なシチュエーションで交わった。
そのうち私の中に、夢だけでなく現実でも色んな場所に行ってみたい、という気持ちが芽生え始めた。けれど、それについて考えることはとても恐ろしいことでもあった。私にはまだ、きっかけも勇気も足りなかった。それを実行することが叶うのは、もっとずっと先のことに思えた。
そのように一ヶ月が過ぎた。
その日、いつもどおりヒナタは仕事に行った。私は机に向かうと、また趣味の小説を書き始めた。小説は完成間近だった。
ふと筆が止まった。この小説が完成したらどうしよう、と私は思った。いつもどおりただ自分だけで消費するのか。それともどこかに投稿してみようか。思い切って出版社に送ってみようか。もしもこれが本になったら。様々な考えが頭を巡った。そんなことを考えるのは初めてのことで、私は自分の心境の変化に驚いた。
午後になった。私は二杯目のコーヒーを淹れ、執筆の続きに取り掛かった。それから六時間ほど書いただろうか。ついに小説は完成した。
私は三杯目のコーヒーをソファーで飲みながら、さっきの考え事の続きをした。ヒナタが背中を押してくれたら、と私は思った。しかし心の隅で、ヒナタがそれをしてくれないことを私は知っていた。やがて私はおもむろに立ち上がると、パソコンの前に向かった。そして、震える手で出版社にメールを書いた。
あとはメールを送信するだけになった。しかし、私はどうしても送信ボタンを押すことができなかった。このままじゃだめなんだ。成長しなきゃ。これはその一歩目なんだ。私は何度も自分にそう言い聞かせた。それでもボタンを押すことは叶わなかった。私は自分が情けなくなって泣いた。そのとき、ドアがガチャリと開いた。ヒナタが帰ってきたのだ。
ヒナタは泣いている私を見ると駆け寄ってきて、頭を撫でようとした。私はヒナタに甘えたかった。二人でドロドロに溶け合ってしまいたかった。しかし、私はヒナタの手を拒んだ。私は自分のしたことに驚きつつも、言った。
「これは私の問題だから、大丈夫……」
「……ヒナタは触れないで」
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